1・罠師、捕らわる
「へっ! このすっとこどっこいめ。二〇年ぶりに不景気なツラぁ出しやがったと思ったら、いきなり何を言い出すんでぇ! この俺さまが、盗人ぅだと⁉」
大熊宗八はコタツ越しに、天辺が禿げ上がった胡麻塩頭をぐいと突き出して怒鳴った。
酒臭い息をもろに吹きかけられて、狩谷稔は思わず身を引いた。狩谷自身、自分が口にしたばかりの言葉を信じ切れないのだから、勢いも鈍る。宗八の姿は狩谷が予想していた通り、下町に骨を埋めようと決意した偏屈な老人以外のなにものでもなかった。
しかし、その〝情報〟は警察上層部から得た確度の高いものだ。賭ける他になかったのだ。
狩谷は用意してきた新聞をコタツの上で開き、押し出した。そこには、スクープを報じる大仰な見出しが踊っている。
『イスラエルの秘宝、盗難か⁉』
狩谷は言った。
「〝ダビデの星〟だ。盗んだんだろう?」
宗八はおおいかぶさるように新聞をのぞき込んだ。
「〝ダビデの星〟って……あの、お化けダイヤか⁉ このとんちきめ。脳天に傷をこさえて、気が変になっちまったか?」
確かに狩谷は、頭に包帯を巻いていた。後頭部の傷を守るためだ。
ほんの五分前、刈谷は玄関で帽子に張りついた雪を払った。予告もなく現れた幼なじみの姿に、小太りの宗八は丸い顔の中で小さな目を丸めた。
「てめえ……みの坊かい? なんでぇ、なんでぇ、前置きもなしにひょっこり戻って来やがって……何十年会ってねぇ? それに、そのご大層な包帯はどうした? 〝ミイラ男〟の変装か?」
その時の狩谷は、悲しげな微笑みを浮かべることしかできなかった。
「ご無沙汰していたね……」
頭に傷を負った原因は、立ち話で打ち明けられるほど単純ではない。
だが、宗八は嬉々として狩谷を部屋に招き入れた。夜の十時を過ぎているというのに、不意に訪れた狩谷を、ただただ歓迎した。
その狩谷が、コタツにもぐるなり、宗八を『窃盗犯だ』と糾弾したのだった。
憮然とした表情で新聞を奪い取った宗八は、むさぼるように記事を読み始めた。
狩谷は改めて部屋の中を見渡した。
質素だった。
黄色く変色してささくれた畳が敷かれた六帖間が、異様に大きく見える。家具は指を折れば数えられた。黒光りする洋服ダンス、その上に置かれた小さな仏壇。亡くなった夫人のものであろう。それとは別に、壁の上部に据えられた神棚。柱に止められた日めくり。他にはコタツと長火鉢、そして宗八本人がいるだけだ。
それらが、天井からぶらさがった裸電球に照らし出されている。
狩谷は、自分の生家にタイムスリップしたような錯覚を覚えて戸惑った。日本中が高度経済成長の果実を味わい、これからも好景気が続くと浮かれている時代だ。宗八が今でもこれほど慎ましい暮らしを続けているとは考えてもいなかった。
警察の情報から想像した姿とはかけ離れている。
注意して見ると、コタツからはコードが伸びている。電気製品と呼べるものはそれだけらしい。テレビどころか、ラジオすら見当らない。襖で仕切られた奥に台所があるはずだが、そこに冷蔵庫があるかどうかも疑わしかった。
東京の下町に先祖代々根を下ろした宗八は、数十年前と変わらない日常を続けていたのだ。彼の頑固さを知らない者には、手の込んだ冗談にしか見えないであろう部屋だった。
狩谷は、この路地を最後に訪れた二〇年前を思い返した。両親が相次いで死んだ時だった。宗八からの連絡を受けて佃島に舞い戻ると、葬式の準備は近所の有志たちの手ですっかり終わっていた。狩谷はまるで客のように扱われたものだ。
幼い頃からの顔見知りたちは皆、狩谷がこの路地を嫌っていることを知り、その出世を快く思っていなかった。葬式が終わると狩谷は、追い出されるように街を出た。
しかしその日でさえ、兄貴分であった宗八は優しかった。
