7月16日(金曜) 入念な予習②

「もう一回」


 僅かに隙間の開いたドアの向こう側から白峰のリテイクの声が掛かる。

 俺は一旦、ドアを閉めて一呼吸置いた後、ゆっくりとノブを捻り、それからさらにゆっくりと力を込めて内側に引いた。

 隙間ができる瞬間、ガボッという空気の逃げる音が鳴り、それから校舎内の喧騒が視聴覚室の中に流れ込んできた。


「ドアノブの回転音はほとんど聞こえなくなりましたけど、やっぱり空気が抜ける音はしますねぇ。シュゴッって。そこまで大きくはないですけど、外が静かだったら意外と響くかもです」


 足元の方で磯辺の声がした。


「今度は俺にやらせてくれよ」


 外からドアが押し広げられて広瀬が中に入ってきた。

 言われるがまま場所を譲ったが、これはテクニックでどうにかできるものではない気がする。

 部屋が密閉されているから、ドアを開けようとするときに中の空気が圧縮された形になり、隙間ができた瞬間、そこから空気が逃げようとして音が出るのではないだろうか。

 窓でも開けておくことができれば条件も変わるだろうが、この部屋には窓がない。

 さすがに換気口はどこかにあるはずだが……。

 そう考えながら室内を見回すと、先ほど吉岡と問答していた吹奏楽部の女子と目が合った。

 気が散って邪魔だと言いたいようだ。嫌味な感じだが、邪魔をしている自覚がある手前、そこは純粋に申し訳なく思う。

 うちの吹奏楽部は、もともと強豪という感じではない。

 が、昨年一昨年とそれなりに良い成績を残したので、モチベーションはかなり上がっているという話だった。新入部員も増えたので、追加の部室が欲しいという話もそういった流れから出たのだろう。

 正規の部活動かどうかも怪しいオカルト研究会の活動と、大会での実績もある吹奏楽部の活動とでは、どちらが優先されるべきものであるかは明白だ。


「ああ、駄目だこれ。硬くて指入んねえ」


 広瀬は弁当箱のパッキンのようになっているドアの縁に、どうにかして指を捻じ入れようと頑張っていたが、どうやら想像したようにはいかなかったようだ。


「もう出よう。邪魔になってる」


 いい加減、あの先輩風を吹かせている女子からの視線が耐え難くなっていたため、俺はそう声を掛けて、皆をドアの前から退去させた。



「駄目でしたね」


 視聴覚室を後にしてすぐに磯辺が感想を漏らす。


「駄目とは言い切れねーよ。完全に無音じゃねーけど、〈モヤゾンビ〉がドアの近くに居なけりゃ大丈夫なんじゃね? それに、言っちゃ何だけど、ハセはこのドア開けて入って来るわけだろ?」


「……ねえ広瀬。そういう話、先に言わない?」

「今思い付いたんだよ」


「長谷川がどういうタイミングで合流したのか分からないから、ドアの開閉音を無視していいかどうかは何とも言えないんじゃないか? 俺たちが逃げ込むときに一緒に入ったのかも」

「……サノヤス、ちょっとハセにどういうことか聞いてこいよ。どうやって中に入ったのかと、あと、何でグラウンドから戻って来る気になったのか」


 今の長谷川に未来の予定を聞けと言っているのだろうか。それとも、次に見る夢の中で、どうだったと尋ねろと言っているのか。

 どちらにしろ無理だ。

 広瀬の戯言には返事をするまでもない。


「けどさ、この部屋の防音が凄いってことは分かったわよね? 閉まってるときは中の笛の音、全然漏れてなかったもん」

「だな。何でここまで?ってくらい防音してたな」


 確かに。設計段階でどのような用途を想定されていたのか不思議なくらいだ。築年の古い校舎だからこそ、といったところか。


「英梨奈。あの子が水沢さん、で合ってる?」

「あ、そうよ。噂のね」


 あのキツイ感じ。薄々そんな気はしていたが、やはりそうだったか。


「白峰先輩もそういう話に興味あるんですか?」


 言外に、そんなはずないと思いますけど、という前置きが付きそうなニュアンスで磯辺が尋ねる。

 俺も白峰が興味本位でそんな質問をするようには思えなかった。


「いいえ。別に興味はなかったんだけど」

「だけど?」


「……もしかしたら、視聴覚室の鍵の件は何とかなるかもしれないわ」

「ん? どういうこと? 美尋、なんか知ってんの?」


 何かを察して、吉岡のテンションが上がる。


「言わない」

「……そう」


 いつもどおりの白峰の淡泊な応答に対し、若干の間を空けたのち、吉岡は意外なほどあっさりと引き下がった。

 俺も今のやり取りを聞いて、白峰がどんなことを企んでいるのか、想像できたことが一つあったが、あえて深く考えないことにした。

 重要なのは、視聴覚室のドアの鍵を開けておく方法について、俺たちがあれこれ悩む必要がなくなったということだ。少なくとも、白峰が次にこの話題を持ち出すまでは。

 親友の吉岡はもちろんそうだろうが、俺も、他の皆も、白峰に対してはそんな妙な信頼を持つようになっていた。

 願わくば、白峰の考えている方法が、学校側に黙って合鍵を作るよりも穏便に済む方法であることを祈ろう。

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