第3話 消せない記憶
タクシーの向こう側から、躍り出る人影が見えた。間に合わない。そう思った瞬間、あろうことか、思わず目を閉じてしまった。ぼんっ、という嫌な音がして、車全体が揺れた。哲夫は、大きくぶれたハンドルにしがみついて、態勢を立て直すことで必死だった。まずい。そうは思ったが、気がつけばとっさにブレーキの上に置きかけた右足を再びアクセルの上に戻し、加速してその場を走り去っていた。したたかにアルコールを飲んでいる上に制限速度の倍以上は出していた。そこで人身事故などということになったら、運転免許取り消しだけでは済まない。そう考えたからだ。
「なんていうか、その、ごめんね。つらいことを思い出させてしまって」
余計なことを思い出してしまったのはこちらの方だ、と思いながら、一応は奈津子のことを案じてみせた。極力動揺を表に出さないようにと努力したが、うまくいかない。しかし奈津子には、そのぎこちなさがかえって奈津子自身への思いやりと映ったようだ。
「こっちこそ、ごめんなさい。井田くんは悪くないわ。いつまでも引きずっていちゃいけないと頭では分かっているのだけれど」
言いながら一旦黙ってうつむいた奈津子は、そのまま足下のかごに入れていたかばんから、スマートフォンを取り出した。
「これ、お姉ちゃん。亜矢子っていうの」
差し出された画面には奈津子とは対照的にロングヘアの、しかし顔つきはやはりどこか奈津子に似た美しい女の姿が映っていた。白いワンピースを着て手を後ろに組み、カメラに向かって柔らかく笑っている。
「優しくて美人で、自慢のお姉ちゃんだったわ。頭がぱっくり割れて、ちょっと中身も出ていたって。もちろん即死だったわ」
「君によく似ていたんだね。さすが姉妹だ」
哲夫は他に言いようもなく、なんとかそう返した。考えまいとしても、頭の中に頭蓋骨が砕けた女の姿が浮かんでくる。関係ない。たまたま乗っていた車が同じようなジャンルの車だったというだけだ。それにしても、こんな話題になるとは思わなかった。ドライブに誘ったのは失敗だった。そもそも愛車の車検も、整備工場の方のトラブルで仕上がりが遅れているのだ。適当なところで別のプランを切り出さなければ。
そう考えながら一方で、奈津子の高校生の頃というのは今から何年前になるのだろうか、と時期を計算していた。詳しい年齢はまだ聞いていないが、二十代前半には違いないだろう。だとすれば、五、六年年ほど前ということになるか。それなら自分は大学生だったはずで、あの禍々しい記憶の時期と重なる。いや、そんな偶然があってたまるものか。この話はもう終わりだ。しかし、そんな思いとは裏腹に、
「ちなみに土谷さんの実家はどのあたりなの」
と尋ねてしまっていた。奈津子は、県道沿いにある市民病院の隣なのだ、と言った。それは、哲夫があの夜に、タクシーの横を通り抜けた例の場所と完全に一致していた。
そんな馬鹿な。哲夫は必死で否定したが、目の前に差し出されたスマートフォンの画面の女に、理性と感情と記憶が激しく揺り動かされている。何かにぶつかったようなあの鈍い音と、ハンドルを通して伝わってきた、車が大きく揺れる感触が生々しく甦ってきた。動揺し、目のやりどころを探すうちに、奈津子の顔に行きあたる。
「げっ」
耐えきれずに声が出てしまった。そこには、奈津子によく似てはいるが、肩まで伸びたロングヘアの、見慣れない女の顔――つい今しがた、奈津子のスマートフォンの画面の中に見たはずの――があった。
「どうしたの?」
不思議そうに哲夫を見つめるその女の額から、鮮やかな色の血が滴り落ちた。すると、少しのアルコールも手伝ってほのかに赤くなっていたはずの美しい顔がみるみるうちに色を失い、陶磁器のような真っ白になったかと思うと、逆に青ざめ、さらには黒ずみ始めた。その間も、血は流れ続け、やがて血に混じって赤黒い塊がずるりと滑り落ちてくるのが見えた。頭がぱっくり割れて、ちょっと中身も出ていた。奈津子の言葉が頭の中で繰り返された。間違いない、これは今教えられた奈津子の亡き姉、亜矢子の姿だ。そしてあの時、ボンネットの先で嫌な音をさせて後方に飛んで行った人影のものなのだ。何年間もの間押し込めていたはずの記憶が、鮮やかな映像となって甦った。
声にならない悲鳴を上げながら席を蹴って立ち上がり、逃げ帰る背に、哲夫の名を呼ぶ女の声が、まとわりついていつまでも離れなかった。
「はっ、うわわっ」
あわててはね起きて、周りを見回すと、のしかかっていた暗闇はすっかり追い払われて、朝の光が部屋を満たしていた。しばらくの間、ベッドの上で呆然としながら、昨夜の記憶の断片を手繰り寄せる。奈津子との食事。その顔に現れた亜矢子とかいうその姉の顔。車窓に写っていた女の顔。夜中に、自分の間近に迫った女の顔。もちろん、そんな気配は今やどこにも残っていない。
昨夜は悪酔いしていたのだろうか。そんなに飲んだはずはないのだが、今一つ記憶がはっきりしない。奈津子との食事はどうなったのだったか。いや、そもそも奈津子と二人で食事をしたということも、果たして現実だったのかどうか。朝食を勧める母親に、どうも飲み過ぎたらしいのでと断り、コーヒーだけを飲んで出勤することにした。
玄関を出る際、脇にある車庫を何気なく見た。車検に出しているためがらんと空いているそのスペースを見て、哲夫は昨晩のことを思い出した。駐車してある車のボンネットの上に猫がいたのだ。そしてその車は、検査に出しているワゴン車ではなく、あの時に乗っていたSUVだった。
事故の翌朝に見ると、衝撃を吸収するはずの樹脂性のバンパーが割れ、ボンネットも大きくへこんでいた。露見を恐れて、当時から整備工場を自営していた桐山に相談し、こっそり廃車にしてもらったのだった。とっくの昔に存在しなくなったはずの車だ。妙にリアルに見えた記憶があるが、やっぱり悪い夢だったのだ。そう考えて片付けようとした時、哲夫の脳裏には別の考えが沸き起こった。
桐山と言えば。その名を思い浮かべたはずみに、車検が遅れることになった事情を思い出した。仕事が仕事だけに、自動車の運転に関しては、桐山はベテランだ。腕前は確かだし、決して無茶な運転はしない。それが県境の峠道で大きくコースアウトし、あわや死ぬところだったという。幸い大きなけがはなかったが、事故の後始末などで整備工場の方はしばらく休業になっていた。もちろん、桐山はあの事故に関わったわけではない。しかし、決定的な証拠であるはずの車を処分した。結果的にひき逃げをほう助したということになるだろう。奈津子を通して埋もれていた記憶がよみがえった。直前の、桐山の事故。単なる偶然なのだろうか。不吉な想像に、哲夫は身震いをした。馬鹿馬鹿しい。そんなことがあるわけない。気を取り直して、というより、振り切るようにして、門扉を抜けた。
ちょうど、向かいの家からも人が出てくるのが見えた。いつも出勤時刻が重なる、初老の男、のはずだった。しかし、そこに立っていたのは髪の長い、若い女の姿。タイミングを同じくして、両隣や斜め向かいの家からも出てくる人影が見えた。一様に髪の長い、若い女。幾人もの亜矢子が一斉に哲夫を見つめた。哲夫は前にも後にも進めず、その場にしりもちをついてしまった。
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