第5話:SHOCKING PINK PYE
高見博子がライターを務め、江川崎が贔屓にしている雑誌。“Bremsen”の事務所は朱舌社の分社ビル、四階にあった。
キーボードを叩く音やら、黒い噂の絶えない業界人の名前やらが延々と飛び交い、事務所全体に安物のインスタントコーヒーの臭いが立ち込めている。
部屋中に積まれた記事やファイルの間からは所々、肌色成分の多い写真がはみ出していた。
高見に先導される形で、江川崎はワークデスクの迷宮を抜けて行く。
時間に追われ、書類と印鑑の嵐に曝され続ける社員連中を見ていると、自分にはOLなど、到底出来そうもないと思わされた。
先を行く高見は、怒り狂った猪のような勇み足で緑川のオフィスを目指している。ダイナーでの呆けた雰囲気は霧散し、張り詰めた面をしている。“店側が処理してくれる”と、言ってやったのを聞いていなかったのだろうか。
ダウナーになったかと思えば、今度はキレる。極度のストレスによる典型的な反応だ。
だが、どうすることもできない。
カウンセラーに頼むか? いや、この街に闇医者は腐るほどいるが、ソフトな心を優しく労ってくれるような奴は一人も知らない。
そうと言って、まともな病院に行き、この事を話せば、通報されてALSECの連中に滅多撃ちにされるのがオチだろう。
高見の精神のことを考えれば、“ありがとう”の一言でも、言ってやるのがベきなのかもしれない。それだけでも、心が助かるものだと聞いたことがある。
しかし、生まれてこの方、面と向かって“ありがとう”などといった記憶はない。“妹”にも“あの人”にも言ったことはない筈だ...
緑川のオフィスの入口に辿り着く。高見がオフィスの扉を開ける。
部屋の中からドギツイ奇臭が溢れ出る。接着剤。制汗剤。ピザのアンチョビソース。屁。脱いだ靴。水飴。Etc....
八畳半のオフィスは、奇臭と大量のファイルに完全に制圧されていた。
壁についた換気扇は虚しくも徹底抗戦の構えを崩さず、机の端に置かれたパンサーを模した真鍮の置物は、天を仰ぎ見て自身の待遇の劣悪さを嘆いていた。
部屋のど真ん中。合板製のいかにも頑丈そうなデスクの向こうで、緑川葉子はラズベリーパイを貪っている。
首をもたげ、パイにかぶりつく度に、ボリュームたっぷりのカールした髪が揺れた。
はち切れんばかりの肥満体をピンクのジャージに詰め込み、馬鹿でかいサンダルに足を突っ込んでいた。
緑川はこちらに一瞥をくれたが、すぐに1ホール丸々のパイに視線を戻した。
高見がキレ気味に話を切り出す。
「緑川編集長。江川崎さんをお連れしました。」
緑川は高見に再び視線を寄越したが、またすぐに逸らした。目線はキャビネットの上に置かれたコーヒーメーカー。
疑いようもなく、“淹れろ”と言っている。
人を容赦なく丸焼きにした情緒不安定女に対して相応しい扱いでは少なくともなかった。
高見は怒りに顔を歪め千切ったが、それでも何とかデスクの上のマグカップを掴み取り、コーヒーを注ぐことに成功する。
彼女の忍耐に対し、拍手喝采を心の中で送った。寿司でも何でも奢ってやりたくなった。そして、守銭奴の私がここまで思うことは滅多にない事であった。
高見はマグカップを力一杯、テーブルに叩きつける。コーヒーが宙を舞い、再びマグカップに戻る。少し、高見の手にかかった。
「緑川編集長。お客様の目の前です。悪趣味なことは控えてください。」
発した声には決死の気迫があった。しかし、緑川の返答はこうだった。
「ゲェエエェェエプッ。ブルブルブルブル、ぷヒューッ。」
クソ長いゲップの後に、唇を震わせ、終いには胃に詰まったラズベリーパイの甘ったるい臭気を吹き出した。
高見は盛大にブチ切れた。パンサーの置物を引っ掴み、情け容赦無く緑川に殴りかかる。
