第二章 凍てついた東京、その変わり果てた世界でその二
自動車が走っている音がする。その車の振動に自分が揺られている感覚と、車内まで通り抜けて聞こえてくる耳障りな風切り音で、まりんは意識を取り戻す。
まだ半分眠っている状態の彼女が最初に気付いたのは、後頭部が人肌に触れている温かい感触だ。目を少しだけ開くと、そこにはさっきの女の顔があった。
「残念。寝顔が可愛すぎて、起こしたくなかったのに」
「お姉……さん? い、生きてたんですかっ?」
まりんは、はっとして起き上がろうとする。しかし、力が入らない。そればかりか全身が筋肉痛を起こしたような痛みで、顔を歪めた。
「い、痛ぁ……」
どうやらまりんは走行中の自動車の後部座席で、女に膝枕をされた体勢のまま寝ていたようだった。
今、どこへ向かっているのか、行き先は見当もつかない。しかし、この場に自分がいるということは、少なくとも一先ず助かったのだと、心からほっとする。
ただあの時、あの後に何が起きたのか、よく憶えていなかった。記憶の最後にあるのは、救世ボランティアの女性が怪物に殺され、頭に血が上った所までだ。
でも、彼女はこうして無事な姿を見せてくれている。それに見た感じでは、怪我をしている様子もなさそうだった。
「綺麗な顔。それに艶のある、いい髪ね。でも、寝癖が酷いよ。いくらこんなご時世でも、女の子は身嗜みを整えておかないと駄目だからね、お嬢ちゃん」
「あ、す、すみません! ちょっと慌てて家を出た……ものですから、確か」
嘘ではなかった気がすると、まりんは思う。頭には霞がかかっていて、はっきりとした記憶は出てこないが、あの日、あの時――急いでどこかに向かっていたのだ。
痛みで思うように身体を動かせない彼女の髪を、女は手でそっと撫でる。女のその目と所作は、優しく包容力に満ちているように見えた。
快活で大人びた女性、初めて会った時からその印象は変わらない。じっと顔を見つめ続けてくる彼女に、まりんは一瞬、ドキリとして目を逸らしてしまう。
「あ、あのっ! 私は東郷まりんって言います。お姉さんの名前、まだ伺ってませんでしたよね。よければ、教えてもらえませんか。呼ぶ際に不便ですし」
「ん、そういえば名乗ってなかったね。私は、ミリル・ベーカー。気軽にミリルって呼んでくれたらいいよ、まりんちゃん」
「は、はい! よろしくお願いします、ミリルさんっ」
やはり初めて抱いた印象の通り、気さくで話しかけやすい女性だと思った。
ちらりと運転席に視線を向けてみると、運転しているのは彼女と同じ救世ボランティアの男性だろうか。
彼も前に会った男性二人に負けず劣らず、恵まれた体格をしている。信用できる相手なのか不安になったが、疑心暗鬼になっても仕方がないと考え直した。
これから彼女達の集落で暮らすならば、彼女達に馴染む努力をしなくてはならないのだ。ミリルが信頼している仲間ならば、自分にとっても敵ではないはずだと、納得しようとすることにした。
それにまりんには、向かわなくてはならない目的の場所がある。あくまで彼女達の集落は、一時的に身を寄せる宿になるだけだろうから。
そんな不安な気持ちを見透かされたのか、彼女はまりんの頬をそっとなぞりながら、笑いかけてくる。
「大丈夫、怖くないよ。私が守ってあげるからね、まりんちゃん」
「え、そのっ……!」
心の内を言い当てられたと思い、まりんはドギマギしてしまう。動揺したまりんの顔を眺めながら、ミリルは楽しそうに微笑んでいる。
もし、自分に姉がいたらこんな感じなのかなと、戸惑いながら思う。
それに、見れば見る程、綺麗な大人の女性だ。最初は慌てたものの、まりんに居心地の悪さはなかった。
揺られる車内で彼女に膝枕をされながら、どうしても思い出してしまうのは、これまでに遭遇した出来事の数々だ。
東京の街で目覚めてからの体験は、どれもが信じがたい出来事ばかりだった。事実と受け入れるには、これまでの常識を捨てなくてはならないかもしれない。
凍り付いた東京の街並み。立て続けに現れた、巨大な蜥蜴のような二体の怪物。
そして個人的に気になるのは、ミリルの首筋にある火傷痕だ。まりんが助けようとした男児と同じ位置に火傷。
しかし、その容姿もさることながら、年齢も性別も違う。同一人物ですかと本人に直接聞くのは、突拍子もなく、さすがに失礼だろうと思い留まる。
「また降ってきたね、雪。さっきからしばらくは止んでたのに」
窓の向こうを見るミリルが口にしたように、車外では雪がまたちらつき始めた。強く吹いている風と共に、雪が窓に叩き付けられている。
