18

 高志は、ストーカーではなかった。

――どうして……?

 高志が里奈に語りかける。

『説明は長くなる。僕がするから。君は休んでて』

『それじゃ、ゆみちゃんに申し分けない……ずっとわたしが脅かして……死ぬほど怖がってるのに……』

『君は点滴ばかりで、何も食べていないんだ。休んで』

 確かに里奈は少しやつれて見えた。目にしたことがない、ゆったりしたジャージを着ている。それでも、美しい里奈だ。

 弓子は不意に、里奈の死体に衣類の跡が全く付いていなかったことを思い起こした。ナイキのジャージに、乳首の形がくっきりと浮かんでいる。下着もつけていないらしい。

――里奈さん、病気なの……?

 弓子は里奈の心配をしている自分に気づいた。里奈はとっくに解剖を終え、冷凍庫で眠っているのに……。

『じゃあ、そっちで見てていい?』

 高志は里奈の髪に顔をうずめ、言った。

『ああ、見てて。それなら安心だろうから』

 里奈は微笑むと、画面から消えた。

 再び画面が揺れる。ソファーに腰を下ろした里奈が映る。ぶかぶかのジャージと緩慢な仕草が、余計に体の曲線を強調しているように見えた。

 カメラが別のソファーを撮影して、固定された。そのソファーに高志が座り、カメラに向かって語りかける。

『僕も、まず謝る。僕らの我がままに、何も知らない君を巻き込んだことを本当に申し訳ないと思っている。君を騙して、こんなことをさせている自分が、恥ずかしい。このビデオを撮影している時点では、まだ他人の腕を解剖しただけだ。それでも君にはひどいストレスになっている。分かっていながら、僕らはもう戻れない。これからもっと、君の心を踏みにじることになる。そして君がこのビデオを見る時には、里奈は死んでいる。死んで、この世で最も美しい、完璧なデジタルデータとして、復活しているはずだ。君には、どんなに謝っても充分じゃない。申し訳ない。埋め合わせなんてできるものじゃないけど、僕なりに全力は尽くすから……』

 再び里奈が画面に割り込んできた。

『ゆみちゃん、お願い。わたしは死ぬから。だから、本当のわたしを、この世に残してね。ここでこうして生きているわたしを、再現してね』

 高志が苦笑いを浮かべる。里奈の振る舞いに腹を立てているわけではない。むしろ、幸せそうだと言ってもいい。

『いきなりそんなこと言っても……もういいや。このカットは撮影中止。続きは次のカットで』

 そういった高志が立つと、画像は終わった。自動的にインデックスが表示される。

 目の前には、心臓を刺されて息絶えた高志がいる。冷凍庫には、限りなく細分化された里奈が眠っている。どちらも、弓子自身が手を下したことだ。

 だが、モニタの中では2人が満足そうにキスを交わしていた。里奈は、明らかに自分が死ぬことを望んでいる。解剖され、データに置き換えられることを願っている。

――なぜ? それって……自殺? なんで、里奈さんが……?

 理由は分からない。だが、全てが里奈の望みだったことは間違いない。

――再現して、って……それが望みなの? もしかして、死が避けられない病気なの……?

 治療不能な難病に冒されているなら、里奈の言葉も理解できる。だが、ビデオの中の里奈は病気のようには見えない。解剖した体の中に、ガンのような異変を見た覚えもない。むろん、医者ではないから正確なことは分からない。それでも、詳細にデータ化した里奈の体内は、図鑑で学んだとおりに健康で美しかった。

――まさか……再現するために、死ぬの……?

 意図は分からないが、里奈自身がはっきりと『再現してほしい』と語っている。1年間の苦行が里奈の願いを叶えるためだったことは、確かだ。

――だったら、どうして高志さんは死んだの? なぜわたしを殺そうとしたの?

「あ……」

 気づいた。高志は言葉で弓子を脅かし、追い詰め、逃げ場を奪った。だが、一度も暴力を振るっていない。ナイフを振り回しても、かすり傷1つ、付けていない。

 あれも全て演技――嘘だったのだ。里奈とキスを交わす高志が、ストーカーのはずがない。だったら、怯える弓子の映像で里奈を誘い出したというのも偽りだ。おそらく、ストーカーも最初から存在しない。里奈が弓子に〝ストーカーが怖い〟と泣きついたのも、作りごとだったのだ。拉致される前から、2人が仕組んだ芝居は幕を開けていたのだ。ホラーゲームのシナリオのように――

 そして、思い出した。高志が撮影したというコスプレ映像を里奈から見せられた時を。

 里奈の微笑みに、ビデオは彼氏が撮ったのだと感じた。直感は正しかった。2人は、そんな昔から結ばれていたのだ……。

 真実はモニタの中にある。里奈は全てを知っている。そして、高志を愛している。高志を信頼している。全てを預けて安心しきっている。

――でも、なぜ……?

 どうして高志は弓子を脅かしたのか? 里奈のデータはすでに出来上がっている。それが2人の目的なら、すでに叶えられていたのに。

――高志さんは、なぜわたしを追い詰めたの……? 追い詰められて、わたしはどうした……?

