第4章・報奨

17

 夕食を作って自室に高志を迎える準備を終えた弓子は、仕事場に内線をかけた。だが、呼び出しに応答はない。

 1人つぶやく。

「眠っちゃったのかな……?」

 高志の自室へかけても、解剖室へかけても、反応はなかった。

 弓子はカーディガンを羽織って〝オフィス〟へ出た。廊下へのドアを引く。と、廊下に置かれたダンボール箱につまずきそうになった。

 KKKが食材を廊下に置いていくのには慣れているが、出入りの邪魔になったことは始めてだ。しかも、部屋にはまだ充分な食材が残っている。

――何を置いていったんだろう……?

 蓋を開けると、箱の中には10キロの米袋が2つ入っていた。思わず声が出る。

「こんなに⁉」

 これまでは、5キロが1袋というのがパターンだった。それでも、2人で1ヶ月近く保つ。最近は冷凍食品がメインなので、米を炊く機会も減っている。

「片付けなきゃ……」

 大量の米だけを置いていった意図は分からないが、廊下に出しっぱなしにするわけにもいかない。弓子は屈んで、箱の中の袋に手をかけた。

 力を込めて持ち上げたとき、廊下の外れから小さな物音がした。鍋が落ちるような金属音だ。

 弓子の視線が向かう。防火扉の少し手前だ。里奈が死んだ部屋の向かい側に、一度も開いたことがないドアがある。その部分だけが、ぽっかりと穴があいたように黒く見える。

 ドアが開いているのだ。

「うそ……」

 弓子は、思わず米を落した。

 息が止まり、鼓動が爆発的に高まる。

 慌てて振り返る。廊下には、誰もいない。〝天の声〟も落ちてこない。KKKが監視カメラで見張っているなら、黙っているはずがない。そもそも、ドアを開けっ放しになどしない。気がついていないのか? それもあり得ない。弓子を監視していれば、当然、開いたドアも目に入る。

 なのに、誰もいない。今は、見張られていないのだ。

――どうしよう……高志さんに知らせなくちゃ……

 だが、高志は自室で眠っているらしい。電話に気づかないほど熟睡しているなら、起きてすぐ対処できるとは限らない。それまでにKKKが戻れば、またドアは閉ざされてしまう。

――行かなくちゃ……

 弓子は呼吸を忘れたまま、ドアに近づいた。誰も現れない。何も起こらない。

 弓子は意を決して中に入った。素早く中を見回す。

 無人だ。解剖室ほどの大きさの、がらんとした部屋だった。壁にはいくつかのドアがある。家具はなく、クッションフロアの床にダンボール箱が1つぽつんと置かれている。

 廊下に面した壁は、電子機器に埋め尽くされていた。大きなビルの警備員室のように見える。監視カメラをコントロールするコンソールだ。2脚の椅子が置かれていた。目の前に並んだ30台以上の小さなモニタを楽に見渡せる配置になっている。モニタには、すっかり身になじんだ弓子の部屋や高志の部屋、手術台や倉庫のような場所が映し出されていた。全ての監視映像が、この椅子で一望できるようだ。死角などありそうもない。

 その装置の横には、60インチをはるかに超える大型テレビが据え付けられている。

 KKKはここで全てを監視し、コントロールしていたのだ。だが、今は無人だ。モニターにも、誰も写っていない。

――さっきの物音、何……?

 正面の壁が大きなカーテンで覆われている。窓があるかもしれない……。そこに吸い寄せられるように、部屋の奥に進む。カーテンの端をわずかに開いた。

 薄暗かったが、外が見えた。鼓動がさらに高まり、激しく脈打つ心臓の音が自分の耳に聞こえる。頭の中で血が沸騰している。

 じっと目を凝らす。きらめく明かりがびっしりとちりばめられている。明け方の静けさとは違う。夕方の喧噪のようだ。ビルがひしめいている。ビルの窓の中で蠢く人々も見える。大都会だ。その大都会をやや高い場所から見下ろしている。なんの変哲もない、ありふれた風景だ。

 東京で暮らしていた弓子にとっては……。

――これが、中東……?

 ドバイがオイルマネーで潤う大都市であることは聞いたことがある。ばかばかしいほど大掛かりなホテルのオープニングセレモニーもテレビで見た。だが、目の前の風景はイメージが違う。いつも見ていた東京の夜景と、何も変わらない。何一つ――。

 そう思いながら視界の端にビルの切れ間があることに気づいた。その隙間に、イルミネーションで飾られた塔があった。

 見慣れた姿だった。毎日の通勤時に眺めていた。金網を筒状に丸めたようなデザインは見間違えようがない。

 東京スカイツリーだ。

 ここは、東京だったのだ。弓子はずっと中東に幽閉されていると信じながら、実は東京で暮らしていたのだ。

「うそ……」

 その感覚は、一度味わったことがある。世界がひび割れ、一瞬で足元が崩れ去るような、めまいにも似た浮遊感。拉致され、この建物で目覚めた時に感じた、答えなど出しようがない困惑だ。

 恐怖、ではない。恐怖すら感じ取ることができない、意識の麻痺だ。だが、今はあの時とは違う。助けを求められる男がいる。愛情を分かち合うことはできなくとも、すがりつける男がいる。

――高志さんに知らせなくちゃ!

 そして、気づいた。背中に寒気が走り抜ける。振り返って、壁面のコンソールに近づく。壁を覆うモニターを次々に確認していく。やはり、どこにも、誰も写っていない。死角は作らないだろうに、誰の姿も見えない。

 誰も――。

 高志も――。

 何かが起きている。今までの〝日常〟を破壊する、何かが。

 KKKが監視をやめた。ここは東京だった。ずっと騙されていたことが分かった。そして、高志も消えた。

 弓子はこのフロアに1人取り残されている。

 KKKが高志を連れ去ったのか……。さらに次なる〝何か〟を始めたのか……。自分はまた、ひとりぼっちにされてしまうのか……。

 不意に激しい恐怖に襲われた。自分は今、たった1人だ。この世界から、高志が去った。そして世界が崩れ、瓦礫に変わった。打ちのめされ、地べたに叩き付けられた自分の顔に、瓦礫が容赦なく覆いかぶさってくる。のばした手をつかんでくれる者は、いない。

――なに……? 何が起こったの……? たすけて……?

