プロローグ

 ホテルの一室には恐怖が充満していた。

 ベッドに三人の男の陰がある。

 侵入者のリーダーは、淡々と囁いた。

「あと三〇秒で死ぬ」

 巨漢が仰向けで、二人に押さえ付けられていた。

 一人が巨漢の太ももに馬乗りになって、手慣れた様子で腕をつかみ、抵抗を封じる。その顔は黒い目出帽ですっぽりと覆われていた。

 巨漢の足は枕元にあり、頭は反対側の縁からはみ出していた。その首には、ホテルに備えつけの浴衣の紐がかけられている。巨漢が激しくもがく。だが、声が出せない。

 ストッキングをかぶったリーダーは、巨漢の頭の脇で屈んでいた。巨漢の首の紐の両端を握り、必要かつ十分な力をかけて巨漢の気管をつぶす――。

 巨漢の後頭部には枕が挟まれ、ベッドの跡は付かない。残る痕跡は、ネクタイで隠せるし、自殺とも区別がつかない。

 侵入者たちは〝企業秘密〟――自白を引き出すマニュアル通りに、淡々と仕事を進めていた。彼らの手には当然のごとく、薄い革手袋がはめられている。

 男は、もう一人いた。

 部屋の隅から消え入りそうなつぶやきがもれる。

「やめてください……先生が……死んでしまいます……」

 暗がりに縮こまって震える小男は、秘書だった。雇い主を気づかう言葉を口にはしたが、動こうとはしない。二人の〝プロ〟を部屋に導き入れたのは、他ならぬ彼だったのだ。

 ストッキングの男はちらりとロレックスの秒針に眼をやると、巨漢の首から紐を外して背を伸ばした。

 巨漢は赤黒く変色した唇を震わせて空気をむさぼる。脂肪で膨らんだ胸が、激しく上下した。

〝ストッキング〟は、ナイロン繊維で押し曲げられた唇をさらに歪めた。微笑んだのだ。ゆっくりと屈んで、再び巨漢の耳元に囁きかける。

「言っただろう? 死ぬのは簡単じゃない。しゃべれば命だけは助ける。政治生命は終わりだが、あの世に送られるよりはましだ。立木の文書はどこだ?」

 巨漢はあえぎながらも必死に訴えた。

「もう……ない……燃やしたんだ……」

〝ストッキング〟はわざとらしい溜め息を漏らした。

「官房長官まで脅しておきながら、燃やしたで通るか? どこに隠した? ……そうか、言いたくないのか……」

〝ストッキング〟はゆっくりと巨漢の首に紐を戻す。

「やめて……本当に……」

 再び喉をつぶされた巨漢は言葉を続けられなかった。

〝ストッキング〟はゆっくりと紐に体重をかけながら、秒針を確認する。経験は豊富だが、相手は現職の国会議員なのだ。生きていれば責任は依頼主が取る。だが、一歩間違って死に追いやれば苛烈な制裁が待ち受けている。

 首を絞める時間は慎重にコントロールしなければならない。

 と、ベッドサイドの電話が鳴った。

 巨漢を押さえつけた〝目出帽〟が、はっと振り返った。恐る恐る電話に手をのばす。

〝ストッキング〟が命じた。

「取るな」

「若林さんかも……」

「名前を言うな!」

 午前六時前――。いかに多忙な政治家とはいえ、陳情客が訪れる時刻ではない。

〝ストッキング〟は、壁にめりこんだようにこわばっていた秘書をにらみつけた。

「今の名は忘れろ。モーニングコールか?」

 秘書は操り人形のように不自然にうなずき、そしてすぐに首を横に振った。

「名前は聞きませんでした! 今日の予定は十時からしか入っていません! 先生がゆっくり休みたいというので……」

〝ストッキング〟の細く釣り上がった目に、迷いが浮かんだ。

 面会のアポを取る電話にしても時間が早すぎる。誰かが訪問してきたのなら、議員本人に近い者のはずだ。しかし、秘書は知らされていない。

 可能性は一つ――。

 数日前、議員は〝立木文書〟を入手したことをほのめかして、官房長官に圧力をかけた。にもかかわらず、次回の総裁選出馬へのバックアップは拒否された。それが原因で、彼は犬猿の仲である元総理との徹底交戦を決意したのだと評価されている。当然〝立木文書〟は、その戦いの武器にされる。捜査当局のみならず、マスコミへの発表まで覚悟していると考えなければならない。核ミサイル並の破壊力だ。議員が早くも発射ボタンに指をかけたのなら――。

