5・罠師、しくじる

 高速道路にはおよそ五〇キロメートルごとにサービスエリアが設けられている。ドライバーの休息に必要な駐車場、ガソリンスタンドや修理工場、食堂やトイレなどを含んだ総合的な施設だ。東名高速海老名サービスエリアは上り線では最後のエリアに当たり、この先には規模が小さいパーキングエリアしかなくなる。

 海老名サービスエリアは上下線ともに同じ構成を持ち、その間を高速道路をまたぐ歩道橋によって結ばれていた。歩道橋に上がるコンクリートの階段の左側にはトイレ、右側には売店や休憩所が配置されている。車の流れの真上を横切る歩道橋は、歩行者の安全を考慮して両側に高い金網が張り巡らされている。

 宗八たち三人は、上り線の歩道橋の脇、人気のない階段の陰に身を潜めていた。

 彼らのワゴン車は下り線の駐車場に停めてある。作戦の成否を問わず〝敵〟に追われた場合は、すぐ先の厚木インターで降りる計画だった。一般道路の方が、一本道の高速より追跡をかわしやすいからだ。

 若林も脅迫者も『一人で来る』と約束していたが、当然、鵜呑みにはできない。最悪の場合、二つの勢力を相手にして逃げ切らなければならない。脱出ルートも可能なかぎり時間を費やして下見を繰り返した。

 宗八は相変わらず呑んでいた。ただし、口にしているのは日本酒ではなく、生のバーボンだった。ウイスキーを選んだのは、日本酒ではかさばるからにすぎない。アルコールでありさえすれば、何でもいいのだ。車の中には封を切っていないボトルも置いてあった。今は、手にした銀のフラスコをちびちびと傾けている。

 宗八はフラスコから唇を離してぼやいた。

「畜生……冷えやがるな……」

 ぼってりしたランチコートにくるまった宗八に、竜子が厳しい視線を投げかけた。いらだちを隠そうともしていない。

「てめえばっかり呑んだくれやがって、文句たれるんじゃぁねぇやい」

 竜子は両腕を胸に回して震えている。

 その竜子は、狩谷には信じ難い変装をしていた。

 ほとんど赤と言っていいほどの毒々しいカツラ。べったりと塗りたくったアイシャドーに、銀色の口紅。しかも羽織っているのは、原色の素材を継ぎ合せたコートだ。下はオレンジ色のレザーのミニスカートに黄色のソックス、そしてグリーンのスニーカーであった。カラーテレビのテストパターンが歩き出したようなものだ。

『竹の子族』や『ロックンロール族』の衰退と歩調を合わせて勃興してきた、半ばやけくその『何でもあり』のスタイルだった。

 しかし、竜子の姿は珍妙ではあったが、年令を大きくごまかして十五、六才のツッパリ少女に見せかけることには成功していた。万一、若林と顔を合わせても見破られる心配はない。

 竜子は片方の耳にはめていたウォークマンのイヤホーンを外して、宗八にすり寄った。

「おい……ちったぁ呑ませろよぅ……。凍えっちまって身体が動かねぇぜ」

 宗八はすかさずフラスコを抱きしめた。

「駄目でぇ」

 竜子の言葉にトゲがまじる。

「へっ、昼真っから酒浸りのくせぇしやがって……少しぐれぇいいじゃねぇかよぅ」

 宗八は竜子のイヤホーンを見つめる。

「甘ったれる前ぇに、そのチャカポコチャカポコってぇ音をどうにかしがれ。耳の穴に毛虫が這ってるみてぇだ」

 竜子の目に戦闘的な色が浮かぶ。

「お、あたいのカルチャークラブにイチャモンつける気かい? ジョン・レノンが死んでからは、一番のお気にいりなんだぞ。ライブじゃデビッド・ボウイにかなわねぇけどよ」

「尻の青いガキが、毛唐の音楽なんぞ有り難がってるんじゃねぇやい!」

 宗八は、イヤホーンをむしり取った。コードを引っ張られて竜子のポケットから落ちたウォークマンを拾って、スイッチを切る。

 竜子は唇を尖らせた。

「あ、落としやがったな! 新製品なんだぞ! 高かったんだぞ! 弁償だ、弁償。それが嫌なら、今すぐ酒を呑ませろぃ」

「駄目だって言ってるのが分からねぇのか!」

「あたしゃぁ、こないだだって雪の中で震えてたんだ。凍えたまんまで車にぶつかったんだぜ。尻にゃぁ青丹が団体で練り歩いてらぁ。一人娘を傷物にしたうえに酒まで独り占めしやがって、それでもてめえ、親のつもりかい⁉」

