第37話:獣と人の境界

 

 旧校舎の屋上。薄汚いコンクリート製。鳩の糞だらけ。危なっかしい落下防止用の鉄柵。崩れた給水塔が鉄くずの小山として端に聳えている。


 それが小柄な少女の仕業であると知る者は少ない。具体的に言えば、気違いパパラッチ、ヒステリック女記者、色狂いJK。そして何よりこの場にいる四人だ。八島。田上、山中、廣田。


 八島と山中は中央で向かい合うように立ち、廣田と田上は全員が全員、一様に自身の為だけに動いている。

 

 八島が沈黙を破った。「ルールは何だったけな、山中君」

 

 山中が実に落ち着いた様子で返す。「単純だ。獲物無しで殴り合い、“参った”と言った方が負けだ」


 八島はダスターコートを脱ぎ捨てながら意地悪く笑う。「獲物無しで本当に良いのか?困るのはお前だろう?」そのままシャツのボタンに指をかける。


 山中が罰の悪そうな表情を浮かべる。「テーブルの脚で殴られるのは一度で十分だ」二枚目の面をした男が容易に浮かべて良い表情では無かった。


「そう言うなよ。何度だって鳩尾に食らわせてやるぜ?お前の彼女がいつもヤッてくれる様に情熱的にな」 


 八島はそう言って、脱いだセーラー服をダスターコートの上に放った。制服の下はショートパンツとタンクトップ一枚。

 露わになる素肌。全身に彫り込まれた刺青。黒い紋様の獣達が蠢き、叫び散らし、踊り狂っている。細っこい腕には化け物じみた筋肉が捩じ込まれている。それは刺青と共に脈打ち、猛っている。


「おいおい、刺青は校則違反だろ。しかもなんか動いてるし」


 廣田がコンクリの台に腰掛けながら、太々しく言った。元々給水塔が建っていた台だ。


「アレが八島のふざけた力の源泉らしい」


 田上はポケットの中のブラスナックルを弄びながら、何でもない事のように秘密をぶちまけた。

 廣田は田上の言葉を真に受けず、呆れたように煙草に火をつける。


「まだ心は中学二年生で止まってるのかい、あの子は」


「外野は黙ってろ!この女の力は妄想じゃねぇんだ!」


 ワイシャツを脱ぎ、肌着一枚になった山中が叫んだ。スキのない構え。ボクサースタイル。メンズマガジンの表紙の様な二言を許さない肉体美。筋肉の隆起に夕焼けが深く影を落とす。寂れた屋上は彼の存在一つで印象派の絵画の一枚と化す。禍々しい八島の姿を抜きにすればの話だが。


「いやー、ヌーディだねぇ。こういうの見てるとさ、またロッキーが見たくなってくるよねぇ」


 廣田が紫煙を穴という穴から吹き出しながら言う。


「私がアポロで、山中がロッキーか?」八島が楽し気に笑う。


「お前はマイク・タイソンか良くてドラゴだ」田上が野次を飛ばした。


「いや、ハルク・ホーガンだな」廣田は煙草の灰を落とした。


「ボクサーですらねぇ」


 田上が冗談を返したその刹那、八島はいきなり動いた。鋭い踏み込み。大ぶりのリードフック。山中の側頭部を狙った一撃。頭蓋をたたき割る一撃。


 山中はそれを軽快なフットワークで躱す。不意を突き返す。山中は八島と向かいあってから一瞬たりとも気を散らしてはいなかった。

 そのまま、八島に手痛い反撃を食らわせる。膝に向けての突き蹴り。丸太を蹴ったような感触。

 だが、ひるまずリアクロスを放ち、顎に一撃。八島の揺れる髪をつかみ取り、手前に引き込む。その進路上に拳を繰り出す。


 八島の頬に拳が叩き込まれる。八島の軽い身体は派手に吹き飛ぶ。転がり受け身を取る。だが、うまくいっていないように見える。地面にうつぶせの状態だ。


 山中は態勢を整える暇を惜しんで追撃に入る。八島へと突っ込む。横腹を狙ったストンプを繰り出す。ラオの仇を取ってやるつもりだった。

 

 だが、目の前の女は地に伏せながら、満面の笑みを浮かべていた。


 八島は四つ足の獣のように飛び出した。刺青に満ちた両手を広げ、オオカミの顎のごとく山中の足をつかみ取る。山中は異様な浮遊感に苛まれる。世界が回転を始める。八島は山中の右足をひっつかみジャイアントスウィングもどきを繰り出した。そして、一回転半。山中を文字通り放り投げる。


 180cmの青年が、160cmの細身の女に放り投げられる様は異様でしかない。山中の体は屋上の頼りない鉄柵にぶつかり、ようやく止まった。山中は血生臭い空気が肺から飛び出すのを感じた。


「いやぁ、たまげたな。まさしくハルク・ホーガンだ」

 

 廣田が他人事のようにうそぶいた。


「お前はどっちの味方なんだ。それでも先生か?」

 

 田上が不愉快そうに腕を組みながら言った。


「生徒は平等に扱う主義なんだ。転入生でも、進級当時からいる生徒でもね」

 

