9月27日(月曜) そのとき

 瞼を開ける前から酷い頭痛がしていた。

 背中も痛い。

 背中の痛みの理由はすぐに分かった。

 体育館の床の上で仰向けに寝ていたからだ。

 その体制で寝かされて介抱を受けていたようだ。

 俺の横には白峰が座っていた。


「すぐに起きない方がいいわ。脳震盪だったら普通に危険よ?」


 不思議な既視感があった。

 こんな和らいだ表情をする白峰を、ついさっきも見ていたような気がする。

 広瀬や吉岡たちが少し離れたところに立って大きな声で話している。断片的にだが、俺が見た予知夢の話やネット掲示板の話を中原たちに話して聞かせているのだと分かった。


 俺は気を失う前のことを懸命に思い出そうとした。

 確か、酷い頭痛のようなものがして倒れたのだ。広瀬たちも同じように苦しんでいたように見えたが、俺だけ回復が遅かったのだろうか。

 そもそも、あの揺れは何だったんだ。

 混濁した記憶を手繰ろうとした途端、全く別の気付きによってそれが中断された。


「白峰! どうして!?」


 驚いて身体を起こそうとする俺を白峰がそっと手で制す。


「あんたが倒れたって連絡入れたらすっ飛んで来たのよ」


 答えたのは遠くにいた吉岡だ。

 俺が目を覚ましたことに気が付いて、皆が近付いてきた。


「……何が起きたのか教えてくれ。凄い揺れがあっただろ?」


 体育館の高い天井を見ながら、誰に言うともなく尋ねる。


「揺れ? いや、耳鳴りみたいな感じはしたけど、揺れたかなあ?」

「倒れたのは佐野だけよ。ホント無茶苦茶焦ったんだから……。ねぇ大丈夫なの? 吐き気はない?」


 そうなのか……。

 だが、それを聞いてもまだ、何が起きたかを理解するための糸口がつかめなかった。

 何か大事なことを忘れている気がする。とても大事な何か──。

 とにかく寝たままでは話しにくいので上体だけでも起こすことにした。

 まだ脈打つような頭痛が続いていたが、少し気持ちが落ち着いて、周囲のことに気が回るようになった。

 そう言えば体育館の外の渡り廊下の方から、やけに騒がしくしている生徒たちの声が聞こえてくるようだ。

 確か、気を失う前はもっと静まり返っていた気がするのだが。


「何か起きてるのか? 随分騒がしくないか?」

「〈モヤゾンビ〉は出てねーよ。多分だけど。さっきの耳鳴りで皆騒いでるんじゃないか?」


「あれは、ここにいる俺たち以外の身にも起きたのか?」

「そうみたい」

「磯辺さんも私も、放送室の中で感じた。でも、倒れるほど酷かったのは佐野君だけ、だと思う」


 俺だけなのか……。

 そこには当然、何らかの意味を感じざるを得ない。


「とにかく、すぐここを離れよう。〈モヤゾンビ〉が出てからじゃ遅い」

「あ? ああ、そうだな」


 広瀬は俺の言葉でやっと気付いたというような反応だった。

 広瀬に限らず、こんな局面にも関わらず全体的に危機感がなさ過ぎる。


「何かが起きてるのは確実なんだ。視聴覚室に入るのを優先しよう。なんでこんなところで悠長に話なんかしてるんだ?」


 俺は立ち上がりながら、広瀬に向かって抗議した。


「そりゃあ……」

「気ぃ失ってるあんたを置いて行けるわけないでしょ?」


 そうか。脳震盪が疑われていたのだった。安易に抱えて移動させるわけにもいかなかったのだろう。俺が皆を足止めしていたのか。


 詫びは後で入れることにして、俺は率先して体育館の外へと急いだ。

 出口の傍まで来たとき、そこに一人の女子生徒が立っていることに気付く。

 見覚えのない顔だ。


「あ、ごめんね。自分で起きたんで大丈夫になったわ」


 後ろからそう声がしたので、振り返って吉岡の方を見る。


「さっき保健室に行ったら、この子しかいなくて。先生の場所分かるって言うから、探しに行ってもらってたのよ」

「あの……、そのまま動かさずに、寝かせておいてって言われました」


 小心さと意固地さを両方感じさせるような口調だった。

 構うと面倒になる気がしたので、俺はその女子生徒の横をすり抜けて渡り廊下に出た。

 後ろから来る皆もそれに続く。


「先生は?」


 扉口に立つ女子生徒とすれ違いながら吉岡が話し掛ける。


「他の先生たちと揉めてました。学校の外と電話が通じないとか何かで。でも、すぐ来ると思います」


 その言葉に皆が立ち止まる。


「……電波は、来てるみたいだけど。どうする? どこか掛けてみる?」


 振り向くと、吉岡や白峰たちが皆、自分のスマホを取り出して操作していた。


「ねえ、繋がらないって言ってたのは有線の電話のことだった?」


