16

 瞬く間に数ヶ月が流れ去り、里奈のデータは少しずつ進化していった。

 里奈の内臓は、高志のプラグインによってマッピングとシェーディングを施されていった。実行しているのは弓子だった。

 弓子は腹腔内のパーツをMAYA上に呼び出すと、莫大な点数の表面画像からマッピングに適した数枚を選び出した。さらに胃や腸などの中空の臓器では、内側の画像も加える。消化器官のモデリングに食物などの内容物は含まれていないが、高志はデータが完成した時点で透明の流体を流し込めるシステムを検討していると言った。その仕組みが心臓と血管、そして肺にも適用できることが理想だと高志は考えているようだった。

 次に弓子はそのセットをフォトショップで開き、高志のプラグインを適用した。マッピング用のアルベド・マップが出力されるが、微調整は必要になる。弓子が元画像に問題ありと判断すれば、スタートに戻って画像のバリエーションからより良いものを選び直す。そうしてワイヤーフレームをアルベド・マップで包み込み、さらにもう一層パラメータ・コントロール用のマップを重ねる。パラメータには、位置によって変化する数値を元画像から抽出して与える。透明度を調整しながらシェーディングを施すと、内臓は微妙な艶と透明感を得て生命力を放ち始めるのだ。弓子は次々と里奈の細部をデータ化していった。

 高志は時たまプログラミングの手を休めて弓子の作業を確認した。大体はその精度に満足してうなずくだけだが、詳しい指示を与える時はいっそう自動化が進んでいった。

 そして、その作業も終わりを迎え、各部を組み合わせていく作業に入った。

 里奈のワイヤーフレームに、シェーディングを終えたデータを差し込んでいく。それは空っぽの大きな鳥かごに、1羽1羽色鮮やかな小鳥を捕らえていくようにも見えた。高志は腹腔を撮影した画像を逐一確認しながら、解剖の過程を逆にたどっていく。パーツを実際の里奈の位置に合わせて調整していくのだ。内臓が、ひとつひとつ体内に収まっていく姿は、解剖のビデオを逆回転するようでもあった。

 弓子は、プラモデルを組み立てるようなその作業にも関心を示した。刻々変化していく画像と高志の手元を見比べながら、手にしたノートに細かい文字を書き込んでいく。高志は時折弓子に作業を任せ、仮眠をとった。その間弓子が作業を進め、戻った高志が確認し、多少の補正と詳しい説明を行った。

 つぎに高志は各部の位置を再度微調整し、臓器同士の接着の度合いを組み込む。測定値が取れない要素は一般的な値を用いたが、それでも作業が進むにつれて里奈の内臓は個性を増していった。その工程もまた、一部弓子に委ねられた。弓子は、里奈再生の全行程でスキルを上げていった。

 肋骨を閉じた後の四肢の生成は、ほとんど弓子が行った。高志には弓子以上の疲労が蓄積しているようで、時折Macの前で居眠りをすることさえあったからだ。健康状態を案じて弓子が申し出た提案を、高志も断らなかった。高志の睡眠時間は1日5時間ほどに増えた。

 だが、頭部を再生する段階になると、高志も眠ってはいられなかった。細かい筋肉や筋の結合、小さな骨と血管の配置など、気を使うべき部分が飛躍的に増えたからだった。しかも、その全てが里奈の人格を体現する〝表情〟に直結する。高志は繊細な再生作業を進めながら、同時にその技術を弓子に伝えた。

 ワイヤーフレームの顔に、脳、眼球、頭骸骨……と、順に色鮮やかなデータが蘇っていった――。

 2日間の〝休暇〟の後に弓子と再会した高志は言った。

「これまでのデータは、確実に世界最高の精度だ。コストパフォーマンスを度外視して作ったものだからね。これから皮膚の再現にかかるけど、それはこの先100年は誰も超えられないものを目指す。あるいは、永遠に超えられないものを。本当に手間がかかる作業は、これからだ」

 弓子はこともなげ応える。

「かまいません」

 高志は、弓子にも蓄積しているはずの疲労を心配していたのだ。だが、むしろ表情は生き生きと輝いている。

 高志は言った。

「疲れてないの?」

「あなたこそ。わたしは、里奈さんが生き返っていくのが嬉しいんです。あなたの技術を学んで、里奈さんを蘇らせることが楽しいんです。……楽しいなんて言うと、何だか残酷な女に聞こえそうだけど。自分にも、できることが、こんなに沢山あったなんて……」