〝ストッキング〟の雇い主にとっては、許すべからざる状況だ。それを阻止するために、〝ストッキング〟は送り込まれたのだ。

 電話は鳴り止まない。

〝ストッキング〟は意を決した。

「引き上げる」

 議員の首から紐を取ってベッドに投げ出した。

〝目出帽〟が巨漢を押さえつけたまま、意外そうに言った。

「このまま帰るんですか⁉」

〝ストッキング〟はうなずいて、巨漢を見下ろした。

「議員さん……。みんな、あんたのわがままに迷惑している。怒っている者も多い。そのことをじっくり考えろ。私たちの訪問が外部にもれれば、今度こそ死ぬよ。もちろん、死ぬのは家族が先だ。最初は奥さん、次に息子さん……最後のお嬢さんは、仲間に任せよう。サディストでね。丸一日以上犯し続けてから、ゆっくりと殺す。犯しながら、小さなナイフで切り刻む。自分の身体が血まみれになるのが、たまらないだそうだ。お嬢さん、大学を出たばかりだったか? 止めを刺される時にはきっと、苦痛から開放されることを感謝することだろう。あんたが死ねるのは、全てを見届けてからだ。私たちはプロだ。雇い主には、権力がある。だから、警察に保護を求めても無駄だ。また来る。今日中に〝立木文書〟を用意しておけ」

