第2話:「ミルクシェイク・ハンバーガー・チキンナゲット」
店内にはマイルス・デイヴィスの『chameleon』が流れていて、内装には全く似つかわしく無い、ポップで珍妙な雰囲気を撒き散らしていた。
客は一人しかいない。灰色のトラウザースーツに赤いネクタイを締めた女が、店の片隅のボックス席でミルクセーキを啜っているだけだ。
女の目元には隈が浮かんでいたが、それは黒の下縁眼鏡のフレームによって巧妙に隠されている。
スーツの女、高見博子は十五分の待ちぼうけの間に、待ち合わせ場所に指定されたこの店を徹底的に嫌い抜いてしまっていた。
“GAVIAL DINER”と銘打たれた看板を掲げ、クロックスのマスコットにサングラスを掛けさせたようなワニがマスコットのこの店は、ゴシップ雑誌の記者である高見にとってすら、悪趣味な店だった。
プラスチック製の黒のスツール。目の痛くなるような蛍光灯の無機質な光。無骨なステンレス製のカウンターテーブル。剥き出しのコンクリートと所々変色したタイル。食肉加工場をそのままダイナーに改造したような不気味な空間。
カウンターの奥では、移民らしき店員が何も語ることなく、何の肉かも判然としない肉塊を黙々とぶつ切りにしている。
メニュー表を見てみれば、ぶつ切りにされているのはワニの肉であろうことが予想できた。メニューにはどれも『ワニの』だとか『ワニワニ』などといった形容詞が悉くセットになっていたからだ。
腹は減っていた。だが、正直ワニ肉バーガーなど食いたくもなかったので、唯一まともな名称だった『チョコチップミルクセーキ』を注文した。
しかし、三十代を目前に控えた女が、こんな場末の胡散臭い店でミルクセーキを一人で啜っているというのは、何とも惨めな気持ちにさせられる。
仕事であるから仕方がない、とはいえだ。
天井ではアルミ製のセーリングファンが音を立てて回っている。マイルスのシンセサイザーの裏拍子をうまく取っているようにも聞こえる。
断続的な珍妙な音に、行き場のない悶々とした気持ちにさせられる。
そもそも、雑誌記者、それも悪名高い三流雑誌の記者などになったのが間違いだったのではないか。今から会う予定のパパラッチは編集長の知り合いらしいが、碌でもない奴であろうことは間違いない。
第一、編集長自体が相当のロクデナシだ。類は友を呼ぶのだ。逆もまた然りなのだろうが....
ミルクセーキを飲み切る頃には、待ち合わせ時間である三時からかれこれ四十分近く待たされていた。空のミルクセーキのカップを持ち上げ、眼前で振ってみる。何の気無しにやってみたことだ。
眼前で揺れるムカつく笑みを浮かべたワニとこびりついたバニラアイス。
そして、その向こう側の人影。店員ではない。
心臓がバクリと跳ね上がる。スツールから転げ落ちそうになる。ミルクセーキのカップを取り落とす。
ギョロリとした不気味なゴム製の目玉が、此方を見据えていた。眼球を模したゴムマスクだ。悪趣味なリュックサックをからったそいつは、洗剤のロゴ入りのダサいパーカーに革ベストを羽織り、カーゴパンツを履いている。
無言でそいつは此方に歩み寄って来る。カウンターにいた移民らしき店員はいつのまにか消えている。ギョロ目が眼前に迫り、自分の顔に手を添える。
ガシャンッ。
テーブルに手を叩きつける音。そいつはゴムマスクを剥ぎ取る。そして、現れるのは更なるギョロ目。
そいつが仮面を被っていたことは間違い無い。だが、その下の大きく見開かれた一揃いの目は、作り物のそれよりも遥かに生々しく不気味だった。
奴が顔を離す。
「緑川さんじゃないね。担当代わった?」
女の声。ハスキーだったが、間違いなく女声だ。
よく見れば、肩幅や胸筋の上の仄かな膨らみ、くびれた腰付はまさしく女性のものだった。
身長は170後半。カーゴパンツの上からでもわかる隆々とした太腿。似非インテリの自分などよりも遥かに太い二の腕。信じられないものを見せられているような気分になる。
赤茶けた色をした髪は、セルロイドのカチューシャで止められ、蛍光灯の光を鈍く反射していた。徹底的に錆び切った鉄釘のようなその色は、顔に程よく散らばったソバカスと不思議な一体感を持っていた。彼女もそれを理解しているのか、化粧は銅色の口紅だけのようだった。
売れないパンクロッカー。端的な印象はそれだった。
「人のことを、まじまじと見つめるのは感心しないね。パパラッチが言えることじゃあないけど。」
目玉女はそう言って、何も反応を見せない私を尻目にカウンターで注文を済ませ、私の向かいの席に座った。私は放心状態から戻る。怒りが込み上げて来る。精一杯の取り繕いをする。
