番外編6 友が目覚めるまで

多比良が眠っている間

 多比良の容態が安定し、彼女とその妹を含めた彼らの生活が落ち着いてから既に三日経っていた。


 高萩からすればこの数日間は一日千秋ほどに思えたが、対して彼女は事件の次の日にはもうこれまでと変わりなくみえた。

 多比良の様子を見張る高萩の裏で働き続け、たった二日であの幽霊屋敷をカビ臭いとは言えど人の住めるところまで持って行ったのだから、長谷川は優秀ではあるのだろう。それ以降は屋敷をさらに磨くことと妹の世話に終始していたらしかった。

 高萩は彼女の申し入れの殆どを拒絶してしまったが、その合間に多比良の世話の手伝いまでしようとしていたのだから当然多くの苦労もあったはずだった。それでも、彼女のそんな行動達は高萩の中の地に落ちて燃え尽きそうな信頼を再度勝ち取るには不足していた。

 敵対するとは思えなかったが、彼女の用意するものに触れることすら少し憚られる。

 2人しか意識のないこの屋敷で話し合う時間が取れないわけではなかったが、多比良が安定するまではとどちらが口にするでもない暗黙の了解が固く横たわっていた。


 この数日間、高萩は食事どころか飲み物すら長谷川が用意したものを一滴として摂取しなかった。積み上がった通販の箱とデリバリーのパッケージの詰め込まれたゴミ袋が部屋の隅で存在を主張する。長谷川もそれに何を言うでもなく淡々と自らの仕事をこなしていく。屋敷の中には淀んだ空気がながれている。

 高萩だけでなく、彼女もまた妹を守るそのために警戒を怠らず、言葉なく汲み上げられた境界線以上、お互いのテリトリーではその気配の有無を常に探り合い、牽制しあっていた。するまでもなくお互いにテリトリーを侵食するつもりがないことは分かり切っていたが、そうせざる負えない関係が自然に出来上がっていた。

 真相を闇へと葬り、長谷川がこの屋敷を出ることがこの状況のある種最も手っ取り早い解決方法だったのかもしれないが、そうすることが出来なかったのは、あの薬についてや真実など彼女に尋ねるしかなく、故に高萩は彼女を逃したくないとも考えていたことが原因だろう。多比良を治すには彼女の知識が一助になるだろうと考えていた。

 また、長谷川としても高萩の心境はあたりがついていたし、現実的な問題として手持ちの現金はあの屋敷の中であったし、個人情報の書かれた書類も通帳やカードも黒いタール状の怪物と共に封印されてしまった以上、利用には多くの手続きが必要だった。妹を連れて手続きは出来ず、高萩のいるこの屋敷に妹を置いて行くことはできない。

 初日の夜に互いに事態はこう着状態に陥ってしまった。


 その状況の中、長谷川の用意したもの中でひとつだけ高萩が受け入れたものがあった。それは事件の次の日の夕方に現れた医者だった。普通の医者に見せるわけにもいかない、黒く染まった彼のその眼球とその他症状を診せるため仕方なく。

 その男は幽霊屋敷に現れてすぐ、西園寺家専属医だと名乗った。あまりに嘘くさく、友人を受け渡すには信頼できる訳がなかったが、それ以外に道がなかったとも言える。

 もし、何も知らない、どこにでもいる医者にその眼球を見せ、事情を聞かれたら?高萩には到底答えることのできない質問だった。少なくとも西園寺青笹が開発した薬が打たれたと説明したとして、その効能は?目撃したあのレポートに書かれた効能を話したとして、誰が信じる?その薬を見せろと言われたら?あの屋敷を、山を開くのか?閉じた扉を開けて良いものだろうか。近づいてはならない。そう本能が警鐘を鳴らす。

 それでも高萩本人の判断ではどこまで行っても信頼のおける、否、高萩に医者のツテはないため公的な施設、何処ぞの某病院に連れていくべきだ。と言うものだった。某総合病院であれば十分な機材もあるだろうし、適切かつ、この屋敷で診察を受けるよりも幾分マシな対応の一つや二つは出来るだろうと考えたからだった。強く止める医者と、非主体的とはいえ止めてくる長谷川を振り切ってでも多比良を病院に連れて行こうとした高萩を止めたのは、またしても多比良本人だった。隙間風よりも掠れた声で何倍もの時間をかけて多比良は言う。