 高志がかすかな笑顔をもらす。

「なんだか、里奈さんを愛していたみたいだな」

「愛してた? そんなんじゃないけど……本当の姉のような人だったから。わたしが殺してしまったんだし……」

「責任を背負い込むんじゃない。憎むべきはKKKだ」

 高志はそうやって自分を支えてきたのかもしれない。

「奥さん、どうなったんでしょうね……」

「出産は無事に済んだと連絡がきた。だが、奴らが所在を掴んでいるうちはやっぱり安心できない。だから、手が抜けない。それがKKKの目論見だと思う。これでよしという判断を下せば、データの精度は止まる。宙ぶらりんのままなら、不安が湧いて、より良いものを追求する。疑心暗鬼になることを計算しているんだ……演習だからといって中途半端に済ます訳にいかない……」

 弓子は穏やかに微笑む。

「わたしにはその方が良いです。本当の里奈さんが出来上がるなら……」

「君の気持ちは分かった。じゃあ、とことんやるからね」

「お願いします」

 高志は、皮膚再生テクニックの概要を弓子に話した。

「内臓に適用したアルベド・マップとパラメータ・コントロールのコンビネーションでは、ひとつのレイヤーしか操作できない。だが、人の皮膚には様々な色素が偏在している。皮膚の表層にはメラニン色素やカロチンが強く作用し、深い層ではヘモグロビンが多い。この偏在を正しく表現するには、少なくとも表層、深層の2つのレイヤーを使わなければならない。同時に、2つを別々にコントロールできる、新しいパラメータ・マップが必要になる。方法が変われば、それに対応したデータ採取法が求められる。さらに、耳たぶなどの薄い皮膚では、バックの光が透けて見えることがある。その透過光や陰の濃度も正確にシェーディングできなければ、現実感が遠のく。その場合は皮膚を何重かの構造に仕上げ、透過光だけでなく皮膚内部で吸収される光も計算したい。モデリングを追加する場合も出てくるかもしれない」

「今までやったことがあるんですか?」

「理論を知っていただけだ。仕事では、そこまで精緻なデータを求められたことはない。求める意味はあまりないからね。新しい実験になる」

 弓子は高志の説明をすぐに理解した。

「自動化はどこまで?」

「必要なデータを採取するために、皮膚のいろいろな場所で色素を計測してパラメータを割り出す。計測器にサンプルをセットすることまで自動化することは無理だ。だがセットした後は、ボタン1つでデータを採取できるようにしたい。計測はひとつのサンプルに対して8種類。8段階の波長を照射して算出する。今、その装置を取り寄せているところだ。実物を見ないと分からない点が多いが、手作業はセッティングとデータの整理、そして最終調整だけに限定したい」

「サンプルは何カ所?」

「〝可能な限り多く〟が結論だが、どこまで詳細にすればいいのか……」

 弓子の答えは簡単だった。

「可能な限り、でしょう? それなら、少なくとも顔の表面はくまなく、ですよね」

「君の負担がまた増える」

「負担じゃありません。喜びは増えても苦になりません」

 機材が届くと、実際に弓子の作業量は飛躍的に増えた。サンプルとなる皮膚を再度冷凍庫から選び出して、計測する過程。計測値を整理してパラメータ・マップに当てはめる過程。つまり作業の大半を担ったのだ。その間高志は解剖室と自室を行き来し、計測値を自動処理するプラグイン作りを開始した。

 2日後、Macの前に座った高志はプラグインをMAYAに組み込んだ。目に隈を作っている。

 弓子が問う。

「徹夜を?」

 服も着替えずに戻った高志の姿は、まさに徹夜明けのそれだった。

「いつものことだよ、僕の業界じゃ……。なんだか、何10年も前のことみたいだけど……」

「でも、あと1ヶ月で1年になります……」

 2人が拉致されてから、それだけの時が経っていた。集中力を要求される作業の連続で、気がつかないうちに時が過ぎ去っていくのだ。休息は取っている。それでも、重苦しい疲労が体の隅々に沈殿している。特に、休日の間にも作業を進めているらしい高志は、今までになく疲れが激しいように見える。

