第二章

第二章 凍てついた東京、その変わり果てた世界でその一

「ん、……どこ、ですかぁ? ここ、は……」


 まりんが全身に虚脱感を感じて目を覚ますと、空をちらつく雪が見えた。微睡みながら背中を地面につけ、仰向けになる。

 最初はそのまま粉雪が舞う空をぼんやりと見つめていたが、すぐに跳ね起きた。

 何しろ、今の季節は初夏。雪が降るなんて、あり得ないと気付いたからだ。いくら寒冷化が広がっていたとしても、さすがにこれは異常気象だと驚きを隠せない。


「ど、どうなってるんですかぁっ? な、何で雪……いや、それよりも私は、殺されたはずじゃ……っ」


 まりんは思い出したように後頭部に手をやって、傷がないかを確認する。救世ボランティアの男に頭を銃で撃たれた記憶は、今も生々しく憶えていた。

 それだけではなく、あの時の無力感と悔しさまでもが、ありありと。しかし、予想に反して出血の痕跡はなく、痛みすら残ってはいなかった。

 辺りを見回せば路面や建物が凍り付き、雪が積もっている。それを除けば、記憶にある東京の街並みそのままだ。

 ただ、人っ子一人いない。救世ボランティアの面々も、守ろうとした男児の姿もない。暴徒となって、街で略奪をしていた人々さえも見当たらない。


「え、ええと……ええとぉ、寝ている間に何が起きて……」


 まりんはこの現状に理解が及ばず、しばし茫然とその場に立ち尽くした。

 今、彼女が着用している服装はあの時のコーデと同じだ。しかし、こんな雪景色にもかかわらず、不思議と寒いとは感じなかった。

 そればかりか、身体中がほかほかし、触れた側から雪が溶けていく。よくよく見れば、彼女がいる路面の辺りだけが雪が積もっていなかった。


「私だけが、温かい? それに身体の調子も、すこぶる良いような」


 まるで夢を見ているような心地だった。いや、夢というよりは銃で撃たれた後、生と死の境を彷徨う臨死体験をしている最中なのかもしれないと思う。

 まりんはこれが現実か否かを確認するため、腕時計を見てみた。だが、故障しているのか、表示があの日と同じ日付けと曜日のまま止まっている。

 同じく停止した秒針と分針が指し示しているのは、あの時から数時間後だ。念のために頬をつねってみても、ちゃんと痛覚はあって痛かった。


「夢じゃない? じゃあ、どうして東京が凍って……それに他の皆は……」


 この場でじっと考えていても仕方がないと、まりんは歩いてみようと思った。同時に風が強くなってきて、それに乗った雪も激しく舞い始める。

 本来なら凍えてしまいそうな景色なのに、むしろ全身が熱いくらいだった。

 しかも、凍って雪が積もった路面を足で踏み締める度に、熱によって周囲の雪が溶けていく。

 だが、どれだけ歩けど人の姿はなく、まるで人類滅亡後の世界みたいだと、彼女は次第に不安が募る。

 それでも自分が生き残っているのなら、捜せば誰かしら見つかるはずだ。そんな希望的観測に縋って、彼女は根気強く歩き続けた。

 それに、殺される前はどこか行き先があったはずなのだ。世界がどうなっていても、そこに辿り着かなくてはならない強い想いが今も残っている。

 ただ最優先目的は変わらないが、記憶が戻らなければどうしようもない。まりんは必死に頭を働かせながら、手足の方も動かした。


「……誰か、いないんですかぁ?」


 まりんなりに精一杯声を絞り出すが、当然ながら返事はない。今、歩いている周辺は、かつては東京都内の商店街だったと思われる場所のようだった。

 ただし、どの商店も壁やガラスが凍り付き、あるいは割れてしまっている。人がごく最近、ここで暮らしていた生活の痕跡は一切、見当たらない。

 さすがにそろそろ寂しさに心労が蓄積し、心が擦り切れ出してくる。弱音を吐いて路面に寝転がり、泣き喚きたいと思った。

 それにここまで歩いてきて不思議と疲れはないが、空腹だけは誤魔化せない。腹の虫が何度も鳴り、心細さも手伝って挫けそうになる。


「お腹、お腹……空きましたぁ。温かいご飯、食べたいですよぉ」


