あかりの日記 抜粋
あかり
綺麗なフォントの言葉は無機質でとても鋭利だ
夢を見る。
毎晩同じ夢を。
男を殺す夢だ。
ガタイのいい男に馬乗りになって何度も胸を包丁で突き刺した。
男は動かなかった。
形がわからなくなるくらい、胸の当たりを刺して、抜いて、刺して、抜いて。
私は気持ち悪くなってしまいそうだと思った。
でも、夢の私は笑っていた。
とても嬉しそうで、
とても安心しているような気がした。
これでもうこの人は動かない。
脅威は去ったのだと、安心しているような気がした。
目が覚めた。
とても天気がいい。部屋が明るい。夜にカーテンを閉め忘れたのか。いつもより明るいのは、昨日の豪雨の雫が太陽に反射しているからだろうか。それとも、自分が汚いからだろうか。
外の世界がやけに明るく綺麗に見えた。私とは違うのだと、外の世界が私を拒絶しているようだ。
また眠れなかった。現在午前10時。布団に入ったのは夜の12時。でも眠れない。ずっと外が明るくなるのを涙を流しながら見ていた。何が悲しいとかではなく流れてくるのだ。止めるのをもう諦めてしまった。
少し眠気が押し寄せてきた時には、外を小学生が通る声が聞こえた。8時…くらいだろうか。
私が小学生の頃は、7時半くらいには家を出ていたなあと思った。それでどれくらいに学校に着いていたのだろう。そんなどうでもいい思い出に思いを馳せてみる。
布団に自分が沈む感覚が怖くて目がまた覚める。
時計は9時になるところだった。
そしてまた眠くなる。そろそろ体力も限界のはずだ。もう3日もろくに寝ていない。食事も取っていない。お願い、寝かせて…。
ハッと気づくと時計は10時をさしていた。
眠れて2時間。今日は1時間。この長くて2時間の間に見る夢は決まって男を殺す夢だった。なんだったか、見覚えのある男だ。誰だったっけ。
この殺すという行為が毎回やり方が違う。色々な方法を夢の中で自分が試しているような気分になってとても気持ちが悪いのだ。きっと何かを表したものなのだろうが…それが寝不足で頭が回っていないからか、検討がつかない。
冷蔵庫の中を覗き込み、食べ物がないのを見て諦めた。そろそろ何か食べないとやばい気がする。そう思ったのだが、買い物をする気力もなかった。食べる気力もなかった。
私は一体なぜこんなに絶望しているのだろう。
ボサボサの髪の毛がはえた頭を掻きながら、洗面所へ。すると、なんだかとてつもなく体を洗いたくなった。汚いんだ。裸になって風呂に入ると、改めて感じた。
この体は汚い。
石鹸を泡立てて皮膚を擦った。赤くなるだけで汚れは落ちなかった。何度洗っても納得いかない。
落ちない。
落ちない。
落ちない。
やがて疲れてしまった。汚いのは嫌だがそろそろ皮膚がヒリヒリしてきた。泡を流してタオルで水分を拭き取った。
ハッとすると深夜2時だった。
寝ていたのだろうか。分からなかった。
いつの間にか部屋の電気がついていた。テーブルに水を飲んだコップが置いてあった。髪は乾いていた。
誰か来たのだろうか。いや、分からなかった。
夜は寝る時間だ。そう思ったので腰掛を体に巻き付けて、座椅子を枕にした。布団では眠れないから。さすがにウトウトしてきた。
男が私の首を掴んできた。苦しい。
腕が太くて力では敵わない相手だと思った。
すると、私は男の首に手を伸ばした。ありったけの力で相手の首を絞める。
相手は思わぬ反撃に動揺して手を緩めてしまった。
気づくと、私は男に馬乗りになって全身の体重を腕に集中させて首を締めていた。
私の首に手を伸ばしていたはずの男はだらんと力なく腕を地面に投げ出している。
死んだのか。
それでもなお、私は彼の首を締めていた。
雨が降っている。寒そうだ。
顔にかかった髪の間から、恍惚とした自分の笑顔が見えて恐ろしくなった。
起きた。眠れたのだ。
時計は午前14時。布団がダメなのだ。布団さえなければ眠れる。私は突破口を見つけた。
眠ると頭が冴えてくる。だから気づいてしまった。自分がどうしてそんな夢を見るのか。
あの男が私を無理矢理抱いた人間だからだ。
その瞬間、スマホが光った。びっくりして液晶を恐る恐る触る。
友達からだった。
「今日の講義、来れそう?」
ゼミの子だ。なんと返せばいいのか分からなかった。あんなに真面目に行っていた講義をこの週は全て休んでいたのだ。
「ごめん…体調崩してて寝てた。明日には行けると思う」
無理しないでね、と返ってきた。申し訳なくなる。嘘をついている。体はとても元気だ。