「もう、そんなにか……」

「お願いですから、しっかり休んでください」

 高志は、弓子の言葉を無視した。

「計測が済んでいる部分は?」

 弓子が悲しげに目を伏せる。

「右脚から始めました。周辺部からやって、作業に慣れたいと思ったので」

「右足親指の計測値はある?」

 弓子は自分のMacに計測値を表示する。数値は高志から指示された表計算データとして表示されていた。

「計測点の座標は?」

 弓子は高志のMacに表示されているワイヤーフレームのいくつかのポイントを指差す。

「ここが45│88│49。ここが45│88│42。ここが……」

 高志が椅子を立った。

「君が操作した方が早そうだ」

 弓子が高志に代わる。

 高志が背後から説明した。

「データのリンク先をここで指定して、このウインドウに座標を入力。すると――」

 言っている間に足元のMacが軽いうなりを発する。瞬時にリンクファイルのデータを読み込んでシェーディングとレンダリングを開始する。瞬く間に里奈の右脚のワイヤーフレームに皮膚が張られた。まるで、生きた人間から切り取ったばかりのような、生々しい脚だった。

 高志も思わず身を乗り出す。

「いいね……予想以上だ」

「でも、データは親指だけなのに?」

「その情報を、全体に適用した。計測点が2点になれば、情報をブレンドして全域に適用する。1カ所の計測でもそれなりの結果を吐き出すが、点が増えれば増えるほど精度が上がる。使い勝手は良さそうだ」

 しなやかに延びた里奈の脚に見入る弓子からも、ため息が漏れた。

「きれい……」

 確かに画像は美しかった。これまで見たことがない透明感と自然な輝きに満ちていた。しかも、近寄ってみると皮膚の凹凸や浅いシワがくっきりとモデリングされている。接写した写真のように、自然だ。

 だが、高志は言った。

「未調整でこの精度が出せたのは嬉しいけど、同じデータを繰り返し使っている〝まがい物〟だ。これから計測点を増やせば、もっと里奈さんに近づいていく」

 言われた通り、弓子は次々に計測点の座標を入力していった。そのたびにMacの表示画面がかすかに変化していく。言われなければ見逃すほどの、微細な変化だ。

 しかしそれは、里奈が復活していく過程だった。見た目の変化はわずかでも、弓子が数値を入力するたびに凄まじい勢いで生命力を蘇らせているのだ。

 弓子はキーボードを操作しながら思わずつぶやいた。

「魔法みたい……」

「そう、僕は魔法使いだ。天才的なプログラ――」

 高志はいきなり言葉を切った。

 唐突に会話が切れたことを不審に思った弓子が振り向く。

 高志は膝を折っていた。前のめりに体が崩れる。どさっという鈍い音がはっきり聞こえた。気絶したのだ。

 弓子は椅子から飛び出した。

「高志さん!」

 同時に〝天の声〟が落ちる。

『触るな! すぐにここから出たまえ。自室に戻るように!』

 鍵が開く音。

 弓子は高志を助け起こそうとしたまま、動きを止める。

『我々が対処する。自室へ戻れ! 反抗は許さん!』

 弓子は動けない。

『早く出ろ!』

 強硬な命令だった。

 確かに、医者でもない自分がここに留まっていても、高志の治療を遅らせるだけだ。

 弓子は床で動かなくなった高志を見て言った。

「ごめんなさい!」

 弓子はドアへと走った。涙が溢れる。脚をもつれさせながら白い廊下へ出て、自分の〝オフィス〟に飛び込んでドアを閉める。

 すぐに鍵がかかる音がした。

 弓子は冷たい床に座り込んだ。自分たちが常に見張られていることは分かっている。ここに医師が常駐しているらしいことも知っている。高志はすぐに手当を受けられる。だが、その救命措置には、自分が邪魔だ。だから追い出されたのだ。

 理性ではすぐに理解できた。だが、高志への心配は消えない。

 噴き出す涙が止まらない。

「高志さん……」

――ただの疲れだといいけど……

 弓子の頭にはそれだけしかなかった。


      *


 翌日、弓子の自室に〝天の声〟が降った。

『宮崎君の様態は安定している。過労だ。しばらく点滴治療を行う』

 弓子が問う。

「大丈夫なんですね⁉」

『命に危険はない。ただし、医師から1週間ほど休めたいという要求があった。医師の判断に従う』

「じゃあ、わたしは?」

『作業を進行させたまえ。宮崎君の回復後にチェックを受ければいい。彼が不在の間は、君の判断で葉山君を再生したまえ。それが、宮崎君の負担を減らすことになる。ただし、休日は取ること。君まで倒れると、損失は計り知れない』

 弓子は1人で里奈と向かい合うことになった。

 