 宗八は竜子の衣装をしばらく見つめてから、ぼそりと言った。

「こんな化け物、産ませた覚えはねぇ」

 竜子は小声で叫んだ。

「変装しろって言ったなぁ、てめえだろうが!」

「だからって『土曜の夜は、デスコでヒーバー』みてぇな真似をするアホがいるか」

 竜子は天を仰いでうめく。

「今どきディスコで遊んでるなぁ埼玉から出て来るお上りさんだけだぜ。気の効いた連中は、カフェバーに集まるんでぇ。同じガキだって、ハマのツッパリは垢抜けてらぁ。てめえみてぇな老いぼれにゃぁ分かるめぇが、今じゃぁこんなんがいっちゃんナウいだよ。『カラス族』みてぇに真っ黒けじゃぁ、色気も何にもありゃぁしねぇしな。それが証拠にさっきだって、若けぇ者が目の色変えてくっついてきやがっただろうが!」

 事実だった。

 階段の下に身を隠すまでの間、暴走族らしい少年たちがさも楽しげに竜子の尻を追い回していたのだ。竜子は彼らとふざけあって時間をつぶした。もし脅迫者たちがそれを見ていたなら、竜子が暴走族の仲間だと思われたことは間違いない。

 宗八はうなずいた。

「おぅ、俺だってその格好にゃぁ痺れっちまってるさ。フグにでも当たっちまったみてぇだ」

 竜子が身を乗り出す。

「ぐずぐず言ってねぇで、呑ませろぅ!」

 宗八がすかさずフラスコをポケットにつっこむ。

 二人のやりとりをうんざりとしたように眺めていた狩谷もまた、変装させられていた。

 頭の傷は乾き、包帯も外されている。今は若造りだが、コートとカツラを取ると歳より十歳以上老けて見えるように二重の服を着せられていたのだ。〝早変わり〟が狩谷の安全を確保する手段だった。

 狩谷はぼてぼてまとわりつく服のうっとうしさに顔をしかめ、腕時計に目をやった。まるで切迫感のない親子をたしなめるように、口調を強める。

「あと五分だぞ。準備はいいのか?」

 狩谷の胸は緊張で高鳴っていた。長く検察に勤めていてもこれほど大胆な、しかも犯罪的な〝捜査〟に参加した経験はない。しくじれば全てを失う。

 が、宗八はどっしりと落ち着いている。

「どっからでもかかってきやがれってぇんだ」

 そして再びフラスコを出し、いつものように酒臭い息をまき散らした。

 しかし、竜子は反対した。

「駄目だよ、あたいは。凍えっちまって、身体が動かねぇもん。ちょっぴりでいいからよぅ、呑ましてくれよぅ」

 竜子は素早くフラスコを掴んだ。

 宗八は反射的に手を引き、意外な大声を上げた。

「駄目だ! てめえにゃぁ呑ませらんねぇ!」

 宗八の姿は、まるで飴玉を奪われそうになっただだっ子そのものであった。

 あわてた狩谷が小声でしかりつけた。

「静かに! いいじゃないか、少しぐらい。車には丸々一本残ってるんだ。大人げないぞ!」

 すかさず竜子が言った。

「な、そう思うだろう⁉」

 宗八は意志を曲げない。

「駄目でぇ!」

 竜子は宗八をにらみつけた。

「畜生、そうまで言いやがるなら、てめえの秘密を特捜検事様にばらしてやる!」

 宗八はじっと竜子を見つめる。

「何だ、秘密たぁ?」

 竜子は狩谷に目を移す。

「この爺い、毎週大家の家に入り浸って何してるか知ってるか? 三〇年前のガキじゃあるめぇし、テレビを見せてもらいに行くんだぜ」

 その言葉の真意が理解できない狩谷は、宗八を見た。どれだけ酒を呑んでも表情一つ変えなかった宗八が、なぜか一瞬で顔を真っ赤にしていた。

 宗八がうろたえたようにつぶやく。

「バ、バカ、そんなこと触れ回るんじゃねぇ……」

 竜子は勝ち誇ったように胸を張った。

「見てる番組がまた、お笑いでぇ。なんと『宇宙刑事ギャバン』ときたもんだ。くたばりぞこないの爺いが二人並んで、ガキの漫画に見入ってやがるの。脇役で出てくる叶和貴子がお目当てだそうだ」