 足から力が抜けた。その場に座り込む。何も考えられない。息が苦しい。

「高志さん……」

 その時、背後に物音がした。かすかな音が混乱した意識に達した瞬間、弓子は振り返った。ドアの1つが開いていた。部屋の位置関係からすると、高志の寝室との境になる壁だ。

 戸口に、高志が立っていた。普段のラフな服装と違い、出会った時と同じジャケットを着ている。

 弓子は大きく息を吸い込んだ。高志は、消えていなかったのだ。弓子を見捨ててはいなかったのだ。詰めた息が、安堵のため息になって漏れる。足からは力が抜けたままで、立ち上がれない。それでも弓子は、例えようのない安心感に浸った。

 KKKなど怖くない。高志さえいるなら。

 高志を失うことがどれほどの恐怖か、弓子は思い知らされた。

「よかった……」

 高志は、床に座り込んだ弓子を無表情に見下ろしていた。

 片手にドンペリのボトル、もう一方にシャンパンが注がれたグラスを持って。

 弓子の頭に、高志がそんな場所から現れる理由をいぶかる余裕はなかった。咄嗟にカーテンがかかった窓を指差す。

「ここ、東京です! 騙されていたんです!」

 やはり高志は無表情だった。弓子の目を見つめてはいるが、返事もしない。その眼はなぜか、冷たかった。まるで、知恵の遅れた幼児を蔑むような視線だ……。

 高志はドンペリを一口飲むと、ボトルとグラスを床に置く。

 弓子も、高志の目つきに気づいた。態度が急変している。体全体から、弓子を見下す不遜なオーラが発散されている。これまで、ただの一度も見せたことがない、傲慢な表情だ。

 その視線が、弓子を突き刺していた。

――え? なに? どうしたの? わたし……邪魔にされてる……? 何か悪いことをした……?

 高志の視線は、共に苦難を切り抜けた仲間を見る目ではなかった。

 弓子は、腹わらをさらけ出すような苦痛を乗り越えて〝ここ〟にたどり着いた。高志もまた、性器を奪われ、プライドをずたずたにされ、それでも家族のために全身全霊を捧げたのではなかったのか? 理不尽な要求と戦い、屈服させた、戦友ではなかったのか?

 いや、弓子にとってはそれ以上だ。

 持てる能力を惜しみなく与えてくれた、最高の教師。KKKの狂気から必死に庇護してくれた、強靭な守護者。生きる自信を取り戻させてくれた、人生の導師。ただ1人、コミュニケーションが許される、完璧なパートナー。他者と関わりを持てる、唯一の社会。たった2人だけの、長い生活。

 決して触れることが許されない、男――

 高志は、その全てだった。

 これまで、拒否されたことは一度もない。何もかも忘れてすがりつきたい夜は何度もあった。だが、甘えたことはない。高志には家族がある。家族のために、自分を極限まで追い込んで戦っている。だから……。

 持てる限りの理性を振り絞って、自分を押さえ込んできたのだ。なのに今、高志は確実に弓子を否定している。

――なぜ……? 何が起こってるの……?

 言葉は出なかった。高志の表情が、言葉を奪っていた。

 高志は、無言で部屋に入り、ドアを閉めた。一言も発せずに廊下に向かうと、開け放してあったドアも閉じた。ポケットから何かを取り出す。テレビのリモコンのような細長い装置だった。そのボタンを押す。ドアのロックが遠隔操作される冷たい音がかすかに聞こえる。その乾いた小さな音が、弓子の耳には爆竹の炸裂音にも聞こえた。

――え? なぜ……?

 高志がドアを開閉している。遠隔操作ができる装置を持っている。共に閉じ込められていたはずの、高志が……。

 KKKと戦い、装置を奪ったのか――? その時すでに、ここが東京だと知ったのか。ならば、どうしてすぐにそれを知らせない? なぜ自分を救いに来ない? 高志も動転しているだけなのか? だが弓子がKKKが消えたと知ってから、すでに何分も過ぎている。時間は充分にあった。高志はその間、この狭いフロアで何をしていたのか? なぜ、弓子を探さなかったのか……。

 高志の服は清潔で、乱れた様子はない。息も荒くないし、興奮もしていない。何者かと争った気配などない。リモコンの扱いにも慣れ、始めての装置を扱っているようには見えない。

 何より、弓子を非難するような冷たい表情の原因が分からない。KKKが理由もなく姿を消すことも考えられない。なぜ、争わずにリモコンを手に入れたのか? 

 KKKは、高志に何をしたのか……?

 全てが理解できない。

 1つだけ、目の当たりにしている〝真実〟がある。否定しがたい、自分の直感だ。そこに立っている高志は、弓子が知っていた高志ではない。別人の心を持った、何者かだ。

 高志はゆっくり振り返ると、再び弓子を見下ろした。

 改めてその冷たい眼を見た瞬間、弓子は思い知った。弓子は、高志の真実を何も知らなかったのだ。

――あなた、誰……? わたしが知っている高志さんは、どこへ行ったの……?