 足元がふらふらして、まりんはその場に転倒しかける。咄嗟に身体を支えるべく赤白仕様のガードレールに手を伸ばすが、叶わなかった。

 突然、ガードレールが動き、路面から真上に大きくせり上がったからだ。そのせいで結局、転んでしまった彼女は顔を上げて、それを見上げた。


「ふえっ?」


 ガードレールに積み上がっていた雪が、ガードレールごとまりんの頭上から崩れ落ちる。そこから露わとなり顔を出したのは、巨大な怪物だった。

 無理に形容しようとするなら、蜥蜴を連想させるフォルムだろうか。

 全体的に茶色がかった体色。裂けた口からは長く鋭い犬歯を剥き出しにして、感情を感じさせない無機質な丸い目をしている。

 立派な四肢で身体を支えているが、それにしても蜥蜴にしてはデカすぎないかと、彼女は唖然と見上げながら思った。

 怪物の二つの目は確実にまりんを捉えており、捕食対象として認識しているのは明らかだ。

 瞬時に生存本能が掻き立てられた彼女は、その場から一目散に逃げ出していた。


「ひゃあああっ! な、何なんですか、あの怪物はぁ!?」


 あのデカさ。ゆうに全長六メートルはあるのではなかろうか。加えてゾウ並みの巨躯にもかかわらず、追ってくる動きはかなり素早い。

 四つん這いで手足を使って駆け、走行する車に匹敵するスピードだ。追いつかれたら確実に喰い殺されるという恐怖心が、まりんの身体を突き動かしていた。

 しかし、何度か捕まりそうになりかけるも、どうにか逃げ切れている。彼女は、そのことを疑問に思ったが、ハプニングでその思考は中断された。

 足元の石に躓き、凍り付いた路面で派手に転倒してしまったのだ。ドジな自分を呪ったが、時すでに遅し。

 顔を上げて振り返ると、すぐ目の前に怪物の顔があった。表情から感情は読めないが、これからこいつが何をしようとしているかは理解できる。


「ひぃぃ……た、食べる気ですねっ? ま、待ってください、助け……っ」


 そこから先は、あっという間の出来事だった。怪物が動くや否や、まりんは路面ごと抉られるようにして丸呑みにされてしまう。

 食べられ、気が動転する中、口内という暗所で咀嚼する音が響く。そこで鋭い牙に何度も何度も身を裂かれ、恐怖のあまり叫び出しそうだった。

 一度は、あの男児を守るために投げ出そうとした命だ。けれど、やはり失う間際になれば、惜しいと思ってしまう。

 男児と東京の人達は、どこに消えたのだろうか。自分の失われた記憶はどこに。それにこの巨大な蜥蜴は一体、何だというのか――と、彼女は今わの際に考える。


「え、あ、あれ……?」


 だが、そこでふと気付いてしまう。今現在、起きている、あり得ないことに。確かにまりんの全身は、怪物の鋭く細かい牙に噛みこなされている。

 だというのに、さほど痛くないのだ。更に、身体が芯から熱くなっている。むしろ、燃えているかと錯覚する程の、この熱さの方が異常なくらいだった。


「あ、熱っ! 何ですか、この……え、火ぃ!? 身体が燃えてっ……!」


 肉壁に遮られて外からの光が届かなかった怪物の口内で、光源が発生した。それはまりん自身から発せられる、赤く燃え盛る火炎だ。

 生じた火炎は逆巻きながら周囲に放出され、怪物の口から勢いよく漏れ出る。更にその少し後には、口内が大きく爆発した。


「ぎぇっ、ごぎゃぁぁああぁっ……!!」


 身体の内側からの爆発に、怪物といえど耐え切れなかった。頭部がふっ飛ぶ。断末魔の雄叫びを上げながら、怪物は路面にどちゃりと背中から崩れ落ちてしまった。

 まりんから溢れ出た火炎は一時的なもので、爆発と同時に消失した。そして怪物の肉片と共に体外に放り出された彼女は、路面に大の字で横たわった。

 全身の筋肉の疲労が今になってようやく襲い掛かり、声を出すのもしんどく、動けない有様。

 限界だった。数分、あるいは十数分は倒れていただろうか。やがて力なく寝転がっていた彼女の耳に、近づいてくる複数人の足音と、話し声が届いてきた。


「おー、こりゃすっげぇ。誰が倒したんですかね、こいつ」


「うーん、兵器を使った感じじゃないねぇ。かといって、生身の人間にこんな芸当は……。んー、現実的に考えちゃうと、こいつらの同士討ちかもね」