またスマホが鳴って、ゼミの子かと思ってふっと見た。
凍りついた。
元彼だった。あいつだ。
「明日、ラーメン食いに行こうよ」
恐ろしくなった。行ったらまた同じようにされるのだろうか。でも行かなかったら…。
家も学校もバレている。逃げられない。
友達にバレたらどうしよう。友達を辞められてしまうだろうか。誰かに話せるだろうか…。
結局、次もその次も学校へは行けなかった。体を洗うのに忙しかったから。
やっと学校に行くと、心配されたが友達2人にノートをみせてもらった。
その2日後にゼミの子にランチに誘われた。学食で1番安いかけうどんを頼んだが、あまり箸が進まない。
「まだ体調悪いの?」
彼女は私の顔を覗き込んだ。パンを食べていた。
「いや…」
心配してくれている友達に、何も言わないのは良くないのではないだろうか…。ここ数日、授業中の居眠りも、ノートの写しも、課題の提出も全て彼女ともう1人に頼りきりだった。
「……眠れなくて…」
それだけでは無い、という事を言ってしまった方が楽だろうかどうしようか悩んでいると、彼女は静かに食べるのを辞めた。
頭が回らなかった。
気づいたら喋っていた。
別れを告げたら元彼に酒を飲まされて一晩乱暴に抱かれたと。もうこの子は私と一緒にいてくれないと思った。
怖くて俯いていると、彼女はゆっくり私に聞いた。
「元彼には、まだ会ってるの?」
なんと返せばいいのか、迷ったが、正直に頷いた。
「スマホ貸して。ブロックする」
彼女はスマホを私に返すと、その後の私の生活についてツラツラと話し始めた。
まず、その男からの連絡をチェックしないこと。
何かあったら1人で解決しようとせず、まず相談すること。
家のインターホンがなったら必ず誰が来たのか確認してから動いたり声を出すこと。
怖かったら人の家に泊まりに行くこと。又は泊まってもらうこと。
布団を新しくすること。
「それから、今日は空ちゃんの家でパーティーしよう」
「…え?」
「今連絡した。一緒に荷物取りに行こう。で、スーパーでお惣菜買って花火も買おう」
「リンファさんは…荷物は…?」
「私は空ちゃんに借りる」
唐突過ぎてついていけない。でも、分からないけど気持ちがふわっと楽になった。
「なっっっんじゃそりゃ!!!!」
空ちゃんは飲んでたほろよいをテーブルに叩きつけた。
「そんな男…!!…意味わからない…!!」
最終的に泣き出した。
「どうしてあかりちゃんがそんな風にならなくちゃいけないの?!」
「空ちゃん、落ち着いて…壁薄いんじゃないの?」
リンファさんが空ちゃんをなだめていた。
空ちゃんが作ってくれたスープを飲みながら、久しぶりのまともな食事を摂取しているなと考えていた。
「私…あかりちゃんがそんなことになってると思ってなくて…なんか場違いなLINE入れちゃった……」
空ちゃんが今度は落ち込み始めた。
あの日私に講義に来るか聞いてくれたのは空ちゃんだった。私はそんな空ちゃんを見ていると申し訳なくなってきて、謝った。
「なんであかりちゃんが謝るの!?!」
今度は怒った。
今日の空ちゃんは忙しい。
いつもはクールで物静かなのに。でもこんな風に心配してくれて怒ってくれて、本当に素敵な友達だと思った。
スープはなかなか量が減らなかった。
「明日はあれ、観に行こ。映画」
リンファさんはマイペースに明日の予定を話し始めた。すごいな、この空間。ほろよいだけでこうなるのか。私だけシラフでひたすらコーラを飲んでいた。
眠れない私に付き合って、2人とも私とずっと話してくれていた。アニメの話、本の話、授業の話。楽しい話をひたすらしたあと、卒業論文の話になる。卒業のためにも、ちゃんと学校に行かなくては…。
3人で明け方に川の字で寝た。次の日は土曜日で、昼過ぎに起きた。映画は観に行かなかった。そのままグダグダと過ごしてお開きかと思ったら、もう一晩泊まることになった。
正直ホッとした。
そんな感じで2人は私に怖がる暇を与えないように行動してくれた。
図書館で課題をすると集まった時も、リンファさんは私のスマホをぶんどって、スマホゲームの育成を勝手に進めていた。
過保護だな…と思いながらも、スマホが自分の手元から離れたことにものすごく安心していた。
しかしながら、リンファさんの課題はなかなか進まなかった。ちょっと申し訳なかった。
この頃、私は忘れっぽかった。授業を受けに来たのにペンを忘れたりノートを忘れたり、挙句講義の後にカバンを教室に忘れたり。
