第4話 怨霊の正体

「まずいこと、言っちゃったな」

 ワゴンセールをしている食器の陳列を整えながら、奈津子はため息をついた。あの夜、哲夫は突然真っ青な顔をして席を立ち、店を飛び出して行ってしまった。姉の交通事故の話なんて、持ち出すのではなかった。きっと、デリカシーがないと思われたのだ。それとも、せっかくのドライブの誘いを断ったので気を悪くさせてしまったのだろうか。どちらにせよ、哲夫が出て行った後、一人取り残された奈津子は、ひとしきり気まずい思いに耐えながら、勘定を済ませて店を出た。普通なら、別々に出るにしても、男性が済ませて行くか、少なくても自分の分くらいは置いて行くだろうに、そんなことには一向に構う様子もなく飛び出して行ったのだ。きっと周りからは、余程ひどい女だと思われただろう。メトロに乗り込んでドアにもたれた瞬間、鼻のあたりがつんとして、両眼から零れ出した感情が抑えられなくなってしまった。

 その後、何度かメールをしてみたが、応答はないままだった。


 それから一月程が経った頃、奈津子の両親あてに警察からの連絡が入った。亜矢子の事故を引き起こした犯人が自首してきたというのだ。事故から五年以上が経っていて、時効が迫っている中でのことだった。両親の喜びは言うまでもない。娘の遺影の前で涙を流す二人を横目に、自首してきたという犯人の名を口の中で繰り返しながら、奈津子は呆然としていた。ありうべきことではない。もちろん、姉を轢いた犯人が明らかになるというのは、奈津子自身も祈るような思いで待ち望んできたことだ。井田哲夫。最近まで話したこともなかったが、同期の友人を通して初めてその名を知った。そして、食品フロアに響く声や誠実そうな笑顔に名がついた時から、意識し、惹かれていた。だから二人で食事がしたい、と誘われた時には有頂天になった。しかし、悲しみなのか憎しみなのか、怒りなのか絶望なのか、こんな形で聞くことになってしまったその名を、どのような感情でとらえたらよいのか奈津子には判断できなかった。


 案内された部屋には何の飾り気もない。室内の色と言えば扉と床のベージュだけだったが、あまりに無機質で、色とは認識できない。四方の壁や天井は白一色だが、あまりに殺風景で、かえってくすんで見える。正面には、部屋の幅一杯のアクリル板の中央に、穴あきの丸い接見窓がとりつけてあった。テレビで観た通りの造りだったが、想像以上に圧迫感がある。

 どんな顔をして会えばいいのだろう。奈津子は今更ながら留置場にまで面会に来てしまったことを後悔したが、だからと言って席を立つこともできず、ぽつんと置かれたパイプ椅子に腰かけて待った。ほどなくアクリル板の向こう側の灰色の扉が開いて、哲夫が入ってきた。法廷で見た時と同じくげっそりとやつれていて、一緒に食事をした夜と比べると別人のようになっている。哲夫は奈津子の姿を見るなり、深々と頭を下げた。心なしか震えているようにも見える。その様子は、加害者が被害者の遺族に謝罪をしているというよりも、幽霊でも見たかのような、恐怖にとらわれた人という方がふさわしいように思われた。たった二か月余りで、こんなに変わってしまうものなのだろうか。

 公判は、両親と一緒に傍聴した。哲夫は、何かに怯えるように顔を伏せたままで、起訴事実を全面的に認めますと答えていた。自首したのだから当然だとは思うが、そこでのやりとりだけではどうしても哲夫が何を思っていたのかということが分からなかった。事故の夜、どうしてそのまま逃げ去ったのか。それから何年も経って、突然自首したのは何故なのか。それはあのレストランでのやりとりが関係しているのだろうか。哲夫がひき逃げの犯人だなどとは夢にも思っていなかったが、もし、それを知った上で近づいたと思われていたとしたら、それはそれで不本意だった。姉の事故を思い出すことはつらかったが、知らなければならない。そう思って、こうして面会に訪れた。