 ドアは高志の手でロックされた。また、閉じ込められたのだ。高志が、閉じ込めたのだ。弓子は不意に理解した。今までずっと弓子を閉じ込めていたのも、高志だったのだ……。

 血の気がさらに下がった。薄氷が割れて、奈落に吸い込まれる気がする。

 すがれる男が消えたのではない。そんな男は最初からいなかった。そう思っていた相手は、自分を拉致した犯人の一味だったのだ。

 高志が無表情なままつぶやく。

「そのとおり、ここは東京。ドバイの地図なんて、iPadに偽画像を仕込んでいただけ」そして、手の中のリモコンを見せつける。「これって鍵のリモコン。部屋も廊下も、全部これで操作できる。今まで、僕がみんなコントロールしていた」

 高志に目に、光が戻った。だがそれは、今までの高志の目ではない。危険な光が揺らめいている。

――僕がみんな……? 僕、が……?

 東京をドバイと偽り、弓子の自由を奪い、恐怖で縛り上げる……。それが全て、高志の仕業だったというのか? 高志がこの大掛かりな虚構の中心だったのか? 閉ざされた世界での1年にも及ぶ生活は、高志が仕組んだものだったのか? 何人もが死んだ。里奈はここで殺され、自分が解剖した。その〝殺人〟に、どんな意味があったのか……?

 何も分からない。分からないまま、ぼろぼろに崩れていく自分がここにいる。

――分からない……

 高志は、言葉を失って青ざめた弓子を見て微笑んだ。目に狂気をにじませながら、弓子を見下ろし、あざ笑う。

「でも、もう終わったから」

 弓子はかすかな声を絞り出す。無意識の反応だった。

「分からない……なにが……?」

「何が、って? 全部。〝神〟は完成した。僕も、開放された。ばかばかしいぐらい窮屈な暮らしから」

〝神〟を創ろうとしていたのはKKKだ。

「全部って……まだ、KKKが……」

 くくっという押し殺した声が、確かに弓子の耳に届く。

「KKKの〝神〟か? 確かに、まだ創ってないね。でも、いいんだ。そんなもの創らなくて」

 何を言っているのか分からない。だが、言っているのは高志だ。これまでずっと共に過ごしてきた、高志に間違いはない。

――僕がみんな……

 奈落は、深い。

「だって……」

「そんな神様、最初からいないんだから」

「え……?」

 理解できなかった。そこが奈落であるかどうかも分からない。自分が落ちているのか、浮んでいるのか、どこにいるのか、どこにもいないのか……。

 高志は笑っている。確信を持って、笑っている。

「でも、僕の神様はいるよ。本当の神様が。見たいかい?」

 高志は、動けずにいる弓子の前を足早に横切ると、大画面テレビの前に向かった。監視モニターから椅子を1つ動かすと、そこに座ってリモコンを操作する。テレビに電源が入った。

 弓子はまたつぶやいた。

「わかんない……」

 何もかも分からなかった。自分が見ていたはずの風景は、もはやどこにもない。世界は、どこへ消えてしまったのか……

 テレビ画面が明るくなると、高志は言った。

「そこから画面、見えるよね」そして、さらにリモコンを操作する。「本当の神様は、ここさ!」

 高志がモニタを指差す。テレビのハードディスクが大画面に動画を再生し始める。それは、弓子にも覚えがあるアニメのオープニングだった。歌声は、杏里だ。

〝キャッツアイ〟――。

 里奈のお気に入りの、あの歌――。

 都会的で、ビートが利いたアニメソング。巨大なオーディオシステムで再生される重低音が、弓子の体を鞭打つように突き刺さる。この場に最もふさわしくない音楽があるとすれば、これだ。

 だが、弓子は画面から眼が離せなかった。

 画面の中で、赤いレオタード姿の〝瞳〟が踊っている。英字新聞のような欧文のバック。風になびく、腰まで伸びたストレートヘア。手の中から飛び出す、グリーンのヒョウ。三重に重ねられた横顔。その目から、グリーンのレーザーが伸びる――。

 全てが、幼い頃に見た再放送の〝キャッツアイ〟そのままだ。だがその〝瞳〟はセル画ではない。実写だ。実写のようにリアルだ。まるで、映画〝アバター〟のように。そして、〝瞳〟の顔は里奈だ。その体も、里奈だ。里奈が演じている。MAYAが生み出した里奈が、モニタの中で踊っている。

 高志はいつの間にか、里奈のデータで〝瞳〟を創り上げていたのだ。それほど手の込んだアニメーションが、1日2日で出来上がるとは思えない。なのに弓子は、一度もその映像を目にしていない。高志は今まで、創作した全ての映像を弓子に見せてきたはずなのに……。

 高志は弓子から〝瞳〟を隠していたのだ。

 高志は椅子を降りた。テレビ画面から目を離さないまま、しゃがみ込んで弓子に頬を寄せる。

「きれいだろう。僕の、女神だ。完璧な、神」

 弓子はつぶやいた。

「なんで……?」

 高志は当然のことのように言った。その目は、酔ったように画面を見つめたままだ。

「今日は新しい里奈の誕生日なんだ。サイバースペースの女神が生まれた日……」

 高志の言葉が弓子の意識にゆっくりとしみ込んでいく。

 高志は、〝里奈〟と呼び捨てにした。

 動画の再生が終わる。弓子はまたもつぶやいた。

「どうして……?」

 高志が立ち上がり、思い詰めた目で弓子を見下ろす。

「僕は、〝神〟を創らなければならなかったんだ」

 そして高志は、内ポケットからiPadを取り出した。背面に彫り込まれた〝Part 3〟の文字がちらりと見える。それは、高志にエンバルミングを指示した物のはずだ。その画面を、水戸黄門の印籠のように、弓子に見せつける。

 弓子は言葉を失ったままだった。意識が、焦点を結べない。

 高志がiPadの音量を上げる。小さな内蔵スピーカーから漏れ出る歌もまた、〝キャッツアイ〟だった。だが、明らかに声が違う。里奈の声だ。

 ようやく弓子はiPadの画面を見ることができた。

 解像度の低い画像の中に、ステージがある。踊っているのは、これも里奈だった。若い。歌いながらステージを踏み外す……。

 弓子には、里奈のiPhoneで同じビデオを見せられた記憶がある。過去との決別の証にしていた、記念碑的な映像だ。

 その画像を、なぜここで見せられているのか……?