「けど、棚からぼた餅ってやつですよね、これ。蜥蜴の丸焼きだ、しばらく食い物には困りませんよ。今日は宴会でも開きますか? ははははっ」


 耳を澄ましながら、まりんは声を聞き取ろうとする。そして察した。声の数と声色から判断して、やって来たのは三人の男女だと。

 やはり人類は絶滅した訳じゃなかったんだと、心の底から喜んだ。力の入らない身体を無理に奮い起こし、路面に手を突きながら立ち上がる。

 そして勇気を出して、声を人の気配がする方に、絞り出した声をかけてみた。


「……誰か、いるんですかぁ?」


 しかし、いざ呼びかけてから、迂闊だったとまりんは少しだけ後悔する。同じ人間だからといって一枚岩とは限らないことを、身に染みて知っているからだ。

 何しろ、彼女はその人間に殺されているのだから。救世ボランティアが兵器を駆使して引き起こした、あの時の凄惨な光景が、苦々しい感情と共に蘇ってくる。

 もし声の主達が敵意を持つ者なら、自分はここで終わりかもしれない。目的の場所に辿り着くことなく、死ぬ。そう思うと、震えが止まらなかった。

 そんな気持ちを知りもせず、三人の男女のものと思われる足音は、次第に彼女に近づいてくる。


「ちょっと待って。足元がふらふらの女の子がいるじゃない! ねえ、どうしたの、君!」


「姐さんっ。この子、怪我してますよ! 早く手当てしてあげないと!」


 現れたのは、まりんの予想通り、女一人と男が二人だった。

 男二人の方は、どちらも大柄で逞しい身体をしている。そんな彼らから姐さんと呼ばれていたことから、少し背丈の高い女性の方が目上の立場なのかもしれない。

 寒さを防ぐためか、全員が防寒マスクやウールニット帽やフリースを着用しているため、顔はよく分からなかった。


「さーあ、力仕事だよ、男衆。この子を背負って、集落に運んであげて」


「がってんです、姐さんっ」


 女の指示で、男の一人はまりんを背中に担いでくれた。彼に背負われながら、この大きくて温かい背中はまるで父みたいだと懐かしく思う。

 そんなことを思い、つい気が緩んでしまったのだろうか。両目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ出してしまう。


「あ、ありがとうございます。訳も分からずに、こんな世界に放り出されちゃって……。こ、怖かったんですよぉー! う、うわぁああん!」


 まりんは男の背中の上で、あらん限りの声で泣き叫ぶ。そんな彼女を見た三人は、最初は戸惑っていたが、すぐに笑って、優しく声をかけてくれた。

 たったそれだけのことが、今まで心細かったまりんにとっては、堪らなく嬉しかった。もう大丈夫だ。助かったのだと思うと、安堵で涙は止まらない。


「けど、新しい顔を見るなんて、久々ですね。どこから来たんでしょうか? さっきのあのキャンサーを倒していた何者かといい、不吉な異変の前触れじゃなきゃいいんですが」


「ちょっと、彼女に失礼でしょ。この東京には、まだ私達以外にも生き残りがいたってだけのことよ。嬉しい知らせじゃない」


「そ、そうですね。すみません、姐さん」


 まりんは男の背中に身を預けながら、彼女達の会話に黙って耳を傾けていた。

 キャンサー? 蟹のことだろうか。聞き慣れない名称が出てきたが、話の流れから自分が倒した怪物のことを言っているのかもしれないと考えた。

 そして次第に平静さを取り戻してくると、彼女は今までの人生でここまで丁重な扱いを受けたことなんてなかったなと苦笑する。

 まるでお姫様のような丁重な扱いだと嬉しくもあり、気恥ずかしくもあった。


「あ、あの~、皆さん。他に生き残りは何人いるんですかぁ? この光景を見れば薄々分かりますけど、国からの援助とかって、もう……」


「ん~、まるで今日、初めてこの東京の街並みを見たかのような言い方なのは引っかかるけど……。私の知る限り、東京にはうちらの集落が一つあるだけだよ。日本はとうに国としての機能を失ってるんだ」


