第33話:相棒と愛人


 やってしまった。


 高見は嘆いた。数十分前の自分を罵倒した。

 真田の狂態を録音したまでは良い。だが、その後が問題だ。それから三時間近くに渡って、取材とは言えない質問を浴びせ続けたのだ。奴の性癖に関係することから、シャツに付いたシミ一つに至るまで徹底的に掘り返した。内容は雑多だった。

 唯一の共通項————真田を痛めつけること。


 高見の攻勢を中断させたのは正午の予鈴だった。守備範囲外の女からの猛攻にまいっていた真田からすれば、それは正しく天啓であった。

 予鈴を一も二もなく引き合いに出し、高見に食堂へ行くことを勧めるのは当然のこと。あからさまな降伏宣言———ここらで止めにしないか?


 高見は尚も食い下がった。しかし、三時間に渡る攻勢は彼女に大量のカロリーの消費を強いていた。それは食事への渇望を募らせ、遂には口舌を別のことに使うように仕向けさせた。要するに、腹が減ったのだ。

 高見は妥協した。真田は道順だけを告げ、脱兎の如く逃げ去った。長い手足を忙しなく動かしながら走っていた。江川崎は理事長室にはもういない。奴は手遅れだ。手も足も出ない。のたうつサナダムシに過ぎない。

 あの後に来た唯一の江川崎からの連絡———仕事は大方終わった。昼食は外で食べて来る。学園を少しの間、出る。高見は何をしても良い。


 高見は食堂に向かった。

 そこは広く、清潔で、シンプルだ。化粧漆喰でダークブラウンに仕上げられた壁。小洒落れたオーク材のフローリング。その上には、天窓から差し込む褪せた白絹のような陽光が幾何学模様を映し出している。広大なテラスが外には設けられていて、その奥には例のオブジェが聳えている。

 テーブルや椅子は合板製だが、落ち着いた色合いの機能的な代物だ。壁に掛かった幾つかの絵画は、どれも高校生を題材にしたポップアートで、その明るい色合いは黒っぽい空間に良い塩梅のアクセントを加えていた。

 集まり出した生徒達が和気藹々と列をなしている。その列の隣の壁に立て掛かるブラックボードには本日の献立が書かれていた。


Aランチ:『チェダーチーズとハムのホットサンド。麦芽乳スムージー』


Bランチ:『サワークリーム薫るビーフシチュー。バゲット。山葡萄ジュース』


Cランチ:『厚切り!豪快!生姜焼き定食。(ワカメスープとサンラータンはお好みで)


 高見は眼鏡を直した。大変悩ましい。

 いつもなら体重を気にしてAを選ぶだろう。だが、今はあの変態の所為でエゲツなく腹が減っている。今は、ボリュームこそがなによりも求めるもの。よって、Aはナシ。

 しかして、BとCには甲乙付け難いものがある。BかCか、ビーフシチューか生姜焼きか、ハムレットも霞んで見える葛藤だ。

 絶妙な酸味の溶け込んだ温かいシチューを舌に染み込ませ、柔らかく煮込まれた牛肉を味わい尽くしたい。一方で、味が良く染み込んだ肉厚の生姜焼きにかぶりつき、白米を死に物狂いで掻き込みたいのも山々だ。

 生徒達の列に並びながら、高見は考えに考えた。周囲からの視線も、取材に来た記者を一人で食堂に放り込む、真田の不躾な対応も気にしない程に。


 結果として、食堂の端の席に座った高見の前に置かれたのはCランチ。

 陶製の大皿の上に、生姜焼きは分厚い身を横たえ、肉汁を溢れさせていた。その上には、粗く刻まれた生姜が乗せられ、醤油と出汁の匂いが香るタレがたっぷりとかかっている。唾液腺に杭を突き立てられるような感覚を覚える代物だった。

 白米は美しく炊き上げられ、湯気を立たせているし、ワカメスープには程よく胡麻が浮いている。まさに申し分無し。

 高見は手を合わせた。食堂のスタッフに感謝し、ワカメスープに浮かぶ胡麻一粒分に満たない程、真田に感謝した。慈善事業という建前を誉めた。

 しかし、“頂きます”は言えなかった。別の澄んだ声が響いたからだ。


「相席よろしいでしょうか?」


 高見は声のした方を向いた。

 女子生徒がトレイを持って立っていた。高校性離れした美貌。石竹色の髪留め。

 当然だが、トレイの上にはホットサンドとスムージーの入ったコップが乗っていた。逆に、C定食が乗っていたら違和感しかない。『裸のマハ』にマクドナルドの百円バーガーが描き入れられているのと同じことだからだ。


