6月10日(木曜) 俺たちの生存戦略①

 結論から言うと、最後に広瀬が発した言葉は「何か食うか?」だった。

 俺に読唇術の心得があるわけもないのだが、顔の表情やシチュエーションも合わせて考えると、そう考えるのが一番しっくりきた。

 試しに広瀬本人にも同じように喋ってもらったが、まず間違いないだろうと思われる精度で唇の動きは一致していた。


「あんた、もうちょっと意味あること喋りなさいよ」


 吉岡が辛辣に広瀬を非難したが、さすがにそれは無体である。


「でも、何か、ということは、口に入れる物にも幾つか選択肢があるということよね?」


 言い争う広瀬と吉岡をよそに、白峰が淡々と分析を口にする。


「かなり長い期間、視聴覚室に立て籠ることになるんでしょうか?」

「長谷川がいたことを、どう考えるかだな」


「それなー。何で戻って来るんだ、あいつ?」

「外より中の方が安全そうだからって理由じゃ不十分ですよね。気持ち的には普通、騒ぎの中心からは離れたいでしょうし」


 それからしばらく長谷川が視聴覚室にいた意味についての議論が続いた。

 白峰からの指摘で初めて気付いたが、夢の中で目にした情報だけを頼りに推論すれば色々な……、それこそ無数の解釈が可能であった。

 そもそも長谷川がグラウンドの向こうまで走って行った最初の夢と、長谷川が視聴覚室の中にいた今回の夢が、完全な地続きの世界ではない、という可能性もあるのだ。

 この部屋で俺たちが情報を共有し、議論を重ねてきたことが未来に影響を及ぼし、その結果、長谷川の居場所が変わったという解釈だって十分あり得る。

 それこそ、三度目に見た夢では、学校にあのゾンビのような化け物が現れてさえいない可能性も。


「それらしい推論は幾らでもできるけど、その答え合わせができるのは一度きり。今後も十分な情報が揃うかどうか分からない以上、私は実際にその夢を体験している佐野君の直観を信じるのが一番確度が高いと思うわ。……論理的な手順ではないけれど」


 あいつらが音に反応しているのだと、夢の中で〈分かった〉のと同じように、視覚情報以外の、行間のようなものを感じ取れないか、とも言われた。

 すでにいろいろな推論を聞いた後で、それらに引きずられないようにする、というのはかなり難しい相談だが、理屈抜きの直観というものを働かせられるとすれば、それは夢を見ている俺本人をおいて他にいない。


「……確信があって言うわけじゃないんだが、長谷川は学校の外に出たくても出られなかったんじゃないかって気がする」


「それは、どんなことが原因かしら?」

「いや具体的には……」


 対話の中から無意識の直観が引き出されることもあるだろう。

 白峰はおそらく、そんなことを考えて訊いたのだと思うが、生憎とそこに閃きは得られなかった。


「直接長谷川がどうこうという話じゃないが、ただ……。そもそもあの夢には最初から、全体的に孤立感があった気がする。当面危機は去ったけど、どこからも助けは来ないと知っているような、そんな空気を感じた。……それが理由かな。

 長谷川も、学校の外まで行こうとしたが、叶わなくて帰ってきたんだと考えるとしっくりくる」


 今まで見た夢全てが、それぞれ分断された別の世界かも知れない、という白峰が提示した解釈は、聞いたときには感心したが、直観に従うならその可能性はあり得ないと思う。

 言われるまで考えも及ばなかったのだから。

 時間が飛んでいるにも関わらず、疑いもなく前回の続きだと感じたこともそうだ。

 無論、必ずしもその感覚が正しいとは限らないが、自分の役目として直観的な意見を求められているのだから、そこは開き直るしかない。


「学校全体が閉鎖空間にあるようなイメージかしら?」

「そう……だな」


「じゃあ、その線でいきましょう」


 白峰があっさりとそう仕切ったことに俺は慌てた。


「ただの勘だぞ?」

「勘が働くって凄いことよ? それに情報が揃うのを待ってたら何も行動しないまま、手遅れになるかもしれない。食い違う情報が出てきたら軌道修正するとして、今は佐野君の勘を信じましょう」


 俺のただの当てずっぽうが皆の命運を左右すると考えるのは正直気が重いが、ひとまず仮説がなければ始まらない。

 俺は渋々、そんなものかと自分を納得させる。


「それに、私は今の話、結構ポジティブな情報だと思うわ。是非、そうであって欲しいくらい」

「何でよ?」


「学校の外には拡散しないだろうからよ」

「あ……、そうか」


「視聴覚室に避難した後の目標は、学校からの脱出じゃなくて、ひとまずゾンビもどきを何処かに封じ込めることにしましょう」


「ああっ! 先輩。ゾンビもどき、じゃなくて〈モヤゾンビ〉ですよぉ!」

「ああ、そうだったわね。ごめんなさい」


 〈モヤゾンビ〉というのは磯辺の発案で俺たちが名付けた化け物の呼び名である。

 いつまでも、ゾンビみたいな奴、とか、吸血鬼っぽいの、とかいう持って回った呼び方では会話がしづらいということで、俺が見た印象にできるだけ近い命名として選ばれた。

 ゾンビと呼ぶには動きが速過ぎるが、全体にモヤがかかったように輪郭がぼやけて見えるところは良く言い表していると思う。

 名前を付けることの是非についても俺たちの間で一悶着あったのだが、磯辺が主張するところによれば、〈名付け〉は日本の古式ゆかしい怪異への対処法であり、対象を一定の型にはめ、パワーダウンさせる効果を見込めるのだとか。


「そうだ。広瀬君と、そのもう一人の彼が食べていたカップラーメンの銘柄は?」

「普通の、あれだよ。なぁ、広瀬がコンビニでよく買って食べてる」


「あー、あのベーシックな奴な。あの味、ときどき無性に恋しくなるんだよな」

「ときどきか? 冬はコンビニ寄る度に食ってた気がするが」


「一応銘柄を合わせて準備しておきましょう。あと、視聴覚室に電気ポットの類はないはずだから、そういった物資を中に持ち込む方法も考えておかないと」


 白峰がそういった細かなことにこだわるのは、これより前に俺たちの間で基本的なプランを決めてあったからだ。

 今後の夢の展開にもよるが、もしも夢と同じ状況になった場合は、ひとまず夢と同じように行動することを目指す、というのがそのプランだった。

 仮に〈モヤゾンビ〉が突如として校内に現れたとしたら……。もしそうなったら、パニックになった校内で、それから首尾よく逃げ果せるかは運任せになるだろう。

 それに対し、夢の中の俺たちは、少なくとも視聴覚室の前までは全員無事にたどり着けている。

 視聴覚室に隠れることが本当に最善であるかどうかは誰にも分からないが、三階の隅にある部屋なので騒ぎの中心からは比較的遠いし、何より防音が施されている部屋なので当座の避難場所としては申し分なさそうだ。

 だから、その通りに行動をなぞれるものなら、なぞっておこうという考えだった。

 随分割り切った考えだが、全員がその境地に達するまでには当然それなりの曲折があった。

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