「そ、そうですか……」


 女の言葉を聞いたまりんは、がっくりと肩を落とす。眠っている間に日本で、いや、世界中で大きな天変地異が起きたであろうことは理解できた。

 しかし、ここまで世の中が壊れてしまったことに、ショックを受ける。

 北海道の札幌を起点に、日本列島に向かって寒波が広がり出した、あの時と比べても荒廃し過ぎているのだから。

 とはいえ、この環境に適応して生きていくためには、更に情報が必要だ。そう前向きに考え、今度は違う質問をしてみようとして、初めて違和感に気付く。

 この三人の男女は流暢な日本語を話しているが、どうやら外国の人間だということに。目の色から、それが分かった。


「あの、失礼ですけど、皆さんって日本人じゃ……ないですよね?」


 悪い予感が、脳裏を過ぎる。この凍り付いた世界で目覚める前、まりんを殺したのは、訛りのある日本語を話す外国の男だった。

 でも、まさかこんなに優しい人達が、そんなはずはないと自分に言い聞かせる。緊張しながら返事を待っていると、返ってきた言葉に背筋が凍り付く。


「君が知ってるかは知らないけど、私達はね。昔、国連から派遣された救世ボランティアの残党だよ。まあ、国連なんて今は壊滅的な打撃を受けちゃってて……ん、どうかしたの、君?」