「勘弁してよ。何がしたいの?底辺Youtuberみたいなことはやめてくれませんか?。」
必死に、強まる語気を抑えつけながら言った。
「そういうアンタは底辺雑誌『Bremsen 』の記者でしょう?」
目玉女はニヤつきながら悪趣味なリュックサックを漁る。
「ええ、全くその通りです。で、貴女はその底辺雑誌にネタを売り込みに来た性悪パパラッチで間違いないですか?」
「もちろん。私は江川崎陽香。ケチなパパラッチをやっている二十四歳、無職。」
江川崎は飄々と言葉を連ねながら、SDカードとラップトップを引っ張り出して机上におく。
私は十中八九間違いないと確信しながらもカマをかけてみる。
「白川さんってご存知?」
江川崎はラップトップの起動画面から、此方に目線を移した。
「は?緑川さんのこと?あの腹の突き出たBremsen編集長の....」
問題は無さそうだった。緑川はあまり外に出ない。編集長の外見を知っているなら大丈夫だろう。
「そう、緑川さん。ゼリーが大好きでブクブク太った性悪男の。」
「あのねぇ、カマかけても何の意味もないよ。緑川さんの好きなモノはゼリーじゃ無くてプディングだし、男じゃなくて女よ。何回あの人と仕事してきてると思ってるの?新米さん。」
「高見博子よ。江川崎さん。私はあと少しで三十だし、もう五年はこの仕事をやってるの、新米じゃないわ。」
「でも、夜柝市での仕事はコレが初めてなんでしょ? そう、顔に書いてる。それに、私がどんなネタを取ってきたかも聞かされて無いみたいだし、新米以外の何者でもないわ。」
江川崎はそう言ってラップトップの画面を此方に向けた———未成年にしか見えない少女と建設王のハードセックス。建設王は細腕を少女の陰部に突き込んでいる。少女は監視カメラに目線を向けポーズをとっている。ふざけたマッチポンプ。
江川崎は犬歯を覗かせ、陰湿に笑った。
「これは最高の一枚。これとは別に二百枚近くのプレイ中の写真。前戯からフィニッシュまで収めたビデオがあるわ。上手く編集すればポスター付きでポルノ映画が一本出来上がる。満員御礼間違いなしね。」
平静では目立たない彼女のギョロ目だったが、一度見開かれれば、そのグロテスクさは脳味噌の中でも覗かれているような気にさせられた。
「確かに、一面を飾れるスクープだわ。緑川さんが、昼食時間をずらして私に仕事を振りにきただけはある。」
江川崎は肩をすくめた。
「全くその通り。かなりのパンチ力があるのは間違いない。でも、建設王は動じなかった。フライ級のジャブがヘビー級に通じないのと同じね。」
「“動じなかった”?まだ載せてないネタなんでしょう?」
「こっちの話よ。」
「取引するんでしょう? 既出のネタを持っていって緑川さんに張り手を食らうのは勘弁なの。分かります?」
「アンタがこれからの担当になると言うなら、教えるべきね。」
江川崎は戯けたように口を奇妙に曲げて言った。百均の玩具売り場並んでいても違和感のないような表情だった。
「緑川さんに頼んでおく。だけど、いずれにせよこの件で全て決まるわ。」
真面目に、平静を保って言った。少しこの目玉女の言動に慣れてきた気がした。ようは、無視を決め込めば良いのだ。
江川崎はこちらの返答を聞くや否や真顔に戻った。目は自然体に戻り、銅色の唇は緩やかな弧を描く。
「強請よ。真田の奴にビデオと写真を送りつけてやったんだけど、返って来たのはバットを担いだチンピラ達。手に負えないわ、全く。」
全く困っている様な雰囲気を感じさせずに吐き捨てる江川崎。ラップトップをパタリと閉じた。
ゴム長靴の靴音。店員がトレイを持ってきた。
トレイの上には、パテではなくブロック肉を挟んだ豪快なステーキサンドイッチとペプシの瓶、少なくともチキンではないだろうナゲットの山が乗っていた。
「注文は以上で?」
店員が太々しく言った。
「ええ、そりゃあもう。」
店員には一瞥もくれず、肉に挑みかかりながら返答する江川崎。店員の方も江川崎の態度など気にも留めずカウンターに戻った。
私は“焼いた肉”という単純明快な最適解に空の胃袋を刺激され、内心とてつもなく羨ましく思いながら、江川崎に問うた。
「手に負えなくなったから、私達のところに持ってきたってこと?」
江川崎は頬に大量の肉塊と少しのバンズを溜め込みながら言った。
「食べ終わってからで良い?」
私は黙って首肯し、空腹を収めるためメニュー表を開いた。ワニだろうがエミューだろうが関係ない。とにかく肉が食べたかった。
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