「てめえ、何でそこまで知ってやがる⁉」

「へっ、情報収集は罠の基本じゃぁねえか。『親子は他人の始まり』って言うしな! 他の秘密もばらされたくなかったら、早く呑ませろよぅ!」

 宗八と竜子は互いに鋭い視線をぶつけ、フラスコを引っぱり合った。二人とも譲る気配はない。

 呆れ顔の狩谷が、止むなく宗八の肩を両手で押さえつけた。

 二人の馬鹿馬鹿しい言い合いにはうんざりしていたが、狩谷には竜子の主張に一理があると思えたのだ。多少の酒で緊張がほぐれるなら、歓迎すべきことだ。

 しかし、宗八は目の色を変えて強硬に抵抗した。

「よせ、みの坊! こいつぁなぁ……」

「呑ませてやれよ」

 狩谷の腕に力がこもった。

「あ、馬鹿……」

 フラスコが竜子の手に渡った。

 宗八は怒りを噛み殺しながら叫んだ。

「余計な真似をしやがって……そうじゃぁねぇんだよ、こいつぁ……あ……ああ……あああ……」

 竜子をにらんでいた宗八は、不意に力を抜いた。そして、がっくりと肩を落とす。

「見ろ。やっちまいやがったじゃぁねぇか」

 宗八を放した狩谷は首をかしげた。

「なに?」

 宗八はあごで竜子を示した。

「病気なんだよ、こいつぁ。どうなっても知らねぇぜ、この先」

 狩谷は振り返った。

 竜子はフラスコに口をつけてもいない。ただ満足げに微笑んでいるだけだ。

 狩谷と目が合った。

 と、竜子はペロリと舌を出してフラスコを逆さまにした。

 ウイスキーは数滴しか落ちなかった。

 宗八が投げやりに肩をすくめる。

「俺は、よせって言ったぜ」

 宗八は竜子ににじり寄ると空になったフラスコを奪い取った。竜子を白い目でにらむと、逆さにしたフラスコの口を手のひらにとんとんと叩きつける。

 宗八は手に移ったウイスキーを舐めながら言った。

「こいつぁな、どんな酒だってあればあるだけ呑んじまうんだ。ガキの時分からの性分なんでぇ。その上、酒癖が悪いときてやがらぁ。暴れるだけ暴れて、てめえじゃぁ何も覚えていやがらねぇ。そんなこんなで、しばらく酒は断たせていたんだがよぅ……。みの坊よ、てめえのおかげで、こいつぁ天国に行けたみてぇだな」

 狩谷は竜子を見つめて茫然とつぶやいた。

「しかし、これっぽっちの量じゃあ……」

 宗八が鼻で笑う。

「へっ、こいつにゃぁ充分だね。出来上がるのがおっそろしく早ぇ。そうして、暴れながら呑みまくるんだ。ちょっとした曲芸だぜ。ボリショイサーカスからお呼びがかからねぇのが不思議なぐれぇだ」

 竜子の口元は早くも緩み始めていた。あどけない笑みを浮かべながら、身体がかすかに揺れだす。

「へへぇ……久しぶりだねぇ、こりゃぁまた……何ともいい気分でございますよっと来たもんでぇ……ははは……おいおい、身体ん中で走り回ってやがるぜ、酒が……ほれほれ、おっ、今、指先に来やがった……あはは……ここ、ここ」

 すでに舌がもつれはじめている。

「なぁにが、あははだ。出来損ねぇが」

 狩谷は自分が犯したミスに気づいて硬直していた。次第に大きくなっていく竜子の揺れを見つめながら、つぶやいく。

「おい……ど、どうするんだ、計画は……?」

 宗八は未練がましく手のひらを舐めながら答えた。

「どうもこうもねぇだろうが。この仕事ぁ、男じゃぁ出来ねぇ。一か八か、こいつにやらせるしかあるめぇ? てめえが呑ませたんだしよぉ」

 竜子は自信に満ちた口調で言った。

「任せておきなって……つまらねぇ心配ぇしてるんじゃぁねぇよ。本当に呑んじまったんだぜぃ……へたな芝居ぇよりもずっとうまくいくんじゃぁあーりませんか、ってなもんだぜぃ」