 殺した。それが、結果だ。

 高志が持っていたナイフを奪って、狂気を演じる高志が話したままに、そのナイフで心臓を突き刺した。

〝突き刺すためのナイフなんだ。力が弱くても深く刺せるし、心臓を狙えば出血も激しい。何か所か刺せば、致命傷になるだろう〟

 武器も、方法も、あらかじめ高志が用意したものだ。

 それが、目的だったのだ。高志は、弓子に殺されるために、ストーカーを――狂った自分を装ったのだ。

 里奈の後を追うために――。

 その舞台に弓子を呼び寄せるために、廊下に米の袋を置いたのだ。あの袋と物音がなければ、監視室のドアが開いていることに気づかなかったかもしれない。

 全ては、高志の計画だったのだ。

 弓子はモニタを見た。見ないわけにはいかない。インデックスに3つのビデオが収録され、サムネイルが表示されている。最初は里奈の顔のアップ。さっき再生したものらしい。2番目は何を撮ったのかも分からない、グレーの影。表示されている時間は短い。3番目に高志が写っている。10分以上の表示がある。リモコンで3番目を選んで、再生した。

 高志が画面の中で深々と頭を下げた。

『今、里奈のアニメが完成したところだ。これでやっと、里奈との約束を果たすことができた。――たぶん僕は、君の手で殺されたと思う。お詫びにはならないかもしれないけど……だから、全部、正直に話したい。本当は、君の顔を見ながら直接謝りたかった。そうしなければ勝手すぎると思う。だけど、僕には他の方法が見つからない。どうしても死ななければならなかったんだ。長くなるけど、聞いてほしい――』

 そして話をまとめるために、少し黙った。高志が何かを考えるときの、見慣れた仕草だ。息を整えてから、ゆっくりと話し始める。

『僕が里奈に始めて会ったのは、晴海のコミケだ。里奈も、そこが一番落ち着けたんだ。生まれて初めて、自分の価値を認められた場所だからね。同人に惹かれるのは度を越したアニメ好きばかりで、コスプレの評価は厳しい。その中でも里奈は、一番人気だった。僕が通っていたサークルでは、〝瞳〟のコスプレは里奈以外には許されていなかった――』

 それは里奈からも聞いた話だ。

――里奈さん、〝キャッツアイ〟ばかり歌っていたっけ……

『僕は、アニメの中の大人びた〝瞳〟に夢中だった。母親から〝そんな下品なマンガは見るな〟と怒鳴られても、貪るように見たっけ。里奈は、文句なしに〝瞳〟そのものだった。あこがれたね。今でもあのコスプレ映像が僕の宝物だ。里奈を取り囲んでいた連中は、みんなそうだ。男も女も、里奈を〝瞳〟と呼んでいた。だけど、僕は遠巻きに眺めていただけだった。僕なんか……ってね。当時は、自分が何者だか分からなくて……ひとかけらの自信も持ち合わせていなかった。だからコミケをふらふら彷徨っていた。こっそりビデオを撮るのが精一杯だった……』

 高志は過去を振り払うように小さく肩をすくめた。

『転機は〝デッドエンド〟の成功だった。一躍僕は、新進ゲームクリエイターさ。自信が持てない自分から何も変われないまま、いきなり社会に放り出された。里奈と言葉を交わしたのは、僕がゲーム業界でもてはやされたその頃だ。ちょうど〝美女の泥棒〟というキャラが必要になってね。プロデューサーから、実写画像も取り入れたいと要請された。当然思いついたモデルは、里奈だ。で、彼女の事務所に連絡を取った。プロとプロとしての、仕事上のつきあいを始めたわけだ。里奈が僕が送ったビデオを大切にしていると知って、盛り上がったね。そして、知った。里奈は、完璧な外見を持った女だ。周囲からうらやまれ、もてはやされ、自信を持って生きているように見える。だが、それは見せかけだ。内面はもろくて繊細で、世の中への恐怖と不安、そして自分を否定するネガティブな感情に満ちている。それを撥ね除けようと精一杯の虚勢を張り続けていたのが、里奈だった。僕はすぐに嗅ぎ分けた。僕と同じだったから。君に解剖を手伝わせるために、僕はたくさんの嘘をついた。妊娠した妻がいるなんていうのも、そのひとつだ。だがそのとき話した気持ちは真実だ。大切なのは、里奈だったんだ。僕たちは、互いに僕たちの分身だった。生まれた時に引き裂かれた、自分自身の半分。だから、2人でいなければならなかったんだ。心を開いた里奈は、しばらくしてから生い立ちを打ち明けてくれた――』

