この先の螺旋(エピローグ)
眼球が潰れるのではないかというほど、強く掌を擦り付けて涙を拭った。
今もまだ、彼のあの声が頭の中で反響しているように思えた。
私だ! 私なんだ……!
泣いている場合ではない。
この半年間、ずっと準備してきたことを無駄にはできない。
「行くわ」
私がそう言うと、隣でジッと待っていてくれた英梨奈が力強く頷いた。
広瀬君もすでに他の三人に指示を伝え終えているようだった。
私は振り返って前を向くと脇目も振らずに歩き始める。
しっかり前を向いて。
教室の方から聞こえる無秩序な騒めきはずっと続いていた。
三年生がいる一階からの悲鳴が特に耳につき始める。
バタバタと鳴る足音。机や椅子をひっくり返したような音。それらが、否が応にもこれが現実に起こっていることなのだと私に訴えかけていた。
急ごう。
正直なところ、現実を目の当たりにすると怖くて堪らなかった。
頭の中で想像しただけのものとは全然違った。
おそらく自分も恐怖するに違いないと覚悟はしていたはずなのに。
だけど、想像できるようなものではなかった。
実際に自分の死を隣り合わせに感じて冷静でいられるわけがない。
もしも、アレの挙動が想定と違ったら?
誰かの予期しない行動によって、次の瞬間、アレが私の目の前に現れたら?
一瞬ごとに不安と絶望が襲ってくる。
それでも信じて歩き続ける。
彼が伝えてくれたものを。
私たちが考えてきた最適な解法を。
今はそれを信じ、迷わず進むしかない。
突き当たり。階段の方は一瞥もせずに、最初のT字路を左に。そのまま実習室棟まで真っ直ぐ進んで次は右に折れる。
そうして私たちはあの増築されたエレベーター棟を一直線に目指す。
実習室棟の長い廊下に差し掛かると、私は歩きながら、後ろの英梨奈を振り返った。
目で促す必要もなかった。
英梨奈はすでにスマホを操作し、磯部さんに連絡を入れている。
全て打合せしたとおりだった。
大丈夫。英梨奈も冷静だ。
私なんかより、よほどしっかりしている。
私は歩みを緩めて、英梨奈のスマホ画面を覗き込むようにした。
これは今このときの思い付きだ。本来の予定にはない。
多少時間はロスするけど、これは、それよりも重要なことだった。
私が再び前を向いて廊下を歩き出すと、すぐに校内放送のスピーカーから磯部さんの声が聞こえてきた。
『緊急放送です。〈モヤゾンビ〉は音に反応して襲ってきます。緊急事態です。声を出さず、物音を立てず、慎重に行動してください。今すぐ教室のドアを締めて──』
少し緊張している? でも大丈夫、段々落ち着いてきた。
私も磯部さんの声で落ち着くことができた。
磯部さんが言っていた、あの螺旋の例え話を思い出す。
陳腐だけれど、私にはそれだけが希望。
それにすがることで、今の私はなんとかこの状況に立ち向かう力を奮い起こしている。
歩きながら、天井付近にあるスピーカーを仰ぎ見た。
今、あそこから音は出ていないけれど、先ほどの英梨奈の行動と合わせれば、この視線の意図は伝わるはず。
そうしながら、私は自分が何を視界に入れ、何を視界に入れないでいるべきなのかを考えていた。
私たちには大きな誤解があった。
何故こんな重大で致命的な誤解が生じたのか分からない。
彼がそんな安易な見落としをしたとは思えなかった。
真っ先に思い付いたアイデアは……、言わば私の直観では、その誤解が必要であったという可能性だ。
彼がこの決定的な齟齬に気付いてしまうと、予知夢を見続けることができなかったのではないかという直観。
だから私は、自分が視界に入れるものに対し、神経を使わずにはいられない。
スピーカーから目線を切ると、私はそのまま真っ直ぐ前だけを見て歩き続けた。
もう一つの思い付きは、実は誤解など何もなかったという可能性。
彼が見た予知夢では、私はここにおらず、彼こそが扉のこちら側にいたのだという可能性……。
それを考えると再び涙ぐみそうになる。
確かに私はあの時、あの一瞬、そうしようとしていた。
それを止めて、私の代わりに……、彼が……。
私たちがエレベーター棟に差し掛かった段階で、すでに校舎の中は静まりつつあった。
想定よりも生徒たちの騒ぎが収まるのが早い。
急速に静寂が迫ってくる。
それが私たちを包み込む。
私たちは速度を緩め、足音を忍ばせながら階段を上っていくことになった。
遠くの方ではまだ磯部さんの放送が続いているけれど、私たちの進路にあるスピーカーは鳴らさないことになっている。もしも今鳴っているスピーカーの数よりも、増殖した〈モヤゾンビ〉の数が多ければ、あぶれた〈モヤゾンビ〉がここに飛んで来たとしてもおかしくはない。
静寂が、こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。
周囲にいる皆の衣擦れや呼吸音すら気掛かりだった。
今すぐ全力で階段を駆け上がりたくなる衝動を必死に堪え、一段ずつ、しっかりと脚を上げて上っていく。
三階が見えた。
視聴覚室を目前にして、私は思わず立ち止まり目を見開く。
視聴覚室のドアは開かれており、中から陸上部の長谷川君が顔を覗かせていたのだった。
それは私の予想もしていなかった光景だった。
夢のとおりであったなら、長谷川君は今頃まだグラウンドにいるはず。
だけど私はその予想外の光景によって勇気を奮い立たせる。
佐野君……。今も見ているの? この〈未来〉は貴方に届いてる?
予知夢のメカニズムが分からない以上、今の私には信じる以外に手はなかった。
幾ら仮説を立ててみても、今の私には、もう二度とその答え合わせをする機会は巡って来ないのだから。
私ではない私に……、彼に……、この苦し紛れの希望を届け、託すために、今の私には為すべきことがあった。
皆が無事に視聴覚室に逃げ込んだのを確認すると、私はすぐに、用意してあった筆記具を使い、佐野君へのメッセージを夢中で書き出していった。
周囲では皆が口々に何かを言い合っていたけれど、私の頭の中には何も入ってこなかった。
私の筆跡だと分かっては駄目かもしれない。
後で英梨奈に代筆を頼もう。
今度こそ全員が、佐野君も含めた全員が、生きてここにたどり着けるようにと、考え得る限りの情報を書き記す。
果たして今が何周目の世界であるのか、私たちには知る由もないことだけど、今の私たちは、おそらく過去の私たちが全力で抗った結果として、この結末を迎えている。
佐野君のおかげで、過去の私たちのおかげで、私たちは今こうして生かされている。
次は私だ。私たちの番なのだ。
次はもっと。次こそはきっと……。
視界がにじむ。
手の甲で乱暴に目元を拭った。
私はメッセージを書き出した紙を一旦眺め、そして捨てた。
こうじゃない。
一番伝えるべきことは……。
新しい紙に向かって再びペンを走らせる。
『タックルじゃなくて、蹴飛ばしてやれ!』
私の手元を覗いていた英梨奈が、プッと吹き出す音が聞こえた。
〈おわり〉
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