武蔵野の百年をつなぐ(長編)
種田和孝
第1話
囲碁の世界には「囲碁は百年をつなぐ」との名言がある。すなわち、幼い頃に五十歳も年長の者から囲碁のことを教わり、自身が老いた時には五十歳も年少の者に囲碁のことを教えれば、人と人、囲碁と囲碁、その百年をつなぐことになる。
考えるまでもなく、それは他の事柄にも当てはまる。武蔵野のあり方もその一つ。これまで多くの者が武蔵野の百年をつないできた。ただし、今ここでその者たちの列に加わろうとするのなら、武蔵野という地域名の使用には十分に留意しなければならない。
◇◇◇
現在、武蔵野という地域名には主に二つの定義がある。
第一は旧武蔵国の全体、ただし山岳地帯を除く地域を指すというものである。ちなみに、旧武蔵国には北から埼玉県、東京都、神奈川県東部が含まれる。武蔵の国の野だから武蔵野。その発想は極めて自然であり、武蔵国と武蔵野という二つの地域名に解離が無い。なお、山岳地帯を中心とする一帯は古くからチチブと呼ばれており、日本書紀などの記述を基に考えれば秩父は武蔵と同格に近い地域名である。
第二は東京都の東部と中央部、および埼玉県中央の南部にまたがる地域を指すというものである。より具体的には、第一の定義から旧東京市を抹殺し、東京都西部を除外し、埼玉県東部・中央部・北部を無視したものである。これはある人物が風物に関する自身の趣味趣向に基づいて提唱した定義であり、「抹殺」は当該提唱者が使用した表現である。
江戸後期の江戸名所図会では、埼玉県東部の旧足立郡、埼玉県中央部の旧比企郡なども武蔵野の一部として紹介されている。さらには、埼玉県北部には現在も武蔵野という地名が住所として存在し、その広がりは東京都武蔵野市全域とさして変わらない。つまり歴史上、長らく第一の定義が一般的だった。一方、第二の定義が提唱されたのは明治後期である。それ以降、二つの定義が世に混在し、それが時としてセンシティブな問題を引き起こしてきた。
武蔵野という地域名には、前記に加えてもう一つの転機がある。
東京都の大部分が位置する台地は現在、武蔵野台地と呼ばれている。これは地理学上の要請に基づいて命名されたものであり、前述の第二の定義を基にしている。しかし、学術名であるがゆえに、それが問題を引き起こすことは特になかった。
ところが昭和五十九年、「『原・野』は、その文字自体が台地状の地形という意味をもっているため、語尾に『台地』をつけない」との国土地理院の見解に従い、全国八か所が地図上では略称で表記されるようになった。武蔵野台地もその一つ。武蔵野台地は、変更以前の地図では「武蔵野台地」と、それ以降の地図では「武蔵野」と表記されている。
国土地理院の見解には無理がある。野は小さな起伏のある地。原は平らな地。台地ではない。原や野という文字を含む地名が盆地や谷間に存在する例などいくらでもある。そして、地図上の「武蔵野」が武蔵野台地の略称であると知る者は、おそらくほとんどいないだろう。さらには地図上での表記変更後、おそらくそれに倣ったのだろう、武蔵野に関する記述を改定した辞典もある。もはやそこでは、武蔵野と武蔵野台地は同義とされている。
日本には古代から始まる膨大な文献が存在する。近年、それらの文献に含まれる武蔵の野、武蔵の野辺、武蔵野などの語句の意味を取り違える例が増えている。概念の不連続と混同。表記変更の影響は深刻である。
同時に、それ以上に気掛かりなことがある。それは地域感情の衝突である。
全国と同様、旧武蔵国内の各地でも長年、郷土愛を育む教育が行なわれている。ところがある日、子供たちは、そこは武蔵国だが武蔵野ではないとの主張に出くわす。その根拠。それは昔、ある人物が「自分の好みに合わない」と言ったから。当然、そんな理屈は通用しない。そのため昔から、第二の定義によって武蔵野外とされた広範な地域には、当該定義と当該提唱者を忌避する向きがある。本来の定義に触れずに第二の定義を強調する行為は、個々人の原体験と郷土愛を棄損しようとする試みと受け取られることがある。
◇◇◇
小さな浅い谷の水田やカヤの原。高台の畑や林。林の植生。差し込む日差し。吹き抜ける風。起伏のある大地を覆う霧。林の中に網の目のように広がる小道。都市でもなく未開の野でもなく、人の生活と自然が適度に混ざり合う景色。
国木田独歩が随筆「武蔵野」に記したそれらの情景は紛れもなく真実であり、第二次世界大戦後の高度経済成長期までは旧武蔵国の各地で、所によっては現在でも見られる光景である。国木田の記述は詳細かつ多岐にわたり、武蔵野のあり方を後世に伝えるという意味においてはその功績は非常に大きい。そんな作品を承けて武蔵野の百年をつなぐとしたら、そこに何を付け足すべきだろう。
国木田以降も多くの者が武蔵野の風景や変遷を記してきた。それらの先行文献に逆らって独自の見解を不用意に主張しようものなら不遜のそしりは免れない。そこでまずは、個人の経験をもとに武蔵野の景色を雑多に述べていく。
なお、国木田が書き記したのは武蔵野台地の景色だった。一方、ここで書き記そうとしているのは主に大宮台地の景色である。また、以下は全てゲーム機も携帯電話も存在しなかった時代の話であり、さらには多少の誇張と脚色が含まれている。
◇◇◇
高台と谷筋の入り組む地。それらの境はなだらかな斜面のこともあれば、小さな崖のこともある。そして、境に沿って谷筋側から崖を眺めていくと、時折場違いな横穴が目に留まる。奥行き数メートル、単に土を掘っただけの何の変哲もない穴。それを指して大人たちは警告する。あれはかつての防空壕。崩落の恐れがあるので近寄ってはならないと。それでも、勇敢かつ無謀、好奇心旺盛な子供たちは穴に入る。そして、何の面白みも無いことを直ちに悟り、武蔵野の林が人々を守ったことを理解し、その一度を限りに穴に入ることをやめる。