 青笹と西園寺の家は元々緊張状態だったのだ、と。

 養子の僕が西園寺に迷惑をかけるのはまずいのだ、と。

 自分の目の状態はわからないけれど、それは後々考えるから今はその医者に従ったほうがいいんだ、と。

 高萩がその現状を受け入れるにあたってせめてもの免罪符として握りしめていられた考えは、あの怪物をあの山から解き放つべきではない。だからあの屋敷には触れるべきではない。その二つだけだった。友人の言うままに保身に走ってしまったようで自分の行動に吐き気がした。

 長谷川は知っている限りのことを医者に話している様子で、少なくとも見た目上は多比良の治療に積極的だった。


 医者の往診時以外2人っきりの屋敷で全ては多比良が回復してからだと自らを納得させ、無意味な願掛けをしてただただその後の数日を過ごした。夢と現で反復横跳びを繰り返す、曖昧な意識の中の友の目は相変わらず深淵そのもの程に黒い。

 その間に連休は終わり、1日連絡も無く事務所を休んでしまったが、そこから2日間は通常の休日だった。高萩がそのことに気が付いたのは二日目の休日が終わりを告げた夜12時の振り子時計の鐘の音だったが。無断欠勤から二日、連絡も無く過ごしてしまったことは社会人としてはどうかしていたが、上司からはなんの連絡もない。そのことがむしろこの事態を把握していそうで不安だ。

 何故なら一度だけあまりの過労に寝坊した時は始業20分前に来た連絡に叩き起こされ、事務所に始業3秒前滑り込んだ経験があるからである。その寝坊は上司が勝手に受け、次の日の早朝にまで及んだ埋蔵金の掘り返し作業のせいだった。その時の依頼人は休憩時間のない正にクソ。探偵は万屋ではない。最後の方は記憶もないが、依頼人と多少上司に殺意が湧いた事だけを覚えている。そんな朝の電話口でも明るい声で、同じ作業をしていたはずなのに上司は貧弱だと笑っていた。

 そんな上司は報告していないことを知っていることも多く、あの人は人間ではないと高萩は睨んでいる。

 世界を見透かすような上司の白墨は、普段はとんでもない指示も多いとと言うのに、こういった何かに巻き込まれた時はどうやって見張っているのか、的確なタイミングでしか連絡をしてこない。

 幽霊屋敷の臨時に用意した多比良の部屋にはセミダブルのベットが一つしかないため、その部屋に置かれた埃臭いソファーで高萩は眠る。上司の無茶振りに比べれば身体的にはなんの問題もない。むしろ寝心地だけで言うならかなり良い。高萩の心身的な負担を除けば、多比良の看病をするだけの静かな休日だった。ソファに沈み込んで多比良をぼんやりと見て過ごす。今日も友人はうっすら目を開けたまま目覚めない。たまに目覚めてもすぐに眠ってしまう。

 ため息が漏れた。

 医師が着替えをさせているのを見てふと思い出したが、少なくともこの丸2日多比良は排泄も食事もしていなかった。汗すらかいている様子はない。

 あの人形たちのようになるのではないかとひどく不安で貧乏ゆすりが止まらない。呼吸をしていることだけに縋り、看病を続ける。


 高萩に見張られる中、長谷川に連れて来られた医者は検査と投薬、栄養素の点滴など、少なくとも素人目には問題行為をせずに粛々とその仕事をこなしている。最低限の質問以外は何一つとして口にしないその様から高萩はずっと西園寺青笹の研究に一枚噛んでいたのだろうとその一挙手一投足に至るまで観察し、何かあれば止めようとしていた。が、何事も起こることはなく、結局丸3日が経った頃になって初めて、その医者は業務内容以外でその口を開いた。

「……私は西園寺で起こる全てのことを穏便に済ませるための専属医として雇われています。それほど警戒されずとも何も、致しません。」

 あまりにも徐にな発言に思わず高萩が閉口しているうちに、その日の診察を終えた医師は一礼、そのまま退出して行った。彼がどこに泊まっているのかまでは知らないが、この屋敷のどこかにいるのであろうと言うことだけ理解していた。気配の薄い、影の様な男だった。