狩谷は記事を読み続ける宗八の禿頭を見つめながら、内心でささやいていた。
――本当にこいつが、情報通りの男なんだろうか……。
宗八が顔を上げて新聞を置く。動揺も驚きも見せていない。
狩谷はしかたなくつぶやいた。
「〝古代イスラエル秘宝展〟――去年の八月、銀座三ツ星百貨店がぶち上げた大企画だ。〝ダビデの星〟はその目玉品だった。イスラエル政府は今、日本へのダイヤモンド売り込みの足がかりを求めている。でなければ、国宝級の宝石が国外に出せるはずはない。二〇年間もスイスの銀行に仕舞い込まれていたほどの逸品だからな」
〝ダビデの星〟は、重量百カラットに迫るダイヤモンドだった。ほとんど原石のままの武骨な姿をしているが、その一面が平坦に磨かれ、十戒の一部が刻み込まれている。ロマノフ家に伝えられてきた〝シャー〟と呼ばれるダイヤと並ぶ、歴史的な価値を持つ宝石だ。
宗八は新聞から目を離さないままつぶやく。
「社長が『なぜだ?』って間抜け声を出して、首ぃ切られた事件だろう。展覧会の品物はまがい物だったっていうじゃねぇか」
「表向きは、だ。あの厳重な警備の中で〝ダビデの星〟が盗まれたなどとは、発表できない。展覧会場では日本の警察はもちろん、特例としてモサドまでが警備に当たっていたんだからな……」
宗八はふんと鼻を鳴らした。
「この記事にはどこにも『盗まれた』たぁ書いちゃぁいねぇぜ。らしい……ではあるまいか……としか考えられない……だとよ。こんな奥歯に物が挟まったみてぇな物言いで、何が分かるっていうんでぇ?」
宗八は新聞を閉じ、表紙に目を落とした。
「けっ。こけ威しの見出しで辛うじて生き延びてる三流のスポーツ紙じゃぁねぇか。天下の検察ともあろうもんが、こんな与太話で他人様に難癖つけようってぇ了見かい?」
狩谷も動じなかった。少なくとも、内心の怯えを表情には出さない。
宗八を訪ねたのは、大穴を狙った賭けだったのだ。賭けられているのは、東京地検特捜部の存亡と、狩谷自身の全て。どんなに可能性が低くとも、失敗が許されない勝負だ。
部屋には冷えきった隙間風が吹き込んでいる。久しぶりに降り積もり始めた雪が、狩谷の心まで凍えさせるようだった。
それでも狩谷は、気力を奮い立たせた。
「全国紙、有力ブロック紙は報道協定を受け入れた。こんな不祥事が知られたら警察の威信は地に落ちるし、モサドの暗殺部隊が犯人を殺しに動き出しかねない。警察庁はイスラエル政府を説き伏せて、半年間だけ独自捜査をする猶予を取りつけた。六ヵ月間、徹底的な極秘捜査を続けてきたんだ。この記事は、協定の手配から漏れた三流紙だからこそ発表できた。系列の大手新聞社が意図的にリークしたらしい。だから、情報源が特定できる断定的な記事は書けなかった」
宗八は首をかしげていた。
「もっさど……ってぇのは、何だい?」
「とぼけるな。イスラエルの情報機関。今もナチスドイツの生き残りを狩り出している、人間狩りのプロだ。モサドの標的で裁判を受けられるのは一握りの人間で、大半はいつのまにか消え去る。ミュンヘンオリンピックでイスラエル選手団を襲撃したパレスチナゲリラが、次々とモサドに暗殺されたという噂もある。そのモサドが、手ぐすね引いている。普通は強盗の捜査なんかしないが、国の威信を傷つけられれば例外だ。猶予期間もあと四日。その後は、警察が掴んだ情報は残らずイスラエル側に渡す。モサドに狙われたら終わりだ。犯人を日本の裁判にかける気はないし、警察もモサドの行動には目をつぶる」
「するってぇと……」
「〝ダビデの星〟が盗まれたことは事実だ。イスラエル政府は怒り狂っている。おまえが犯人なんだろう? 拉致されて拷問、そして最後は砂漠に埋められるぞ」