武蔵野の雑木林の中、小道をたどっていくと、不意に二、三十メートル四方の開けた場所に出くわすことがある。明らかに人の手によって切り開かれた一角。それを指して大人たちは警告する。あれはかつての火葬場。みだりに立ち入ってはならないと。公営の施設が整備されていなかった時代、武蔵野に住む人々はそのような場所で野辺の送りを行なっていた。小道を進んでそのような場所に差し掛かった際には、武蔵野の林が人々の死を受け止めてきたことを再認識し、声を潜めて足早に通り過ぎるしかない。
大人たちが発するその他の警告は全国共通のものである。いわく、蛇に注意。毒キノコに注意。破傷風に注意。一方、子供たちには独自の情報網があり、年長者から年少者へ知恵や知識が受け継がれている。例えば蛇への対処法。子供たちにとっては、マムシは絶対的な脅威であり、青大将は互いに避け合う相手であり、ヤマカガシはおもちゃである。
子供たちに共有される情報は雑多だが、その多くは動物に関するものである。蛇、蜂、蛍、蝉、蝶。とりわけ重要なのはクワガタの木。
子供たちは雑木林の中、どの木にクワガタ虫が集まるのかを知っている。夏休みともなれば、早朝暗い内から我先にと林の中を駆け付ける。そのような時刻に家から出ることを許されない子供は残念である。日が昇り切った頃になってから、クワガタ虫を求めて林の中を数時間もさまようことになる。
日中、クワガタ虫は木の幹にとまっていることもあるが、多くは洞の中や根元の腐葉土に潜んでいる。そこでまず、子供たちは目を凝らして木を見上げる。次いで、洞を覗き込んだり、拾った小枝を洞に突っ込んだりする。その際、武蔵野の雑木林に生息する野良ゴキブリをヒラタクワガタと誤認した者は悲惨である。必ずや叫び声を上げて飛びすさることになるだろう。
それでも見付けられなければ木の根元、腐葉土をほじくり返す。すると、クワガタ虫どころか、ごくごくまれにお宝に巡り合う。真円形の金属板。中心には正方形の穴。表面には寛永通宝の四文字。つまり江戸時代の硬貨。これこそが古くから人の手が適度に入り続けてきた武蔵野の林の醍醐味である。
そのような発見があると、ちょっとした騒動になる。過去には室町時代の永楽通宝を拾った者もいるとの噂も流れ、林には目もくれなかった子供たちまでが馳せ参じ、大捜索が開始される。
そこら中の腐葉土を掘り返す。途中、石器時代の鏃に良く似た石を見付けることもあるが、近所にかつて縄文集落が存在したことを思い出しながらひとしきり眺めて放り投げ、再び土を掘り返す。
掘りに掘ると、やがて土は色合いを変え、遂には赤土に突き当たる。その時、子供たちの愚かさは限界を超越する。学校で関東ローム層の何たるかを教えられていながら、純然たる赤土までも掘り返す。しかし、関東ローム層は二百万年以上の年月を掛けて降り積もったもの。そんな地層から人の存在の痕跡が見付かれば世界史に残る大発見。当然そんな奇跡が起きるはずもなく、お宝騒動は数日後には終息する。
子供たちが雑木林の中で見付けるのはお宝ばかりではない。ある時は大量の新しい骨。すわ殺人事件と子供たちは戦慄するが、大人たちは平然と言う。それは多分豚の骨。どこかの誰かが個人で豚を解体し、骨の処分が面倒になって林に投げ捨てたのだろうと。
林の中を駆け回る子供たちの耳は鋭敏である。頭上の木の葉が雨粒に叩かれてボンと鳴る。そんな低音が無数に重合し、林はボーッという重低音で満たされる。子供たちはもちろん傘など持ち合わせておらず、家に向かって走り出す。林の端が近付くにつれ、重低音の中に高い音が混ざり始める。そして林の外、木の葉の天蓋が無くなった瞬間、音は空に向かって解放され、子供たちは雨に打たれながらも人の住む世界の高い音に安堵する。
結局、春から夏にかけて、子供たちが林やその周辺で捕まえる生き物は何なのか。
蝶。アゲハチョウは蝶の通り道で見掛けても、その卵は中々見付からない。代わりにモンシロチョウの卵を持ち帰り、青虫にひたすらキャベツを与え続け、羽化するのを見届けてひとしきり感慨に浸り、そしてリリース。
クワガタ虫。捕まえて帰っても、スイカやキュウリ程度しか与える物が無く、徐々に弱っていくのを見て可哀想になり、一週間もしない内にリリース。
カブト虫。見付かるのは雌ばかり。何の面白みも無いので、その場でリリース。腐葉土を掘って幼虫を見付けても、育て方が分からないので、キャッチすらせずに放置。
蝉。捕まえて帰っても、命が短いのだからと大人たちに諭され、直ちにリリース。
最終的に子供たちが捕まえて飼い続けるのはただ一つ。それは林の話ではなく、今は割愛する。
夏が過ぎて秋になると、林の中で子供の姿を見掛けることは少なくなる。しかし皆無ではない。目的は栗。武蔵野の雑木林には野生に帰った栗の木が点在し、夏には緑の実をつけ、秋には茶色の実を落とす。その頃になると、子供たちは小石を拾い集めて栗の木を目指す。
まず、足元に散らばるイガを両足で踏みつけて割る。次いではるか頭上、未だ枝にぶら下がっているイガに向かって小石を投げつけ、落としては割る。そのようにして収穫した栗を持ち帰れば、普段は口やかましい大人たちもその時ばかりは笑顔になる。大量の栗はご飯に炊き込まれたり、口寂しさを紛らわすおやつになったりする。
春、夏、秋。子供たちは小学校でも中学校でも言い聞かされる。決して、林の奥に座して瞑想に耽ってはならないと。その際、必ず引き合いに出されるのは、林の藪の中で野糞をしていてマムシに噛まれた人の話である。とは言っても、子供たちはすでに理解している。人間にとって蛇は脅威。同時に蛇にとって人間は脅威。林の中では、子供たちは常に何らかの音を立て続け、蛇はそれ聞きつけ自ら密かに去っていく。