 高志が言葉を切った。わずかに視線が下を向く。

 それは知っている。里奈は、辛い過去を背負っていた。

『里奈が、君に話したと言った時には本当に驚いた。里奈にとって君は、それほど大事な家族だったんだ……。里奈は、大人たちの傲慢さに心をずたずたに切り裂かれて育った。しかも、妊娠できない体にされていた。それでも、独り立ちしてようやく探し出したサークルで、里奈が時折見せる悲しげな美しさがモデルクラブに注目された。その後の順調な人生のプロローグだ。一方で、その頃から僕たちは、サークルでも浮いた存在になりつつあった。真の創作に苦痛が伴うことを思い知ると、他人の創造物を勝手に歪めて〝二次利用〟などと得意顔をする連中が鼻についてくる。ストイックに美しさを追求し始めた里奈には、ままごと遊びのようなコスプレが許せなくなる。普通の社会には元々溶け込めない。サークルでさえ居場所がない。僕らの孤独は深まるばかりだった。成功してからはさらに行き詰まった。僕のまわりは、ゲームに残酷さを求めるだけのマニアと、売上目当ての〝実業家〟ばかり。里奈も金とセックスしか関心がない世界に追い込まれた。だから余計に、僕らは身を寄せ合った。お互いをよりどころにしなければ居場所がなかったんだ。でも里奈は過酷な過去を抱えていたから、他人と本気でつきあうことが苦手だった。実は彼女、他人と肌を触れることを極端に嫌ったんだ。僕でさえ、手を握ったのは共に暮らして1年ほど過ぎてからだ。僕は里奈の心をほぐそうと努力した。里奈は里奈で、トラウマと戦った。そして、僕らは勝った。だからこそ、一体になれた……。僕らは、お互いに特別な存在なんだ。1人じゃ心が歪んだ半端者だけど、一緒にいれば欠けた部分を補える。互いを支え合える。それで、ずっと幸せになれるはずだったけど……。里奈は、全てを否定されて育った女だ。生きていてはいけないと蔑まれてきた。唯一、認められたのが、外見の美しさだ。良くも悪くも、それが里奈だ。だから里奈は、僕がいくら稼いでもモデルを辞めなかった。いや、辞められなかった。他人の視線を浴びることで常にアイデンティティーを確認していなければ、自分自身を保てなかったんだ。それは、彼女自身が一番感じていた。異常なぐらい、ね。だから里奈は、外見を維持することに偏執的だった。里奈にとってシワが1つ増えることは、存在が消えていくことを意味したんだ。里奈はよく、裸になって全身鏡に見入っていた。モデルとしては当然の心がけだけど、それ以上の必死さがあった。年齢的に下り坂だということも恐れていた。ナルシストだったのか、自分を憎んでいたのか……。オットー・フェニシェルという精神分析学者がいた。彼はこう言っている。〝人がある者を見るのは、対象者の体験を共有するためだ。しかし、見ることにはサディスティックな衝動が含まれている。見るものを破壊したいという欲望が隠されている〟とね。里奈は自分を見ることが好きだった。それは自分を破壊し、存在自体を消し去りたかったからかもしれない……』

 2人は愛し合っていたと高志は語った。だが、里奈は独身のはずだ。なぜ結婚しなかったのか……?

 画面の中の高志が、弓子の疑問に気づいたかのように話を変えた。

『今になって思うけど、やっぱり結婚しておけば良かったかもしれない。結婚なんて、紙切れに名前を書くだけの約束事に過ぎないと思っていてね。してもしなくても、どっちでも良かった。僕らには世の中の決まりや常識なんて意味がない。ただ2人でいられれば充分だった。互いにそこそこ名が知れた存在になってからは、関係を知られればマスコミにつきまとわれる。そんなのは、絶対に嫌だ。だからいつの間にか、会うのは秘密を守れる高級ホテルばかりになった。一度写真雑誌のカメラマンに嗅ぎつけられたけど、金で握り潰したこともあった。ただ、誰にも邪魔されたくなかったんだ。だから、話題になるような結婚は真剣に考えもしなかった。こんな事になるって分かっていたら、紙切れだけでも残しておきたかった……。結婚なんかしたって、里奈は止められなかっただろうけど。子供がいたら……とも思う。でも、それは不可能な望みだ……』

