鉛筆

亜麻音アキ

鉛筆

 右斜め前の席で、テストのたびにあの子はいつも鉛筆を転がしていた。


「選択肢を鉛筆で神頼みなんて子供みたい」

 

 いつの放課後だったかな、もしかすると普通に休憩時間だったかも。ちょっとよく思い出せない。


 鉛筆をくるくる回して削る、刃が固定されてるだけの小さな鉛筆削りで、がむしゃらにペンケースの中の鉛筆という鉛筆を、夢中で削り続けていたことだけははっきり覚えてる。 


「神頼みなんかじゃないよ」


 そう言っていつも転がしている鉛筆を差し出してくる。


 確かにその鉛筆には端っこが削られて番号が振られていたり、丸とかバツとか、何かしらの印が刻まれていたりもしてなかった。


「六角形の鉛筆で四択の問題の答えを選んだり出来ないじゃん」

「それはそうだけど。でも、転がしてるよね?」


 鉛筆を返しながら気が付く。

 そういえばこの鉛筆ぜんぜん削られていない、まっさらだ。これじゃ書けない。


「ルーティーンだから」

「あ、知ってる。スポーツ選手がやるやつでしょ。なんかこんなの、精神統一? みたいなの、だっけ?」


 両手でキツネを作ってぱくぱくして見せる。


「うん。まあ、そんな感じ」


 わたしのキツネに困ったような笑顔を浮かべて、頑丈そうな筆箱に鉛筆を丁寧に戻す。いとおしそうなその手付きがやけに印象的だった。


 ペンケースと呼ぶにはどっしり無骨に見える、飾りも何もない無愛想な筆箱って感じの缶ペンケース。

 カンペンなんて呼ばれて色々なキャラクターがデザインされたものがたくさんあったけど、あの子の使ってたのはそんな小洒落た感じもなければ可愛らしい感じも格好いいこともぜんぜんない、まさしく筆箱って感じのシンプルなものだった。


 チラリと見えたその筆箱の中には他に五本、六本だったかな、やけにいびつに削られた鉛筆たちが丁寧に並べられていた。カッターで削ったのだろうか、芯をえぐり出すみたいに細長く削っているものもあった。

 削り方はいびつだったけど、左から短い順に並べられていて、って思ってしまう。ううん、右からだったかな? ちょっとよく思い出せない。


「ねえ、その鉛筆、削ってあげようか?」

 いびつに削られた鉛筆をキツネのまま指し示す。


 わたしは鉛筆を削るのが好きだった。


 指先に伝わってくる、あのシャリシャリ削れる感触が好き。


 木目が薄く透けながら、うまくいくと途切れずなめらかに繋がっていく達成感が好き。


 あと、ほのかに立ち上る独特な木の香りが、堪らなく好き。


「これは絵を描く用だから、これでいいんだよ」

「へえ、絵なんて描くんだ。なに描くの? マンガとか?」

「笑顔」

「えがお?」

「うん。ずっと笑顔でいたいから、笑顔を描きたいんだ」


 ずっと笑顔でいたいって言ってるくせに、その表情はちっとも笑顔じゃなかった。かといって泣きそうなわけでもなく、なにかを決めかねているみたいだった。


「じゃあ、その削ってないやつは?」

「ううん。遠慮しとく。この鉛筆は使わないから」

「ふぅん」


 予備の鉛筆なのかな?

 それとも転がす専用なのかな?

 手触りが心地いいとか?


 確かに、その削っていない一本だけ、他の鉛筆と種類が違うみたいだった。


 でも残念だな。まっさらな鉛筆の削りはじめはいつだって特別なのに。


 一度も削っていない鉛筆の、削り初めのあのカリカリ引っかかる感じはどんな鉛筆でも一度しか味わえない。なめらかになるまでの、あの抉っていくみたいな感触は最初だけの特別な手応えだ。ぞくぞくしてしまう。