     *


 高志は、8日目に解剖室に現れた。

 最後に残った作業――顔の表面のコントロールマップの調整を終えたところだった。ドアが解錠される音を聞いた弓子が振り返ると、戸口に高志が立っていた。

 弓子は言った。

 自分の声が震えているのが分かる。

「ちょうど今……終わりました」

 不意に涙ぐむ。

 高志が弓子の傍らに歩み寄り、里奈の目尻が大写しにされたモニタを見下ろす。

「そうなんだ……」

 しがみつきたかった。できるものなら。

「おかえりなさい……お体は?」

 作業に没頭することでなるべく忘れようとはしていたが、今はそれが一番気がかりだ。

「完全復活だ。ちょっと見、いい感じの仕上がりだね。全体像を見せて」

 弓子がキーを操作すると、モニタに両手を広げた里奈が浮遊する。背筋を伸ばした直立姿勢。ただし、髪はまだなかった。

 透き通った瞳、幼児のような張りを感じさせる艶やかな肌――息づかいが聞こえてきそうな画像だった。触れば、しなやかな弾力で指を押し返しそうだ。無毛で全裸の状態で宙に浮かんでいることが、逆に不自然に見える。それほど、リアルな画像だった。

 高志は全身をじっくり見つめてから、弓子と席を替わった。首から上をアップにする。

 そこに、妖艶な里奈がいた。

 弓子は改めてモニタをのぞき込んだ。

「里奈さん……」

 高志はうなずいた。

「毛穴までくっきりだ。モデリングが活きている。髪や産毛のマップを加えれば、一段とリアルティがますだろう。唇が特にいい。ここまで再現できるとは思わなかった。よくやったね」

 弓子は、指先でそっと里奈の唇に触れた。むろん、それは液晶モニタの表面でしかない。だが弓子は、たしかに唇の柔らかさと暖かみを感じたような気がした。

「あなたのプログラム、すごいです……」

 高志はそれでも不満そうだった。

「でもこれは、ほんの下地だ。僕は里奈さんに化粧をしてやりたい。モデルだったんだから」

 弓子は即座に言った。

「わたしにさせていただけませんか?」

 高志はうなずく。

「お願いしようと思っていた。化粧は、女性の方がふさわしいだろう。僕は〝ペイントエフェクト〟で髪を制作する。その間に、彼女に似合う化粧をしてやって欲しい。レイヤーを作って直接ペイントすればいい」

〝ペイントエフェクト〟は、MAYAに付属している強力なペイントツールだ。2Dでも3Dでも、空間に直接ペイントすることが可能だ。木や雲を次々に出現させるブラシなども作ることができる。

「使い方は分かります。任せてください」

 高志は満足げにうなずいた。

「勉強熱心だからね。あ、それと、素材集から洋服も選んでくれるかな。いつまでも裸じゃかわいそうだ」

「本当に。で、その後はどうするんですか?」

「まだ、アニメーションを付ける準備も必要だ。関節全てにジョイントを形成して、IKハンドルにする。これは仮想人体モデルのハンドルを調整すればすぐ組み込める。それで体を自由に動かせる。そして、肺と心臓を動かす」

「生き返るんですか⁉」

「休んでいる間にアイデアは固まった。ここのマシンなら動かせるだろう。でも、他では無理だ。内臓まで含めたデータでは重すぎる。汎用マシンでは静止画さえ表示できない。アニメと呼べる程度に動かすのは、ハード待ちだな。だから、隠れた部分を削除できるプログラムを組み込んだローモデル用意するつもりだ。それでも里奈さんのニュアンスは従来以上に表現できると思う」

 弓子はぽつりと言った。

「それにしても、よくここまで来ましたね……」

「君が作ったデータだよ。感謝している」

「わたしこそ、里奈さんを蘇らせてもらった……」

「でも、これからがラストスパートだ。しかも、次は本当の神様とご対面だからな」

 ピンと張ってきた弓子の気持ちが緩む。

「1人はやっぱり心細かったです……」

「でも、やりきった。君は休みなさい。2日間、かな……何もしないでダラダラ過ごすことを命じる。アニメ化の準備を進めておくから」

 弓子は、自分でも疲れを実感していた。

「今回は、ご命令に従います……」


      *


 作業は終了した。

 弓子がじっと暗いモニタを見つめる。

 高志が言った。

「君も座れば?」

 里奈のアニメーション化を進めていたのは高志だ。その間、弓子は化粧と衣装を担当しただけで、ほとんどを休養にあてていた。正直、気力が底をついて動けなかったのだ。だから、アニメの全体像を目にするのは始めてだった。