 高志はしばらく黙ってから、また肩をすくめた。

『きっかけは、やっぱり〝デッドエンド〟だった。ほんの悪戯のような気持ちだったんだけど……。前作の〝デッドエンド〟は、夫婦が子供を守るためにモンスターと戦う設定だ。ステージは全部で22、全てをクリアすればその夫婦に平穏な老後が訪れる。で、エンドタイトルにかぶせる映像を作った。2人の老人――僕と里奈をモデルにして、年をとらせた老人だ。それは、僕の理想だった。そしてデモ映像を、里奈に見せた。モデルが里奈だということは黙っていたけどね。里奈は最初の数秒で気づいた。僕も驚いた。いきなり真っ青になって、トイレに駆け込んだんだ。気を取り直してから里奈は言った。〝あれがわたしなの?〟とね。僕を責めていたんじゃない。自分の老いを不意に突き付けられて、動転したんだ。確かに人間は老いから逃げられない。そんなことは小学生でも知っている。しかし、頭で理解することと見ることは別だ。里奈は避けられない現実に直面して、存在の根源を揺さぶられた。里奈は現実を認めたがらなかったが、それでも僕は説明した。その映像は、里奈の骨格を元に加齢したもので、ほぼ確実に80才の姿を再現していることをね。映像のプロとしての自負は譲れないから。里奈は、それを認めた。だから、死を選んだ。というより、生きることを諦めたんだ。生きて、老いて、存在が失われていくことを拒否した。あの瞬間、30歳になる前に死ぬ――と決めたんだ。結局里奈は、子供時代のトラウマから逃げ切れなかったんだと思う。美しさを失えば、残るのは否定され続けた自分だけだ。あまりに落ち込む里奈の姿を見て、僕は〝デッドエンド〟のラストを作り替えた。発売を延期させる理由を探すのには苦労したよ。その後の里奈はまさしく病人だった。仕事はキャンセルして、寝込んだきりろくに食事もとらず、部屋からも出てこない。〝デッドエンド〟の締切でクライアントと険悪になる中、僕は里奈をむりやり病院に連れていき、置いてきた。何日かして、里奈は言った。〝わたしを殺して〟とね。ガンで、1年は持たないと宣告されたと言うんだ。里奈の様子は、それほど異常だった。血の気を失ってやせ細り、まさに末期ガンにしか見えない。それでも僕は、病院に確認を取った。当然、一時的な栄養失調だと言われた。里奈が病んでいたのは、心だ。老いに怯える心――。精神科にかかれ、というのが常識的な判断だ。だが、里奈は常識では計れない。僕も、常識より里奈が大事だ……。人の体はみんな違う。心は、もっと違う。里奈の心は、老いを……老いだけを、許すことができなかった……。何が恐怖かは、人によって違う。高いところが怖い、狭い場所で息が苦しくなる、犬が苦手でチワワにさえ近づけない……それなら、嫌いなものを避けていればいい。だが、老いからは逃げられない。里奈はモデルだ。彼女の美しさは、彼女の存在を証明する根源だ。人々は、彼女の人格など知らない。興味さえない。ただ外見に価値を認め、賞賛し、仕事を与えてきた。だから里奈は自分自身の〝形〟によって誇りを保ち、生活の糧を得て、生かされてきた。里奈を里奈にさせているのは、その誇りだ。一流のモデルには、簡単になれない。強い精神力で努力し続けなければ、第一線にいられない。しかし里奈は、それを楽しんでいた。美しさを手に入れるためなら、どんな努力も苦痛だとは思わなかった。たとえ肉体は滅びようと、自分はここに生きていた……その姿を永遠に残せるなら、死を迎えても自分は消滅しない――。真実の形を残すことによって、自分は笑って死を受け入れることができる。里奈はそう決めた。僕にとっても、里奈は全てだ。そして僕には〝形〟を残す手段がある――。里奈の姿をデータ化することは2人の願いだったんだ。だからといって、内臓まで再現するなんて……僕も最初は、そう考えた。無意味かもしれないし、困難なことも分かっている。だが里奈にとっては、重要なことだったんだ。たとえ外見がモニタに移せても、それだけでは作り物の映画と同じだ。こけおどしのクリーチャーと変わりない。唯一無二の存在としてこの世にあり続けるには、それにふさわしい神秘性が必要なんだ。何者の追随も許さない、絶対的な存在感だ。デジタルデータにそれを求めるなら、細部を極めるしか方法はない。僕は里奈に説得され、心から同意した。できることなら、細胞の1つ1つまで忠実に再現してやりたかった。極限まで形を再現することで、そこに宿る魂まで復活できると信じたかった。だが、今の技術ではこれ以上は無理だ……力不足を思い知らされたよ……』

 それが、元凶だったのだ。

 里奈が、里奈であり続けようと願った事が――。

 だから、弥勒のように微笑んでいられたのだ――。

『僕だって、必死に止めようとしたさ。一緒に生きてくれと懇願した。精神科にも通った。投薬もした。宗教にも頼った。老いを受け入れられるように――ありのままの自分自身を受け入れられるように――僕が愛した里奈を認められるように、考えられる治療は全てやった。だいたい、人間を再生するなんて大仕事が1人でできるはずがない。常識から見ればおぞましい猟奇犯罪だ。データ量は膨大で、時間もかかる。世間から隠し通せるはずがない。それが常識だ。それでも、里奈は回復しなかった。それどころか、どんどん悪化していった。僕が、里奈を変えようとしたからだ。里奈自身が、僕が望むように変わろうとしたからだ。なのに、変われない。里奈は、変われない自分を責めた。薬で死のうとしたのを止めたのも、一度や二度じゃない。僕が里奈を救おうとするたびに、里奈は逃げ場を失っていった……』