高見とパンサー、両者が部屋の主に鬱憤を晴らそうと躍りかかった。止めるべきか止めないべきか。私のニューロンは瞬時に答えを出そうとした。
平手が飛ぶ。スーパーヘビー級かつ横綱級の緑川の平手。子猫がダンプに轢かれるようなものだ。
置物諸共、吹っ飛ばされる高見。私は受け止めることを拒否し、サイドに避けた。憐れな三十路の女記者は、ファイルの山へと突っ込んだ。
大胆な人払いの方法だ。言えば、高見も席を外すだろうに...。
緑川は、何事もなかったかの如く、パイの粕を丁寧に集めて屑籠に入れた。ぱんぱんと手を払い。言った。
「で、お代は五十でどう?」
ハスキーというには中々辛い、しゃがれ声。
よく言えば、ビリー・ホリデイ。悪く言えば、酒で喉をやったオヤジ。ビリーのことを、そう評する奴もいるが私は断じて認めない。
「正直な所、五百は固いと思いますよ。労力的にも、話題性的にも。」
ダイナーで話した商談をひっくり返し、吹っ掛ける。“言い値でいい”と言った事を知る唯一の証人はファイルのベッドで眠っている。
「迷惑料込みよ。ダイナーに対する支払いも割り勘しなくちゃいけないし、何より、どうせこの記事の後もドブさらいは続くんでしょう?」
言質だ。言質をとれ。
「協力して頂けると捉えても?」
金なんぞより、コッチの方が重要だ。
「もちろん。但し、強請りの稼ぎの配分は、三対一。私が三で、貴方が一。」
妥当な配分。搾り取る相手は選ばなければならない。そして、少なくともその相手ではない。レモンの種まで搾り取って良い事など、一つも無い。
「ええ、それで結構です。ただ、これから先、私の放り投げたエサに齧り付くときは一言伝言をお願いします。此方にもタイミングってものがありますから。」
「ふうん、“パイと醜聞は熱いうちにご提供”ってのがうちの主義なんだけどねぇ。今回の特ダネもお預けなの?」
緑川は手を握りしめ、再び開く。ペンだこ以外にも、あちこちふしくれだっている。
「いいえ、盛大に撒き散らしてやって下さい。興奮した猿の如く、糞を建設王の面に投げつけてやるんです。強請屋は嘗められたら御終いですよ。有言実行。パンにはパン。血には血。単純明快です。」
緑川は拳を握りめる。此方をねめつける。
「知ったような弁を振るってんじゃないよ。覗きやってるアンタの方が幾分かマシだわ。」
緑川は間接を鳴らす。爆竹を鳴らしたような音。
「悪趣味にも美学があると?」
「まさしくね。悪趣味にも上下関係があるの。パリコレと同じようにね。」
「編集長の御同類の選手権なんて、聞いただけでゾッとしませんね。」
嫌味は盛大に聞き流される。
「五十万円で手を打つ。この件に関しては、不断の協力関係で行く。配分は三対一。これでいいわね?」
椅子を軋らせ、緑川は立ち上がる。鉄筋コンクリートの床が揺らいだような気がした。
「“不断”ですか?随分と気前のいい保証をしてくれますね。」
緑川は高見の埋もれたファイルの山へと向かう。
「新人の研修費の分、色を付けてあげたわ。」
此方を振り返り、緑川は微笑して言った。そして、再び高見の方を向く。
「さっさと起きな‼︎腑抜け‼︎」
緑川の、馬鹿でかいボンレスハムのような脚が高見の尻を蹴り上げる。
高見は宙を舞う。激痛で目が覚める。自分がしでかしたことがフラッシュバックする。飛び上がった反動を利用し、そのまま謝罪の体勢へと移った。土下座検定一級の腕前。
「申し訳ございません‼︎どうかクビだけは‼︎何でもしますから.....」
高見は哀願する。
緑川はKFCの創設者を彷彿とさせる素晴らしい笑みを浮かべる。
「ん?いま何でもするって言ったわね?」
夜柝市の掟。“何でも”は禁句。安請負はロクな結果を招かない。この街で長生きするコツだ。“あの人”の残した金言だ。
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