第6話:JUST MEET A GOAT

『ホーさん。いいですか? これは掛け値なしの、端的な、最後通牒です。返信は要りません。謝罪も必要ありません。我々は、貴方が四千万を返せるとは考えてはいないのです。

 ですが、ツケは往々にして回って来くるもの。

 ホーさん。貴方が、へし折ってきた取立て人の鼻骨も、鎖骨も、膝の皿も、全て回ってきます。いいですか? コレは最後通牒です。返信は必要ありません。』


 間抜けな電子音と共に、留守録は終わった。静寂が空間に対流する。


 ホーは拳を電話に叩きつけた。

 基盤の欠片やプラスチックの破片が飛び散り、受話器は真っ二つに叩き折れた。電話は永遠に沈黙した。


 薄暗く、陰気くさいアパートの一室。ゴミと脱ぎ捨てられた服の絨毯の真ん中で、ホーは立ち尽くした。外では、ゴミ収集車に袋を投げ込む音が、どさりどさりと鳴っていた。


 ホーは移民だった。キックボクシングのプロ選手だった。女癖が悪かった。気狂いじみたパパラッチの格好の餌だった。パパラッチのジュードーにボクサーは敢えなく絡め取られた。契約は瞬く間に打ち切られた。

 過去の栄光。ホーは執着した。闇金に金を借りた。はなから返すつもりなど無かった。連中は非合法だ。然るべき金も納めていない。サツはおろか、ALSECすら連中の為には動かない。


 ホーは暴力を駆使した。暴力を振り回す奴等に、真の暴力を教えてやった。刃物を突き出す奴も、棍棒を振り回す奴も、ホーの裏拳には敵わなかった。

 

 次も、なんてことはない。鼻っ柱を圧し折ってやるだけだ。


 喉がひりつく。卓袱台の上に乗ったペットボトルを掴み上げ、喉を鳴らしながら、溜めた水道水を飲んだ。水道は既に止められていた。


 ドアのチャイムが鳴った。薄暗い玄関。さっきの留守録が脳裏をよぎる———“全て回って来る”


 馬鹿馬鹿しい、それなら金も回って来るべきだ。


 ボトルを投げ捨て、拳に革のバンドを巻く。

 借金取りどもの返り血で黒く変色し、洗っても落ちやしない。

 ドアへ歩み寄る。拳を握りしめる。ドアアイから外を窺う。


 ホーは目を疑った。アパートの薄汚れた通路。延々と続く住宅群。曇り空。腐る程、見慣れた光景。


 そして、見覚えのない少女。


 160cm弱。燻んだ灰色の髪。無為に伸ばした髪は黒のバンドで二つに結ばれている。

 手入れに気を使っているとは思えないその髪は、所々逆立ち、怒り狂った山羊のようにも見えた。

 服装は不恰好だった。ガキが着るような物じゃなかった。

 草臥れたダスターコート。サイズが合っているとは思えないワークブーツ。色褪せたダブダブのジーパン。ペイズリー柄のバンダナ。蹄を象った銀のペンダント。

 出来の悪いマカロニウエスタンの悪漢と、ヴェトナム帰還兵の合いの子の様な格好。


 女がドアアイを向こう側から此方を覗き込む。黒目の大きなアーモンド型の眼が、此方を見据える。口元はバンダナに隠され、見えない。

 目元は病的な迄に真っ白で、ペイズリー柄は大量の目に見えて、不気味だった。気分が悪くなった。

 女は此方に気付いているのか、いないのか、戸から一歩離れた。ヤバい感じがした。

 女が足を無造作に上げる。


 ホーは後ろへ跳んだ。全身の筋肉を動員した。筋肉が軋みを上げた。バンタム級チャンピオンと対峙した時以上の反応速度を見せた。決死のボクサーの勘。そして、ボクサーの勘は的中する。


 轟音。蝶番が弾け飛ぶ。ドアのアームがへし折れる。鉄の扉がひしゃげる。

 ステンレス製の扉にドタ靴の靴跡が刻まれる。


 玄関の向こう。廊下で、女が脚を気怠げに下ろすのが見える。戦慄する。アレはヤクザキック。助走もつけずに放つ蹴り。純粋な脚力だけの所業。

 一端の格闘家にとって、余計にそれは荒唐無稽で気狂いじみた光景。160弱のガキの脚力じゃない。ありえない。


 女が此方を見据え、目尻に皺を浮かべる。黒い筋が血色の悪い肌の上に刻まれる。徐に、女はコートの裏地に右手を差し入れる。明確な隙。


 ホーは飛び掛かった。空を切り裂き、裏拳をペイズリー柄に叩き込む。

 真っ赤なそれは、狙ってくれと言っている様なもの。風切り音。鈍い音。骨のひしゃげる感覚。


 ホーの身体は激痛に震えた。拳は砕けかけていた。血を流していた。ホーは叫びを押し殺した。後ろへ退いた。距離をとった。全力で。一もニも無かった。コンビネーションなど夢物語。