「ええ、結構ですよ」


 高見は微笑んだ。目の下の濃い隈が浮かび、眼鏡の黒縁から覗いた。


「失礼致しますわ、記者さん」


 少女は音も立てずに椅子を引き、滑らかに席についた。劇画的な動作。完成されている。


「私は咲と申します」


 高見は少女を見つめた。“サキ”。何か引っかかるものがある。ありふれた名前だが、つい最近何処かで聞いた気がする。

 咲という少女はグラスを摘むように持ち上げた。


「どうか致しましたか? 高見博子さん」


 腹を抉られるような感覚。初対面かつ、違和感の塊の少女にフルネームを呼ばれた。嫌な予感がする。

 咲は微笑む。グラスを傾ける。茶色がかった乳白色の液体を、桜色の唇の間に注ぎ込む。喉はこくりこくりと音を立てる。グラスから唇が離れ、ふうと一息。そして、口を開く。


「Bremsenの記者さんですのね。そう書いてありますわ」


 咲は高見の胸元を指差した。高見はほっそりとした指が、指し示す方に視線を落とす。記者証が鰐口クリップで止められている。しかと『高見博子』『Bremsen』の文字が明朝体でタイプされている。

 高見は口を一文字に結び、赤面した。押し隠せない羞恥心が湧き上がった。強請りの件で頭が一杯で、失念していた。今朝の銀ジャージの少女にも名刺を渡す必要は無かったのだ。

 咲はそれを気にした様子もなく、ホットサンドを一口齧った。チェダーチーズの濃厚な香りが広がる。

 高見は気を取り直そうとした。思考を纏めようとした。それと同時に、閃くものがあった。違和感の正体だ。思考が途端に開けた。嫌な予感は的中していた。

 高見はゆっくりと言葉を捻り出した。


「一字一句その通りよ、真田咲さん」


 咲は心底楽しそうに目を細める。付け合わせのピクルスを齧った。パキリッ。


「私の苗字をご存知ですのね。高見さん」


「勿論、知ってるわ。夜柝市の名士の一人娘だもの」


「思い出すのに少し時間が掛かったようですけどね、ゴシップ記者さん?」


「養子じゃ、飯のタネにならないのよ。私生児ぐらいドロドロしてなきゃ、ホットさが足りないわ」


 高見は大根おろしを箸で摘み、白米と共に口へと運んだ。


「あら、私ってそんなに安い女かしら。もっと精進しなくてはいけませんね」


 咲はホットサンドをパクリと食いつき、噛みちぎった。間からとけたチーズが溢れた。


「それはそうと、取材の進捗は如何でしょう? 私の養父に長話を聞かされているのを見かけましたけれど」


「悪くはないわ。貴方のお父さんは本当に面白い方だし、学校の設備には凄く金と手間がかかってる。記事の欄を埋めるには申し分なしよ」


 咲は高見をちらと見て、ホットサンドを皿に置いた。紙ナプキンで口についたチーズを拭いた。口には何も入っていない筈だが、何かを吟味しているようだった。


「私の方も、面白い話を小耳に挟んでおります」


 高見がワカメスープに口をつけようとしたところで、咲は言った。


「頗るタフで、苛烈なまでに可憐な、ある用務員さんの話なのですけどね」


 桜色の唇の上を舌が這った。


「何でも、興味深い副業をなさっているらしいのです。安っぽく、扇情的で、熱病じみた、お仕事をね」


 唇は三日月を形作った。言葉の節々は濡れそぼっていた。

 高見は箸を動かす手を止めた。咲の細められた目を見た。検事と被告を足して二で割ったような顔をした。

 咲は続けた。


「彼女、その危険な香りのなさる用務員さんには、お仲間さんがいらっしゃるそうです。ふふっ、羨ましい限りですね。アソコが縮み上がるスリルと脳が蕩ける興奮に苛まれているのでしょう?」


 咲は目を開いた。黒真珠のような瞳が露わになった。


「ねえ、高見さん。手を引いて頂けないかしら? スリルが有るということは、危険があるということ。バーンスタインぶっても、碌な結果にはなりませんわ」


 高見は何も言わず、視線を逸らした。脳の神経に電流を流した、考えた。そして、箸を置いた。眼鏡の下縁に隠れた隈を押さえた。親指と人差し指で、ゆっくりと。それから、言った。


「ウォーターゲート事件は何も無かった。そういう歴史よね。ワシントン・ポストの二人の記者は事故で死んだ。不慮の事故でね」


 高見は指を組んだ。咲を見据えた。


「とはいえ、私は三流雑誌の底辺記者。知ったこっちゃないわ」


「あら、そういう底辺記者の方が、後腐れが少なく済みそうですわ。安食堂で、ジャンクフードをかっ喰らっている所を、強盗の手にかかってしまうのがオチです」

 

