舌の上に蕩ける夜

灰崎千尋

コンビーフ

「それではまた、後ほど」


 ネイビーのピーコートに、私が去年あげたワインレッドのマフラーを巻きなおして、秀次郎さんがいそいそと電車を降りていった。予約していたクリスマスケーキの受け取りに行くのだ。

 パソコンのブラウザにタブをいっぱい開いて、デスクにはチラシを何枚も並べて、うんうん唸っていたのがひと月ほど前。「甲乙付けがたい……」と呟きながら、秀次郎さんは幸せそうに悩んでいた。その光景を見て、そろそろ今年も終わりなのだなぁと私が思うところまでが、我が家の恒例行事となっている。

 ケーキの選択に、私は関わらない。尋ねられれば答えるけれど、甘いものの担当は秀次郎さん。彼は大の甘党で、好きだからこそ詳しいから。秀次郎さんのおかげで知ったお菓子が、私にはたくさんある。

 さて、秀次郎さんを見送った私はもう少し先の駅で降りて、美味しいものが好きな二人のためのディナーを調達しなくては。




 クリスマスのデパ地下の賑わいは凄まじい。通路は人で溢れ、店頭にはいつもよりも豪華な惣菜が並び、サンタ帽子をかぶったりかぶらなかったりしている店員が声を張り上げ、頭上からはクリスマスソングが降りそそぐ。なんて華やかな戦争。

 焼き目がつやつやとして立派なチキンは美味しいだろうけれど、ちょっと食べづらいし一本が大き過ぎる。こういう時こそ、色んなものを少しずつ食べたい。あ、鴨肉のローストなんてちょうど良いんじゃないだろうか。それからテリーヌが三種入ったオードブル。彩りの良いサラダ。あのベーカリーのバゲットは欠かせない。ほかほかに温めれば噛むほどに小麦が香り、けれど決して料理の邪魔をしないカリふわのバゲット。きのこのポタージュくらいは私が作ろうか、炒めて煮てミキサーにかけるだけだもの。

 そんな風にフロアをぐるぐるしているとき、ある店の前で私は立ち止まった。『千駄木せんだぎ腰塚こしづか』という名の精肉店だ。ここの自家製コンビーフには少し思い入れがある。そういえばまだ、秀次郎さんとは食べたことが無かった。良い機会かもしれない。




 家に帰り着いたのは、やはり私のほうが遅かった。


「ただいま、秀次郎さん」

「おかえりなさい、美緒さん」


 秀次郎さんはソファから立ち上がって、キッチンに先回りした。私が買い回ったものをテーブルに並べると、秀次郎さんがそれを冷蔵庫にきれいにしまってくれるのだ。「僕の方が向いているから」と差し伸べられる手に甘えながら、私もちゃんと応えたいと、いつも思う。


「おお、今年もご馳走ですね」

「多かったでしょうか?」

「きっとすぐ平らげてしまいますよ。美緒さんの選んだものは美味しいから」


 秀次郎さんがそう言って眼鏡の奥に笑い皺を浮かべるから、私の頬も緩んでしまう。

 ふにゃふにゃな顔をなんとか整えながら、私が最後に取り出したのは、例のコンビーフ。


「ねぇ秀次郎さん、これ知ってます?」


 秀次郎さんは私の手元を見ながら、細身の銀縁眼鏡をかけ直した。


「なんだか立派なお肉ですね……『腰塚』、ふむ、テリーヌか何かですか?」

「ふふ、これね、コンビーフなんです」


 私がそう言うと、きょとんと見開かれた目が、レンズ越しに私を見た。


「コンビーフってあの、缶に入っているものでは……」

「ああ、『ノザキのコンビーフ』ですよね。あれはあれで良いんですけど、腰塚のは色々違うんです」


 千社札のようなデザインのラベルには『腰塚』と大きく書かれていて、透明なパックからは赤身と脂身の混じったピンク色が透けて見える。プラスチックのテリーヌ型にみっちりと詰められているので、秀次郎さんが勘違いするのも無理はない。