 落ち着かなかった。座ってはいられない。

「いいです。早く」

「里奈さん以外は過去の素材からの流用だから、あまり期待しないでね」

 そう言った高志はアニメーションをスタートさせた。モニタが明るくなっていく。

――里奈は、長い髪を風になびかせて草原を走っていた。

 真っ赤なタンクトップに白いロングスカート、そして裸足。かすかに息を荒らげ、乳房が揺れる。カメラは、里奈を真横から追う。なだらかな丘の向こうには、青い海と入道雲が広がっていた。里奈はカメラを意識しながら、弾けんばかりの笑顔を浮かべてくるりと1回転した。腰まで伸びた髪がふわりと広がる。と、カメラが引く。どこまでも広がる緑の丘の中に、里奈の姿が小さくなっていく。

 そしてカメラは、宙に舞った。里奈は、両手を広げて草原に寝そべる。カメラはカモメのように里奈の周囲を飛びながら、画面の中心に里奈を捕らえ続けた。

 と、画面の片隅に茶色の陰が現れた。大型犬だ。カメラは急降下し、里奈を離れて犬の背中を追う。全身から喜びを発散させながら走るゴールデンリトリバーは、里奈を目指していた。羽ばたくように揺れる犬の耳の間に、横になった里奈の姿が見えた。犬が小さく吠える。

 里奈は上体を起こした。犬を見つけると、笑顔がいちだんと明るさを増す。犬は、里奈に向かってジャンプした。カメラが犬の背を離れる。そして、ゴールデンリトリバーを抱きしめる里奈の周囲を回る。犬は里奈の頬をなめ、里奈もまた笑い声を上げながら犬に頬ずりを繰り返す――。

 弓子は、モニタに向かって感嘆のため息をもらした。

「里奈さん、生きている……」

 高志はうなずく。

「32インチディスプレイの中で、ね」

 弓子の目に涙が溢れる。

「これ、本当に、全部あなたが作った映像なんですよね……」

 高志はかすかに笑った。

「違う。僕たちが、作ったんだ。そして何より、里奈さんが作った。自分の身を犠牲にして……。なぜいまさら?」

「だって、こうして完成したものを見ると、信じられなくて……」

 高志はしばらく考えてからうなずいた。

「僕もMAYAを使い始めた当時はよくそんな気持ちがしたっけ……。すっかり忘れていたな。この背景や犬はあの頃のデータを手直ししたんだ。ほんと、懐かしいよ……。でも、このアニメ全てがMAYAで創作したデジタルデータであることは、僕が保証する」

「でも、やっぱり信じられない……。だってスカートや髪の毛も、本物みたいに風になびいているし……」

「その程度の技術は今や古典だよ。MAYAには衣装を自然に動かすための〝CLOTH〟や、毛皮を生やす〝FUR〟なんていうプラグインも用意されている。背景の雲や草だって、ダイナミクスの物理計算によって、風を考慮した自然な動きを表現できる。コンピュータの性能さえ充分なら、誰でも1人でこんなアニメーションが創造できる。それがMAYAのパワーだ」

 弓子はわずかに寂しさをにじませながらつぶやいた。

「里奈さん、本当に生き返っちゃった……」

 だが、高志は不満そうだった。

「完全、とはいえないけどね。ここにいる里奈さんは、内臓が空っぽだ。皮膚の表面だけの張りぼてにすぎない。本当は、心臓が鼓動する里奈さんを動かしてやりたかった」

「でも、そうしなければアニメーションにはできないんでしょう?」

「現時点では。でも、マシンの進化は凄まじい。里奈さんをここまで再生できたのも、スパコンのおかげだ。そのうち、それが1台のデスクトップに収まるだろう。量子コンピュータが実用化できれば、いくつものブレイクスルーが訪れるだろう。里奈さんのデータは、その時こそ生き返るんだ」

 弓子は目を伏せた。

「これでわたしの仕事も一段落ですね……」

 高志は弓子に手をさしのべた。握手を求めている。

「もう一度言わせてくれ。君のおかげだ」

 弓子は高志の手を軽く握り返しながら、言った。

「道のりは、まだ半分ですよ。〝神様〟が残ってます」

「でも、ありがとう」

「あの……お願いがあるんですけど……」

 高志は弓子の手を離し、わずかに首を傾げた。

「なに、改まって?」

「今日は、わたしに料理を作らせてもらえませんか? 里奈さんを生き返らせれくれたお礼に、手料理を食べていただきたいんです……」

 高志の顔に笑顔が広がる。

「いつも作ってくれているのに?」

「ちょっと、手をかけます」

「喜んで」

「これから用意します」

 高志は言った。

「ドンペリを持って来させる」

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