第7話:MIDNIGHT PILSUNER

 秋の夜道。二つの人影。夜柝市の夜は海風によって始まる。港湾部の工業地区には湿った夜の匂いが立ち込めている。

 街灯はなく、明かりは月の光だけ。道標は、眼前を歩く女の月光を照り返す革ジャケット唯一つ。


 ケツを蹴り上げられた後、編集長に今回の事件の担当に抜擢された。あまりいい気分ではなかったが、あれだけのことをしでかしたにもかかわらず仕事まで貰えたのだ。行幸と言っても、過言ではないのかもしれない。

 江川崎はそのことに対し、何も言わなかった。思案しているようだった。逞しい太腿を指でパタパタやっていた。

 オフィスを出た後、江川崎はミーティングをしたいと言い出した。数時間前の狂騒など、気にも掛けていなかった。此方の都合などお構い無しという事らしい。

 勿論、私に選択肢は無かった。


 退く事は出来ない。分水嶺はとっくに過ぎ去っていた。


 江川崎は家で話そうと言った。行き先は、工業地区の倉庫街。夜柝市の右端で、港と一体になっている場所だ。倉庫が立ち並び、原料や商品を心待ちにしている。純然たる加工貿易の産物だ。

 江川崎は、鉄門の中に入って行く。

 

 社宅でもあるのかと思った。門の奥を見る—————化け物じみた20tトレーラー。堆く積まれたコンテナ。天を突くようなコンテナ用クレーン。馬鹿でかい変圧器と投光照明。明かりは消え、人はおらず、ただ静寂だけがあった。鉄門には“第八集積場”と銘打たれていた。


 江川崎は数十歩先で立ち止まり、此方を見ている。

 道を間違えているわけではなさそうだった。少し駆け足で彼女の方へ向かう。今日一日で体は酷く疲れ切っていた。大学を出てからこの方、全く運動をしていない事実に気付かされた。


 江川崎も歩み出す。堆く積まれたコンテナの山へと向かう。大学の時に行った四川省の城砦を思わせる威風。江川崎はコンテナの隘路へと入っていった。


 余りの暗さ。冷たいコンテナの感触。数十歩に亘る手探りでの前進。

 そして、ブレーカーの上がる音。白熱電球の温かい光が隘路を照らす。江川崎の姿が浮かぶ。隘路の先の光景が露わになる。


 三階建てのプレハブの要塞がそびえたっていた。悪趣味な目玉と唾を吐き散らす山羊の壁画。ピンクのネオン。何のものか見当もつかない配管が壁面をのたうち、屋上からは軽自動車サイズのパラボラアンテナが突き出している。

 全貌は周囲のコンテナの山と一体になり、把握出来なかった。


 江川崎はステンレスの引き戸の鍵を開け、中に入った。自分も会釈をして中に入る。


 悲しいことに、コレが私にとって最初の女友達の家への訪問であった。昔から、私に友達と言える人間は殆どいなかったのだ。江川崎が友達と言えるかは微妙なところだが....。


 入るまでは、パパラッチのねぐらはどんなものかと不安だった。

 しかしながら、それは杞憂に終わった。内装は無骨な外見とは裏腹にシックで機能的。家というよりは事務所と言う方が適切なほどだった。

 分かりやすい例えは任侠映画の事務所。


 違なる点。物々しい習字の額縁無いこと。代わりに、壁一面のファイルキャビネットからゴシップ記事の切り抜きが飛び出していること。ソ連製の重戦車のような重厚感あふれるプリンターが鎮座していることぐらいだ。


「土足のままで良いわよ。一階は仕事部屋だし。そこのソファーにでも座ってて。」


 江川崎はそう言って、事務所の奥の暖簾で区切られた部屋へと消えていった。私は言われた通り、腰を下ろした。

 革張りのソファーはスプリングを軋ませ体重を受け止める。天井では温かい光を電灯が部屋中に降り注がせている。

 向かいの壁の時計はあと少しで12時を指そうとしていた。疲れが奥底から、堰を切ったように溢れ出し、私の体を満たし尽くそうとした。睡魔が迫って来ていた。


 閉じかけるまぶたの向こうに暖簾のれんを潜る江川崎が見えた。エビスビールとチーズクラッカーで武装していた。

 革のジャケットは脱いでいた。“getaway”とプリントされたTシャツが彼女の筋肉の流線を縁取っている。完璧な形のオッパイが、文字のプリントを押し上げている。


「これでも飲んで待ってて、シャワーだけ浴びて来るから。」


 目は剥かれていない。自然に笑っている。“ありがとう”といって缶を手に取る。恵比寿様が微笑んでいた。

 “よく冷えたビール”。魔法の言葉。プルタブを開ける。世界最大級にグルービーな音が鳴る。冷たいアルミに口を付け、金色の液体を流し込んだ。喉をゴクリと鳴らした。全てが至福だった。全てが心地よかった。安い幸せだと笑うが良い。それでもそれはサイコーなのだ。

 私はエビスに痺れるあまり、江川崎が一瞬呆然としていたのに気づけなかった。


 “ありがとう”。ただ、それだけのことだった。

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