 高志はそこで言葉を切った。その目に、後悔と苦悩がにじむ。

 高志は、やるべきことをやった。愛する人を救うために、できる限りの手段を講じた。そして、里奈を追い詰めていった。その自分が許せないのだ……。

 高志は呼吸を整えると、淡々と続けた。

『だから里奈は、この計画を立てた。自分自身を解剖する、この計画を……。それからは、里奈の体調は劇的に回復した。計画が具体化するにつれて気持ちが安定し、元通りの美しい里奈に戻っていった。皮肉なことに、里奈は〝死ぬ〟という目的を得たことで、生きる希望を見出したんだ。希望が持てなければ、いつかは自殺を成功させるか衰弱死していただろう。精神科医は、老化を恐れるのは醜形恐怖症の一種だと僕に説明した。自分は醜いと思い込んで正常な生活ができなくなる精神疾患だ。対人関係の未熟さから生まれた劣等感が原因だろう……世の中には助かる望みがない難病で苦しむ人もいるんだから、里奈さんは恵まれている……とね。でも、難病は心にだって起きる。醜形恐怖だって、目つきがきついと思い込んだだけで飛び降り自殺する人間もいる。太るのが怖くて拒食症になり、筋力が落ちて布団で窒息死する人間もいる。性同一性障害に悩む人間は、世の中の常識と戦ってでも、手術で性を変えなければ本当の自分になれない。楽しみで人を殺す人間は、病んだ心から逃げたくても、逃げられずに人を殺す。だが、原因が分かったところでなんになる? 治療できなければ意味はない。確かなのは、里奈の心が難病に蝕まれていたという事実だけだ。僕は無力だ……。里奈を救うことができなかった……。それもまた、逃れようのない事実だ。だから僕は、里奈と共に歩むことを決めた。そして、有能なアシスタントを――君を捜し出した』

 弓子は首を傾げた。

――捜した出した……?

『里奈も、僕がデータ整理が苦手な事を知っている。これまで使ってきたアシスタントにもそこそこ使える男はいたが、男に里奈は触らせられない。だから、データ整理とグラフィックソフトの操作に長けた女性を捜したんだ。いろんな会社にデザインを外注したいと持ちかけた。スタッフに充分な能力があるかどうか知りたいからと言って、サンプルデータを要求した。候補は何人か見つかった。その都度、候補者のデータを僕がチェックした。君が過去にデザインしたイラストレータのデータも見たが、要求以上の仕上がりだった。ソフトの機能も充分理解し、応用力もある。他のスタッフにはない独創的なアイデアも見て取れた。データは、生き物だ。それを制作した人間の性格が反映する。いい加減なデータを作る人間は、物の考え方がいい加減だ。逆に細部にこだわりすぎる人間は、無駄な時間と労力を消耗する。自分が要求されたデータの目的を正確に把握し、必要にして充分な作業ができる人間が欲しかったんだ。データの美しさを見抜くには、それにふさわしい知識が必要だ。残念ながら、君の会社にも同僚にも、その能力はなかった。それが君の不幸で、実力が認められなかった理由だ。プリントアウトだけを見れば、誰の仕事も大差ないからね。実際、君が抜けた後の大東亜印刷は大混乱だ。写真の入れ違いを連発して大手クライアントをいくつも失うし、チラシの刷り直しも半端な量じゃない。しかも、未だに君が抜けた穴を埋められていない。損失は億単位で、これからも増えるだろう。会社の評価もがた落ちだ。君は、それだけ有能だった。君には、僕たちが求める才能があった。里奈も、君に会って気に入った――』

 高志は言葉を切って息を整えた。

 弓子は意外そうに、声を漏らした。

「誉められたことなんかないのに……」

 そして、里奈との出会いを思い起こす。近づいてきたのは、里奈だ。弓子は、怯えたカニのように砂浜に潜っていただけだ。

 弓子は、2人に穴から引きづり出されたのだ……。

『里奈は、3人の候補者に接近した。君と同じように、メールを交わし、何度か実際に会った。1人暮らしを偽装する部屋も借りてね。最終的に君を選んだのは里奈だ。里奈にも肉親と呼べる人はいなかったからね……。〝妹みたい〟って、楽しそうにしていたよ。〝ゆみちゃんなら、信じられる〟って……。君の能力が正当に評価されていなかったことは、僕にも幸運だった。他の2人は何人かの部下を使う管理職で、自信過剰ぎみでね。これまでの成功体験に安住して、新しい領域に挑む意欲を失っている可能性も高い。だから僕も里奈に賛成した。君の役割は重要だ。僕らの願いを叶えるために絶対必要な鍵だ。このピースがなければ、パズルは完成しない。逆に、それが手に入れば、パズルから逃げ続ける言い訳を失う。実のところ、それまでの僕は、里奈に調子を合わせていただけだった。そんなばかげた計画が実現できるわけがない。里奈も、元気になれば全て忘れるだろう、ってね……。でも、里奈は君に出会って運命を確信した。僕は、君を選んだ瞬間に、もう逃げられないと観念した。そして、すべての迷いを捨てた。僕の決意を察した里奈は、計画の進行を加速させた。このビルだって、里奈が探したんだ。不景気が続いていたから、望みの物件を探すのも簡単だった。そのうちに、里奈は君の抱えた過去も聞き出してきた。悪いけど、興信所を使って追跡調査させてもらった。君は、ここでも勘違いをしている。文哉さんの死に、君は一切責任がない。彼は死ぬ直前のモトクロスレースでも、何度も異常な転び方をしていた。その頃から、脳の機能が狂っていたようだ。高次脳機能障害と呼ばれる症状だ。最初の事故が原因だろう。あれは、自殺じゃない。彼の両親もそれを知っていた。だから、メモを置いて別れた恋人を――つまり君を訪ねようとはしなかった。ご両親は、君が恋人だったことを知っていたんだよ。僕らはそれを調べ出していながら、黙っていた。君を操るために、心の傷を利用したんだ。すまないと思っている。だからこそ、知っておいてほしい。君は彼の死には責任がない。自分を責める必要はない。自殺なんかじゃなかったんだ――』

