第9話:豆板醤とKabbage
風呂上がり。江川崎は快く風呂を貸してくれた。服も貸してくれた。下着はコンビニで買って来ていた。
ただ、服のセンスは壊滅的だった。デフォルメされたファックサインが、でかでかとプリントされているのを見せられた時には、卒倒しそうだった。
誰のものなのかと聞けば、“恋人の”と彼女は素っ気なく答えた。
私は唖然とした。この目玉女が恋をした? 私は未経験のまま三十路に差し掛かっているというのに? 酷い冗談だ。
彼女が事務所のソファーに座って、テレビを眺めている。ローリングストーンズのロゴ入りの白のロンT。黒のジャージ。セルロイドのカチューシャは無い。肩口までのベリーショート。ハリのある赤髪。仄かに湿っている。
彼女が画面から視線を外さず、言った。
「真田の奴が出てるわ。見てみれば?」
ソファーへ歩み寄り、腰を下ろす。画面の中では、病的に痩せた男が壇上で弁舌を奮っていた。ナレーターが原稿を読み上げる。
『真田グループが押し進めて来た、私立高校“秀翫高校”のリニューアル計画が遂に完了を迎えました。新校舎は小高い丘の上にあり、見晴らしも良く、何より旧校舎が以前隣接していた“村建地区”から離れた場所に位置する為、安全性が格段に増したようです。』
ナレーターは大義そうにカンペを捲る。
『別校舎において授業を受けていた生徒達は、喜びの声を上げています。』
画面が変わり、女子高校生とマイクが映る。
『あのボロい校舎とおさらば出来てサイコーです。私達の分の教室が出来上がるのが遅れに遅れてしまって...。私達の先輩方はもう新しい教室で学んでるっていうのにですよ!最近、失踪事件とかも噂になってるし、一刻も早く.....』
真田より長尺でJKが話す。背景に目を凝らすと、真田がニヤけているのが見える。JK狂いは筋金入り。若干、背筋に来るものがあった。4Kの高画質でわざわざ確認するコトじゃなかった、と後悔する。
「真田に一撃を喰らわせるんでしょう?動じる様な一発を。」
「そうよ。」
「だけど、どうやるの?担当になったら教えてくれるんでしょう。」
江川崎が振り返る。目は剥かれている。犬歯が剥き出しになっている。
「どうって?今、出てるでしょう?」
江川崎は画面に顎をしゃくる。
画面では、真田が体育館の壇上に立っている。面白くない冗談。生徒たちの忍び笑い。
「秀翫高校? 流石の真田でも、そこまで開けっ広げにやっちゃあいないでしょ。」
「やってるかもしれないし、やっていないかもしれない。確かに、確信は持てないわ。だけど、そんなもの必要?」
江川崎が上目遣いで此方を見る。筋繊維がTシャツに浮かび上がる。
「また、美人局?」
江川崎の笑みが深くなる。
「そう。三角関数より、遥かに有用な社会の公式。しかも、おあつらえ向きに奴は理事長室で踏ん反り返ってる。周りには、劣情を掻き立てて止まない最高のプッシーが勢揃いしてる。ヤツ好みのJKを一人斡旋してやれば、あっという間にAVが一本出来上がるに決まってるわ。ロケ地は出来たてホヤホヤの新校舎。誰も言い逃れはできない。」
彼女は大口を開けて捲し立てた。Tシャツのロゴは舌舐めずりをしている。
「んあ、うん。言いたいことも、やりたいこともよく分かる。けど、そもそもどうやって中に入るの?私も貴方も高校はとっくの昔に卒業しちゃってるのよ?」
彼女は机上のキリンビールを手に取った。
「貴女は記者として入れる。緑川さんに手を回してもらう。私は用務員として入る。ツテはある。そっちで臨時で雇って貰う。意地でも捻じ込ませるわ。斡旋役。詰まる所のポン引きは、ウチの“妹”に任せる。コッチの方は制服を着せるだけで良い。転入だって、私と同じツテで出来る筈よ。」
彼女は目尻に皺を寄せ、ニヤリと笑った。キリンビールをラッパ呑みした。頬を金色の液体がつたった。
「貴女に妹がいるの?挨拶した方が良いかしら。でも、こんな時間だし寝ちゃってるのかしら?」
「ブフゥッ‼︎オエッッゲホッゲホッ」
飛び散るキリンビール。江川崎彼女は何が面白いのか、ビールを吹き出し、盛大に咽せた。
「ハッハッヒッヒッヒィッ、ハァッ。アアッ、今時の高校生がこんな時間に寝る方が珍しいわ。大概、繁華街でサカるか、ベッドでスマホと格闘してるわよ。」
江川崎は呼吸を落ち着け、ティッシュでビールを吹きながら続けた。
「まあ、ウチの“妹”はまた少し違う事情だし、そもそも血縁的な妹じゃないけど、ね。」
酒が入っているからなのか、江川崎はよく喋った。
「ウチの“妹”。結構、可愛いわよ。ものすんごく、生意気だけど。」
彼女はビール缶を置く。
「少し手を洗ってくるわ。待っていて。」
彼女は再び暖簾の向こうへと去って行く。口元は緩んでいた。
テレビではニュースが終わり、益体もないバラエティー番組が始まった。