「私、しんどい時にこれ、やけ食いしてたんです。美味しさで色々忘れられるから。それくらい違うので、前菜楽しみにしててくださいね」




 日も暮れて、夕飯時。

 テーブルは料理とグラスでいっぱいになった。買ってきたものをお皿に移したものがほとんどだけれど、なかなかに壮観だ。

 こんなに用意したくせに「メリークリスマス」なんて言うのも恥ずかしくて、「乾杯」とだけ言って二人でグラスを掲げた。スパークリングワインの炭酸がすうっと喉を抜けていく。口もお腹も準備は万端だ。


「これ、あったかい内に食べるのをおすすめします」


 テーブルの中心に鎮座するひときわシンプルな一皿から、取皿によそった。それは湯気のたつコロコロとしたじゃがバターに、腰塚のコンビーフをほぐしてこんもりとかけたもの。じゃがいもの熱で脂が溶けて、赤身の色もじわりと濃くなる。まさに食べごろだ。

 秀次郎さんの分を取り分けてから、自分の皿に手をつける。じゃがいも一切れにたっぷりとコンビーフを乗せて、一口。ほくほくのじゃがバターがただそれだけで美味しいのに、そこへ濃厚な牛肉の香りが広がる。肉の食感はほとんどなく、あっという間に儚く溶けてしまう。その旨味をじゃがいもがしっかりと吸って、口の中で一体になるのだ。

 そう、これ、この味。


「これはすごい。お肉を食べている満足感はあるのに、臭みが全然ない」

「そうなんですよ! 流石、秀次郎さん。牛トロみたいでしょう?」

「いや流石、美緒さんですよ。この歳になると脂が胃にもたれがちですが、このコンビーフは重くない。うん、美味しいなぁ」


 秀次郎さんはそう言ってにこにこしてくれる。これもまた、私にとってはご馳走だ。


「美味しいものって、すごく手軽に手に入る幸せじゃないですか。だから一人のとき、嫌なことがあると美味しいものを食べることにしてたんです。このコンビーフにもたくさん支えられて」


 この味で思い出すのは、一人暮らしの狭いアパート。とろりと柔らかなコンビーフが、疲れ果てた心と体に沁みた。冷蔵庫にこれがあると思えば、まだ少し頑張れると思えた。


「そのままでも美味しいんですけど、卵かけごはんに混ぜるとまたジャンクな味が良くて。だけどやっぱり、じゃがバターに乗っけるのが一番好きなんです。コンビニにレンチンするだけのじゃがバターが売られてたりするので、コンビーフさえ冷蔵庫にあればできちゃうんですよ。お酒にもとっても合うし」 


 秀次郎さんは私がそんな話をするのを、いつも通りの穏やかな顔で聞いてくれていた。


「そうか、そんなありがたいコンビーフなんですね」


 そう言って拝むような仕草をするような、ちょっと天然なところのある秀次郎さんだけれど。


「そういう美味しいものが、このコンビーフの他にも色々あるんですけど、秀次郎さんにも食べてほしいし、二人で食べることで、私のしんどい思い出を上書きしたいんです」


 秀次郎さんは少し目を瞬かせてから、ゆっくりと一度頷いた。


「うん、そうですね。僕も美緒さんと一緒に食べたいものが、たくさんありますよ。お互い、楽しみですね」


 嗚呼、やっぱり、何よりも私を蕩けさせるのは秀次郎さんだ。思わず食べ尽くしてしまいたくなるような、やみつきになる甘さ。

 いけない、これは前菜だもの。デザートにはまだ早い。

 今年のクリスマスケーキはどんなだろう。去年は濃厚なビターチョコレートにヘーゼルナッツの香るブッシュ・ド・ノエルだったけれど。

 秀次郎さんが選んだものだもの、美味しいに違いない。

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