 なぜiPadに保存されているのか……?

 なぜ、高志がそれを持っているのか……?

 高志は平然と言った。

「このビデオを撮影したの、実は僕なんだよね。里奈に始めて出会った時の思い出」

 高志は、かつてビデオを送ったファンだったのだ。里奈の宝物だったビデオを――。

 弓子は気づかないうちに言葉を発していた。

「なんで……? なんで里奈さんを知ってるの……?」

 高志から笑いが消える。真剣なまなざしで弓子を見つめる。

「当然じゃないか。〝女神〟なんだから。君が里奈と知り合ったのは、ほんの最近だろう? 僕は、はるかに前からだ」

 その瞬間、弓子の頭でいくつもの疑問が1つに結びついた。

 里奈は、ストーカーに怯えていた。ストーカーは、高志だったのだ。だから、解体したのだ。血まみれの手で、臓器をバラバラに切り刻み……。

「だから……殺したの……?」

「殺した? 殺したのは君だろう? もっとも、殺さなくちゃ再生はできないけど」

 里奈が死んだのは、偶然だ。助けようとしただけだ。

 それでも、殺したのは弓子だ。

「そんな……」

 それが高志の目的だったのだ。弓子が手を下さなければ、高志が殺していたのだ。弓子に対する、〝制裁〟と称して。

 生きている里奈を、自分だけの〝女神〟として再生させるために……。KKKの陰謀など、最初から存在しない。全ては里奈を殺し、再生するためだけの芝居だったのだ。

 弓子を吐き気が襲う。空腹で、吐くものはなかった。

 高志が独り言のように続ける。

「なんで警察なんかに訴えたんだろう。ストーカ呼ばわりなんて、ひどいじゃないか。僕は里奈を愛していただけなのに。だから、君が必要だったんだよね」

 高志は弓子を見つめていた。

――狂ってるの……?

 言っていることの意味が分からない。

 再びこみ上げる吐き気で、言葉も出ない。

「吐いてもいいよ。どうせここも燃やしちゃうから」

 弓子の胃が痙攣する。口から泡が出た。胃液の泡だ。涙がにじむ。

――狂ってる……

 高志はあくまで無表情だ。

「警察にさ、里奈には近づくなって命令されたんだよね。僕には里奈しかいなくて、愛して、愛して、神様みたいに思っているのに。顔を見られればそれでいいのに。近づいちゃダメだなんて……。警察って、やることが異常だよね。だったら、里奈にこっちに来てもらうしかないじゃないか。だから、君を縛って、血圧計を付けたりしてね。あれって、いいアイデアだったよね。あの時、ビデオを撮ったでしょう? それを里奈に送ったんだ。警察には言っちゃダメだよ、って。里奈も、君を友だちだと思ってたらしいから。友だちが縛られてたら、助けに来るよね、普通。だから、呼んだ場所に来てくれた……」

 弓子は苦しい息を繰り返しながらも、状況を理解し始めていた。拉致されてからの苦しい日々が脳裏に浮かぶ。

 だが、ビデオを撮られた時、高志もまた性器を切断された。ペニスを失ったことは確かに目撃している。なぜ……?

 弓子の視線が高志の股間に向かった。

 高志もそれに気づく。

「ペニスなんて必要ないからね。痛い思いはしたけど、傷はとっくに治ってるし。だって、それが〝女神〟に対する礼儀だろう? 下手したら何年も君と2人で暮らすことになるんだから。〝女神〟の前で女と暮らすんだから、間違いのないようにってね。捧げもの、だよね」

 全て、高志が自ら行なったことなのだ。自ら切断装置を作り、自ら犠牲になり、恐怖に顔を歪める弓子をビデオで撮影して里奈をおびき寄せた。そして、血圧を上げることで引き金を引いた弓子に重荷を負わせ、里奈の再生を手伝わせる……。

 疑問がわく。

「でも、あなたみたいな有名な人なら、そんなことしなくても……」

 高志がわずかにうなずく。

「ビデオを撮ったのは僕だって明かした時から、キモイって言われてた……。だから、必死に働いて、有名になって、金を稼いで……今じゃこの世界で僕を知らない奴はいない。それなのに、コワイってなんだよ……もう近づかないでって、どうしてだよ……みんな里奈のためにやったのに……」

 高志もまた、長い間苦悩してきたのだ。

 だが、どんなに才能があって有名でも、一度嫌った人間が好きになれるわけではない。特に里奈は、男を拒否するトラウマを抱えている。

「里奈さん、男の人がみんな怖かったのよ……」

 高志が鼻の先で小さく笑う。

「もう、どうでもいい。顔さえ見られれば良かったんだ。これからは、いつでも見られる。こんなに生き生きと踊る、僕の〝女神〟を。君のおかげで、予定より1年は早く終わったし」

 弓子は動けなかった。体に力が入らない。声も出ない。

 なのに、全てが理解できる。

 高志が行なってきたことが全て。その意味が、全て――

「僕さ、映像で嘘をつくのは簡単だって言ったことがあったよね? KKKなんて、もっともらしいでまかせだよ。実在はするけど、大した力はない。僕には妻も子供もいないし、世界中のCGクリエイターと競い合うなんていうのも、全部作り事。ピーターなんとかなんて、適当に着けた名前だしね。ウェタに負けそうになったのも、本当らしく見せるため。安心していいよ。誰も死んでないから。ガスで死んだ映像なんて、六本木にたむろしてる外人に金を握らせれば半日で撮影できる。実際、できたし」