「井田くん……」

 かろうじて、友人として名を呼んでみたが、次の言葉は出てこなかった。哲夫の落ちくぼんだ目は足下を見つめるようにしばらく伏せられていた。そして、やがて小さくうなずいた後、そのままの姿勢でぽつりぽつりと話し始めた。

「あの晩……」

「あの、晩?」

 それが二ヶ月前のあの晩のことを指すのか、それとも七年前のことなのかはすぐには判断できなかった。

「ずっと忘れていたんだ。いや、忘れようとしていた。卒業して就職して、思い出しそうになる度に、自分を誤魔化してきたんだ。でも君からお姉さんの事故の話を聞いた時、逃げられない、と思ったんだ」

 やはり、あのレストランでのことがきっかけになったのだ。しかし、奈津子の耳にかすかな違和感が残った。

「逃げられないって、どういう意味?」

 やはり、自分が意図的に近づいたと思われたのだろうか。今まさに裁かれようとしている当人にあれこれ問い詰めるのはよくないだろう。しかし、もし哲夫が誤解しているのだとしたら、それは解いておきたい。奈津子は耳をふさぎたくなる衝動を抑え込んだ。

「お姉さんの写真を見ただろう。あの時から、その姿がどこにいても追いかけてくるんだ」

「追いかけてくるって、お姉ちゃんが?」

「あの夜、確かに人をはねたことは分かった。でも、顔を見てはいない。それなのに、だ。電車の中、道端、家の中でも、姿が見える。そう、初めは君の顔がお姉さんのそれと入れ換わったんだ。その後、あちこちに現れた。お祓いをしてもらおうと思って近くの神社にも行ったんだけど、そこで神主の顔にまで現れた。観念するしかないだろう」

「お祓いって」

「どう考えても、これは怨霊だ。これまでそんなことは信じていなかったんだが、こうまではっきり現れたら疑いようがないからね。自首したのは正解だったと思うよ。法廷で内容を読み上げられている時以外は、現れなくなったから」

 奈津子は誰かの視線を恐れるような法廷での哲夫の様子を思い出した。辻褄は合っている。しかし、到底納得することはできない。怨霊なんかじゃない。お姉ちゃんは怨霊になんてならない。大好きだった優しい姉を忌まわしい存在と呼ばれたことに、深く傷ついた。それ以上は聞いていられず、話を切り上げて留置場を後にした。


 会いになど、行かなければよかった。後悔しながら、哲夫の言っていたその神社に足を向けていた。怨霊という話は別として、姉の姿を見たというのだ。叶うならば、この目で見たい。ただそれだけの思いだった。姉は怨霊になどならない。だから、ここに来ても会える訳がない。そうは思っていても、足を向けざるを得なかった。

住宅地の真ん中にありながら、うっそうとした森を思わせる境内は、静まり返っていた。怨霊どころか、人の気配さえ、ない。

 それはそうよね。ほっとすると同時に姉に会えない寂しさを改めて感じながら、奈津子は境内の中をゆるゆると歩いた。片隅に、神社の縁起が書かれた立札がひっそりと佇んでいる。そういえば、ここは天満宮だった。学問の神様のところで怨霊退散か。ふっとおかしくなったが、考えてみればそもそも、非業の最期を遂げた菅原道真の祟りを鎮めるために建てられたのだ。かたや祟りを恐れて神社を建て、かたや同じように恐れて自首。妙なところで符合するものだ。それにしても、立派な造りだ。その力の入れようは、恐れの大きさを表しているのだろう。それだけ酷いことをした、という自覚があったとも言えるのではないか。そこでふと、哲夫を追い詰めたという怨霊の正体について思い至った。それは哲夫自身の罪責感なのではないか。貴族たちの罪責感は天満宮を建てることで浄化され、怨霊を学問の神様に変えた。それならば、裁きを受けることで、哲夫が解放される日が来るのだろうか。

 見上げると木立の合間から晴れた空が青く光っていた。無言で吹き抜けた風に揺れて、新緑がざわざわと鳴っていた。

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咎満ちる迄 十森克彦 @o-kirom

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