 その女子に詰め寄る白峰の声は明らかにいつもの冷静さを失っているように聞こえた。

 俺は白峰のその様子を見て焦る。

 電話のことも気になるが、だからこそ一刻も早くここを立ち去るべきではないか。

 ここは夢の始まりの、あの渡り廊下なのだ。


「あの……、倒れたって人はどこに?」

「いや、だから、あそこ。もう起きて歩いて来ちゃってるの」


 だが……、いや、しかし。

 ここには夢の中にいなかった人間が二人もいる。

 白峰と、あの保健室にいたという女子だ。

 この違いは何を意味するのか。


「駄目です。寝かせてください。同じところにいてください」


 自然と目が窓の外に向く。

 ……大丈夫だ。まだ、変化はない。

 誰も校舎の外には出て来ていない。


「もう、分かんない子ね。今それどころじゃないのよ。保健室には後で連れて行くから、それでいいでしょ?」

「っ……! ぅう、ううう、うるさいです! 聞こえてますからっ、怒鳴らないでください! さっきから何なんですか!? 授業中なのに、こんな、みんな、大声で!」


 驚いて渡り廊下に視線を戻すと、保健室から来たというあの女子が、何故か癇癪を起し、大声で騒ぎだしていた。

 やはり印象どおり面倒くさいタイプの女だったか。


「……おい、ちょっと何かこいつヤバくねーか?」

「あれじゃね? メンヘラってやつ」


 中原と岩見が小声で囁き合う。


「ヤバくない! お前らの方が全然ヤバいし! さっきから……、そんな大声で怒鳴らなくても聞こえるし!」


 いよいよ様子がおかしい。

 両手を耳に当てて首を振り、大声で怒鳴り散らしている。

 もしも今、〈モヤゾンビ〉が現れて、こんな大声を出していたら真っ先に──。


 視界に一瞬黒いもやのようなものが映った。

 錯覚かと疑い、瞬きした次の瞬間には、その靄はあの女子生徒の身体の表面から、チリチリと、湯気が立ち上るように湧き立ち始めていた。


 ああっ、これだ……。


 そう意識するより先に、俺は前に向かって重心を倒していた。

 夢の中で見た形容し難い靄のようなもの。

 やがてあれが全身を覆うと、元の輪郭を見定めることも困難になるだろう。

 その真横に立つ白峰も彼女の異変に気付いたのが分かった。

 黒い靄に覆われつつあるその肩をつかもうと、手を伸ばすその動作が、スローモーションのようにはっきりと見えた。

 覚悟を決めたような固い表情。

 きっと、俺と同じことを考えている!


「白峰!」


 よし、白峰がこっちを見た。

 俺は渡り廊下の勾配を一気に駆け上ると、肩口からその女の腹の辺りめがけて渾身の体当たりを食らわせた。

 女の身体が宙に浮き、瞬間、まるで重さを感じなくなった。

 そのまま勢いを殺すことなく、二歩、三歩と身体を前へと運び、持てる力の全てを余すことなく叩き込む。

 体育館の床に倒れ込んだときには、入口から一〇メートルほど中にまで達していた。


「広瀬っ! 扉を閉めろ!」


 女の身体を押さえ込みながら振り返って叫ぶ。


「急いで! こっちに早く……佐野君!」


 白峰はあろうことか、ふらふらと体育館の中へ足を踏み入れようとしていた。


「吉岡っ! 白峰を……!」


 俺の声で我に返ったように、吉岡が白峰のもとに駆け寄る。

 そのとき、俺が押さえていたはずの女の感触が不意に消えた。

 驚いて向き直ると、俺の下敷きになっていたはずの女の身体が、まるで瞬時に気化したかのように立ち消えてしまっていた。

 慌てて周囲を見回す。

 消えてしまったわけではなかった。

 女は……、いや、すでに女の身体だと見定めることも困難な、ただモヤモヤとしただけのそれは、俺のすぐ横に立っていた。まるで枯れ木か何か、意思を宿さぬただの〈恐怖〉としてそこにあった。

 全身の毛が逆立つ。

 俺は咄嗟にそいつの腕のあたりをつかもうとするが、すり抜けてつかめない。


「広瀬早く!」


 入口では広瀬と倉田が左右から、それぞれ体重を掛けて扉を閉めようとしていた。

 その後ろには白峰が、中原と岩見も加わった三人掛かりで後ろに引っ張られていくのが見えた。

 扉が金属音を軋ませながら閉まっていく。

 俺は大きく息を吸い込んだ。


「白峰ぇ! 全部予定通りだ! お前だ! お前が皆を連れて行くんだ!」


 腹の底から叫んだ声が広い体育館の空気をビリビリと震わせる。

 重い音を立てて扉が閉じた。

 バシャリ、と水の落ちる音がした。

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