 ようやく、声が出た。

「だって……里奈……さんが……」

「里奈だって死んでないじゃないか。画面の中で自由に踊れる。僕の里奈が……」

「だって……あなただって……倒れたのに……」

 高志がきょとんと目を丸める。

「倒れた……? あ、過労? あれもお芝居だよ。ちょっとやることがあってね」

「やること……」

「だって、里奈が消えたままならおかしいじゃないか。ストーカーに狙われているって言ってたんだし。警察って、そういうことにはうるさいから。だから、里奈と君の荷物をちょっと遠くまで運んだ。富士の樹海。自殺の名所って言われてるところ。道からちょっと入ったらすごい森で、僕まで迷いそうになった。GPSがなかったら、ヤバかったんだ。そこに、君たちの荷物を置いてきた。里奈と君の荷物。わざとそこに置いたように、きちんと並べて。それでみんな、こう思う。女2人――レズビアンか、ってね。2人は心中したことになるんじゃないの? 理由なんて、マスコミが勝手に考え出す。だって、樹海に荷物、なんだから」

「わたしが……自殺……?」

「あ、ちなみに君はこの1年、僕の下で働いていたことになってる。宮崎高志が、大東亜印刷からアシスタントとして引き抜いたんだ。ちゃんと社会保険にも入ってるし、給料も振り込んでる。疑われないように、生活費分はちゃんと引き落としてるし。だから、誰も君を心配しなかったんだよね。もうしばらくしたら、僕は〝アシスタントがいなくなった〟って警察に駆け込む。そして、2人の荷物が樹海から発見される」

「うそ……」

「他にも、僕はいろいろやってたんだ。今のアニメの制作、とか」

「だって……〝天の声〟が……」

 高志が肩をすくめる。

「まだ分かんない? だから頭が悪い女って疲れるよね。〝天の声〟ね……」

 そう言うと、高志は左手で袖口を押さえる。何かのスイッチを押すような仕草だ。右の袖口を口に近づけた。

 いきなり〝天の声〟が降る。

『だからさ、ここにマイクを仕込んでるんだよね。ワイヤレス。喋ったことをヴォコーダーでドナルドダックみたいな声に変換して、天井のスピーカーから落とす。イージーな仕掛けだよね。装置さえ揃えば、セッティングに1時間もかからない。でも、別人が見張ってるみたいでしょう?』

 弓子は目を丸めた。だが、高志が沈黙している時でも、〝天の声〟が降ったことはあるはずだ。あれは、誰が……?

「うそ……」

 高志は〝天の声〟で話し続ける。弓子をあざ笑いながら、得意げに。

『嘘つき呼ばわりは嫌いだな。もっとも、最初の頃は声を出す役者を雇ってたけどね。ゲームづくりに必要な実験、ってアルバイトをでっち上げたんだ。なんせ、君を信じ込ませなけりゃいけなかったから。ほら、とんがり帽子の白服。KKKの服は僕がさくさくっと縫い上げたんだけど、あれを着てたのも売れない役者だよ。みんな金がないから、ちょっと握らせれば言いなりだし』

 不意に弓子は怒りを感じた。

「止めて! その声は嫌!」

〝天の声〟が不快だった。弓子の神経を切り裂き、尊厳を踏みにじり、里奈を解体することを命じた声。

『ダメだよ……僕がすることにケチを付けちゃ……』

 弓子は座り込んだまま耳を塞いだ

「いや!」

 高志は袖口を口から離した。左手で袖を探り、手のひらに収まるほどの装置を引きちぎる。それを壁に叩き付けて、立ち上がった。

「録音だってできるんだ」

 高志はポケットに手を入れる。同時に、〝天の声〟が降る。

『我々が対処する。自室へ戻れ! 反抗は許さん!』

 高志が倒れた時に聞いた命令だった。

「いや!」

 高志の目は血走っている。

「逆らうんじゃないよ!」

 弓子が耳から手を離し、座り込んだまま後ずさる。

 高志がその前ににじり寄った。

「僕だって我慢したんだ。1年も! どうでもいい女と2人きりだなんて、気が狂いそうだった。だけど我慢したんだ。里奈のために!」

 立ち上がれないまま退いた弓子の背中が、壁に当たる。デッドエンド、だ。

「いや……」

 高志の饒舌さが増していく。これまで寡黙だった反動なのか、あるいは自分の企てを自慢したいのか……。

「確かに君は、役に立った。放っておくだけで、どんどん里奈を形にしてくれた。でもそれって、僕のプログラムがあったからだろう? 僕が、君でもMAYAを使えるようにしてやったんだ。本当は、僕ひとりでやりたかったんだ。だけど、人間1人分の情報はあまりに多すぎる。誰もやったことはないし。新しいプログラムを臨機応変に組み立てながらじゃ、何年かかったって終わりはしない。もともと、そんな雑用はアルバイトにやらせてきたんだしね。クリエイティブな才能は、それにふさわしい場所で使わないと意味がない。今さら、僕がそんな雑用をするなんて、ムダだよ。君にやらせたのは、たまたまだ。興信所に調べさせたら、ちょっとはデータをいじくれそうだったから。昔の恋人の事故のことも、その時に分かったんだ。だから、オフィスや自宅も手間をかけて再現した。仕事をさせる以上、集中できる環境がないと能率が落ちるからね。じゃなかったら、君には〝女神〟を創る資格なんてない。選ばれた者しか、〝女神〟には触れられないんだ。データ整理しか能がない人間が触っていいわけがない。里奈は、サイバースペースの神なんだ。僕は、これから飛躍的に進化していくデジタル世界を統べる神をこの世に産み出した。何年かして、ハードが充実して、本当の里奈がモニタに降臨する時……人々は、その神々しさに頭を垂れる。それが、僕がやったことだ。歴史に名を残すのは、僕だけでいい。もうプログラムは揃った。やり方も分かった。アシスタントなしでも、1人でやっていける。だから、君は、もう要らない」