「あれ、雨だ。傘、持ってきてないのにー」


 サアッと通り抜けた風に誘われるようにごくごく弱い雨音が追いついてくる。


 カーテンをゆるく舞い上げて、後から流れ込んでくる雨の匂い。


 鉛筆の木の香りと混ざり合って、小さな森の中にいるみたいな気分になる。


「にわか雨だし、すぐに止むと思うよ」

「ねえ、知ってる? にわか雨と通り雨の違い」

「うーん、雨の量、とか?」

「そうなの?」

「え、知らないの?」


 知らない。この子なら知ってるかもと思って聞いてみただけ。


 その後に調べたら確か降っている時間の違い、だった気がする。ちょっとよく思い出せないけれど。


「転校するんだ」


 はらはら落ちる雨粒を見つめながら、あの子の薄い唇が小さく開いて呟いていた。


「そう、いつ?」

「来週」

「へえ、そうなんだ」


 雨音が滲む教室がなんだか寒々しく感じる。


 もっと交わした会話があったかもしれないけれど、ちょっと思い出せない。


 あまりに唐突すぎるし、たぶん雨の話をもっとしたような気もする。


 ここまでくるくる綺麗に薄くなめらかに削れて繋がっていたはずの削りカスが、ぷつりと途切れてしまったことははっきりと覚えてる。


「あ、ほら、止んだよ」


 雨雲から射し込む日差しで窓の外はぴかぴかに輝いていた。


 30分くらい降ったかな? じゃあやっぱりにわか雨だったね。


 こんなこと言ったかな、ちょっと思い出せない。やっぱり言っていない気もする。


「笑顔のモデル」

「うん?」

「練習して、上手になったら、モデルになってよ。笑顔の」

「わかった」


 そんな約束を交わして、小指を絡めた。


 それから何を話したのかはまったく覚えていない。少し前だったら覚えていた気もするけれど、ちょっともう思い出せない。


 射し込む日差しを背に、あの子が浮かべていたはずの笑顔が、やっぱり泣き顔だったかもしれないと錯覚するくらいにおぼろげになっている。


 初めはきっちりと形も長さも保ってきれいにみんな同じ顔して並んでる鉛筆だって、使うために削って、削り方で尖り方も減り方も長さも変わっていく。芯が折れればまた削って、抉って、どんどん短くなっていく。


 そんな風に、どんなになくならないでほしいと思ったところで手遅れで、こうしている今だって大事なことを失っていってるのかもしれない。


 あの日のことは絶対に忘れないと誓うほどでもない、目まぐるしく過ぎていく毎日の中で起こった、少しずつ記憶から削り取られていってしまうなんでもない時間だったはずなのに。


 思い出せなくなる記憶ほど、名残惜しく、愛おしく感じてしまうのはなぜだろう。


 ――あの使ってない鉛筆、わたしがあげた鉛筆だ。


 捨てたはずの鉛筆の削りカスがひょっこり顔を覗かせたみたいに、その記憶の断片が、あまりにふいに鮮明な色合いで思い出される。


 前に席が隣同士だったときに、どうしてそうなったのか思い出せないけれど、わたしがあの子に手渡した鉛筆。


 鉛筆を忘れてきてて一本貸してあげたのだろうか。でもそれだと、削ってない鉛筆を渡すのはおかしい。あの子が欲しがったのかな。けど、なぜだかそれはないような気がする。


 顔を覗かせてきた削りカスはたったそれっぽっちで途切れてしまって、どうしてあの子に削っていない鉛筆をあげたのかは思い出せない。


 ふいに窓の外が暗くなり、遠くで低く唸るみたいに雷が鳴り始める。


 やがて頬を撫でる風に運ばれて、雨の気配が鼻をくすぐる。


 そんな時に限って、また削りカスが転がり出てくる。


 ――ああ、にわか雨と通り雨の違い、一緒に調べてあの子が見つけて教えてくれたんだった。


 遅れてザーッと駆け込んできた雨音で、弾かれたみたいに壁に掛けられた時計に目を移す。


 ――30分過ぎるかどうか。

 

 あの子と過ごしたいろんな出来事たちは、こんな風にいつか記憶から完全にこぼれ落ちて、時折びっくりするほどふいに断片だけをのぞかせながら、少しずつ少しずつ思い出に変わっていくんだろう。


 そんな思い出に耽っていたらもう時間がない。テストの残り時間はあとわずかだった。大変。


 中学生になったわたしはもう鉛筆は使っていない。


 あの子は、あの鉛筆をまだ転がしているだろうか、それとももう削っただろうか。あの筆箱の中で順番に並べられていた、いびつに削られた鉛筆たちの仲間入りしてるといいなと思う。


 シャープペンシルはとても便利だし小学生の頃には憧れの文房具の筆頭だった。けれど、木の香りはしない。だから、久しぶりに鉛筆を削ってみたいな。


 手紙を書いてみよう。鉛筆を削って。


『あの鉛筆は、笑顔になりましたか?』

 

 ぜんぶが思い出に変わってしまう前に。

 

 どこかで誰かの笑顔に変わっていればいいなと思う。


 

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