番外編5 顔の傷跡

殺傷事件


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 事が起こったのは数ヶ月前、依頼は恋人の浮気の調査。よくある仕事だった。

 さらに言えば蓋を開けて仕舞えば簡単な話、事の真相は浮気などではなく。

「貴女のお相手はストーカー被害にあっている様だ」

 と報告し、後は精々警察に任せて終わる筈だった。高萩の所属する白墨探偵事務所の業務内容に護衛はない。

 ふわふわした茶色い髪の依頼人と向き合ったテーブルは事務所でも密室でもそれどころか個室でもなく、日の日差しが強い真昼間の、周りは人々のざわめきの聞こえるカフェ。気にならないほど遠くで流行りの曲のアレンジが小さく流れている。流石に薄いと言えど天井まで壁で囲われて、出入り口は辛うじて暖簾で目隠し程度はされている、それだけの半個室だった。

 恋人の浮気なんて事実はなかった、そう報告した瞬間、依頼人のひどく深い安堵のため息が落ち、空気が緩んだ。難しい顔はしていたものの、落ち着いた様子のまま淡々と話が進み、警察に被害届を出すにあたってのアドバイスをしようとしたとき、渦中のその人、依頼人の恋人殿が飛び込んできたことから問題は始まった。高萩と依頼人の浮気を疑った恋人殿が店内と個室を仕切る暖簾をはためかせ、二畳そこそこの室内に押し入ってきた。

 怒髪天な短髪のよく似合う黒髪の恋人殿にとって、事務所としての機密性の問題と「恋人との約束で異性と二人きりになりたくない」という依頼人の望みを折半した結果の半個室は彼女の興奮にただただ火に油を注ぐだけだった。それでも当然二人の間には探偵と依頼人の関係しかなく、二人のお互いに冷めた様子に五分十分もすると、依頼人の横に腰掛けたその恋人殿は塩水をかけられた花のごとくしおしおと静かになった。

 顔を抑えてテーブルに縋るその女性を依頼人は柔らかく肩を抱いて謝りながらも嬉しげに微笑む。大方愛情でも感じて満足したらしい。コーヒーで喉をうるおしながらその甘いやりとりを飲み下す。幸せなようでそちらは何よりだが、珈琲はやはりブラックに限る。この手の勘違いは初めてではないことがうまい珈琲をまずくする。恋人殿の小さな声の謝罪は小さな吐息だけで受け取った。

 互いに一息ついてようやく報告に戻ろうか、という時になって全ての元凶、そのストーカー男が恋人殿に続いて飛び込んで来た。思わずうんざりとした顔をしかけた高萩がその男を見た瞬間、(その男はまずい)と直感が叫ぶ。経験則が目を離すなとそう叫んだ。自らの顔が引き攣り、視界の端で気丈そうな恋人殿の全身が強張り、依頼人が控えめにその服を掴んだのがわかった。緊張に心臓が酷く痛んだ。

 危険だ。

 お呼びでないストーカー男は信じていただの君はなんとかだの浮気だの意味のわからぬことをそもそも聞き取れぬほどの汚い声でぐちゃぐちゃ喚き散らした拍子に暖簾が落ちた。怯えた依頼人が一瞬、チラと高萩を見たのが視界の端に映った。枯れた喉を無理やり飲み下しながら、何もするなと視線を返した時、依頼人の反応に何を勘違いしたのか、なんの前振りもなくほぼ無関係と言っていい高萩に向けて包丁を振り下ろした。どこから出てきたのかそれすらも見る間もなく顔が灼ける。

「っっぐ!」

 血が弾け、壁とテーブルを汚した。

 高萩はその男を警戒していた為に身は引くことは出来たものの、あまりに過激で唐突な行動に避け切ることは出来なかった。もし男を気にしていなければどうなっていたか、悪い想像に脳の大半を埋め尽くされながら咄嗟にテーブルの隅に置いて置いたタオルのおしぼりで傷口を押さえた。冷え切ったそれが生ぬるい血液でじわじわ赤く染まっていくのがタオル越しの感覚で見なくともわかる。流石に顔に傷ができたのは初めてで、感情と思考がぐちゃぐちゃに踏み荒らされて何を考えているのか、何が起きているのか一瞬訳がわからなくなる。現実と想像の境が少し曖昧に思えて理性が溶けた。目は無事か、鼻はついているのか、頬は、骨は。

 依頼主の恋人のストーカーは切りつけた高萩には目もくれず、刃物で机を殴りながら彼女たちを脅す。振るたびテーブルに出来る傷に高萩の血液が染み込んでいく。赤い木目はその机そのものが血を流して見えた。互いを守るように抱きしめ合って震えている。

 遠くでストーカーの背に隠された中の状況に気が付いた店員の叫びと客の悲鳴、バタバタ逃げ惑う音がする。心臓が脈打つたびに米神の奥と傷口が痛む。命の危機と判断を下した脳の集中力が上がっていく。ストーカー男のやたら分厚すぎるたらこ唇から唾が飛んで高萩のコーヒーのカップに落ちた。

 二十と数年来のフラストレーションに酷くイライラする。どいつもこいつも面倒ごとは彼の目の前で起こす。必ず彼を巻き込んで。

 皿の砕ける音、店員の声がやけに遠く聴こえて、逆に男の声は音としてしか認識できないほど大きく聞こえる。そうだ、これ以上暴れさせないために息を吸い込みながら包丁を握るギトギトに肥えた、その毛だらけの腕を握る。執着に油ぎり、妄想に取り憑かれた目がまとわりつく。唯一の出入り口を塞ぐように立つ男を外に押し出しながら、出来るだけ意識して静かな声で「離せ」、そう警告をして空いた左手を一度握り拳にしてもう一度開いた。いつものルーティンに酷く心が冷たく冷えていく。