「なぁにが、あーりませんか、でぇ。上方の真似はやめろぃ。気色悪ぃ」

「おーや、悪かったねぇ。あたしゃぁ吉本が好きなんでぇ。てめえに嫌われるのはもーっと大好きだがよぅ」

「勘当するぞ」

「なんとまぇ、あーりがてぇーお言葉でごぜぇーまーすこと……その一言、絶対に忘れるんじゃぁーねぇーぞ」

 宗八は勝手にしろというように肩をすくめた。

「だがよ、罠だけはきっちり片づけやがれよ」

「あったぼうでぇ」

 狩谷は大きな溜め息をつくと、時計を示した。

「時間だ……」

 狩谷はもう一度溜め息をつくと、用意してあった紙袋を取って階段の陰から出た。駐車場が見渡せる位置で手すりにもたれて、数秒待つ。

 と、小さなアタッシュケースを手にした白キャップの若者が見えた。

 狩谷は振り返って宗八に合図を送ると、努めて軽い足取りで階段を上がっていった。

 竜子は宗八に脇腹を突かれた。

 竜子はにやっと笑った。

「おっ、兄さん、いらっしゃったかい。それじゃぁ、あたいも行ってみるかねぇ。おい、爺さん。もたもたしてるんじゃぁねぇぜ。しっかりついてきやがれよ」

 宗八は投げやりに答えた。

「しっかりするなぁ、てめえの方だ」

 竜子はふらつきながら歩き出した。

 白キャップは、狩谷を追うような形で階段に足をかけたところだった。

 さらに、竜子が若者の後についていく。

 彼らの計画は単純だった。

――狩谷は歩道橋の中程で引き返す。その間に竜子が男にからみ、階段にアタッシュケースを落とさせる。二人に近づいた狩谷がケースを紙袋に入れたと見せかけて、階段の脇から落とす。それを、下で待ち構えている宗八が奪う――。

 狩谷はほとんど半日、その〝手品〟の手順を宗八に叩き込まれていた。男の仲間や若林の手下がどこから監視していても、ケースは狩谷が奪ったようにしか見えないはずだった。敵の注意を狩谷が引きつけている間に、宗八は悠々と下り線に戻れるわけだ。

 一方狩谷は、ケースを落すとすぐに走り出してトイレの裏に駆け込む。そこで第一の変装を取り去り、衣類を紙袋に詰め込んで柵越しに高速道路に落とす。あとは追っ手に向かってこう言えばいい。

『はい、お若い方が走って来ましたよ。荷物を道路に捨てて、あっちへ……』

 敵に問い詰められた場合は、自分は車に酔って休んでいたと説明すればすむ。追っ手は狩谷の指差す方向へ走るか、紙袋を回収に向かうかのどちらかだ。あざむかれたと気づくには、数分はかかる。狩谷と竜子が車に戻るには充分な余裕があるはずだった。

 白キャップの仲間の人数や若林が敷いた布陣は不明だが、現場には安易に近づかないはずだと宗八は読んでいた。どちらかが危険を察知すれば取り引きが反古になるからだ。しかも取り引きの性質上、騒ぎを大きくして無関係な人間の注意を引くわけにはいかない。

 一見大雑把な宗八の作戦にも、それなりの計算が働いていたのだった。読みが当たれば、宗八は若林の鼻先をかすめて〝立木文書〟を奪えるはずだった。

 が、竜子は計算通りに動けなかった。

 竜子の足取りは、身体中を駆けめぐるアルコールと同様、軽やかだった。軽やかすぎて階段を踏み外し、膝頭を強かに打ちつけた。

「いてっ!」

 白キャップは階段の途中で捕まえなくてはならない。だが、竜子がのばした手は、ほんの二段先を進む男のスラックスにも届かなかった。

 竜子の声を聞きつけた男が、足を止めて振り返った。竜子と目が合うと、ふんと鼻を鳴らして階段を上り続ける。

 竜子はあわててはね起きると、膝の痛みをこらえながら男を追った。失態を笑われた怒りで目を血走らせている。だが、すでにタイミングは完全に狂っていた。竜子がよろけながら男に追いついたのは高速道路の真上だった。

 男の目前で、引き返してきた狩谷が硬直していた。彼らの足下には大型トラックが群れをなして疾駆している。

 竜子は瞬時に計画を変更した。

 白キャップの男の肩をいきなり掴むと、力任せに引っぱったのだ。

 不意を突かれた男はくるりと振り返った。竜子はすかさずケースを持った腕にしがみつき、首ひとつ背が高い男の鼻に向かってぐいと顔を突きだした。

「おい! 笑ったね! あたいを誰だと思ってんのさ!」

 男は唇を歪めた。

「誰だね?」

「ついこないだまで、ハマでバン張ってたんだよ! 今だって、おっかない兄さんたちをアゴで動かせるんだよ! あんちゃん、怪我したくなかったら、謝ってもらおうじゃん! ここで土下座してもらおうじゃん!」