「いらない……?」

 高志は弓子に覆いかぶさるように近づいた。

「さっきまで考えていたんだ。君をこれからどうするか、って。女神は誕生させた。あと、必要なのは何かなって……。だから、もうひとり、データを作ることにした。〝神〟じゃないけど」

「もう……ひとり……?」

「〝神〟に必要な存在。従者、だよね」

 弓子の頭は痺れ、思考が働かない。高志の言葉が理解できず、それを繰り返すばかりだった。

「じゅうしゃ……?」

「お伴の者。神様がいれば、巫女さんだって必要じゃないか。里奈だって、1人じゃ淋しいだろうし」

「巫女……?」

「デジタルデータの、巫女さん」

 高志は、もうひとり、人間をデータ化する気でいる。それは、解剖を意味する。死を意味する。

「うそ……」

「僕だって、君を巫女にしたかったわけじゃない。もっと厳しい人選をしたかった。でもまあ、里奈の友だちだし。全然知らない人がなるより、喜ぶだろうから。里奈が満足なら、僕も満足だから」

「わたしを……殺すの……?」

 高志は笑った。

「まだ分かんない? 君はもう、死んでるんだ。社会的には。富士山の樹海で、とっくに死んでる。しかも実際に姿を消してから1年も経つんだよ。君がいないことなんか、もう誰も気にしてない。今さらひょっこり出て来られたら、かえってまわりが迷惑するって。でも、悲しむことはない。僕が埋め合わせをする。君には、誰もがうらやむ栄誉を進呈しよう。君もまた、サイバースペースで復活するんだ。〝永遠の生命〟として」

 弓子は、自分が悲鳴を上げたことにも気がつかなかった。

 高志は背中に手を回した。それを再び弓子の前に出した時には、異常に細長いナイフが握られていた。

「このナイフ、変な形をしてるだろう? 突き刺すためのナイフなんだ。力が弱くても深く刺せるし、心臓を狙えば出血も激しい。何か所か刺せば、致命傷になるだろう。でも、傷口は小さい。傷は深いけど、後で簡単にデータを修復できる。普通のナイフで切り裂くと傷が大きくてね。変な場所で切れると、後で臓器が扱いにくくなるし」

 高志は弓子の首筋に向けてナイフを振り上げた。

 弓子がナイフを見つめる。ナイフがゆっくりと首筋に迫る――

 防衛本能がようやく眼を覚ました。

 弓子はナイフを握った高志の手を振り払った。

 高志は急な反撃にうろたえたのか、バランスを崩して数歩下がった。だが、その頬に張り付いた笑いは一段と大きくなる。

「いいね、いいね! ホラーチックだね! こんなゲーム、創りたいんだよね!」

 弓子は無言で立ち上がり、高志に体当たりする。

 高志がさらに退く。

「抵抗しなくちゃ、ゲームは面白くならないよね! もっと! ほら、もっと!」

 弓子は廊下へ出るドアに走った。狂ったようにレバーを押す。

「だから、リモコンがなければ開かないって」

 弓子は振り返って叫んだ。

「来ないで!」

 高志が死にかけのネズミをいたぶる猫ように首を傾げる。

「リモコンを手に入れたかったら、僕を殺さなくちゃね。君の力では無理だろうけど」

 高志が少し前に出る。

 弓子はドアを離れ、反対の壁へ走った。カーテンで覆われた窓の横だ。よろけて、床に置いてあったダンボールを蹴飛ばす。そこにもドアがある。だが、必死にノブを回してもドアは開かない。

 背後で高志が笑う。

「分かったでしょう。ずっとここで君を見張っていたんだ。僕の部屋の隠しドアからは、廊下に出ないでこの部屋に入れる。だから、僕が部屋にこもっていたときは、だいたいこっちで監視していた。逃げ出そうなんてされちゃ、困るから。人間を解剖してるなんて騒がれたら、警察が来ちゃうし」

 弓子の眼鏡は汗と涙で曇り始めている。

「来ないで!」

 蹴飛ばしたダンボールの蓋が少し開いた。中にバナナが見える。

 高志は淡々と説明した。

「外からの物資が、ここに運ばれてたんだ。その箱、昨日配達された食料だよ。食べ物とか、着るものとか。1人じゃ腐らせちゃうから、もうこんなに要らないんだけどね。ここ、2階で、外の非常階段を使っている。つまり、出入りできるんだな、そこのドアから。もちろん、リモコンがなくちゃ開かないけど」

「外に出して……」

 高志が止まる。

「出せる訳ないよね。だって僕、犯罪者だもの。もう1人、殺さないといけないし。抵抗する? 服従は、充分に教えたはずだ。反抗すれば、制裁を受けるよ。楽になんか、死ねない。体に傷さえ残らなければ、解剖に支障はないんだから。心を踏みにじる方法って、君が思ってるよりたくさんあるんだよ」

 もう、逃げる場所はない。デッドエンドのその先へ、追いやられようとしている。

――逃げなきゃ……

「ここで騒いでも誰も来ないよ。このビルが無人だってことは本当だから。防音設備がしっかりした場所だから、ここを選んだんだ。外の音が聞こえないように。竿竹売りの声なんかが聞こえちゃ、トリックが成立しないからね」