 高志は過去を思い起こすように、ゆっくりと深呼吸をした。

 弓子にとっては、これも意外な一言だった。自分に非があると信じて抱え込んできた重荷を、高志は始めから分かっていたのだ。

『君を巻き込む事は卑劣な犯罪だが、僕には里奈が全てだ。里奈以外の世界は、価値がない。その意味では、〝神〟だと言ってもいい。他の選択肢などあり得なかった。ただ、君は長い時間ここで働き、暮らすことになる。だから念入りに準備して、少しでも精神的な不安を減らしたかった。だから、わざわざ仕事場と自宅を再現したんだ。会社のサーバールームは打ち合わせに行った時に僕が撮影し、自宅は里奈が情報を集めた。君を拉致したタクシーは借り物で、運転していたのは僕だ。ガスで気絶させて、里奈と2人でここに運んだ。君を拉致した当初は、里奈がコントロールルームに出入りして〝天の声〟を演じていた。僕が書いたシナリオに沿って、ね。KKKの衣装を着たのも、里奈だ。ここで起こった事はみんな、僕ら2人で演じていた。君を、騙すために。性器の切断は、ただの芝居だと嘘をついたけど。里奈の再生に時間がかかる事は分かっていた。その間、君と――独身の女性と2人きりで過ごす事になる。だから僕は、男である事をやめた。里奈に対する礼儀だ。君に対する誠意でもある。それが、僕の覚悟だ。僕の誇りは、世間で言う男らしさや、ましてや性器そのものじゃない。里奈が死ねば、性器なんか盲腸と同じだ。キーボードを操れる指とデータを見極める目があれば、誇りは満たされる。さすがに感染症対策のため、治療はこの近くの開業医にやってもらったけどね。その医者には金を握らせて、里奈のCTなんかも撮ってもらった。動いている心臓や肺、主要な血管まで4次元CTでスキャンした。生きている間に撮影可能な体内の映像は残らず揃えたんだ。そうして、僕は〝実習〟を始めた。君にとっては〝競技〟だったけどね。最初に再生した左腕は、カンボジアから取り寄せた。死んだ直後の死体のものらしい。そういうブラックマーケットに通じている知り合いがいてね……。そうやって、僕自身の解剖と再生のテクニックを磨き、同時に君を訓練した。そして、里奈の登場だ。捕らえられた里奈がガスを浴びた時、〝天の声〟が降った事を覚えているかい? あの声を出していたのは、ケースの中の里奈だった。君を罠にかけることがつらくて、泣きながらマイクを握りしめていた。僕は、手のひらで隠したフィルターでガスを吸わないようにしていた。里奈は、あのとき死んだわけじゃない。君が眠ってから、僕の目の前で薬を飲んだんだ。僕に抱かれながら、里奈は息絶えた。君は胃や腸に内容物がない事を不思議がっていたが、あれは絶食していたからだ。自ら望んだ解剖で、排泄物を晒したくはなかったんだ。過度に痩せないように、流動食と点滴で体型を維持していた。体に締め付けた跡を残さないように下着も付けず、普段は嫌うジャージも着た。里奈は、意識がなくなるまで君に謝っていた。自分の願いを叶えるために君の心を踏みにじることを、悔やんでいた。僕も同じ気持ちだ。本当にすまなかった――』

 確かに、弓子が味わった恐怖は計り知れない。だが、その恐怖を乗り越えたおかげで真の自分を手に入れられた。里奈の願いは異常だが、成就させる手助けができたのも事実だ。

 だが、目の前には高志の死体がある。

――どうして……? 

 それが高志の謝罪だというのか?