相変わらず、外は風の音以外は何の騒がしさもない、無人の世界だ。東京には彼女達の集落しか残っていないらしいが、東京以外の街はどうなったのかも知りたい。
しかし、いずれ彼女の方から教えてくれるはず。急かす必要はないはずだと、まりんはしばらくの間、成り行きに任せることに決めた。
「もう少し辛抱してね、私達の集落まで辿り着ければ安全だから。あそこは対キャンサー用に開発された、デストック社製の兵器が残ってるんだよ」
「デストック社って、確か……救世ボランティアを支援していた兵器メーカーでしたよね。キャンサーというのは、やっぱりあの怪物のことなんですか?」
「そう、北海道の札幌都市跡から出現した怪物の総称を、かつて国連はそう呼んでた。世界がここまで荒廃した一因は、奴らにあるの」
忘れていた事柄が、ミリルの言葉によって次第に鮮明に蘇ってくる。やっと思い出したのは、失われていた記憶の一部だ。
北海道の札幌に小型隕石が落ちた、あの日以降。世界中が寒冷化するだけに留まらず、その跡地から怪物達が溢れるように出現した。
奴らの群れは日本の本州まで南下し、更には海を越えて、世界中の国々にまで侵攻を始めたのだ。
しかし、各国の軍隊が奴らに太刀打ちできなかった訳ではない。通常兵器を駆使して、撃退することは出来ていた。
そればかりか、原因究明のために米国、露国、中国などの大国を筆頭に、北海道に武装調査団をこぞって送り込む余力まであったのだ。
だが、そんな中にあって、人類にとって大きな誤算が起きた。世界の国々が総崩れになってしまう程の。
「奴らはね。大地の癌という意味で、キャンサーて名称なんだよ。現代兵器で倒せない敵じゃなかったけど、その機に乗じて人類のどこかの国から裏切りが出た」
「そ、そうですよ! そこまでは思い出せました。確か、北海道に向かった各国の調査団の間で、小競り合いがあったってテレビで……っ!」
「私も現場を見た訳じゃないから、どの国が裏切ったのかは知らないよ。でも、そいつらによって他国の調査団は全滅。時を同じくして地球全体が凍り付いたわ」
ミリルは今までの笑顔を一転させ、深刻そうな顔で、そう口にした。でも、裏切りを行ったとして、その国はそれで何を得たのだろう。
地球全体が凍ってしまったら、勝利者などいないのではないか。まりんは腑に落ちなかったが、それよりも気になることがあった。
それは、今の状況を変えようと動いている国はいないのか、ということだ。米国は、露国は、中国は……?
あれだけの国力を誇った大国が皆、やられたとは思えない。もし生き残りがいて、まだ活動しているのなら、希望はあるのではないか、そう思った。
「ねえ、まりんちゃん。今度は君のことを聞かせてくれる? 君が何者で、どこからやって来たのか。知りたいんだ、私」
「わ……私は、都内の高校に通っていた、ただの高校生です。ずいぶん前から授業はやってなくて、自宅待機中だったんですけど、用があって外出してた時に……え、ええと……」
街中で救世ボランティアの構成員達に面白半分に撃ち殺された。……と、正直に伝えてもいいのか、まりんは少し迷った。
ミリルも救世ボランティアの一員と言っていたし、気分を悪くしないか不安はあったが、嘘をつくよりマシだと思い、素直に白状する。
「私、一度は殺されたんです。あの時、東京の街中で救世ボランティアの人達に襲われて……。でも、なぜか今はこうして生きてるんですけど」
「一度、殺されて生き返ったって言うの? うーん、その理由は分からないけど、君を襲ったのは、きっとデストック社の息がかかった新鋭兵器の需要拡大派の連中だね。私達の組織にも色々と確執があってさ」
救世ボランティアにも派閥があったとは、まりんにとって初耳だった。しかし、どうにもこれまでの会話の中に、どこか噛み合わない所があると感じる。
それは時系列だ。自分が殺されてから一日かそこらで、ここまで世界が大きく変貌してしまったとは到底、考えられない。
実際はかなりの時間が経過しているのではと、知りたくもあり、怖くもあった。とはいえ、それでも聞かなくては前に進めない気もする。
少し躊躇したが、勇気を出してまりんは、恐る恐るミリルに訊ねてみた。
「あの、ミリルさん。今って、西暦何年か分かりますかっ? それと世界がこんな氷河期みたいになったのって」
「……ん、ずっと引っかかってたけど、まるで今日初めてこの凍り付いた東京を見た言い方だよね。今は西暦二〇三二年の四月。世界中が氷に覆われてから、今年でもう十年目なんだよ」