 巨漢は目を見開いていた。うめきがもれる。

「だから……文書は燃やし……うう……」

 巨漢の胸がぴくりとはね上がった。かすかな痙攣が全身に広がっていく……。

 馬乗りになっていた〝目出帽〟が身を引いた。

「ま、まずい……」

 巨漢の痙攣は激しくなっていった。〝目出帽〟は、身をよじる巨漢を再び押さえつけた。

 秘書が叫んだ。

「心臓だ! 医者を!」

〝ストッキング〟が振り返った。

「心臓が弱いのか⁉」

 秘書は壊れかけの人形のようにぎくしゃくとうなずいた。

「なぜ言わない⁉」

〝ストッキング〟も血の気を失った。並みの体力があれば持ちこたえられるはずの脅しが、発作の引き金を引いたのだ。計算外のアクシデントだ。

「すぐ逃げる!」

 秘書が壁に張りついたまま叫ぶ。

「死んだらどうするんですか」

 振り返った〝ストッキング〟は、冷たく言い放つ。

「貴様が始末をつけろ」

「そんな……」

 と、ドアが叩かれた。

 三人の男の視線がドアに向かう。

〝ストッキング〟が小声で言った。

「誰だ⁉」

 秘書はさらに部屋の隅に身を縮めた。

「分かりません……」

 ベッドから下りた〝目出帽〟が〝ストッキング〟にすがる。

「話が違う! 殺しは御免だ!」

 ドアのノブが激しく回されていた。部屋は十階で、窓から飛び出すことはできない。逃げ道は何者かが開けようとしているドアの他にはない。

〝ストッキング〟の顔にも焦りが現われた。

 と、鍵が開かれる音がした。

 秘書がつぶやく。

「合鍵……⁉」

 一般の客がホテルの合鍵を手に入れられるはずはない。それができるのは国家権力を行使する捜査官のみ――。

〝ストッキング〟は〝目出帽〟に命じた。

「ベッドの陰へ!」

「そんなことしたって……」

「隠れろ!」

 そして、秘書に命じた。

「電気を消せ! スイッチは貴様の右だ。入ってくるのが二人なら、一人は貴様が押さえろ」

「ば、ばかな!」

〝ストッキング〟はテーブルの上から大きな大理石の灰皿を取った。そして、入り口から見て死角になる壁の陰に身を滑り込ませた。

 照明が消えた。

 ベッドサイドのかすかな明かりの中で、巨漢が断末魔の喘ぎを漏らす。全身が引きつり、小刻みに震える。

 ドアが開き、声がかけられた。

「坂本さん……?」

 入ってきた男は、瞬間的に異常な気配を嗅ぎ取った。

「まさか!」

 男はベッドに駆け寄った。ベッドの縁からぐったりと首を垂れる巨漢に手をそえる。

「坂本さん!」

 待ち構えていた〝ストッキング〟が、灰皿を男の後頭部に叩き降ろす。男は呆気なく崩れた。

 立ち上がった〝目出帽〟が震えながらつぶやく。

「そんな……警察か……?」

〝ストッキング〟は落ち着いている。

「警察なら、一人では来ない」

 秘書はすくみ上がっていた。

「じゃあ……?」

〝ストッキング〟は倒れた男の背広を素早く探った。取り出した身分証明書を明かりに近づけて、息を呑む。

「東京地検……? アポは十時過ぎじゃなかったのか⁉」

 睨みつけられた秘書は声も出せなかった。

〝目出帽〟はあまりの恐怖に震えることすら忘れた。

「やばいっす……」

 さすがに〝ストッキング〟の声もトーンが上がった。

「分かっている!」

〝ストッキング〟は素早く考えを巡らせた。

 一刻も早く対応策を決定しなければ、後続の捜査官に捕らえられる。クライアントに指示を仰ぐ余裕はない。

〝ストッキング〟は小さな溜め息をつくとベッドから紐を取った。それを死体の首に巻きつける。そして紐の両端を、気絶して倒れた検察官の手に握らせた。

〝目出帽〟が意図を察してつぶやく。

「まさか……。検察を犯人に……? 特捜と戦争になっちまう……」

〝ストッキング〟はふんと笑った。

「戦争は十年前からだ」

 うろたえるばかりの秘書がやっと壁から離れ、〝ストッキング〟にすがった。

「何をする気なんですか⁉」

〝ストッキング〟は灰皿を秘書の手に押しつけた。

「こいつを殴ったのは、貴様だ。捜査官にはこう言え。『先生が電話に出ないんで部屋に入ったら、誰かが首を絞めていた。で、殴った』とな。それ以上は一切口を開くな」

 秘書は目を丸めた。

「私が⁉ とんでもない!」

「手は打つ。時間を稼げ」

「できない!」

〝ストッキング〟はじっと秘書の目を見つめる。

「できないなら、先生の後を追う。年頃の娘はいるか?」

 秘書がつぶやく。

「そんな……」

「手を組んだ以上、覚悟はしたはずだ。あの金を何だと思っている?」

 絶句した秘書を後に、二人の男はドアに向かった。

〝ストッキング〟が振り返った。

「二、三分待て。それからフロントに連絡。警察を呼ぶんだ」

 二人は廊下に姿を消した。


         *


 昭和五十八年一月――。

 埼玉一区選出の保守党衆議院議員・坂本武弘は仙台市の広瀬川を見下ろすホテルで死亡した。当初警察は、死因は心臓発作だと発表した。二日後、マスコミがそれが自殺であったことを暴いた。しかし議員の死体はすでに荼毘に付された後であった。

 この異常な事件はひとしきり人々の話題を独占し、数々の疑問と憶測を残し、そして忘れ去られていった。

 だが、真相を知る者はいた。そして、彼らの間で〝闇の戦い〟のゴングが鳴った。元首相の疑獄事件の一審求刑を間近に控えた政界を根底から揺るがした、しかし公にはならなかった〝事件〟の発端であった。

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