「しつっこいぞ、ぼけなす野郎! 幼なじみの俺にまだケチぃつけやがる気ぃか⁉ てめえをガキ大将どもから守ってやったなぁ、いってぇ誰だと思ってやがるんでぇ!」
不意に四〇年以上前の弱みを突かれた狩谷は、あからさまにうろたえた。
狩谷は身体が小さく、病気がちな子供だった。ガキ大将たちの嘲笑の的だった狩谷は、常に五才年上の宗八の陰に逃げ込んで保身を計ってきたのだ。
「そんな昔の話を……。しかたないだろう、確かな情報があるんだから」
宗八は、唐突にくくっと笑った。
「みの坊よ。てめえ、ガキの頃と変わっちゃぁいねぇな。ちったぁてめえの頭を使ってみろってぇんだ。こんなむさっ苦しい長屋でくすぶってる死に損ねぇが、どうやりゃあそんな大それたお宝にちょっかい出せる?」
確かに宗八は、佃島の壊れかけた木造アパートで細々と装飾品の細工をしている職人にすぎない。情報から得た人物像とは、飢えたライオンと捨てられた仔猫ほどもかけ離れている。
狩谷は気力を奮い立たせて言った。
「おまえは、宝石のプロだ」
宗八はしばらく小さな目をいっぱいに見開いてから、ぷっと吹き出した。
「笑わせるんじゃぁねぇやい。はばかりながらこちとらぁ、しがねぇ石止め屋でぇ。こんなことに胸ぇ張るってぇのもおかしなもんだが、ちんけな指輪に屑ダイヤをひっつけるのがせいぜいって貧乏職人だぜ。石ひとっつ止めていくらって商売で食い扶持稼いでる老いぼれが、化け物ダイヤに色気を出せるか?」
「色気は誰にでもある」
「てめえ、とっくに六〇を過ぎたんだろう? 噂で聞いたが、検察のお偉いさんなんだろう? 常識ってぇもんがねぇのかよ……」
〝お偉いさん〟と揶揄された狩谷は、淋しげに唇を歪めて笑った。
狩谷は生まれ育った佃島を嫌っていた。街に溢れる庶民的なエネルギーが、傷つきやすい肌には刺激が強すぎたのだ。ドブと糞尿の臭いがまとわりつく空気、狭い路地で怒鳴り合う大人たち、そして彼を遊びの道具とみなす〝友人〟たち――。夏になると軒先に並べられるアサガオの鉢の香りさえも、狩谷は憎んでいた。
家にこもりがちだった狩谷はいつも、三味線の修理を生業にする父親から『外で遊べ』と怒鳴られた。この土地に気を休められる場所はなかったのだ。
自分の力で佃島を出ると決意した彼は、法律家を目指して参考書に没頭した。宗八がそんな狩谷を冷たい目で見ていたことは痛いほど分かっている。
全くの独学では司法試験を突破できなかったが、長い苦闘の末に掴んだ職業が東京地検特捜部の事務官だった。特捜の心臓部――資料課を切り回す、陰の実力者だ。狩谷はそこで持ち前の粘り強さを評価され、数年前にようやく検事の資格を得たにすぎなかった。年間数人が司法試験を経ずに検事に昇格することができる、特認検事制度の恩恵だった。
狩谷は言った。
「おまえの評判は警察から聞かされた。宝石商の間では〝名人〟と呼ばれているそうじゃないか。だから、気に入った仕事しか受けない。『よほどいい仕事じゃなければ宗八には出せない。腕は抜群だが気難しくて困る』と、どこも口を揃えたそうだ」
宗八は屈託なく笑った。
「おぅ、豪勢だねぇ。そんなに誉めてくれたってぇかい。ありがてぇもんだ、お得意様は。だがよ、どんなにでっけえ仕事だって〝星〟に比べりゃぁ、すかしっ屁ぇみてぇなもんよ」
「証人がいる」
「しつっこい奴だねぇ。証人だと? いってぇ誰でぇ、そんなとんちきを言い触らしてる間抜けは」
「伊田孝之」
宗八は一瞬絶句した。
狩谷は内心で安堵の溜め息をもらした。宗八がようやくそれらしい反応を示したのだ。
「伊田……」
「今じゃ小菅の住人だ。名うての詐欺師だということだな。ガキの頃を思い出すよ。俺は伊田に年中いたぶられていた。ガキ大将の縄張り争いとはいえ、とばっちりを食った俺にはつらかった。まだ十才ぐらいだったからな。守ってくれたのは、確かにあんただ」