 廣田は大きく紫煙を吐き出し、言った。


 そんな外野を傍目に、山中はゆっくりと立ち上がった。口から垂れた血が汗だくの肌着に赤い斑点を作った。金髪も埃と汗に塗れている。


「タイムは必要ないのかい、伊達男君」


 八島は殴られた顎を労わる様に撫ですさりながら言った。常人なら皮膚が切れておかしくない連撃だったが、八島の皮膚は依然として不気味な白さを讃えいていた。


 山中は顔を顰めた。「お前の身体はポリガーネイト製か?」


「どうだろうな、良かったら身体検査でもしてくれれば良い。あんたの親父は医者だろう?」


「生憎、動物病院じゃあないんでな。ヒト様専用なんだ」


 構え直し、八島を睨み据える山中。


「そうかい、じゃあ第二ラウンドと行かせてもらうぜ。山中、お前がワンラウンド先取だ」


 八島はそう言って再び獣じみた構えをとる。四つ足を突き、コンクリを踏み締める。握りしめる。爪が天井のコンクリタイルの隙間にめり込む。刺青が蠢き、猛る。狂犬病を罹ったピットブル。覚醒剤を打たれた野山羊。


「姉ぇちゃんにいつもヤられてるから、弱いもの虐めは好きじゃないんだけどさ。勘弁してくれよ、伊達男」


 そう言って、八島は地を蹴った。脆いタイルが崩れ飛び、派手な音を鳴らす。山中はタックルを警戒した。低く構えた。反射的だった。あのジャイアントスウィングが脳裏に焼き付いていた。


 八島は飛んだ。身体を捻り、両脚を正面に向けた。スクリュードロップキック。


「32文人間ロケット砲じゃないか、あれ」

 

 廣田が驚いたように言った。


「古いぜ、先生」

 

 殺し合いを傍目に、田上がツッコミを入れた。


 山中の肩口に八島のローファーが減り込む。次の瞬間、山中は派手に吹き飛ぶ。本日二度目。在りし日のジャイアント馬場はボボ・ブラジル戦では三連発で放ち、フォール勝ちで王座を奪回した。

 だが、この一戦では二発目すら望むべくもなかった。


 地面に投げ出される形となった、八島はバク転の要領で地に降り立つ。化け物染みた機動。そして、倒れ込む山中に駆け寄り、実に楽しそうに蹴りを入れる。


「ジャイアント八島。本日二度目のダウンを奪いました。必殺の32文人間ロケット砲。完璧な一撃ぃ!そのまま、ローキックの追撃を繰り出します」


 無茶苦茶な実況を叫び散らし、スニーカーを脇腹に叩き込む。


「野良試合ですので、ダウンカウントは無限に続きます。参ったと言うまで続きます。伊達男の山中選手、どれだけ持ち堪えるのでしょうかぁ⁉︎」


「どうしようもない性悪だね、あの子」

 

 廣田が呆れたように言う。既に煙草は三本目に入っていた。


「止めなくて良いのか?あいつ相当手加減しているが、もう勝負は決まったようなもんだぞ」


 田上が八島の動きを見つめながら言った。


「いや、決まっちゃあいないさ。元より勝負として成り立っていないんだからね」


「どう言う意味だ?」


「参った。とさえ、言わなければ負けはしない。そして、漢には譲れないモノがあり、山中君は漢だ。つまり、負けは無い」


「マティズモか? カビの生えた思想だな」


「君も相当なもんだよ、ドミノスポット君」


 廣田はやはり何でも無いことのように言った。


 田上の切長の眉が歪む。「何の話だ?」


「何でも無いさ、結局全てが他人事なんだからね」廣田は自分からお茶を濁した。「それはそうと、そろそろじゃあないかな」


 廣田が見据える先には怒り狂う八島と身体を丸め耐え忍ぶう山中の姿があった。


「参ったと言え!」蹴りが叩き込まれる鈍い音。「諦めろ!」鈍い音。「糞ったれの小便野郎が!」鈍い音。「格好つけんじゃねぇ!お前が何をやろうが何の意味もない!何も起こらない!何も変わりゃあしないんだ!」


 山中は耐えている。意志だけで、先の見えない賭けに望んでいる。八島は漸く蹴るのを止めた。


「ああ、そうか。ようく分かった。お前が何も分かっちゃあいないって事がな。分かった気になってるだけの大間抜けだ」


 八島は山中の首根っこを引っ掴み、軽々と持ち上げる。


「分かっちゃいねぇのはお前の方さ、八島。へらへらと笑ってるだけじゃ、無理かどうかも分かりゃしない。分かるか?」

 

 山中が息を切らせながら、言い捨てた。


「そうかい。じゃあ、此処から地上にキスすりゃあ、彼女のことも忘れて考えも変わるだろうな」


 八島は山中を鉄柵の後ろに吊り下げた。少し押せば、そこは奈落。20m下へ真っ逆さまだ。


 山中は卑屈に笑った。「糞だの何だのは此処ぞと言う時に言うもんだぜ、この糞ったれ」


 八島は口元だけを歪め言った。「じゃあな」


 首を握る手が開く。さようならだ。機械仕掛けの神はいない。万有引力という法則があるだけだ。山中の身体は落下を始めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る