ところが時折、事件が起きる。林の中で子供たちが擦れ違う。とっておきの情報がもたらされる。あの小道の先で蛇がとぐろを巻いていると。とぐろを巻くような本格派。そんな姿は滅多に見られない。子供たちは好奇心をむき出しに嬉々として現場に急行する。
小道の脇の倒木の上、青大将がとぐろを巻いて日光浴を続けている。その堂々たる体躯に子供たちは身を強張らせ、あらかじめ拾っておいた棒切れという名の勇者の剣を握りしめる。無言の対峙。睨み合い。しかし青大将は動じない。結局、子供たちの方が根負けし、青大将を残して退散する。
林の中で子供たちが擦れ違う。とっておきの情報がもたらされる。小道の先の蛇がいなくなったと。子供たちは怖さ半分に嬉々として現場に急行する。
事件解決。子供たちは変温動物の悲しい性を理解する。焦っていたのは蛇の方。暖を取らなければ機敏に動けず、次から次にやって来る子供たちから逃げられなかったのだと。
本物の事件はここからである。ある日突然、サイレンが鳴る。そこら中を消防車が駆け抜ける。何事と思って追い掛けてみると、そこは一度も足を踏み入れたことのない、とある雑木林。木という木が、草という草が燃え上がっている。辺りには大人たち、子供たち、野次馬だらけ。訊いてみても、原因不明と皆は言う。しかし、子供たちの頭でも容易に想像がつく。こんな季節、こんな場所で自然発火はあり得ないと。
雑木林があるのは丘のような場所。炎は徐々に斜面を登っていく。慌ただしく動き回るのは消防隊員のみ。聞こえるのは、炎の熱で木がはぜる音ばかり。野次馬はほとんど口を開かない。その様子を呆然と眺め続けている。
近くの家々の住人にとっては一大事に違いない。しかし、その他大勢にとっては巨大な焚火。皆が皆、押し黙って何らかの感慨に浸っている。そして、未だ炎が上がり続ける中、野次馬たちは徐々に去り始める。
そんな時、子供たちの考えることは雑多である。
暖かい。むしろ暑いかも。炎の中を通り抜けることは可能だろうか。全身に水を浴び、全速力で駆け抜ければ可能なのではないだろうか。これも一つの経験。いや。愚かな挑戦はやめておこう。虫や蛇は逃げただろうか。焼け死んでしまったのだろうか。消防車の水は足りるのだろうか。ヘリコプターで水を掛ければ、一発で終わるのではないだろうか。いずれにせよ、雑木林は大きなものから小さなものまで各々分断されており、この林はそれほど大きくない。一部が住宅地に面しているとは言え、周囲に広がるのは田んぼや畑。結局、大したことにはならないだろう。
そして、もうすぐ夕飯時などと思いながら、子供たちもその場を後にする。
翌日、現場に戻ってみると、そこには念のために消防車が一台待機。一見したところ、火はすでに治まり、家々が燃えることはなく、丘の三分の一程度が焼け野原。そこでは現場検証が続いている。そして、山火事の顛末などは大人の事情。子供たちは何も教えてもらえない。
冬の林はひたすら寂しい。乾燥した北風が吹き抜け、わずかに残っていた落葉樹の葉も抗しきれずに木から舞い散り、残った枝は風切り音を発しながら左右に揺れる。唯一気楽なのは蛇が眠りについていること。注意深く地面を眺めてみると、腐葉土が所々細長く直線状に盛り上がっている。その下で冬眠する蛇を踏み付けさえしなければ、あとは一応気兼ねなく歩き放題ではある。
そして、いずれ次の春がやって来て、最年長の子供たちが林を去り、新しい子供たちを加えて林は息を吹き返す。
◇◇◇
おそらく、前節の内容に首を傾げた読者もいることだろう。そのため、解説を加えておくことにする。ただし、すでに述べたように、先人の成果に逆らうつもりは無い。専門的な調査研究の結果は当然尊重すべきである。目撃証言に関しても、たとえ一見奇抜であったとしても尊重すべきと考える。ただし、武蔵野に関しては事実に反する俗説が非常に多い。いくら何でも、そのようなものまで尊重する訳にはいかない。そこでまず、大前提として次の二点を述べておきたい。
その一。第二次世界大戦中とその直後、日本中の木が伐採され、日本全土が禿山と化してしまったとの俗説がある。つまり、日本の森林はその時期にいったん全て断絶しているというのである。もちろん、それは事実ではない。日本の森林面積は約二千五百万ヘクタールであり、林野庁の調査によれば昭和二十三年当時、その中で裸地となっていたのは約百五十万ヘクタール、つまり全体の約六パーセントに過ぎない。
その二。日本の森林の約五割は天然林および天然生林であり、約四割は人工林、約一割は竹林もしくは無立木地の状態にある。天然林とは、自然の猛威によって出来た更地に、自然に任せて生じた森林。天然生林とは、伐採などの人為によって出来た更地に、自然に任せて生じた森林。人工林とは、種苗や播種によって人為的に作られた森林である。日本の森林と言えばスギやヒノキの人工林との印象が強いが、実際には天然物の方が多い。
前節の舞台は大宮台地の周縁部、起伏が目立つ地帯である。そこでは高台と谷筋が複雑に入り組んでいる。高台には建屋や畑、草原や雑木林などが混在し、谷筋はほとんどが水田で、その中を小川が流れている。
その地帯の雑木林の多くには人工の気配があった。点在する農家の北側に位置し、樹木の本数は多いが多様性は小さく、林自体が構造を持っていた。例えば、林の北側にはずらりと並ぶ背の高いケヤキ。例えば、林の外縁部には内部を見通せないほどの鬱蒼たる下生え。そこには一目でそれと分かる毒草も混在。ところが実は、林の内部の下生えはそれほどでもない。つまり、強風を和らげる防風林であり、塵埃をろ過する保健林であり、防犯用の障壁であり、かつては薪や建材などの供給地でもあったのだろう。前節の防空壕と栗拾いはそんな雑木林での逸話である。