一つ一つはよくあることでも、積み重なれば異常に見える。
それに私は記憶が一部欠けていることにも気づき始めた。
まさに事件が起きた日の夜から次の日の夕方までの記憶がすっぽりと抜けている。不快な記憶を思い出すのも嫌なので意図的に思い出していないだけかもしれないと思ったが、それにしては不思議なくらいすっぽりと記憶がなかった。
酒を飲んだというのは覚えている。
確か、箱根で2人で買ったビールが残っていたから、このまま飲んでしまおうという話をしたのだ。これを飲んだら帰るからと。
その後何があったのか…。なぜ自分が行為をされたとわかったのだろうか。
だが、確かにその感覚が身体にはあった。
覚えているのは恐怖と、「可愛いよ、あかり、可愛いよ」という囁き声だけだった。それなのに、生々しく身体が覚えている。
思い出す時、写真のようにどこか一部がパッパッと思い出された。
私を見る目。
私の腕を握るの手。
私の胸を撫でる手。
私の足を開く腕。
私の口に口をくっつける感覚。
そこまで思い出して、トイレに駆け込んだ。
いつもそういうものしか思い出せない。自分がどうだったかとか、相手がどうだったかとか、そんなのがなかった。とにかく起こった出来事の情景を思い浮かべては気持ち悪くなるのだ。
気持ち悪い。こんなことが本当に起こったと信じられなかった。でも、身体が覚えていた。
また体を洗いたくなった。
汚い。
卒業論文の提出が迫り、私たちは焦っていた。講義のない日は毎日図書館に籠り、本や資料とにらめっこしながら文章を書く。
何度確認しても、何度添削しても何かが間違っているような気がする。好きで選んだ題材に罵声を浴びせる日々が続いた。
そんなある日、空ちゃんから声をかけられた。
「もし良かったら、卒業式まであかりちゃんの家に居候させて欲しい」
どうやら、アパートの契約が卒業より早く切れてしまうらしい。
一人でいると沈みこんでしまう私を一人にさせたくないという、彼女の優しさも見えた。それには気づかないフリをした。彼女がそれを表に出さなかったからだ。
「一緒にいれたら楽しそう」
それが私の答えだった。
卒業論文の提出後、彼女が家に最低限の荷物を運び込んで2人での生活が始まった。
私は空ちゃんがいることが心地よくて甘えてしまった。空ちゃんは私が少し以前と違って感情の起伏が激しいことにも嫌な顔一つせずに卒業まで一緒にいてくれたのだった。
そんな中、空ちゃんが1週間だけサークルの卒業旅行で家をあけた。私は不安でたまらなくなり毎日空ちゃんやリンファさんに連絡を取っていた。
ある日、部屋で1人分の食事を作っていると、ふっと事件の日の自分を思い出した。
私は男に腕を拘束されて布団に転がっていた。もう服は着ていなかった。
男は私の頬を撫でながら「あかり、可愛いよ」と何度も呪文のように唱えていた。
私がなにか叫んでいる。
髪の毛は乱れて山姥みたいだった。自分が何を叫んでいるのか最初は聞き取れなかった。とてももどかしくて腹立たしかった。あんなに叫んでいるのに聞こえない。思い切りバットを振っているのに全部からぶってしまうような。うるさい音の聞こえる夢で手探りで音源を探すのに見つからないような。そんな虚しさがあった。
徐々に声が聞き取れるようになる。
頬を伝う涙の温度を思い出した。
叫びすぎて喉が焼けるように痛い。
彼が触る肌の不快感から逃げたい。
助けて、誰か。
遠くから聞こえてくる声がだんだん近づいてくるみたいにその時の感覚が蘇っていく。
「もっと可愛いって言って!!」
叫ぶ女の声が耳元でキーンと響いたような気がした。
ガシャンッと包丁を床に落としてしまった。
包丁は私の足の少し前に落ちている。刃物の落ちる音でハッとした。
危ない。怪我がなくてよかった。切っていた人参をボウルへ移し、ラップをかけて冷蔵庫にしまう。
今日は食べられそうにない。
麦茶を飲んで、いつものように座椅子を枕替わりに、リンファさんと空ちゃんがくれた毛布にくるまって目を閉じた。
山姥みたいな私は泣いていた。ボロボロ泣きながら男に自分を肯定する言葉を呟かせていた。なんて汚い。なんて気持ち悪い人間なのだろうか、私は。
空ちゃん、早く帰ってきて。
拭っても拭っても、涙が溢れて止まらなかった。
空ちゃんが帰ってきてからも、なかなか思い出した出来事について誰かに打ち明けることは出来なかった。更に情緒が不安定になった私に、空ちゃんとリンファさんは大学の保健室のカウンセラーさんのところに連れていってくれた。