『ここからは、僕のお願いだ。里奈にも秘密にしていた。これだけひどい目にあわせてこんなお願いをするのは心苦しいが――できれば僕の望みを叶えてほしい。僕を、里奈と一緒にさせてほしい。里奈をそうしたように、僕の死体を解剖して、再生してほしい。だからずっと、君には僕のプログラムを与え、1人で再生作業ができるようにトレーニングしてきた。それこそが、僕が有能なアシスタントを必要とした本当の理由なんだ。里奈の解剖を記録したのも、君が迷った時に確認できるようにするためだ。僕が倒れて、君1人で作業をさせたのは、実力を試す最終テストだった。で、確信した。今の君には、やり遂げる能力がある。だから、僕の体を預ける。……でも、ただひとつ……君の心が折れることが心配なんだ。こんなことを直接お願いしても、反対されるだけだろう。たとえ毒を飲んで里奈を追っても、再生される保証はない。君を解放すれば、警察に駆け込んでしまうかもしれない……。だからいま一度だけ、君の心を縛らせてほしい。君の手で、僕を殺してほしい。君を騙した証拠は消していないから、警察へ出頭しても正当防衛が認められる。君を脅かす現場も撮影しているから、それを見せれば君は自由になれる。でも、心は自由になれない。君は、そういう人だ。僕は、信じて死んでいける。そのためには、卑劣な手段を使って、心の底から震え上がらせないとならないが――。何度謝っても、同じことの繰り返しになるね。事実を1つ。君は、すでに自由だ。リモコンを使えば、いつでも出られる。そして、再就職の準備も終わっている。ニュージーランドだ。ウェタデジタルが君を歓迎している。今すぐでも数年後でも、僕が全面的に推薦する人物なら上級職として迎え入れると確約した。僕の部屋に航空券や書類も用意してある。万一この事件が公になれば、君は異常者扱いされるだろう。だから、日本での過去や身分も偽造した。別人に生まれ変わって、ウェタで新しい人生を始めてほしい。君には、それにふさわしい実力がある。絶対に謙遜なんかしないように。言葉の心配も要らない。日本語ができるスタッフが準備されているからね。今の君は、映画の最先端で通用する技術と知識、さらに進行管理のセンスを身につけている。何よりも、それこそが映画界の共通語だ。得がたい人材なんだ。優秀なクリエイターは必ず君のような人材のバックアップを必要としている。ただし、僕と里奈と1年間を過ごしたことだけは、絶対に秘密だけどね。そして、君の口座にはすでに3億円振り込んである。僕の口座にはさらに10億以上の貯金があって、今も増え続けているけど、それも自由に引き出せるようにした。この建物も、この先10年間分の支払いが終わっている。だから、中を誰かに見られる恐れも少ない。建物も機材も、新しい君の名義になっている。ウェタで学ぶことがなくなって日本に戻りたくなったら、この資金を使って会社を興すことも可能だ。だから……というわけじゃないが、僕を再生してほしい。僕の4次元CTや男の仮想人体モデルも、全部揃えてある。切断した性器はすでにデータ化して、僕のMacに入れた。アニメ化の基礎も終わっている。僕を完全な体に戻して、里奈とともに、サイバースペースで蘇らせてほしい。そしてデータを、君に保管してほしいんだ。当初はネットで公開するつもりだったが、重さが半端じゃない。里奈だけでも、ブルーレイ程度には入らない。里奈の望みは全世界への公開なんだが、現時点ではネットで扱えない。ハードや通信環境が4世代ぐらい先にならなくては無理なような気がする。時間にすれば、5、6年かもしれない。君に見せたアニメぐらいなら公開するのは簡単だが、僕は迷っているんだ。張りぼてのようなありふれた画像は、いたずらの対象になりやすい。たとえ見た目だけであれ、里奈の姿をそんな場所に放り出していいだろうか? 心臓が鼓動し、呼吸する完全なデータなら、良識ある人間は安直に改竄しないだろう。いや、できない。僕らが再現した里奈のデータには、それほどの神聖さが備わっている。それでも里奈を汚そうとする者は、きっとネット社会で袋叩きに合う。だが、僕にはまだ、結論が出せない。だから、その判断を君に委ねたい。里奈を姉として慕ってくれた、君に。重荷を背負わせてばかりだが、許してほしい。僕たちは、こんなに歪んだ人間なんだ……だから、こんな愚かな生き方しかできなかった……こんなふうにしか愛し合えなかった……でも、それが僕と里奈だ……。里奈は、確かに異常だ。世間の常識では理解しようもない異端者だ。だが、僕には常識など必要ない。必要なのは、里奈だけだ。里奈が狂っているなら、僕は里奈の狂気とともに逝く。できれば、里奈を分かってやってほしい。我がままだけど、正直に生きたんだ……』

 高志の画像がにじむ。弓子はいつの間にか、涙を流していた。

 里奈は、自分に預けられた。高志の死体も、また。

――わたしが何もしなければ、2人は死んだまま……。

 弓子には、今でも里奈が他人に思えない。姉というより、自分が母親になったような気がする。そして高志は、里奈のものだ。

 今までも、これからも。

 永遠に。

 決して手が届かない。

 それでも弓子は、高志を愛していた。

 モニタの中で、高志が弓子を見つめた。

『君が好意を持ってくれたことは分かっている。だから、殺してくれとは頼めなかった。頼んでも、君は絶対に僕を殺さない。死のうとすれば、止める。だが、里奈は死んだ。僕の半分は、もう死んでいる。どうして、僕が生きていられる? 半分の心で、どうやって生きていけばいい? 生きる理由が、どこにある? だから、死んでからでなければ、真実を伝えることもできなかったんだ……。全て僕らの勝手な理屈だ。君にはなんの関係もないことだ。でも、他にどうすることもできなかった……。本当に、申し訳ない。そして、ありがとう。でも、君の好意には応えられなかった。だから……君は自由だ。僕たちを捨てて、今すぐ警察へ駆け込んでもいい。僕は、惨い仕打ちを繰り返した。君の決断に、僕たちは従う。でも……できるなら、最後にひとつ、甘えさせてくれたら嬉しい……里奈のデータだけは守ってほしい。それが、僕の最後のお願いだ……。死ぬ前に君の手料理が食べられなくて残念だった。本当に、すまなかった……』

 そして、画面は終わった。

――そんな……

 謎は解けた。一点の曇りもなく。

 詰めていた息をゆっくり漏らした弓子は、ようやく放心状態から醒めた。

――わたし……どうすればいいの……?