一方、少数だが、それらとは趣を異にする雑木林もあった。農家などからは離れており、位置関係から考えて、独立して存在していたと思われる雑木林。子供たちが好んで駆け回ったのはそのような林であり、火葬場跡、クワガタの木、古銭、豚の骨などはそんな林の一つで起きた出来事である。
かの雑木林はかなりの規模の独立した森林だった。隣接する地域から大宮台地の主要部を構成する広く平坦な高台が始まり、一キロメートル強の所には中山道の旧宿場町。つまり、かの雑木林は中山道沿いの開けた地帯の後背地にあった。
第一の疑問。火葬場跡と呼ばれていた場所には本当に火葬場があったのか。
実は火葬場跡に関しては、いくら調べても情報が見付からない。おそらく、過去の火葬場の位置などは意図的に秘匿されたのだろう。そうしなければ、後々まで土地の価値に影響が残ってしまう。その種の事情は今も昔も同じに違いない。だからこそ、火葬場が無かった場所を敢えて火葬場跡と呼ぶとは考えにくい。
古来、日本では土葬が主流だった。その理由は主に二つ。たとえ遺体であっても身体は大切に扱うべきとの価値観が広く存在していたから。火葬には手間がかかる上に、煙や臭気の問題があるから。そのため、古墳時代のカマド塚の例を除くと、火葬を行なうのは貴族や僧侶、鎌倉仏教に分類される宗派の門徒に限られていた。なお、それらの人々が火葬を行なった理由は主に二つ。仏陀が火葬されたから。墓地が小規模で済むから。
歴史上、火葬のほとんどは野原での野焼きだった。江戸期に入ると、寺院や墓地の敷地内に設けられた簡易な小屋の中で野焼きが行なわれるようになった。ただし、寺院や墓地が街中にある場合、やはり煙や臭気が問題になり、人里から近くもなく遠くもない場所に火葬場を設けることもあったらしい。
火葬が増え、公営の火葬場が全国的に整備されたのは明治中期から大正期にかけてである。一方、前節の時代には明治生まれや大正生まれの人々、つまり当時の状況を知る生き証人が多数存命していた。さらには、火葬場跡の広さは野焼きの規模に見合っており、旧宿場町の中心部には鎌倉仏教の中世から続く寺院が複数ある。また埼玉県内では、例えば関東大震災による死者行方不明者数は三百人台半ば、第二次世界大戦時の空襲による死者数は四百人弱であり、そのような際に火葬場を特設する必要があったとは思えない。それらを考え合わせると、火葬場跡との言い伝えは真実であり、その火葬場はかなり古い時代に開設されたものだったに違いない。
江戸期の新編武蔵風土記稿によると、火葬場跡とされる一角は旧宿場町に隣接する別の村の領域内にあった。また、その地域は宿場を中核として江戸初期からすでに経済的に一体化していたことが知られている。明治期の市町村合併では両者は真っ先に合併しており、両者の関係は長らく良好だったのだろう。宿場町の火葬を隣村で行なう。旧宿場町は隣村の雑木林を他村持地入会の形式で利用させてもらっていたのではないだろうか。
いずれにせよ、私が目にした火葬場跡は雑木林を切り開いた一角だった。もちろん火葬場の痕跡はすでに無く、ただの原に過ぎなかった。それでも、その光景は異様だった。
周囲の雑木林の下生えは程々に過ぎないのに、火葬場跡は大人の背丈ほどもある草で埋め尽くされていた。そしてその中には未熟な細い木が数本。怨念や地縛霊の存在を疑うほどの不気味さに、そこに分け入ろうとする者は皆無だった。
しかし、今になって思えば、物事は単純である。火葬場跡には天を覆う樹木が無く、日光が地表面まで降り注いでいた。つまり、周囲とは異なる濃密な日差しが草の成長を促していただけなのである。
なお、背の高い草の厳密な正体は分からない。当時の私は、ススキはともかく、それ以外はヨシもオギもその他も一緒くたに認識していたからである。そのため敢えて名前で呼ぶのなら、それらの総称であるカヤとでもするしかない。
第二の疑問。かの雑木林はいつの時代から続いてきたものなのか。
寛永通宝は江戸期の通貨だが、明治期にも補助通貨として使われていたらしい。室町期の永楽通宝の発見に関しては、噂は噂、真偽の程は分からない。つまり、古銭は手掛かりにならない。
かの雑木林の植生は実に混沌としていた。クリやクヌギやコナラなど落葉広葉樹の陽樹が多数。そこにシイなどの常緑広葉樹の陰樹が混在。さらにはマツなどの針葉樹の陽樹が少数。加えて、ネムノキ、クサボケ、リンドウ、ラン、ヘビイチゴ、ムラサキシキブかそれに似た実をつける低木。その他にも雑多な草やキノコ類。
また実は、クワガタの木は二本の木から成っていた。根は別々なのに、途中で寄り添うように接触し、その上では再び別個の木として葉を茂らせる。接触部は部分的に融合して洞のような隙間を作り、そこにいつもクワガタ虫が潜んでいた。規則的に苗木を植えたり、積極的に間伐が行なわれたりしていたら、そのような木が存在し得たとは到底思えない。
起伏が目立ついびつな地形。独立した森林。多様で混沌とした植生。縄文遺跡の発見からも分かる通り、過去に大規模な土地の造成や地層の攪乱が行なわれた形跡は無い。加えて、火葬場という特殊な場所の存在。それらを考え合わせると、かの雑木林は散発的な択伐を受けてきただけの自然林であり、薪や堅果や野草を供給する入会地として長年使われていたのではないだろうか。また、家庭用ガスの普及は明治後期から大正期にかけてのこと。その時期を境に、かの雑木林は完全に放置されるようになったのだろう。