「なんだって伊田の野郎が……?」
「警察は去年の暮れに、ようやく〝星〟を奪った犯人のモンタージュ写真を完成させた。残念ながら、その他に手がかりは何もない。死人はなし、怪我人もなし、乗り捨てられた車もなし。〝星〟の盗難は強盗の手口じゃない。むしろ、詐欺師だ。手際の良さは桁外れだがね。で、服役中の詐欺師にモンタージュ写真を見せた。伊田にも順番が回った」
「だから、なんで俺が……」
宗八の言葉からは勢いが失われていた。狩谷は質問を無視して先を続ける。
「伊田は、俺が地検で働いていると知っていた。で、俺になら話すと警察に持ちかけた。ムショ暮しに嫌気がさしていたんだろう。協力すれば刑期が縮まることも期待できる。所轄よりも特捜部に恩を売ったほうが有利だ、と計算したわけだ。俺が見ても、モンタージュ写真はおまえにそっくりだった」
宗八は顔をそむけた。
「他人の空似に決まってらぁ。しかも、〝星〟が盗まれてから半年近くもたって作ったんだろう?」
狩谷は小さな溜め息をもらし、切り札を晒した。
「カラスを使ったんだってな」
宗八は狩谷をじっと見つめた。
「カラス……⁉」
狩谷は鋭い目で宗八を見返した。
検察官には、自白を取る力量が要求される。容疑者の心を見透かせなければ、職務を達成できない。
狩谷は宗八の目の中に、追い詰められた犯罪者の虚勢を見た。
「バードウォッチングというのを知っているか?」
「ばあど……? な、なんでぇ薮っから棒に。少しばっかり外国語をかじってるからって、えばるんじゃぁねぇぜ。……火傷かなんかの、まじないか?」
宗八は明らかにうろたえている。
「野鳥を観察する、一種の遊びさ。バードウォッチャーというのは、高倍率の双眼鏡を持ち歩いている。観察する縄張りを決めて、日がな一日、鳥をながめているんだ」
「なんの関係があるんでぇ……」
狩谷は宗八のつぶやきも無視した。
「〝星〟が消えたのと同じ頃、彼らの一人が奇妙なものを見た。場所は不忍池の上空」
「な、なに……⁉」
狩谷は、口を開いた宗八を手で制した。
「一羽のカラスが重そうなものをくわえて飛んでいたそうだ。彼は始め、カラスが他の鳥の卵を盗んだと思った。だが、それがギラギラと光った。卵じゃない。彼はカラスを双眼鏡で追った。カラスは池のほとりに来ると、ベンチに止まった。飛び立った時には何もくわえていなかった。ベンチには、老人が一人。その老人は、カラスが残していった光る物体を平然と鞄にしまいこんだ……」
「おいおい、それが〝星〟だってぇのかい?」
「当然、好奇心をかきたてられた。カラスは賢いそうだな。訓練次第で相当複雑な作業もこなす。老人がカラスに何をさせたのか、彼は直接聞きに行こうと考えた。が、池を回ってベンチに着いた時には、老人は消えていた」
「じれってぇな! だからなんだって言うんでぇ!」
「警察は盗難直後から広範囲な聞き込みを開始したが、有益な証言は得られなかった。冬に入ってから、刑事の一人がバードウォッチャーたちに話を聞き始めた。双眼鏡で辺りを観察している人物には貴重な出来事を目撃している可能性があったからだ。苦しまぎれの思いつきだが、とんでもない成果があった。カラスの件で興味を引かれたために、そのバードウォッチャーは半年前の出来事を鮮明に記憶していた。しかも、絵心があった。老人のモンタージュ写真は十分間で出来上がったそうだ」
宗八は怒りをにじませて身を乗り出した。
「それが俺だってかい? いい迷惑だぜ。たったそれだけで犯人扱いか?」
「それだけ、じゃない。小菅で、伊田と二人きりで話した。伊田は警察にも口外しないという約束で、おまえの秘密を打ち明けた」
「秘密……だと?」
「〝罠師〟の存在だ」