 そう言って、咲は二枚目のホットサンドに齧りついた。真っ白な八重歯が覗いた。


「中々、よく知ってるわね。まるで、実際に見てきたような口振り」


 高見も箸を掴み取り、生姜焼きを挟み上げ、それに喰らい付いた。濃厚な肉汁、生姜の香り、甘じょっぱいタレ。咲の暮らす世界とは対極にある味。


「連合の一人娘ですもの当たり前ですわ、高見さん。それで、お返事は?」


 咲は微笑んだ。


「舐めんじゃないわよ。クソ餓鬼」


 高見は拳を握りしめた。笑みを貼り付けた。


「一人でケツを捲れる程、社会人は甘くないの。分かるかしら?」


 咲はくすくすと笑った。指を口元に当てながら。


「緑川さんみたいな話し方をするのね、高見さん」


「うちの編集長に会った事が?」


「ええ、親交がありますわ。今回の件についても、もう話しておりますのよ」


 咲はさらりと言ってのけた。


「勿論、八島さんと江川崎様とも面識がありますわ」


「いつ、何処で?」


「八島さんには、コンビニで変な女に絡まれている所を助けて頂いたんです。無邪気で可愛らしい子でした。同じ高校の、同学年として、仲良くしたく存じますわ」


「江川崎とは?」


「呼び捨てにしないで下さるかしら。『“さん”を付けろよデコスケ野郎!』と言いたくなってしまいます」


 咲は顔を顰めた。高見を睨みつけた。戯言の下には怒りが覗いていた。


「江川崎様を知ったのは少し前のことですが、初めて直接お会い出来たのはついさっきなのです。』


 少し残念そうな顔をする咲。ネット広告ばりに切り替わりの早い女だ。


「ですが、初対面にして我々は、熱くお互いを貪り合い、睦言を語り合い、今後について話し合い、悪巧みを致しましたわ!」


 咲は満面の笑みを浮かべた。上品さは無くなり、熱病じみた情感だけが込められていた。


「貴女だけが手を引いてくだされば、全ては上手く行く。貴女は邪魔なのです。私の恋路に邪魔なのです」


 高見は確信した。此奴は養子じゃない。間違いなく、あの男の実子だ。脳味噌はメタンフェタミンとローションの混合物で出来ている。


「ねえ、高見さん。私は、江川崎様がこの件から手を引くのを求めているのではありません。貴女が手を引いて欲しいのです。分かりますか?」


「編集長にそう頼めば良いじゃない」


「とっくに、そう申し上げましたわ。でも、あの人には変な拘りがあるみたいで、『意地でも貴女を担当から外さない』と仰るんです」


 咲は困り顔を浮かべた。女子高生というより、証券マンが浮かべる類いの表情だ。


「ですから、貴女が自主的に引いてくだされば丸く収まるのです。あの男は自分に迫る包囲網をはっきりと捉える事なく、貴女方は強請りを成功させられますよ」


「話が見えない。どうして、私だけが手を引く必要が? メリットは?」


「言ったでしょう? 私の、恋路の、邪魔だと」


「恋路って、江川崎さんとの?」


「それ以外に何がありますか?」


「勝手に告白でも何でもすれば良いじゃない。大人として応援してあげるわ。それに、私はレズじゃない」


「関係ありませんわ。ヒロインは一人で充分なのです、貴女は障害になりうる」


「面倒臭いのに絡まれたわね、江川崎さんも。ご愁傷様と後で伝えておくわ」


「ヤーヤーヤー。それで、江川崎様の担当から降りて下さるのかしら? 年増さん」


 咲は結論を迫る。嘲笑を浮かべる。最高の顔面偏差値から放たれる最高の嘲笑。

 高見は両手を机上に乗せた。机の表面に指が突き立つ。


「口を慎めよ、エロ餓鬼。アンタら親子は下半身でものを考えるのは全く一緒。建設業より水商売の方が向いてるわ。親子揃って、ポン引きと娼婦になりな」


 高見は咲を睨みつけた。上目遣い。深い隈が覗く。狂相


「私は糞パパラッチの、糞担当なの。餓鬼の強請りに屈するようじゃ、商売上がったりよ。理解した?」


 高見は睨みつけた。威嚇するグズリのような形相。気迫。

 咲は何も言わない。美しい作り物の微笑を浮かべる。情熱は鳴りを潜めた。


 そして、これ見よがしの拍手———パチ..パチ...パチパチパチ...


「ああぁ!良いですわ!これぞ、ラヴロマンスの王道!満点ですわ、高見さん」


 顔面が情欲に崩れる。指先についた油を舐めしゃぶった。とろりと目尻を落とした。マリファナいらず。


「つまらない女だったら、どうしようかと思いましたわぁ...本当にぃ...」


 咲はグラスを手に取り、残りを飲み干した。甘ったるい息を吐いた。高見はそれを汚物を見るような視線で見た。


「それで?」


「手を引かないで結構ですわぁ。というより、そんなつまらないことを絶対にしないでくださいねぇ?」


 咲はそう言って、トレイを持ち上げ、立ち上がった。


「それではまたお会いしましょう、好敵手さん」


 咲はパタパタと手を振りながら、トレイの返却場所へと歩いて行った。


「二度と面を見せないでね。エロ餓鬼」


 高見は毒づいた。生姜焼きに箸を突き立てながら考える。


 結局、ダイナーへ殺し屋を送り込んだのは、誰だ?

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