結局、かの雑木林はいつの時代から続いてきたものなのか。陽樹の森林から陰樹の森林への遷移が進んでいたことを考えると、私が目にした時点を起点として、少なくともその二百年以上前から。それが私の推測である。その間、かの火葬場で荼毘に付された人々は、旅立つ前に子供たちと同じように林を駆け巡り、武蔵野の景色を楽しんだのだろう。
第三の疑問。栗拾いの際、なぜ子供たちは小石を拾い集めてから栗の木を目指したのか。つまり、なぜ栗の木のそばで石を拾わなかったのか。
小学校で教えられる地層の話は前節に記した程度のものである。しかし実際には、台地と地層の成り立ちはそんな単純なものではない。直近の二百万年の間、関東平野は海に沈んだり陸地に戻ったりを繰り返していた。武蔵野の各台地の上面が一見平坦なのは一時期、遠浅な海の底となっていたからである。自然界のそんな大規模な変化の結果、各台地の下にはローム層と海底に見られる砂などが交互に幾重にも折り重なっている。
いずれにせよ、武蔵野の各台地の上には、最新の陸地化の後に降った火山灰がローム層として積み上がっている。さらにその上には腐葉土や泥炭など。その結果、本来、武蔵野のそれなりに標高がある地表面には岩が無い。それどころか石すら存在しない。あるとすれば、それは大方、山に近い地域か河川の流域である。
もちろん現在、道端を眺めればあちらこちらに石が転がっているだろう。それらは大抵、過去に人がどこかから運び込んだものである。当然、武蔵野の雑木林など、より自然に近い場所に石は無い。だから栗拾いでは、木を目指す前に小石を用意するのである。また、雑木林の腐葉土を掘り返しても石がまとまって出てくることはない。鏃らしき石は実は本物の鏃だったのかも知れない。
最後に二つほど注意を促しておく。
その一。昔は、放置された雑木林になど誰が立ち入っても問題にはならなかった。しかし、土地には権利者が存在し、現在は問題になる場合もある。
その二。蛇をおもちゃにしてはいけない。特に毒蛇には注意が必要である。ヤマカガシはしばらく前までは無毒蛇に分類されていたが、現在は毒蛇に分類されている。
◇◇◇
子供たちは自転車一つでどこまでも行く。自分の町。隣の町。気分に任せて、さらにその隣。誰が何と言おうと愛車に跨り、さらにさらにその隣。
大宮台地の西の際まで行くと、そこから先は荒川低地である。南北に伸びる最後の高台の上から西側を眺めると、手前から順に河原、荒川、河原、堤防と続く。その先は堤防で遮られて良く見えないが、とにかく広い平原。はるか彼方には山並み、時々富士山。なお、河原の東側に堤防は無い。最後の高台がその役目を果たしているからである。
大宮台地の子供たちにとっては、荒川低地とその先の丘陵地帯は異世界である。ただし、子供たちは一つだけ、そこには異彩を放つ遺跡が存在していることを知っている。吉見百穴である。当然、大人たちには内緒で到達済み。子供の入場料金などたかが知れており、その内部も徘徊済みである。
話は戻って最後の高台。北側に目を遣ると、開けた土地の先に家屋と鬱蒼たる林が見える。高台の上から北東側に目を遣ると、そこには大宮台地内の谷筋が細長く伸びており、カヤなどが生えている。その東側には隣の高台、家屋と畑と林がある。南側にはどこまでも続く高台と荒川の河原。荒川に沿った先には東京があるはずだが、いつも霞んで、そこまでは見えない。
高台の上には幅数メートルの道が南北に走っている。鎌倉街道である。ずっと東の街中にはかの有名な中山道が走っているが、忘れ去られた古の街道に立っていることが何となく誇らしく、子供たちは目を細めて胸を張る。
街道沿いには、神社やお寺、小さな古墳、中世の小城跡などが点々と並んでいる。しかし、子供たちにとって見飽きることがないのは無料の動物園、牧場である。
高台の上から南東側に下る緩やかな斜面。東西に五十メートルほど、南北にも五十メートルほどの牧草地。境界は電線の柵で囲われており、子供たちは大人たちから、触ってはならないと散々脅されている。もちろん、いくら勇猛果敢でも敢えて電流を味わってみようとする子供はいない。
子供たちは柵の外側から牛をまったりと眺めている。牛は柵の内側をのんびりとやって来る。そして、子供たちの前で立ち止まり、巨大なビー玉のような眼でじろり、舌をベロンチョ、モーと鳴く。子供たちは身を強張らせてそれを凝視する。その時、子供たちは人間たる自分の方が優位な存在であると思い込んでいる。しかし、牛のその悠然たる態度を見れば、優劣は明らかである。
ひとしきり牛に眺められた後、子供たちはせっかくここまで来たのだからと、高台を挟んで牧場の反対側、荒川の河川敷に降りてみる。
河川敷には、高台から川の流れまで真っ直ぐに道が伸びている。その両側、高台に近い辺りはカヤの原、流れに近い辺りは背の低い草の草原となっている。途中、小鳥が休みなく囀りながら頭上を飛び交う。物知りな子供が「あれはヒバリ」と自慢げに教えると、仲間の子供たちは「スカイラーク。何だか格好いい」などと感嘆する。
子供たちの中には、他の河川を目にしたことのある者もいる。例えば旧武蔵国と旧上野国の境を流れる利根川。例えば荒川の西側を流れる入間川。カヤの原、背の低い草の草原。河川敷のそんな自然は類似していても、景色の雄大さでは利根川が一番である。次いで入間川。荒川は残念ながら三番手である。
子供たちは自転車を下り、川の淵に歩み寄って流れを見下ろす。利根川や入間川には川辺と呼べるものがあり、浅い所では足を水に浸すことも出来る。一方、荒川にそんな洒落た川辺は存在しない。深く狭い川筋に黒緑色の怒涛の水。その圧倒的な姿に子供たちは口を閉ざす。落ちたら絶対に助からない。全員が絶対的な死を想像しているのである。