 弓子は懇願した。

「もう……やめて……たすけて……」

 高志は、楽しんでいる。薄笑いを浮かべて、穏やかに、他人事のように語る。

「多分、僕って病気なんだと思う。心の病気。ホラーゲームばっかり考えてるから、心も荒むんだろうね。分かってはいるよ。だから、里奈のような美しい〝女神〟が必要だったんだ。でも、そんな僕のゲーム、すごく売れるんだよね。みんなが欲しがるんだよね。脅かしたり、騙したり、罠にかけたり、殺したり――そんな、僕のゲーム。病気の心が創ったゲームを楽しむ心って、やっぱり病気なんだろうか。僕たちクリエイターは、グロいゲームが病んだ心の暴発を防いでいるんだって主張するけど、実は自信がないんだよね。自分の仕事を守る美辞麗句だって気もする。僕のゲームの発売に行列を作る連中の中には、確かにおかしな目つきをしてるヤツも多いから。でも、そんなヤツにこそ〝神〟が必要なんだ。病んだ心を洗ってくれる女神が必要なんだ。そんな〝神〟を創ることが僕の使命だ。 君はさ、ヤツらを救うための生け贄なんだよね。名誉なこと、だよ」

 高志から目を逸らしたかった。狂気と凶暴さに呑み込まれた高志を見たくはなかった。だが、顔を背ければその隙に襲われる。逸らせない。迫る狂気を見つめる他はない。

 壁の向こうには、高志から逃げられる都会が広がっている。警察に駆け込めば殺されることはない。なのに、たったドア1枚が弓子の生命を脅かす障害になっている。

――時間を稼がなくちゃ……

 弓子はつぶやいた。

「なぜ、ドバイだなんて嘘を……?」

「だって、東京にいるって分かってたら、逃げ出そうとするでしょう? 今みたいに。外に出れば助けが求められるんだから。でも、行ったこともないドバイじゃ、気力も萎えるよね。脱出したって、砂漠しかないんじゃ干涸びちゃうし。実際のドバイは東京よりも豪華でにぎやかな都会だけど、人間にとってイメージって重要なんだよね。中東っていうだけで砂漠とラクダを考えるし、住んでるのはみんなターバンを巻いた遊牧民だと思っちゃう。アラビアのロレンスなんて映画を見たことがあれば、なおさら。これが、理由のA」

 高志はあくまでも誇らしげだ。自分が仕掛けたトリックに酔っている。

 だがその間は、襲われることはない。死を遠ざけていられる。

「他にも理由が……?」

「理由のB。興信所の報告を見て、君にはアルバイト程度の仕事をさせることに決めた。だから、僕の指示に従わないと困る。それには、精神的に僕を頼らせるのが一番簡単で、間違いがない。見知らぬドバイで2人っきりなら、頼る人間は僕しかいない。コントロールしやすくする方便さ」

「だって……外国の食べ物が……」

 高志が鼻先で笑う。

「東京が国際都市だって分かってるでしょう? 住んでるんだから。今時、外国人が珍しい? どこに行ったって、外国人だらけじゃないか。当然、外国の料理店も多い。このビルの近くには、外人向けのスーパーマーケットがある。とんでもない臭いがする魚の缶詰だとか、訳が分かんない形の果物だとか、とにかくカルチャーショックがあふれた世界だ。僕が配達させていたアラビア圏の食べ物なんて、可愛い方だ」

 そして高志は、ダンボール箱を指差した。

「食べ物を配達してた店、1分で行けるよ。もちろん僕は、いつもここのドアから出入りしていた。お気に入りのステーキハウスにも通ってるし、知り合いにも普通に会ってた。元々僕は人付き合いが少ないし、コミュニケーションはメールがメインだし、全然困らなかった。だから僕は、今まで通り東京に住んで、気が向いた時に仕事をして、気ままな暮らしを続けていることになってる。まわりの誰も、変だなんて気づいちゃいない。この部屋だけはネットがつながってるし。だいたい僕がネットなしの生活に耐えられるはずがないもの」

 高志は東京で普段通りに暮らし、弓子の心を手玉にとって陰で笑い、嬉々として里奈の解剖と再生に臨んでいたのだ。何もかもが高志1人が組み立てた虚構だ。里奈を捕らえ、殺し、解体し、再生する――そのためだけに大金と労力をつぎ込んだ策略だったのだ。

 弓子はただ1点、里奈と知り合いだというだけで巻き込まれた、芝居の端役でしかなかった。いつでもすげ替えできる、エキストラ。

 それが弓子の人生だった。自分が取るに足らない存在だと諦めていた。むしろその立場に自分を押し込め、社会との関わりを断ってきた。主役にのし上がろうという欲などない。自ら端役を選んだのだ。それは認める。芝居の上でなら、その他大勢として殺されても不満はない。だからといって、現実に殺されていいわけがない。

「ひどい……」

「ひどい? 僕もそう思う。君にはひどいことをした。でも君だって、最後は喜んで里奈を再生していたじゃないか。うれしそうにMAYAを使っていたよ。なんか、昔の事故のことも吹っ切れたみたいだし。いいことだってあったんだから、感謝してほしいな。ただ、これからもっとひどいことをするから、それは謝っておくけど」

 高志は手のナイフを掲げた。

 弓子は気づいた。今、自分は、時間を稼ごうとしている。どうやって生き延びるかを必死に考えている。拉致された当初は、死ぬことを望んでいた。死んで文哉の亡霊から開放されることを願っていた。

 今は違う。

 高志が言ったことは事実だ。弓子は楽しんでMAYAを駆使した。文哉の陰からも脱出した。自信を持って言い切れる。今の自分こそ、本当の自分だ。

――生きたい……

 社会との関わりを取り戻し、自分の足でしっかりと歩き始めたかった。

 高志は自分の罠に酔い、弓子を笑っている。いつ消え去ってかまわない端役だと、見下している。

――違う。端役だって生きている。生きていく……

 弓子はきっぱりと高志の目を見返した。

「違う!」

「違うって……何が?」

「言いなりにはならない!」

 高志に目から笑いが消えた。

「反抗は許さない」

 高志は再びナイフを振り上げた。

 逃げればいいのだ。助けが呼べれば、奥の冷凍庫には解体された里奈が残っている。出来上がったデータもある。ここで何が行なわれていたのか、言い訳はできない。

 高志は終わる。

 自分もまた共犯だ。それでも、生きられる。全てを明らかにするチャンスもある。

――逃げればいい! 逃げるのよ!