宗八は視線をそらして頬を引きつらせながら、ふんと笑った。
「罠師? なんでぇ、そりゃぁ……」
その瞬間、狩谷は勝利を確信した。軽く肩をすくめる。
「数世紀を生き続けた犯罪結社だそうだな。歴史を闇から操った一族――その世界では、噂を知らない者はいないというじゃないか。おまえがそんな組織に関わっていたとは、信じられなかったよ。しかし、事実らしい。〝星〟がああも簡単に奪われたことを考えれば、お伽話だと笑うことはできない。とぼけるなら、それもいい。警察に全てを話して、捜査を委ねる。俺が報せれば、ここは五分後に百台のパトカーで包囲される。警察も国際的な威信を懸けているんだ。しかし警察は、特捜ほど口が堅くない。モサドに情報が漏れれば、残りわずかな猶予もふいになるかもしれん。おまえの命がいつまで保つことやら……」
宗八は目を伏せて黙り込んでいた。そのまま一分が過ぎる。
刈谷もまた、息を詰めて宗八の表情を伺う。
ため息を漏らして目を上げた宗八は、再び小さく笑った。しかし狩谷に向けた視線は、もはや不当な言いがかりに憤慨する老人のものではなかった。
「まいったねぇ……。そこまで知られちまったとはねぇ……。さすが特捜検事様だぁ、恐れ入谷の鬼子母神、てぇところだ。こうなりゃぁ、とぼけてもしょうがあるめぇ。そうさ、俺がその罠師さ。で、てめえは俺をどうする気なんでぇ?」
狩谷は内心で胸をなで下ろした。難関は突破した。ようやく、本題に入ることができるのだ。
「俺たち検察なら、おまえの身柄を安全に保てる。暗殺者は寄せつけない」
「そんなことを聞いてるんじゃねぇ。取っ捕まえてぇだけなら、とっくにサツに突き出してらぁ。てめえ、罠師にやらせてぇ〝仕事〟があるんだろう?」
狩谷はにやりと笑った。
「伊田がおびえるわけだ。俺が知っていた以上に切れ者だってことか」
「当ったりめぇよぅ。てめえのツラぁ見てりゃぁ、弱り切っていることぐれぇガキだって見抜けらぁ。しかも〝星〟をかっさらったことがそこまで分かってて直談判に来やがった。魂胆があるに決まってやがる。頭に包帯まで巻きやがって。検察でも手に負えねぇヤマが持ち上がったのかい?」
狩谷は真剣な目で言った。
「警視庁の一課長には『二日間は動かない』と約束させた。幼なじみだから、俺が調べた方が確実で早いと説得したんだ。調査後に、お前の情報を全て渡すことが条件だ」
「だからどうした?」
「追い詰められている」
「検察が、か?」
「俺が。罠にはめられた」
宗八の目が輝いた。
「罠?」
「長い話になる」
「ふぅん……」
宗八はのっそりと立ち上がった。
「どこへ?」
「酒」
宗八はふすまを開けて台所に入った。戻った時には一升瓶と湯呑みを二つ下げていた。
「夜は長げぇや。ゆっくり聞いてやろうじゃぁねぇか」
狩谷はうなずいて、湯呑みを取った。どっかりと座った宗八は、冷や酒をなみなみと注ぐ。
狩谷は一気に飲み干した。
宗八が、息子を見る父親のように頬を緩める。
「呑みっぷりは一人前ぇになりやがったな」
狩谷は照れたように笑った。
「気苦労が多くてな。つい、こいつのやっかいになる」
「で、罠ってぇのは?」
「殺しの容疑をかけられた」
宗八は驚きを隠さなかった。
「検察官様が、か? なんだってまた……」
「中田元総理の疑獄事件は知っているな?」
「もうすぐ一審の求刑だろう? 関わっているのか?」
「どっぷりと。いろいろやったよ。検察の存亡を賭けた総力戦だった。おかげで、中田を保守党から叩き出すことはできた。解散総選挙ってことにもなった。だが、そこまで。奴は容疑をかけられていながら議員席に居座り続けている。こっちが叩いた分だけ意固地になって、選挙では過去最高の得票をむしり取った。大金をばらまいたのさ。しかし選挙は選挙。当選してしまえばとやかく言う余地はない。保守党内での発言力も高まる一方だ。地元に新幹線を開通させるわ、子飼いの首相をこしらえるわのやりたい放題で――」