怖いもの見たさが治まると、子供たちは再び愛車に跨り、ついでとばかりにカヤの原を抜ける小道を突き進む。
小道の先にはぬかるみが見える。どうせ浅いだろうと判断し、先頭の子供はそのまま自転車で乗り入れる。ところが突然、自転車を止めてぬかるみに足を着き、クソと叫ぶ。後続の子供たちも自転車を止め、何事かと歩み寄る。すると肥溜めの臭い。ぬかるみの正体は糞である。辺り一面に糞がばら撒かれていたのである。先頭の子供の足は糞まみれ。同じく塗れろ。無論断る。そんな押し問答がしばらく続き、冒険気分は失われ、そのまま家路につくことになる。
隙あらばカヤ。それは真実である。例えば、宅地として造成したものの家屋を建てずに放置すると、そこはいつの間にかカヤの原になっている。そのような場所であれば、子供たちも何物にも塗れることなく遊ぶことが出来る。
道の脇には、子供の背丈よりも高いカヤの生い茂る空き地。子供たちは周囲の人の気配を確認し、道沿いのカヤの景色を変えぬようコソ泥よろしく慎重に藪に入っていく。そして、道沿いから見通せない所まで分け入ると、やおらカヤを踏み倒し始める。
子供たちの中には麦踏みを知っている者もいる。畑で麦踏みをしている見知らぬお婆さんに声を掛け、体験させてもらったのである。一部に言われる横歩きではない。両手を後ろに組んで前屈みになり、ほとんど成長していない麦を根元から踏み倒していく。その経験のある子供たちにとっては、ミステリーサークルを作ることなど造作もない。
とは言え、カヤの原で作るのはミステリーサークルではなく隠れ家である。踏み倒して自分の部屋を作り、踏み倒して部屋をつなぐ通路を作る。部屋に腰を下ろして青空を見上げれば、気分は上々、実に爽快である。
ところがやはり、子供たちはどこか抜けている。そこは起伏に富む地。小さな坂道が至る所にある。カヤの原からの帰り道、坂道を行き交う大人たちの胡乱な視線に釣られて振り返り、子供たちは真実を悟って素知らぬふりをする。つまり丸見え。水平方向と垂直方向ばかりに気を取られ、斜め上を見ていなかったのである。しょせん、カヤの原はカヤの原。地元の小役人にはお見通し。お姫様を隠すことなど出来ないのである。
細長く続く谷筋には、水田が広がり、小川が流れている。子供たちはそんな景色を眺めながら、ふと思う。この小川はどこから始まっているのだろうと。そこで川筋をたどってみると、行き着く先は小さなカヤの原である。
気が向けばどこにでも突入していく子供たち。それでもどうしても、そこには足を踏み入れる気になれない。あの中に泉でもあるのだろうか。それとも、カヤの原全体が湿地であり、そこら中から水が染み出しているのだろうか。そんな想像を巡らせながらも、怖いのは蛇である。水の近くにはマムシがいると子供たちは散々脅されている。
なぜ、水源をこんな無残な状態で放置しているのだろう。子供たちはそんな風に首を傾げながら、ひとしきりオオバコ相撲などで遊んだ後、笹舟を作って小川に流し、それを追い掛けるようにカヤの原を後にする。
水源地から少し離れると、それ以降は水田地帯である。水田にはカエル。小川にはメダカやザリガニ。ザリガニは一見派手だが、捕まえて帰っても扱いに困るので、キャッチ・アンド・リリース。捕まえるとしたらメダカである。メダカは金魚鉢で容易に飼える。
子供たちは水田を眺めながら、やおら靴と靴下を脱いで裸足になる。水を張った水田に素足で踏み込む。泥の中に足が沈む。まるでクリームのような泥が足の指の間をすり抜ける。その感触がたまらなく心地良い。
ひとしきり足先の快感に身悶えした後、子供たちは小川の水で足を洗って靴を履き、さらに小川に沿って下流に向かう。すると程なく未来の片鱗が立ちはだかる。未だ多くの自然が残る武蔵野の一角、水田を埋め立てて作られた新興住宅地である。
そこまで行った頃には、小川はすでにコンクリート製の用水路に変貌している。そしてその先、数十メートルは通水暗渠。用水路にコンクリート製の蓋が被せられている。子供たちは暗渠化の工事を目にしている。暗渠の中の様子もおおよそ見当がついている。防空壕に入った時と同様の好奇心をもって、一度だけと決めて暗渠に潜り込む。
腰をかがめれば進める高さ。這いつくばる必要は全く無い。水源からさほど離れていない場所。そのため水量は微々たるもの。中は薄暗いが、闇というほどではない。そして何も無い。カエルもメダカもザリガニもいない。水草も生えていない。ゴミも無い。ホコリもほとんど無い。
何事も無く暗渠を出て新興住宅地を抜けると、そこからは再び水田地帯である。子供たちは得体の知れない暗澹たる気分に浸りながら、その景色を眺め続ける。
◇◇◇
都人は大昔から武蔵野に対して「茫漠の野」とのイメージを持っていたらしい。茫漠。つまり、広々としている、とりとめがない、ぼんやりとしている。茫漠の野とは、遠景が霞んでぼんやりとし、限界が分からないほどに広い野という意味なのだろう。確かに、前節の高台上からの眺望などはその典型である。
第一の疑問。鎌倉街道沿いの高台の上から東京が見えなかったのはなぜか。
完全なる平地に立って彼方を眺めた場合、身長にもよるが、地平線までの距離は四から五キロメートルとなる。また、視線の元を高さ二十メートルに置いた場合、地平線までは約十六キロメートルとなる。
地形図によれば、高台上のかの場所の標高は二十メートル弱である。当然、視線の先の大地にも標高があり、高低差はもっと小さくなる。そのため、前記の数字ほど遠くまでは見通せず、十キロメートル程度先までがせいぜいだろう。つまり、東京は地平線のはるか先。いくら目を凝らしても、そもそも見えるはずがなかったのである。