 逃げていった殆どの客の熱気が去り、逃げ遅れた客と店員の怯え混じりの冷気が店内に満ち溢れている。動けば死ぬと言うように物陰に隠れた人々の気配だけがする。遠くの座席ほど気がつくのが遅れたらしい。近くの席は人のいた痕跡だけを残して誰もいなかった。

 2人が踏み躙った暖簾に足跡が残る。錯乱し、こちらの怒りも聞こえていない様子のその男が高萩の首に向かって掴まれていない腕を伸ばした。

 その手を振り払い、胸ぐらを掴み、個室の外まで大きく踏み込む。遠くの席の人々は二人が出てきた瞬間に物陰へと引っ込んだ。甲羅から首を伸ばすカメそのものだった。それでも野次馬根性の強い幾人かが首だけでなくその腕すら伸ばしてカメラを向ける中、人のいない店内で男が宙を飛んだ。抵抗も虚しく手足を無駄にバタつかせた無様な姿で回転し、受け身も取らずに頭から転がり、その手を離れた包丁が重力に従って地面に突き刺さる。

 金属の鋭い音。

 その音でようやく高萩は頭に直接氷を差し込まれた様に冷静になっていく。もし、その包丁が自らの足に落ちていたらと肝が冷え、命の危機に興奮した心臓が燃える。傷口が心臓が動くたびにドクドク叫ぶ。息が苦しかった。

 思いの外焦っていたようだ、と大きく息を吸って吐いた。

 チラと元の席を見ると、暖簾の落ちた木枠の隙間から彼女たちは手を取り合い、震えてこちらを見ているが、高萩にはそんな二人にフォローを入れる余裕もなかった。怪我は一つもないらしい。高萩が近づくだけで彼女たちの肩が跳ねる。何か言おうとその唇が震えてまた閉じた。

 彼は無言で暖簾を拾い上げ、ストーカーの腕を縛ろうとしたところで、逃げ遅れていた気弱そうな、よくある名前の店員ががらんどうな店内でガタガタ震えながらガムテープを差し出した。随分気がきくな、無駄に冷静というか……と思ったところで後ろで他の店員がのぞいていた。押し付けられたのかもしれない。

 無言で気絶した男の手首から肘、足首から膝までをガムテープで堅める。ついでに気にしてやる価値もないが、放っておくわけにもいかない男の安否を仕方なく確認してやろうと手首に触れ、脈を探った。男の不摂生が祟った手首は水を吸ったスポンジの様に脂で膨れ、ひどく脈を計りにくかったが、あぶらとり紙一箱分でも到底足りない首に触れるより幾分マシだった。一応にも脈はある。男の脂が指にまとわりついて酷く不快なのに、その男の服もどこかベタついて見えた。拭く場所がない。嫌悪感が酷かった。

 口中が生臭い鉄の味がして鼻も同じような匂いで満ちる。抑えることもせず動き回り、かつ、男にのしかかる為に俯いていたせいで開いたまま放置された傷口から滴った血が、男の背に落ちる。鼻をつたい落ちる分と頬から顎をつたい落ちる分でそれぞれ二、三の丸い跡となって趣味の悪い青い服に黒い模様を増やした。ビリビリする傷口に触れない様に気を付けながら服の袖で顔を軽く拭く。血でベタベタしてひどく気持ちが悪かった。

 生きてさえいるのであれば、もう抵抗できない男に用はない。床に打ち捨て、ダラりと手近な向かいの座席に脱力する。タバコが、吸いたい。彼女らはそれだけでまた肩を跳ねさせ、何か言いたげに口を開いたが、大人しくまた閉じた。せめて慰謝料と依頼料とチップは弾んで欲しかったが、そんな話をするほどの元気は高萩にもない。

 恐る恐るまた近寄ってきた店員の多少ましになったとはいえ震える手からタオルを受け取り、止血しながら警察と、おそらく来るであろう救急車を待つ。新しいものをもう一枚持ってくるように頼みながら逃げた客に放置されたビニールでパッキンのされたおしぼりを破いて油ぎった手を拭く。

 もらった真新しい止血用のタオルの上から顔を確かめなければならない。心臓が暴れ、また米神がひどく傷んだ。直前で思わず手が震え、握り拳を作って自分を誤魔化す。強くタオルを抑えた左手の隙間から右の指先で押される傷口の痛みすら無視してパーツの一つ一つを確かめる。眼球も、鼻も、頬骨も。全てが少なくともちゃんとした形を保っていることを確認できた瞬間、叫びたいほどの衝動に脳から背骨を通って足先まで侵される。その名残が熱い息になって口から漏れた。やり過ごしきれない感情が体の中を暴れることに酷く疲れ、気力はカケラほども残らなかった。これ以上話しかけるな誰も何もするなの意味を込め、膝の上に肘をついて俯く。

 面倒な厄介ごとに高萩が巻き込まれるのは日常茶飯事のことだった。つまり生命の危機に高鳴る心臓を抑えながら、よくよく鍛えた自分と警告を叫ぶ直感を褒め称えるのはこれで遂に八度目になる。


 このような不幸は日常であるが故に、顔に傷ができようと、誰に何を言われようと、仕事を変える気はない。他の仕事をしたところで同じような面倒に巻き込まれることは分かり切っているのだから、少なくとも夢を叶えている今の方が幾分マシだと言えたから。

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