宗八は湯呑みを空けてから、あくびをもらした。
「愚痴をこぼしにきたのかい?」
狩谷の湯呑みに酒を注ぐ。
「すまなかった。しかし、重要なことなんだ。裁判が長引いた原因は、犯罪性が明確に立証できなかったことに尽きる。それを可能にする文書の存在がつい最近明らかになった」
宗八が身を乗り出した。
「なんだと⁉ 中田が持ちだした運転手の日記みてぇな、ちんけな与太じゃぁねぇんだろうな?」
「年末に交通事故で死んだ、中田の秘書――立木という男なんだが、そいつが残した、金銭授受の詳細な記録らしい」
「らしい……だと? 頼りねぇな」
「見た者はいないからな。当の中田も、立木がそんな記録をつけていたことを知らなかったようだ。立木は目立たない存在だったが、裏金づくりや不正な工作を一手に任されていた。それほど信頼していた部下が裏切るとは思っていなかったんだろう」
「なんでそんな記録があると分かった?」
「焦るなよ、順を追って話す。報せは十日前に入った。情報をよこしたのは、立木と古い付き合いがある弁護士だった」
「その文書とやらが、弁護士の手元にあったってぇわけか」
狩谷はうなずいた。
「立木は中田に切り捨てられるのを恐れていたらしい。議員の秘書が命を絶って疑獄事件に幕を下ろす――お偉い先生方の常套手段だからな。中田は特捜に追い詰められている。膠着状態が続いている今なら辛うじて潔白を主張できても、これ以上不利な証拠が現われたら防ぎきれない。無罪判決が勝ち取れなければ、政界の表舞台に戻れない。それは立木自身が一番よく知っていた。それだけに中田の態度には敏感だった。実際に中田が立木に自殺を迫ったことも考えられる」
「だが、なんで今頃? てめえら、その秘書はたっぷり調べたんじゃぁねぇのかぃ? これまで黙んまりを通してきたタマなんだろう?」
「実際に求刑が近づいて、雲行きが変わった。近頃の中田は異常に神経質だ。怒りっぽく、立木に八つ当りすることも多いという。立木は中田のアキレス腱なんだ。気の弱い男なら、圧力に折れて首を括っていたかもしれない。だが立木は逆に、中田と決別する覚悟を決めたらしい。その武器として、中田の弱みを詰め込んだ文書を作ったわけだ」
「だから、事故にあった?」
狩谷がうなずく。
「中田は立木の造反を察して、先手を打った。あるいは、立木が中田を脅したのかもしれない。『危害を加えれば全てをぶちまける』とね。だが立木も馬鹿じゃない。予防措置を取っていた」
「文書を弁護士に預けた、か」
「『自分が死んだ場合は原因を問わずにマスコミに公開しろ』と命じてね」
「弁護士がそう言ったのかい?」
狩谷はうなずいた。
「むろん弁護士は、内容は見ないと立木に約束していた。が、誰にでも好奇心はある。政界の裏情報なら、膨大な利益をもたらす可能性もある。彼は誘惑に勝てなかった。立木が死んだ直後に目を通したそうだ。しかし中身を読んだ彼は、自分の手には負えないと判断した。悩んだ末に特捜に文書の存在を報せてきたんだ」
「思い切ったことをやりやがったな」
「ばかでかい爆弾を他人に背負わせたかったんだ。中田に買い取らせることも考えたらしいが、読んだだけで命が危ない。実際、立木はあの世送りだからな」
「なんで新聞にでも売らなかったんでぇ?」
「矢面に立つのを嫌ったんだ。中田と戦うなんて、並みの弁護士には無謀すぎる」
「だからって、検察に話すたぁねぇ……。それだって綱渡りじゃぁねぇか?」
「俺たちは情報源を全力で守る。弁護士なら特捜の実力は心得ているさ。しかも文書の威力で中田が拘束できれば、将来の安全も保障される。それほど決定的な力を持った内容だったわけだ。その破壊力を有効に使えるのは特捜部だけだ。自分が火の粉をかぶらずにすむ唯一の逃げ道だった」