第二の疑問。荒川に洒落た河辺が存在しないのはなぜか。
荒川は直近約四千年の間に二度ほど大きく流路を変えている。元々、荒川は埼玉県北部の熊谷市付近で利根川と合流し、そのまま大宮台地の西側を流れていた。それが今から約四千年前の縄文後期、熊谷市の南を通り抜けて大宮台地の東側に回り込み、そこから南下して東京湾に流れ出るようになった。そして江戸初期、当時の幕府が荒川と利根川を分離し、荒川を昔の流路すなわち現在の流路に人為的に付け替えた。
荒川中流域の景色が大して雄大でもなく洒落てもいない原因は、江戸初期から現代までの間に幾度となく行なわれた河川工事にある。つまり、現在の荒川中流域は最初から機能性のみを追求した人工排水路だったのである。
第三の疑問。小川の水源が粗雑に扱われていたのはなぜか。
武蔵野には各地に水の湧く場所がある。その多くはいわゆる台地の際にある。つまり、高台のそば、高台から少し下った所である。前節の子供たちが目にした水源も大宮台地の周縁部、高台と谷筋が入り組む地、谷筋の奥に位置していた。
すでに解説した通り、そのような場所に岩は無い。石すら存在しない。その結果、水は地面全体から染み出すように湧く。つまり、水源地のカヤの原は湿地であり、そこに泉などは存在しない。水量にもよるが、そのような場所の基本的植生は森林ではない。カヤの原、そこから発展して灌木の群生地。そこまでがせいぜいである。
要するに、水源は粗雑に扱われていたのではなく、むしろ逆に手付かずの状態で保存されていたのである。もし、環境整備などと称してカヤを刈り取ったりしていたら、せっかく湧いた水がその場で蒸発してしまっていただろう。その種の水源地は農村を支える貴重な場所。当然、入会地として集落全体で保有され保全されていたに違いない。
ちなみに、武蔵野の各台地の上では地質の都合で水を得にくい。それは地下水位に関する多くの調査によって判明している事実である。おそらく、そこから派生したのだろう。武蔵野の各台地の上では水不足のせいで植物が育たず、人が手を掛けなければ台地は裸地と化してしまう。そんな「荒涼たる大地」という俗説がある。
日本中の多くの山の頂を見れば良い。水場や地下水脈など存在せずとも、雨水を頼りに草や木が密生している。そんな回りくどい話をせずとも、誰にでも草むしりの経験ぐらいはあるだろう。それが日本全般の基本的植生である。つまり、人が手を掛けなければ、武蔵野の各台地はいずれ草原になり、いずれ森林と化してしまうのである。
より詳しく言えば、当然土地の広さや性質にもよるが、裸地が草原となるには短ければ数年、長ければ二十年ぐらいが掛かる。また、陽樹の天然林となるには約二百年、そこから陰樹の天然林となるにはさらに数百年。その程度の年月は必要になるだろう。それは人の一生と比べれば確かに長い。しかし、日本の歴史と比べれば十分に短い。
さらには、前節には記さなかったが、前節の子供たちは別の種類の水源も目撃している。その水源は旧宿場町に程近い場所にあり、地面全体がじめじめと湿った広葉樹の雑木林となっており、そこから小川が流れ出していた。地形図を広範囲に詳細に確認すれば分かるが、一見平坦な高台の上にも、わずか数メートルではあっても緩やかな高低差が存在する。そのため、少量とは言え、そんな高台の上でも水は湧き出し得るのである。
つい最近知ったことなのだが、都市設計の分野にはある種の悩み、もしくはジレンマがあるらしい。都市設計の思想の一つとして、現代建築と原風景の調和という考え方がある。ところが、武蔵野の原風景に関しては、こと武蔵野台地に関しては、様々な俗説が存在している。そのため、なぜそんな誤ったイメージが流布してしまったのか、それが学術的な研究課題になることもある。
第四の疑問。それならば、例えば前節の子供たちが目にした牧場の景色は原風景からどの程度掛け離れていたのだろう。
奈良期から平安期にかけて、旧武蔵国は朝廷から牧畜の拠点に指定され、武蔵野では牛馬の生産が大規模に行なわれていた。朝廷に馬を納める勅旨牧は当初、武蔵野内に四つあった。ただし、それらの所在地については諸説ある。例えば、埼玉県上里町、さいたま市、川口市、東京都あきる野市、八王子市、府中市、立川市、町田市、神奈川県横浜市などであり、私ごときでは到底特定できない。
ちなみに、旧信濃国最大の勅旨牧である望月牧は毎年、朝廷に馬を三十頭ほど納めていた。そこで飼われていた馬は実質九百頭弱と推定されており、放牧地面積は約千町歩、つまり約三キロメートル四方とされている。さらに参考までに現代の牧場、現代のサラブレッドの場合、放牧地は三、四頭につき二ヘクタールが最適とされている。牧場全体の頭数が千頭なら、その放牧地面積は大きく見積もって七百ヘクタール、二・六キロメートル四方となる。もちろん正方形の形状は仮の話に過ぎないが、いずれにせよ、それが千頭規模の馬牧のスケール感である。なお、朝廷への献上頭数から考えて、武蔵野内の四つの勅旨牧は望月牧よりも小さかったと思われる。
また、武蔵野には勅旨牧以外にも兵部省の諸国牧、現代風に言えば朝廷の軍部が管轄する官営牧場が二つあった。埼玉県美里町もしくは上里町もしくは東京都台東区に馬の牧場が、埼玉県春日部市もしくは東京都新宿区に牛の牧場が設けられていたと推定されている。加えて、そのような官営の牧場ばかりでなく、現代風に言えば民営の牧場も存在していた。