コメディアン気取りのスーツ男。オカマであることをネタにするゲイ。甘い微笑みを絶やす事を強制されたアイドル達。
お茶の間の主役達の誰も彼もが、腹に一物を抱えた只の人間であることを必死に取り繕っている。此れは仕事の一環。劇。与えられた役割を果たし、その上でアドリブを効かせる。難儀な仕事。
全員が領収書の山に怯え。税務署に付け狙われている。其れでも、スキャンダルのタネを作り続ける————面の皮を厚くしろ。弱味を見せるな。
それは全てにおいての共通項。テレビの中だけじゃない。
画面では、黒ずくめのグラサンをかけた男が舞台を降りて来る。
それと同時に、彼女が戻って来た。今度は二本の瓶ビールと皿を乗せたお盆で武装している。彼女は芝居ががった手つきでお盆を置く。懐かしい小学校のステンレス製のお盆。皿にはタコスが二つ乗っている。
一つのタコスは、溢れんばかりのキャベツとスモークチキン。その上に、溺れんばかりのチリソースがかかっている。単純に美味しそうだった。
もう一つは、同量のキャベツと若干臭う何かの肉。同量のサルサソース。おまけに、豆板醤が塗りたくられている。
江川崎は私を見て微笑んだ。
「記者さん。どちらを召し上がりますか?」
目は見開かれていない。髪も止めていない。彼女はまるっきりの別人に見えた。
「辛くなさそうな方を。」
完璧に日和っていたが、気にしない。
「ええ、かしこまりました。」
江川崎はそう言って、チリソースだけの方を掴み取る。止める間も無く大口を開けて頬張った。
見てくれが落ち着いても、パパラッチはパパラッチで、江川崎は江川崎。性格は最悪。けれども、隆起する筋肉は本物。
大人しく、もう一方の豆板醤入りを口にする。
一口で口の中が燃え上がる。旨味がどろりと溢れ出す。肉は確かに臭かった。だが、辛さで鼻はバカになり、気にもならない。それよりも味が濃い。殺人的に濃い。辛さに負けていない。タコスの生地の素朴な味と食感がそれを引き立てる。溢れんばかりのキャベツは、噛むたびに、瑞々しさを発散し、燃える辛さに少しの加減を与えてくれる。
咀嚼する口の動きが止まらない。モノをよく噛んで食べる重要性を思い知らされる。存分に味わう。そして、呑み込む。燃えるような息を吐く。
キリンビールを呷る。ピルスナーが焦土と化した口内に、文字通りクールな味わいを広げた。ぐびぐびと、喉を鳴らして半分程まで飲んでしまう。瓶を下ろす。
喉の奥からの堪え切れない圧迫感。口を思わず押さえる。
数時間前の緑川にも負けないクソデカいゲップが出た。
「アアッヒャヒャヒャッッハッハッハッハハ。」
江川崎が瓶を振り回して爆笑する。
「笑わないでよ。小学生じゃないんだし。ゲップしたのは謝るから。」
彼女は太腿を猛禽類の様な手で鷲掴みにしながら、笑いを堪える。
「ハッハッハッッヒィっ.....。ウチの妹と食い方からゲップまでそっくり!嗚呼、面白い。ブフッ。」
「こんなのを貴女の“妹”さんは食べるっていうの⁉︎」
「そうそう、“こんなの”が大好物。冷凍庫に何個か作り置いているくらいよ。ブリトーみたいにね。確かに美味いのは間違いないのよ。そいつは。」
上機嫌に笑う江川崎。
「うん。美味しいわ。けど、これ何の肉?ワニ肉じゃないでしょうね?」
ダイナーのバーガーが脳裏によぎる。
「“GAVIAL DINER”から仕入れたのは違いないけど、そいつの肉はワニじゃ無くて、ヤギよ。だから少し臭いの。」
「山羊か。初めて食べたわ。羊よりは確かに臭くない。」
「私のやつは只のスモークチキン。味が濃いのは嫌いじゃないけど、限度があるわ。ソレの中、“妹”が言う所の“TKGタコス”の中には、七味だとか、豆板醤以外も大量に入ってる。老舗のソースとどっこいのややこしさね。」
「TKG。どう見たって卵をかけてないし、米も入ってないけど....」
「T is 豆板醤’s T, G is GOAT’s G, K is CABBAGE’s K」
「ちょい待ち、一個だけスペルおかしいのなかった?」
「沈黙は金、雄弁は銀よ。」
「カッコつけるとこじゃないわよ、そこ。」
「貴女、記者でしょう? 大切な事よ。ソレに16歳相手にマウント取ってもカッコ良くないわ。」
「キャベツの頭文字は“C”でしょう?英作文でミスらない為には必要じゃない。」
彼女は肩をすくめた。
「貴女の為を思っての忠告だったんだけどね。あの子の目の前でそんなこと言ったら“脚”で.....」
彼女は言葉を濁らせる。
「足で?」
「足蹴にされるわよ。って言ったの。まあ、そっちの方がヤバいかもしれないけど....」
「女子高校生に足蹴にされるんだったら、本望だわ。」
酒が入って若干、おかしくなっていた。
「貴女、真田に毒されてるわよ。」
夜は更けて行く.....
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