 改めて、手の中のリモコンに気がつく。

 まだ、映像が残っている。数分の短いものだ。何が写されているのか分からない。

 弓子は2番目のビデオを再生した。

 写っているのはテーブルらしい。カメラを止め忘れて、放置しただけなのかもしれない。そう思った時、画面が大きく揺れた。次に現れたのは、里奈だった。自分で撮影しているらしく、安定しない。

 わずかに微笑んでいた。

『だから、あっちに行っててよ。ゆみちゃんにこっそり言っておきたいんだから』

 近くに高志がいるのだ。画面には入り込んでいない。

『分かったって』

『後で見るのもダメだよ。女同士のヒミツなんだからね!』

『はいはい』

 ドアが閉じる音が入った。里奈は、1人になったのだ。

 とたんに里奈の顔が真剣に変わる。重苦しい溜息をゆっくり漏らしてから、話し始める。

『ゆみちゃん……ごめんね。わたしが、こんなにバカで。一緒に楽しく過ごして、一緒におばあちゃんになれたら良かったんだけど……。ゆみちゃんがわたしのことをお姉さんのように慕ってくれたこと、本当に嬉しかった……。だから……。他人にはこんなヒドイこと、頼めるわけないし……殺して、なんて……。だから、ゆみちゃんにしか頼れなくて……。わたしが甘えられるのは、高志さんとゆみちゃんだけだから……。あ、それから、最初の頃、ゆみちゃんが気を失ってた時に、体を拭いて着替えをさせたの、わたしだから。安心してね。怖かったでしょう? ほんとうに、ごめんね……。わたしって……病気なの。心がおかしいの。生きていくのが怖くて怖くて、どうしても生き続けていられない……。ずっと前から……子供の頃から……。誰にも直せないの。ゆみちゃんにも。高志さんにも。頑張って、頑張って、頑張って……それなのに、どうしても自分を変えられないの……変わってくれないの……。だから、高志さんはこんなわたしを大事にするしかなかったんだ。わたしのために、人殺しになるしかなかったんだ……。ごめんね、上手に生きられなくて……ゆみちゃんにも怖い思いばっかりさせちゃって……』

 それは、もういい。弓子はもはや、里奈の母親なのだから。

 母なら、全てを許せる。

『高志さん、わたしと一緒に死のうとしてる。そんな気がするの。ペニスだって、まさか本当に切るなんて……。わたしはいい。そうしたいんだから。生きていられないんだから。こんなわたしなのに、心から愛してもらったから……。でも、高志さんは違う。どうしても普通になれないわたしを、まるごと包んでくれただけ。何も不満は言わないで、わたしが望むようにさせてくれただけ。死にたいなんて思っていない。だからゆみちゃんが、止めてくれない? 高志さんが死なないように、守ってほしいの。高志さんだって、あなたが嫌いじゃないし。わたしの代わりに、見守ってほしいの。ずっと一緒にいてあげて……。高志さん、子供みたいだから……思い詰めたら、絶対やっちゃうから……こんなわたしのために、死んでほしくない……ね、お願いします。高志さんを死なせないでね……』

 画面は、そこで終わった――

 目の前には、高志の死体。

 弓子が殺したのだ。

 里奈の願いを叶えるために、自分の分身を切り刻む苦行に耐え続けた高志。そうして、里奈をデジタル空間に蘇らせた。自らに課した重責を果たし、残酷すぎる愛を貫いて死んでいった。

 非常識だ。独善に過ぎる。あまりに身勝手で、傲慢だ。

 それでも、純粋だ――

――そんな……ムリ……。できないよ……

 弓子は高志の前髪に触れた。額の乱れ毛をそっと直す。

 そして囁きかけた。

「……ずるい……できるわけがない……逃げるなんて……。あなたがそんなつらい道を選んだなら……わたしだって……。安心してください……。やり方は分かってます。最初は、エンバルミング。組織を細かく分けて、モデリング、マッピング、シェーディング……教えられた通りに、やります。だから、里奈さんと……永遠に……」

 弓子は立ち上がった。

「わたしって、クリエイティブじゃない。でも、こういう仕事なら才能があるの。自信を持つことに決めたの。だから、任せてね。やりとげてみせるから……」

 そして、自分に言い聞かせるように、きっぱりと言った。

「わたし……神を創らなければならないんだわ」

                                

                                 ―――― 了

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女神の筐体 岡 辰郎 @cathands

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