前節の子供たちが目にした牛の牧場はいつの時代から続いてきたものなのか、それは分からない。しかし、その景観は古代の民営の牧場と大差なかったはずである。そもそも、地形自体はおそらく特に変化していない。違いと言えば人口密度。その当時、日本全体の人口は約五百万人と推定されている。また、旧武蔵国の人口は十三万人超と推定されており、それは現人口の二百分の一程度に過ぎない。とすれば、古代の景観はより家屋が少なく、草原にせよ森林にせよ、より緑が多かったに違いない。
かなり昔のこと、ただしもちろん戦後の話、私は大阪在住のとあるご婦人に訊かれたことがある。東京はのどかな所なのでしょうねと。根拠を尋ねると、私よりもはるかに年長のそのご婦人は言った。牧場が沢山あると聞いているからと。
そのご婦人は決して無知だったのではない。逆に博識だったのである。さらには、写真や映像で都市の景観を目にしても、それは風景の一部を切り取ったものに過ぎないとの洞察力も持っていた。武蔵野と言えば牧場。古来、それが武蔵野に対する有力なイメージの一つだった。近畿地方のご婦人はそれを受け継ぎ、想像を巡らしていたのである。
一般論として、イメージは肥大化しやすい。その上、官牧六つに対して我も我もと推定地多数。これでは、どこもかしこも牧場だらけと勘違いされても仕方が無い。歴史上、武蔵野全体が牧場だったことは一度もない。牧場は各地に点在していたに過ぎない。人々が大昔から武蔵野で行なってきた最優先の作業は当然、牧畜ではなく食料生産である。そうでなければ、人は生きてこられなかった。牧場が沢山あるから東京はのどか。残念ながら、それは色々な意味で空想の域を出なかった。
武蔵野に関するさらに有力な伝統的イメージと言えば原野だろう。ただしどうやら、そこには二つの類型があったらしい。いわく、どこまでも草原の続く、果てしない原野。いわく、草木が生い茂って、住む人もいない原野。明らかに、両者は似て非なるものである。おそらく、前者は大河川の流域、もしくは街道沿いの開けた一帯の景色を述べたものだろう。後者はそれら以外の人口密度の低い場所について述べたものだろう。
最後に二つほど注意を促しておく。
その一。田畑への無断進入はやめるべきである。昔は大人から子供に至るまで、皆が限度を知っていた。だから農家の人たちも、田畑に多少足を踏み入れても寛容に接してくれていた。しかしその後、世の中の自然に対する感性と倫理は大きく損なわれた。そんな時代となった今、昔の子供たちがしたのと同様の遊びを勧めることは中々に難しい。
その二。暗渠には絶対に潜り込んではいけない。暗渠は洞窟ではない。暗渠に潜り込んでも洞窟探検の気分は味わえない。暗渠の中では、溺れ死ぬことはあっても、良いことは何も起こらない。
自然を切り開いて居住域を作る。居住に適さなくなると、居住域を移す。元の居住域は自然に還る。そんなことは、それこそ縄文時代から繰り返されてきた。土を掘って水を導き、堤を築いて水に抗う。そういうことも中世以降、頻繁に行われてきた。だから、子供たちは新興住宅地を目にしても、都市化がさらに進むであろうことは予感しても、そのことに違和感を覚えたりはしなかった。
ただし、通水暗渠は別である。流路の固定。人の転落の防止。ゴミの投棄の防止。その種の効用は理解できる。しかし、自然の川をコンクリートで固めて整形し、蓋を被せて地下に隠す。その発想は人間対自然の歴史の中では特異である。光の届かぬ世界。無の世界。死の世界。子供たちはその異物感を肌で感じ、暗澹たる気分になったのである。
◇◇◇
中学生の頃、あるご老人を紹介されたことがある。市史編纂にもかかわったという歴史学研究者。ご老人は色々なことを教えてくれた後、熱のこもった口調でこう言った。現在の武蔵野を調べ上げ、記録に残して後世に伝えてほしいと。あのご老人も武蔵野の百年をつないできた一人だった。そして、若い世代がその列に加わることを望んでいた。
今回、その列に加わってみようと突然思い立ち、いざ書き始めた時に考えたのは、包み隠さず、面白おかしく、ただし内容は出来る限り正しくということだった。そのため、歴史学、民俗学、考古学、地質学、生物学、農学、数学、天文学などの知識を動員した。
もし記述に誤りがあれば、しょせん素人が書いたものと、優しくご教授いただければありがたい。また、本作中で「日本全土禿山」、「荒涼たる大地」という二つの俗説を殊更に取り上げたのは、あるマスメディアがそれらをもっともらしく流布するのをたまたま見聞きしたからである。
あの子供たちの時代からかなりの年月が経った。その後、林野は切り開かれ、子供たちが駆け回った場所は住宅や大型施設や道路で埋め尽くされた。高台と谷筋。地形自体は残っているものの、あらゆる所に隙間なく人工の建造物。雑木林は住宅地になった。火葬場跡は道路になった。水源地や水田は住宅地に、牧草地は住宅地や事業所に、小川は全て通水暗渠に。この随筆に記した景色は完全に消滅した。
現在の光景は過去を知っている者の目には皮肉に映る。谷筋を埋め尽くすのは住宅ばかり。過去の高度経済成長期、地盤改良が雑に行なわれた場所では、地盤がひずんでしまった例もある。将来、地盤は沈下しないだろうか。液状化現象は生じないだろうか。そんな懸念がふと脳裏をよぎる。しかし、そのような場所の実名を挙げることは出来ない。地盤改良が適切に行なわれていれば何の問題も無いのだから。
いずれにせよ、武蔵の国の各地にはまだ林野が残っている。次の五十年、百年、武蔵野のあり方はどのようにつながれていくのだろう。
武蔵野の百年をつなぐ(長編) 種田和孝 @danara163
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