「じゅ、十年っ!? そ、そんな……じゃあ、私、そんなに長い間、寝てて……」
数週間や数か月どころじゃなかった。十年もの間、死んでいたのだ。その驚愕の事実は大きな衝撃となって、まりんの心に襲い掛かった。
では、父は……学校の皆や知り合い達は、どうなったのだろう。こんな凍り付いた荒涼とした世界でも、まだ生き延びてくれているのだろうか。
望みは薄いかもしれないと思った。人っ子一人見当たらなかった静寂に包まれた東京の街を、まりんはその目で見ているのだから。
膝枕をされたまま、悲しみでパニックになりかけた涙目の彼女の顔に、ミリルはぐっと顔を近づけて言った。
「ねえ、まりんちゃん。私は味方だから、落ち着いて。もっと詳しく聞かせてくれるかな? 君は十年前からやって来た人間ってことでいいんだね?」
「そ、そうだと思います。私が殺されたのは、二〇二二年の六月でしたから」
「ふーん、なるほどね。当時、女子高生だった君が年老いることなく、そのままの姿でこの時代に目覚めた……。確かにそう考えれば、合点がいくわ。君が世界の現状を理解していなかったことにも、その服装にも。私は信じるよ、まりんちゃん」
ミリルの語り掛ける声は優しく、目は吸い込まれるような引力があった。異世界に飛ばされた状況に近い、まりんの動揺した気持ちが落ち着きかけるくらいに。
そのまま目を見つめていると、どんな意図かは知らないが、ミリルはフリースの襟を手で下ろし、隠されていた首筋の火傷痕をまりんに見せた。
大人の拳より大きく、生々しい火傷の痕だ。この世界で生き抜くために、あんな怪物達と戦ってできた傷痕だろうか。
しかし、なぜ今、こんな真似を。その理由は読み取れなかったものの、痛ましい火傷痕を目にした途端、意識が引き込まれる感覚を覚えた。
まるで催眠術にかかったみたいに、同時にこの人を助けてあげたい、親しくなりたい欲求が、自然と心の底から芽生えてくる。
「晒すよ、これが私の弱点。だから、君も私を信用して力を貸して欲しいの。私達には敵がいる。そいつらを倒すためには、まりんちゃんが必要なのよ」
「あ、あの……ミリルさん。私なんかの力でよければ……喜んで」
「ありがとう、まりんちゃん。大好き」
まりんはミリルの青い瞳から目が離せず、そう答えた。ミリルはそれに満足したのか麗らかな笑顔を浮かべ、まりんの額に口づけをする。
まりんの心臓の鼓動は、高鳴っていることを告げる脈音を打ち鳴らしている。この人が、大の男達を従えることが出来ている理由が分かった気がした。
屈託のない笑い方や、身振り手振り。どれ一つをとっても、まるで恋人にそうしたいように、つい喜ばせてあげたくなるのだ。
勿論、かなりの西欧美人であることも後押ししているのは間違いない。同性であるまりんでさえ、こうも篭絡されたのだから、男であれば尚更だろう。
ただ、悪い気分じゃないと思った。得も言えない心地で窓の外を眺めていると、乗っていた車がゆっくりと停車し、その周りで複数の犬達が吠え始めた。
「さあ、着いたよ、まりんちゃん。ここが私達の集落。今や東京都内で唯一、安全に眠れる人類の砦なんだからね」
「そう、なんですね。あっ、やっぱりまだ痛いっ……」
「無理はしなくていいよー。さ、お手をどうぞ、レディー」
まりんは身体を起こそうとしたが、やはり筋肉痛でそれさえ苦労する。そんな彼女をミリルは優しく両腕で抱き抱えると、車外に出た。
それと同時に歓声が上がる。車が停められたのはショッピングセンターの駐車場で、二人を出迎えてくれたのは、大喜びの人々と十数匹の犬達だった。
犬達の犬種は、ジャーマンシェパード。人間は成人男性だけでなく女子供もいて、全員が防寒具を着込み、二人の到着を大きな声で歓迎してくれている。
女性にお姫様抱っこをされて衆目の前に姿を晒すのは恥ずかしかったが、そこは誰も気にしてないようだった。
「まりんちゃん、まずは案内してあげる。このショッピングセンターが皆の住居で、ざっと三百人が暮らしてるんだからね」
「ほ、本当に……まだこんなに大勢の人達が、生きてっ……う、ううううっ」
人々が生活している集落があるというミリルの言葉を信じていなかった訳ではないが、実際にこの光景を目にしたことで、まりんの涙腺は緩んでしまう。
人類が滅んでいなかった実感がようやく湧き、嬉しさと安堵でミリルの身体にしがみ付くのだった。
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