 弓子は高志に向かって飛び出した。不意に走る弓子を見た高志は、隙を見せた。振り下ろすナイフを、弓子の両手で掴まれた。弓子は獣じみた叫びを上げ、さらに押す。足をもつれさせた高志がずるずる退く。

 高志の背中が、廊下へ出るドアに当たった。高志は叫んだ。

「ふざけんじゃねえよ!」

「いや!」

 弓子は自分でも想像できなかった力を爆発させた。ナイフを握った高志の手をねじ上げる。高志はナイフを落した。

 高志は弓子を見下ろして冷たく言った。

「殺してやる」

 弓子は落ちたナイフに気づいて、素早くしゃがんだ。高志より先にナイフを掴むと、無我夢中で突き上げる――。

 弓子の頭の中は真っ白だった。

 ナイフは、柄まで高志の胸に突き刺さっていた。

 高志は弓子を突き飛ばし、反動で自分が扉に背中を付いた。ずるずると、しゃがんでいく。後頭部がスティールのドアに当たって鈍い響きをたてる。

 高志は床に座り込み、弓子を睨んだ。

「殺してやる……」

 その胸から、鮮血がにじみ出していた。傷は深い。

 弓子は身を屈めた。高志の胸から抜けたナイフは、まだ両手の中だ。もう一度構える。

「いや! いや!」

 高志の胸を刺す。二度、三度――

 血しぶきが眼鏡に飛ぶ――

 そして我に返った。

 ぐったりとドアに寄りかかった高志は微笑んでいた。今まで1年間、ずっと見続けてきた高志に戻ったかのように、穏やかに微笑んでいた。

 あまりに唐突な、予想外の反応だった。

 弓子は、高志の表情を呆然と見つめた。

――え……? なに……?

 自分の、血まみれの手を見下ろす。弾かれたようにナイフを投げ出し、自分も尻餅をつく。

 高志は立てない。口から血が吹き出していた。それでも必死に、弓子に何かを言っていた。

「ごめん……ご……めん……」

 弓子は高志の言葉に気づいた。

 高志がゆっくりと腕を上げる。その手がポケットに入る。血まみれの高志が取り出したのは、別のリモコンだった。

「モニタを……見て……必ず……見て……ごめん……僕……たちを……許して……」

 そして高志は、首を落として呼吸を止めた。高志の指が力なく開く。握っていたリモコンが床に滑り落ちる。

 あふれる血が、床に広がる。


      *


 そのまま、何分かが過ぎた。あるいは、何時間か――

 高志の血は、広がるのをやめていた。

 弓子がつぶやく。

「死んじゃった……。殺したんだ……わたしが……」

 弓子の目が、床に転がったリモコンに止まる。高志の言葉が蘇る。

――必ず……見て……

 ゆっくりと身を乗り出し、リモコンを掴んだ。

「殺しちゃったのに……」

 弓子は自分が涙を流していることに気づいた。なぜ泣いているのかは分からない。

 恐怖から開放されたからなのか、人を殺したからなのか、それが高志だからなのか……。

 なぜか、目の前の高志の死体が満足げに微笑んでいるように見える。大きな仕事をなし終えた充実感に浸っているように見える。何度見ても、その印象は変わらない。

 目の前の死体は、高志の死体だ。狂ったストーカーの、ではない。

 リモコンに目を落した。裏側にメッセージが貼り付けてある。

『これが真実です。必ず見て下さい。再生ボタンを押して』

――死んじゃったのに……殺しちゃったのに……

 放心していた。気力のすべてを使い果たし、何をする気もなかった。

――なんで……? 今さら……何を……

 それでも、高志が言い残した通りボタンを押していた。

 いきなり大型モニタに現れたのは里奈だった。悲しげな目をしている。弓子は直感した。

――これ、CGなんかじゃない……

 思わずつぶやく。

「どうして……?」

 そこに里奈が現れる理由が分からない。

 高志はストーカーだ。なのに、里奈をクローズアップで撮影したビデオを持っていた。そんな映像は、里奈自身が許さなければ撮れないはずだ。里奈の表情は悲しそうだが、恐怖は感じさせない。

 画面の中で里奈が語り始める。 

『ゆみちゃん……謝っても謝りきれないけど……本当にごめんなさい。あたし、ゆみちゃんをほんとの妹だと思ってる……だから……なんでもしてくれるって、本気で言ってくれたゆみちゃんにしか、甘えられないから……』

 なぜか、里奈が弓子に向けて語っている。謝っている。涙を流している。

 そして、〝ゆみちゃん〟と呼んでいる。これまで、ずっとそうしてきたように。血を分けた姉のように。

 間違いなく、里奈本人の映像だ。やはりCGではない。

 なぜ、高志がそんな映像を持っていたのか……?

 別の声が流れた。

『謝るのは後で。事実を伝えよう』

 高志の声だった。撮影しているのは、高志なのだ。

『でも……』

『まず、事実を』

 なぜ里奈は、高志にそんな映像を撮影させたのか……。

 そして、画面が大きく揺れた。撮影場所は室内だ。壁が写り、見覚えがある家具が視界に入る。間違いなく、高志の寝室で撮られた映像だった。高志がカメラを移動したらしい。

 大きな揺れが収まると、里奈と高志が画面に現れた。高志がレンズを自分たちに向けたのだ。 

 高志の左腕は、里奈の肩を強く抱いている。

『これが、事実なんだ』

 高志は里奈にキスをした。

 里奈もキスを返す。そしてレンズに向かって言った。

『ゆみちゃん……怖い思いをさせて、本当にごめんね……。みんな……わたしが高志さんに頼んだことなの』

――うそ……

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