「だが、計算通りにゃぁいかなかった……ってか?」
「中田がその弁護士の介在に気づいてしまった」
宗八はかすかに首をひねった。
「なぜ?」
「分からん……。中田の情報網は官僚機構の隅々にまで張り巡らされているからな。ともかく、検察が電話を受けた数時間後に、弁護士の息子が怪我をした。表向きはヤクザの喧嘩に巻き込まれただけで、全治一週間ほどの軽傷だ。しかしこれは明らかに中田からの警告だ。『検察と取り引きすれば怪我ではすまない』というね。弁護士はそれ以後、全く口を開かない」
「で、文書はどうなっちまったんだ?」
「弁護士のただひとつの抵抗。中田に取り上げられる寸前に、ある議員に送ってしまった」
宗八が傾けた湯呑みを止めた。その目が鋭く光る。
「坂本かい?」
狩谷は宗八の勘の鋭さに肝をつぶしながらうなずいた。
「分かるか?」
「あたぼうよ。心臓発作だと言っておきながら、今朝の新聞じゃぁ自殺に変わっていやがった。サツが何かを隠しているとしか思えねぇ。医者が死亡診断書を偽造したとか、発見者が消えちまったとか……。こんなでたらめやってりゃぁ、誰だって裏があると勘ぐらぁ。中田に殺されちまったのかい?」
「俺が犯人さ」
「なるほど……それが罠ってぇわけか」
「弁護士と坂本は同郷出身で、極めて親しかった。しかも坂本は、総裁選ではニューリーダーの筆頭として中田と激しく対立した」
「追い詰められた弁護士がわざわざ騒ぎを大きくしようとした……ってぇのかい?」
「検察を頼れば、身内が危ない。文書を中田に渡しても、いつ寝首をかかれるか分からない。だが、事を議員同士の対立に置きかえてしまえば、中田は火消しに忙殺される。恫喝、裏取り引き、マスコミへのリーク……法律で手足を縛られた特捜と違って、議員には汚い荒業がごまんと用意されているからな。爆発してしまえば、誰が爆弾を渡したかなど意味がないってことさ。文書が政治問題化すれば、自分は安全圏に逃げられると踏んだんだろう」
「まるっきりババ抜きじゃぁねぇか」
狩谷はうなずいた。
「しかし坂本は、転がり込んできたジョーカーを最大限に利用しようと欲を出した。文書を楯に官房長官を脅したらしい。『次回の総裁選では自分を推せ』とね。結果があの〝自殺〟さ」
「てめえ、坂本が死んだホテルにいたのか? 仙台だったんだろう? 何しにそんなところまで?」
「坂本に呼ばれたんだ」
「呼ばれた?」
「中田派の協力が得られないと思い知った坂本は、作戦を変えた。先頭に立って中田を叩き潰し、英雄になろうと目論んだんだ。成功すれば中田派は瓦解し、坂本は総理の椅子に肉迫する。勝ち目はあった。で、特捜に『文書を渡す』と連絡してきた。引き渡しは例のホテルで、朝十時。俺は部長と現地で合流する予定で、一足早くホテルに泊まっていた。しかし前日の深夜に『部長が心臓発作で倒れた』と連絡が入った。俺は中田に先を越されることを恐れて、独断で予定を早めた。中田に監視されている可能性が高かったので、従業員通路から直接部屋に向かい、到着する直前のタイミングでフロントから坂本の部屋に連絡を入れさせた。だが、中からドアが開かない。しかたなく、あらかじめ借りていた合鍵で入った。坂本はすでに死んでいたよ。俺はそこで頭を殴られ……目が覚めた時は、坂本の首を絞めた浴衣の紐を握りしめていた」
「特捜がサツにとっ捕まった……ってぇ落ちかよ」
「笑い事じゃない。公になれば検察はマスコミから袋叩きにされ、中田は高笑いだ。今度の求刑だってまともにはできない」
「下手人は中田の手の者だろう? それさえ暴けば中田は自滅だろうが」