 女は距離を狭めない。突っ立ったままだ。右手は抜かれている。

 黒い革手袋を着けたその手には、木製のテーブルの脚が握られている。ビスや金具が血で錆びつき、木材は黒く変色している。その上のホーの鮮血だけが鮮やかだった。


 女は低く、咳き込む様な音で笑う。二本の角が揺れる。“脚”が革手袋に打ち付けられる。


 ホーは息を深く吸い込む。深く吐く。バンドを更に強く握り締める。重心を下に持ってゆく。低く構える。


 女は構えない。“脚”を振り被り、ズンズンと大股で迫って来る。喜劇役者の様な足取り。平和を知らないチャップリン。


 “脚”が振り下ろされる。ホー身を縮め、難なく避ける。恐ろしく速い、それだけだ。女は完璧に振り抜いた。重心は崩れた。


 ホーは女の鳩尾目掛け、膝蹴りを放つ。入った。そう確信した。


 革手袋が眼前に迫る。有り得ない体勢からの掌底。顔面に決まる。脳を揺らす。困惑と混濁。二つが襲い来る。

 ホーの視界は揺らぎ、膝蹴りはダスターコートの端を撥ねるに終わる。

 女は一回転し、掌底を完璧に振り抜く。勢いを殺さず、“脚”を振り被る。

 ホーは揺らぐ視界の中で、女の足を払いにかかる。床に手を突き、身体を捻じ回し、踵を叩き込む。しかと、踵は女の脛を捕らえる。


 鉄筋コンクリートを蹴った感触。

 女は小揺るぎもしない。衝撃はホーに返ってくる。突いた手がずれる。体勢が崩れ、ケツが畳に打ち付けられる。


 ”脚”が振り下ろされる。“脚”がホーの腰にめり込む。一撃で骨盤を叩き割る。


 ホーは比類ない叫びを上げた。


 誰も来るはずも無かった。ホーは近隣の連中を全て、脅し透かしていた。借金取りに対する暴行を口止めした。「叫びは聞こえない。いいな?」ツケは回ってくる。


 女が”脚”を再び振り翳す。振り下ろす。二撃目は右肩を捕らえる。落花生の殻の如く、右関節が砕け散る。ホーが叫ぶ。女は振り翳す。振り下ろす。三撃目は左肩。牡蠣殻みたいに割れた。


 ホーは更に絶叫した。


 女は咳き込む様に笑った。“脚”を両手で振り被った。ホーは有らん限りの力でのたうち叫んだ。

 “脚”が振り下ろされる。ホーの頭蓋を目掛け、一直線に。骨を砕く音がした。


 ホーの意識はぶっ飛んだ。


 脚先と金具はホーの顎を噛み終えたガムのように変えたところで、止まっていた。

 女はホーの襟首を掴み、肩に背負った。部屋を後にし、アパートの廊下を抜け、階段を降り、駐車場へ向かう。


 住人達は全員引っ込んでいた。連中は掟に忠実だった。“見るな、聞くな、賢く生きろ” ネットのポップアップの何百倍も信用できる長寿の秘訣。


 駐車場にはバンが止まっている。ムカつく面をしたワニのマスコットと“GAVIAL DINER”の文字がプリントされている。

 ダスターコートの女、八島亜紀はバンの荷台のドアを乱暴に跳ね上げ、死にかけのホーの身体を放り込んだ。砕けた顎から歯が抜け落ち、車内に転がった。


「ご苦労さまです。八島さん。」


 運転席のGAVIAL DINERの制服を着た男が言った。ワニのロゴ入りキャップ。ロゴ入りの前掛け。ヨレヨレのTシャツ。ダサい。感想はそれだけ。


「バラすなり、教団に売り払うなり、好きにやって」


 八島は不機嫌そうに言った。見た目相応の声質。


「強かったです?」


 店員然とした男は、マスコットとそっくりの笑みを浮かべながら言った。

 八島はホーを睨め付ける。


「人の足を全力で蹴りやがって、このクソボクサーがよぉ。大体、裏拳も蹴りもボクシングじゃ反則だろ?」


 八島は歯軋りした。


「ホーさんの方が痛そうにしてますけどねぇ。」


 店員男はホーの無残な顔面事情を顔を顰ながら形容した。


「JKに殴り掛かる奴には丁度良いさ。」


「学校通われてましたっけ?」


 茶化す気満々の笑い。


「うるせぇ!さっさと行け‼︎メシマズダイナー‼︎」


 八島は荷台のドアを叩きつける様に閉める。サスペンションが軋みを上げる。バンが跳ねる。ホーのボディが空を舞い。店員男も天井に頭をぶつける。


 八島はニヤリと笑う。だが、ワニも笑っている。

 バンが走り出す。目一杯、排気ガスを吐き出しながら。


「ゴホッゲホッゲヘッッ。オェッ。」


 八島はバンダナで口を押さえ咳き込む。今度は笑い事では無かった。遠ざかって行くバン。その中で、ワニと店員ついでにホーも笑い転げている様に思えた。


「次、会ったら蹴り入れてやる。」


 悪態をつき、アパートの裏に向かう。変圧器の裏に隠していたHONDA CD125に跨がる。スターターをキックする。エンジンが唸りを上げ、心地よい振動を響かせる。

 八島はメットを被った。


 アクセルに手が掛かった時、着信メロが鳴った。ローリング・ストーンズの『sympathy for the devil 』が流れだし、ミックが唄った。


『まさに全ての警官達が犯罪者のように、全ての罪人が聖人だ』


 ああ、そうだ。全てがクソで、全てが無問題なのだ。


 八島は携帯を耳に当て、番号の主の名前を口にした。


「江川姉ぇ。何か用事?」


 私に“姉”がいるように、ロクデナシにも家族がいる。常に世界は二面的だ。

 

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