「………………だから俺にどうしろと言うんだ。」

 その独白は多比良の部屋に落ちたが、1日の殆どを眠り続ける屋敷の主の耳にも入らず、ただ1人で苦い思いをするだけだった。


 その次の日は出社日であり、白墨事務所に行かなければならない。長谷川は何を言うでもなく部屋の扉を叩き、部屋に入るでも無く扉の前で高萩の判断を待った。多比良を彼女と医師に任せるのか、外に連れて行くのか、部屋には誰も入れない様に細工でもするのか、仕事を休むのか。

 刻々と睨み合ったまま30分が経過した頃、高萩の手元で電話が鳴った。ついにここを出なければ始業時刻に事務所に到着できない時間に初期設定のままの無骨なコール音……ではなく、ポップで禍々しい曲に咄嗟に電話に出る。教えた覚えのないパスワードを使って上司は勝手に自分専用のコール音を設定してくる厄介な人だった。……自分の着信音の設定以外には触れないところが変に律儀で逆に厄介だ。

 やぁ、の一言から始まった電話は君の事情は知っていると繋がり、こちらも少し忙しくなるからあと一週間は出社しないようにと締め括られた。

 無情な不通音が右耳から左耳へと抜けていく。探偵は神ではない。ではなぜ上司はこんなにも今の自分のことを知っているのか。一週間も出社するなとはどんなことに首を突っ込んでいるんだ。諸々を飲み込んで、既に数日を過ごしたソファーに沈みながらスマホを横に転がす。高らかに響いた上司の言葉が電話越しに聞こえたらしい長谷川が説明して欲しそうな顔でしばらく高萩の顔を見ていたが、高萩が手を振り、説明する気がないことを示せば一礼をしてさっていった。そんな顔をされたところで高萩から言えることはない。やはり上司は人間ではないのではないだろうか。思わずため息が漏れた。こめかみを揉んでいれば彼女と入れ替わるように入ってきた医師が多比良の脈を図っている。この状況の全てが高萩の手に余る。どうしてこんなことに巻き込まれたのか誰か教えて欲しかった。

 意識のない人間の着替えは難しく、数日に一度の医師の行動をぼんやり見ているだけだった。下を履き替えさせる時は流石に不快だろうと見はしなかったが。それでも医師の首を傾げる様子から殆ど汗もそれ以外も出ていないのだろうと予想がついた。

 吐き気がする。

 このまま死んでいくのではないかと頭が痛い。自分の選択は全て間違っているのではないだろうか。たまに多比良が意識をはっきりとさせる時間が伸びていなければ医師を殴り、長谷川を殺してでも外に連れ出していただろう。それがどれほどの大事に繋がったとしても。


 そうこうしているうちに事件から数えて一週間半以上の時がたち、ようやく多比良が目覚めた。意識のあるのか曖昧で、ほとんどの時間を眠っているような状態から、正しく受け答えができるようにまで回復した。そこまで来てしまえば快調にことが進んだ。名前、年齢、経歴、高萩について、長谷川について。簡単な質問になんら問題なく答えられることが確認できるようになり、食事は点滴から重湯、粥へと変わっていく。

 その頃になると排泄も再開しているようだった。トイレに肩を貸し、汗ばんだ体を拭きたいというので濡れたタオルを用意する。少なくとも人間らしい生活を送れるようになっていく。

 手間や面倒よりも先に思わず安堵が出た。

 生きている。


 さらに2日おいて、高萩の長い長い休日の最終日、事件から13日が経過した日になってようやく多比良のベットを挟んで高萩と長谷川は向き合った。なんの打ち合わせもなく、徐に2人揃って自分の席を用意する。高萩は青い空の広がった窓を背負い、長谷川は部屋の扉を背負って硬い顔をして対峙した。

 高萩が待ち望んでいたこの状況を多比良が困った顔をして見守る。彼らが話し合う姿勢になったのはこれが初めてのことだった。

 多比良は少なくともハタから見る分にはひどく快調で、何ら問題などない様だったが、あの医者も思わず首を傾げたその白目は未だに黒く、その目は取り急ぎ用意されたゴーグルやスポーツサングラスをかけて誤魔化していくことに決まっていた。余裕ができれば彼にあったものを用意するのだろう。この少し薄暗い店内ですらその瞳の周りは黒く、黒く。どうかしていた。

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高萩一の休日 さゆり @sayuri_kobayashi

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