「え、ええっ。救世……ボランティア……ぁ?」


 忘れもしない、あの組織のことだ。ここまで優しくしてくれた彼女が今、放ったまさかの言葉に、まりんは絶句し、それ以上の言葉を紡げなかった。

 しかし、死に際に抱いた感情が、心の奥底から湧き上がってくる。

 耐えがたかった、あの悔しさと無力感が。助かったと思って一安心していたのに、また再び奴らの生き残りと鉢合わせてしまうなんて、何という不運だろう。

 すぐにでも逃げ出したい気持ちと、こいつらを殺してやりたい衝動……。対立する感情がせめぎ合い、身を震わせた彼女はその帰結としてパニック状態に陥った。


「あ、あぁあああっ! この、このっ! 人でなしぃ!! よくも私を、皆を殺しましたねぇっ!!」


「わ、わあっ! い、いきなりどうしちゃったの、君っ!」


 手足をばたつかせ、男の背中でまりんは暴れる。彼はしばらく耐えていたが、後頭部を何度も背後からぶたれ、堪らずに彼女を足元に落としてしてしまった。


「あああぁっ! よくも、よくもぉっ! せっかく信用しようとしてたのに! また私を殺すんでしょ、どうせぇ!」


 錯乱状態で叫びつつ、まりんは路面の上を駄々っ子のように転がり回る。それを彼女達は慌てた面持ちで眺めていたが、やがて一人が何かに気付き、振り返った。

 それは、巨大な何かが大地を踏みつけたような地響きだった。

 男が見上げた先には、先ほどの蜥蜴の大きな怪物よりも、更に一回り大きい蜥蜴がこちらを凝視していた。

 高層マンションの影からぬっと顔を出し、揉めている最中のまりん達を無機質な丸い目で見下ろしている。


「う、うわ……やば、姐さん。逃げっ!」


 男が仲間の二人に呼びかけようとした刹那、その身体は宙を舞った。あらぬ方向に胴体がねじ曲がり、口からは血反吐を吐き散らかして。

 怪物の平手、そのたった一撃で彼が絶命したのは一目瞭然だった。直後、ぐちゃっと肉が激しく潰れて、血が飛び散る生々しい音がした。

 彼が路面に叩き付けられたその鈍い衝突音で、残った他の二人もそちらを向く。

 しかし、その時、すでに蜥蜴の怪物は女と男の眼前にいた。それも四つん這いで、大きく口を開けた状態で。

 普通なら、パニックに陥る状況だろう。だが、場慣れしているのか、男と女は仲間を失った怒りや恐れを抱くのではなく、反射的に次の行動に移ろうとしていた。

 しかし、それは時間的に間に合わず――っ。


「う、うおあああぁぁっ……!!」


 もう一人の男も、叫びながら瞬時にして怪物に齧られた。上半身を噛み千切られた男の下半身が、ぐちゃりと口内から落下する。

 その断面から溢れる大量の血液が周囲に跳ね、女の防寒マスクにかかった。しかし、仲間を二人殺されても、女の目からは恐怖が感じられない。

 そこから更に続けて怪物の左手の一撃が、横薙ぎに振るわれた。だが、最後の一人だけになった女は、ぎりぎりの所で飛び退いて回避する。

 そこまでの惨状の一部始終を、まりんは目を逸らすことなく凝視していた。路面に仰向けで寝転がった体勢で。

 突然の出来事で、今の彼女の頭の中はパンク状態になっていた。何も考えられないくらいに。

 その瞳には、ただ女が怪物の攻撃から身を躱している姿だけが映る。そんなまりんに女は急いで駆け寄ると、両腕に抱き抱えて走って逃げた。


「何て失態なの! あるまじき行為だったわ! 接近を気取れなかった私のミスだ……っ。せめて残った君だけでも守るから、暴れないでね、お嬢ちゃん!」


「あ、えっ?」


 自分を殺す気だとばかり思っていた女の迷いない行動に、まりんは困惑した。

 人を救うとは名ばかりで、あれだけ人の命を面白半分に殺して回った、記憶の中のあの悪逆非道な救世ボランティアの印象とは全然、違ったのだから。

 女はまりんを両腕に抱えながら、走りに走った。路面に放置された自動車などの障害物を利用し、追跡してくる怪物から上手く逃げ続ける。

 しかし、あの怪物が四足歩行で駆けるスピードは、どう見ても人間より速い。

 このままでは逃げ切れないと判断した女は、まりんを路面に下ろすと咄嗟に怪物に向き直る。

 そして懐から出した拳銃で目前まで迫った怪物に対し、発砲。応戦し始めた。

 拳銃の銃弾は次々と命中した。だが、怪物は意に返すことなく、品定めするように女の方に顔を近づける。


「うーん、やっぱり駄目かぁ! この程度の火力じゃ、まるで効果なしとっ!」


 威嚇目的だろうか。怪物は女に鼻先を近づけ、グルルルと低い声で鳴いている。その光景を見て、まりんは身が縮こまる思いだった。

 彼女は自分の身体を盾にして、怪物の前に立ちはだかってくれている。だが、このままだと喰われてしまうのは時間の問題だろう。


「申し訳ないね、お嬢ちゃん。私がここで時間稼ぎはするよ。無理難題なのは分かるけど、その間に何とか一人で、私達の集落まで辿り着いてくれないかな」


「あ、その……お姉さん。わ、私……」


 なぜだろうか。まりんはそれ以上、言葉を紡げなかった。自分のために戦ってくれている感謝を伝えたいのに、昔のトラウマが邪魔したのかもしれない。

 けれど、彼女が自分を助けてくれようとしているのは明白な事実なのだ。このまま永遠の別れとなってしまうのは、苦い思い出として残る。

 ここで、この勇敢で優しい人を、見捨てて逃げる訳にはいかない。そんな悔いは残したくないと、まりんはよろよろと立ち上がった。