「奴らが証拠を残すものか。だから検察は十年間も苦しんでいるんだ」
「そりゃあそうだな……。だがてめえ、そんなやっかいに巻き込まれてやがるのに、よくものこのこ出てこられたな?」
「検察は、俺が犯人だとは思っちゃいない。そのうえ、事件の真相をマスコミから隠すのに大わらわだ。俺も無実を証明したい。ちょうどおまえの――つまり、罠師のことが頭にあったしな。で、隙を見て逃げ出した」
「逃げ出した? じゃぁてめえ、逃亡者か?」
「明日になれば、身内に追われる身だ」
「こりゃぁまた、ぶったまげたもんだねぇ。てめえの上司も何も知らねぇのか?」
「独断専行」
「それでもサツは捜査をこらえるって?」
「警視庁が行なっているのは極秘捜査で、担当者以外〝星〟が消えたことすらはっきりは知らない。所轄は何を追っているのかも分からないまま走らされているだけだ。特捜も不手際を隠したいから情報は漏れない。たとえ俺が消えたと知っても、警察は罠師の隠密捜査を始めたと思うだろう。縄張り意識と縦割りの壁のおかげで、しばらくは無事でいられる」
宗八は湯呑みを空にして酒を注いだ。
「気に入ったぜぃ」
「助けてくれるか?」
「できることなら、やってやろうじゃぁねぇか。なんだかんだ言ったって、幼なじみなんだからよぅ。その代わり〝星〟の後始末じゃぁ世話になるぜ」
「商談成立だな」
「で、具体的にゃぁ何をすりゃぁいい?」
「〝立木文書〟を手に入れたい。中田の手下が持ち去ったようだ」
「ようだ……か。今どこにあるか、目星はついてんのかい?」
「若林孝則」
宗八は戸惑った。
「誰でぇ? 聞いたことがねぇ」
「中田の最大のブレーンだ。中田の回りには今でも旧日本軍の生き残りの右翼がうごめいている。戦時中に特務機関が吸い上げた財産を一手に牛耳っていた魑魅魍魎どもだ。若林は、その中の一番の大物――小高健治の直系といわれている。陰で〝青年将校〟とあだ名される切れ者でね。今では中田の参謀として実力を振るっている。コンピューターを武器にして成り上がった策士だ」
「新聞に名前が出たこともねぇのに?」
「表向きは中堅不動産屋の社長にすぎない。派手な行動は取らないし、料亭などで小高や中田との接触することもほとんどない。まさに参謀に撤し、メッセンジャーを媒介にして中田の顧問役を果たしている。政治家でも相当中田に近い者でなければ、若林の真の実力は知らされない。それに大のマスコミ嫌いでね、写真すらまともなものはないぐらいだ。坂本殺しの段取りをつけたのも若林に違いない。証拠が何一つ残っていないという事実が、奴の介在を暗示している」
「ふむ……おもしろそうな奴じゃぁねぇか。だがよ、そいつが文書を手に入れていたとして、今でも残っているってどうして分かる? 燃やしちまえば終わりだろうが」
「その通りだが……」
「てめえ、とことん頼りにならねぇぼんくら野郎だねぇ……」
「しかたないだろう。文書が若林に渡った確証さえないんだから。坂本がどこかに隠したとも考えられる」
「どこにあるかも分かんねぇ品物を、どうやってかっさらう?」
「おまえなら探せるんじゃないのか? 厳重な警備をかいくぐって〝星〟を奪ったほどの腕があるんだ。だから、こうやって頭を下げている」
「お気楽な坊やだぜ」
「時間がないんだ。おまえが自由に動けるのは、あと四十八時間。それを過ぎれば警察が〝星〟の捜査を再開する。ターゲットは、もちろんお前だ。検察では、もう文書は探せない。やってくれるな?」
「ああ、みの坊の尻拭いは、毎度のことさぁね。もちろん、やっちゃぁみるがよ……だがよ、たった二日かい……」
宗八の顔色は、さすがに冴えなかった。
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