それが自分の救いになったかどうかは分からなかった。
本当に誰にも喋れなかった。
それから卒業しても、なかなか私は人に心を開かなかった。それどころか、男嫌いが酷くなる一方だった。
都会での一人暮らしが怖くて、地元に戻った。やりたい仕事ではないが、やりがいのある中小企業の事務の仕事をしていた。
しかしそれもやめてしまった。
親にはなかなか事件のことを話せなかった。やっと母親に話した時はほとんど相手の悪口になってしまっていた。
それを聞いた母は「あなたを好きになってくれた人を悪く言っちゃダメだよ」といった。
母はいつだって正しい人だった。そんな母が好きだった。だから苦しかった。
「でもそれは、私を傷つけた人なんだよ?」
とは、口が裂けても言えなかった。それは正しい答えじゃなかったから。私は正しい人間ではなかった。それを言ったら、私は本当にお母さんに、家族に嫌われてしまうと思った。
でも、苦しかった。
最近になって思い出したことがある。
夢の話に戻るけど。
夢の中で男を殺していたのは、私の無くなっていた記憶の一部だったようだ。随分と脚色されているが。
ラーメンに誘われた以外に、私は別れてから彼の家を2回訪れているのだ。
1度目は呼ばれて行った。抱きしめられてすぐベットまでいった。その後、私は深夜に起きた(厳密には寝ていないが、横にした体を起こした)。彼がスヤスヤ寝ているのを見ながら彼の首におもむろに手を伸ばしていた。
もう少しで彼の皮膚に触れる。その瞬間、彼は鼻が詰まった様にふがっと言って、腹を掻き始めた。それが無性にムカついたのを覚えている。私の腕では殺しきれないと分かってやめた。自分の無力さに腹が立った。
その瞬間に彼が起きた。
「どうしたの?」
と甘えた声を出して私の頬を包む。気持ち悪い。吐き気がする。
「ううん、ちょっと目が覚めちゃって。おやすみ」
その頃夜は眠れないからだろうか、苛立ちが募っていた。彼の隣で寝たフリをしながら、スマホをいじっていた。朝日が登るのをみて、安心したのをよく覚えている。
2度目は、雨の日だった。帰りが遅くなるという彼をわざわざ家の前で待っていたのだ。風呂に入っている隙に彼の部屋の台所で包丁の入っている場所を確認した。
見つけた包丁は、とても切れ味が良さそうだった。彼が別れる前に少し高い包丁を買ったと話していたのを思い出した。
その夜、また抱かれたあとに私は彼にまるで恋人同士のように甘ったれた声で質問をした。
「まだ、私の事好き?」
「うーん…分からなくなっちゃった」
殺していいと思ったのをはっきりと覚えている。
いや、はっきりと思い出せたのだ。
トイレと嘘をついて包丁を取りに行った。寝ぼけた男が抱きしめていた私を解放する。別に行きたくもなかったトイレの水を流して、キッチンへ。包丁を手にした瞬間、全身に汗をかいた。心拍数が上がって、唾液がたくさん出た。まるで自分を傷つけるのだと錯覚したかのように、鋭利な刃物が怖くなった。
彼のいる部屋の扉に手をかけた瞬間、弟の顔を思い出した。姉が人殺しになる弟の気持ちはどんなものだろうか。弟が世間からどう言われるだろう。お母さん、お父さん。
私はその場に座り込んでしまった。奴は呑気に寝息をたてていた。私は一人で声を殺して泣いていた。
その日も眠れなかった。
彼は私が帰る時に、私の頬にキスをしてきた。それが彼と会った最後だった。
駅のトイレで人の目を憚らずに頬を洗い流した。
髪の毛も着ていた服も全部びしょ濡れで、電車に乗った時は酷い格好だった。
きっとみんなが変なものを見る目で私を見ていたことだろう。でもそんなこと気にしなかった。
とにかく腹が立った。殺してやりたい。でもできなかった。できない理由を弟や両親のせいにしている自分が許せなかった。
死んでしまえ。
自分に何度もそう思うのに、できなかった。
死ぬには、私は周りに愛されすぎていた。
記憶の一部というよりは、「こうなったらいいのに」と心のどこかにあった願望だったのだろう。そうしないと生きることができなかったから。
殺さなくて良かった。
視野が開けた今ならば、そう思える。
彼には、どこか知らないところで早く死んでくれと思っている。
あかりの日記 抜粋 あかり @akari-kokuhaku
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