 そして、その後姿は全然違うのに、優しく頼りがいのあった父と重なって見える彼女の背中から腕を回して抱き締める。


「……お父さん」


「すまないね、私が君の父さんじゃなくて」


「ち、違っ……嫌、嫌ですっ! 死なないで、お姉さん!」


 まりんが必死に女の背後からしがみ付いていた時、彼女が着ているフリースの隙間から、首筋にある火傷痕がちらりと見えた。

 つい最近、見たばかりな気がするその痕にまりんは、はっとなる。あの時に助けようとした男児と同じ位置に火傷……ただの偶然にしては。


「大丈夫、安心して。実は私、簡単に死なない身体なのよ。それにさ、お嬢ちゃんみたいな庇護欲を刺激する女の子に目がなくてね。後で、キスさせて頂戴」


「ま、待ってください! お姉さんって、もしかしてあの時の……っ」


 瞬間、怪物の腕が動いたのを見て、女は咄嗟にまりんを後ろに突き飛ばす。そして路面に尻餅をついたまりんが、顔を上げた時、鈍い音が響いた。

 女の身体がビルの三階付近の壁まで飛ばされ、叩き付けられる。そのまま血痕が付着した壁から、血塗れの身体がずるりと地上に落下していった。

 まりんが目を見開くと、それを眺めながらニタリと笑っている怪物の顔が……。それを直視したことで、一つの感情が彼女に去来。その身体を突き動かした。


「あ、ああぁ……あっ! おま……おま、ぇえっ!!」


 それは烈火の如き、激情。常に気弱なまりんにとって、縁遠いはずの感情だった。

 そんなものが、なぜここまで燃え上がっているのか、彼女自身にも分からない。

 ただ不思議と遠い昔の記憶が蘇ってきていた。父に叱責された過去だ。どうして叱られてしまったのかも、はっきり憶えている。

 そして、決まってその後に言われた言葉も。まりんは足を前に一歩、踏み出す。

 髪の毛が全身から噴き上がる炎と共に逆立ち、その熱気に反応して、怪物も彼女を向いた。


「く、くるるるぅぁっ……!」


 怪物は前屈みで喉を低く鳴らしながら、威嚇する。まりんを脅威と認識しているのか、救世ボランティアの三人にしたように、すぐには仕掛けてこなかった。

 彼女はこれまでの怯えが嘘のように、そんな怪物に一歩一歩近づいていく。少しも怖いとは思わなかった。

 そんなまりんに近くまでにじり寄られ、緊張に耐え切れなくなったのだろうか。怪物は、その両手で彼女の華奢な身体を掴み上げる。

 地面から持ち上げ、ぎりぎりと締め上げようと力を込めていく。さっきの大柄な男達でさえ、この強力無比な力で一撃にて粉砕されたのだ。

 女の細い身体など一溜りもないのは疑う余地もない。本来ならば。しかし、目に見えて狼狽しているのは、怪物の方だった。


「ああぁっ! あああっぁあっ!!」


 まりんが怒れば怒る程、叫べば叫ぶ程、彼女から溢れる炎が激しく逆巻く。その身体を握り締めている怪物の左右の手が、瞬く間に炭化していく。

 そればかりか熱波は周囲にまで広がり、積もった雪と氷を溶かしていった。まるでこの辺りだけ、真夏の炎天下が突如、訪れたかのように。

 怪物の口から嗚咽が漏れ、堪らず両手からまりんを手放した。だが、彼女の身体は、空中に浮いたまま地面に落下することはない。

 浮遊しながら、彼女は怒りの籠った目で怪物を睨んだ。後退りする怪物に対し、高熱のフィールドを纏った彼女は背面から炎を噴出させ、高速で突撃していく。

 怪物の喉元に激突すると、彼女の全身から波状するように即時に広がった火炎は、容易くその体皮を焼き尽くしていった。


「ぎえぁあっ、あぎゃぁぁあっ!!」


 怪物の断末魔の叫びが、響き渡る。その熱量は、全長八メートルはある怪物の巨体を焼き焦がし、骨ごと融解させた。

 それだけにとどまらず、凄まじい熱波に天候までもが呼応したのか、半径数百メートルに渡って、降り続けていた雪がぴたりと止む。

 まりんの猛攻が続いたのは、そこまでだった。空中でぐらりと体勢を崩すと、そのまま真っ逆さまに地面に墜落していく。

 路面に叩き付けられた彼女は、うつ伏せで倒れて、そのまま動かなくなった。

 その一連の出来事を、少し離れた場所から血だらけで這っていた女は、しっかりと目撃していた。

 殺されたはずの、さっきの救世ボランティアの女性だ。しかし、その目からは、さっきまでの優しい面影は失せている。


「気候を変えた……? へえ、やるじゃない。何年間も降り止まなかった雪を止ませるだなんてねえ。……うん、いいね。次に手に入れるのは、あの身体にするかな」


 女はすっかり雪が溶けた路面に手を突き、立ち上がる。そして頭に被っていたウールニット帽と、顔に着けていた防寒マスクを外した。

 露わとなったのは、今までそれらに隠れていた彼女の類まれな美貌だった。西洋人らしく鼻筋が通った美しい顔立ちと、肩までかかるストレートの銀髪。

 肌はやや日に焼け、年の頃は二十代前半だろうか。この時には、すでに表情は当初のように明るい気性を感じさせる笑顔に戻っていた。


「ねえ、お嬢ちゃん! まだ生きてるよねー!? 君の話は私達の集落で聞かせてもらうから、私と一緒に来てもらうよ!」


 女は周囲に危険がないか見回し、うつ伏せで動かないまりんの元に走った。そして彼女を両腕に抱き抱え、浮かれた顔をして、その唇に深い口づけをする。

 まるで恋人にでも向けているような、愛おしい目で眺めながら。

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