 男は凄味のある声でささやいた。

「笑われたくないなら、笑われるような真似はするな。お嬢ちゃんは早くお家にお帰ってママのおっぱいをしゃぶってなさい」

「やる気かい? いい根性してんじゃんよぅ!」

「手を放せ。でなければ、可愛いお顔に傷がつくよ」

「るっせえな!」

 竜子は男の腕を掴んだ手に力を込めた。男は竜子が引き下がらないと見ると、怒鳴った。

「このガキが! すっこんでやがれ!」

 男は竜子の腹をひざで蹴りながら、腕を引き抜こうとした。竜子の手はずるりと滑り、アタッシュケースを直接掴んだ。

 狩谷は仲裁に入るタイミングをうかがっていた。だが彼の顔には不安と恐怖がべったりと張りつき、頭が働かないようだった。

 しかし、竜子はなおも叫んだ。

「謝れってぇんだよ!」

「手を放せ!」

 二人は怒鳴り、ケースを引っぱり合った。必死に足を踏張る竜子はずるずると引きずられていく。

 不意に男が身をよじり、左手を革ジャンの右ポケットに突っ込んだ。ナイフが現われる。

 狩谷が飛びかかりながら叫んだ。

「やめろ!」

 男が振り返った。

 わずかな隙が、アタッシュケースを握る力を弱めさせた。あっと叫んだ男の手からケースがすっぽ抜ける。

 尻餅をついた竜子の手からも、ケースは離れていた。

 アタッシュケースが空中に舞い上がる。

 よろけて金網に背を打ちつけた男の視線が、ケースを追う。金網を飛び越えたケースはくるくるとまわりながら道路に落ちていく……。

 だっと飛び出した男は、金網にしがみついてケースの行方を目で追った。狩谷が後に続く。落ちるケースの下にトラックが現われた。荷台が幌で覆われている。ケースは幌の上で二、三度バウンドしたが、道路には落ちなかった。

 問題の〝文書〟はトラックに乗り、一瞬で彼らの視界から消え去ってしまった。

 振り返った男は、立ち上がろうとしていた竜子にナイフを向けた。

「てめえ……」

 怒りが狩谷の存在を忘れさせていた。

 狩谷は一通りの逮捕術を学んでいた。反射的に鋭い蹴りを男の手に叩き込んだ。弾き飛ばされたナイフが金網を抜けて道路に落ちていく。

 男は狩谷をにらみつけた。

「覚えてろ!」

 そして、上って来たばかりの階段に向かって走り出した。

 狩谷は竜子に手を貸して立たせた。

 竜子が笑った。

「あんた、案外出来るんじゃないさ」

 狩谷の返事は冷たかった。

「君には失望した」

 混乱が始まった。

 駐車場に戻った白キャップは、大声で仲間をかき集めた。もう人目は気にしていない。簡潔に状況を説明すると若者たちが散り、数台の車と大型バイクがタイヤを鳴らして駐車場を飛び出していった。

 立木文書を乗せたトラックを追う気なのだ。

〝敵〟は下り側からもやってきた。五、六人の男が狩谷たちを突き飛ばして走り抜けていく。若林の部下であることは間違いなかった。彼らは竜子に冷たい視線を叩きつけたが、口も手も出さずに去った。文書の回収だけを命じられていたようだ。

 歩道橋を見上げる宗八も、失敗に気づいていた。ふてくされたようにつぶやく。

「だから、呑ますんじゃぁねぇって注意したのによぅ……」

 竜子が金網にしがみついて宗八を見下ろしていた。一応は申し訳なさそうな顔をしている。

 宗八は肩を落とした。

「さっさと帰ぇった方が無難なようだねぇ……」

 宗八が歩道橋を渡り始めた時、橋の上には三人がいた。

 竜子に手を貸して下り線に向かう狩谷。そして、二人をにらみつけながら宗八に向かってくる初老の男――。 

 薄い色のサングラスと付け髭を付けている。   

 竜子に当たった車から出てきた男だ。

〝こいつが若林、か……〟

 すれ違う二人は少しも動きを鈍らせず、もちろん言葉も交わさなかった。

 ただ、サングラス越しにほんの一瞬重なった視線が、ただならぬ熱さを発しただけだった。

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