思い出は恋の味。

芝犬尾々

思い出は恋の味。

 人生で初めて赤いきつねうどんを食べた時の衝撃は筆舌ひつぜつに尽くしがたく、あの味を超えるものにはいまだ出会ったことがない。無論、それ以降に食べた赤いきつねもだ。


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「お待たせ」


 前々から言い続けていた『手料理を食べてみたい』という僕のわがままを渋々了承し、キッチンのほうへと消えた彼女・揚尾あげおきつねが湯気をあげる丼を運んできたのは、ものの五分後のことだった。


 平均よりも十センチは高い身長を誇るように、彼女の背筋はピンと伸びている。出会ったときもそうだった。入学式で隣に座るという運命的な出会いをしたとき、彼女のその堂々たる姿に惚れたのだ。


 揚尾きつねは完璧だった。成績は優秀で上から数えたほうがはやく、高校時代にやっていたバレーでは他大学から勧誘が来るほどに強かった。性格も穏やかで人望も厚く、僕と違って友人も多い。


 そんな彼女とじりじりとした距離の測り合いを経て、お付き合いを始めたのが十月末のこと。ハロウィンで盛り上がる校内の隅っこで、ゾンビと魔女が互いに顔を赤らめ手を繋いでからだった。


 いまでもどうして彼女が僕なんかと付き合ってくれているのかわからない。


「どうしたの? 狐につままれたような顔をして」

「いや、想像よりも随分と早かったからさ……うわ、うまそうな匂い!」


 コタツテーブルの上に置かれた丼から芳醇ほうじゅんな香りがふわりと広がり、僕の腹を思いきり刺激する。ぐぐぅ、と盛大に鳴った腹にきつねちゃんが目を細めた。本人が気にしている細い目が、笑うとさらに細さを増し、まるで書き込んだ線のようになるのは、おそらく大学中を探しても僕しか知らないに違いない。


「あんまり期待しないでね」と彼女は言うが、期待しないわけがない。僕のおよそバラ色とは縁遠かった人生で、初めての恋人の手料理なのだ。


「みどり君のお母さんの料理のほうが絶対美味しいもの」

「そんなことないって。意外と普通だよ、普通」

「その感覚が怖いの」


 ぷうと頬を膨らませきつねちゃんがそっぽを向く。彼女の手料理というだけでこの世のなによりも美味しいことが決まっているのだから気にすることはないが、彼女の言いたいこともわかってしまう。


 僕の母はいわゆる料理研究家というやつだ。レシピ本をいくつも出版し、テレビにも出演することがある。安くて簡単で美味しい家庭料理が得意であり『主婦の救世主』なんていう大袈裟なキャッチコピーまでもっている。


 それだけ有名な母ならば忙しくて家のご飯を作る暇なんてないんじゃないの? とはよく聞かれるが、ところがどっこい、母は重きを家庭に置いており、僕が家を出るまで僕の一日三食(お弁当含む)をきっちりと手作りしていた。インスタントや冷凍食品を家族に食べさせたら私の負け、とまで言っており、実際僕は産まれてからこの方そういったものを口にしたことがない。


 いつだったかそんな話をしたものだから、きつねちゃんは僕の舌がひどく肥えていると思っているに違いない。でも、実際そんなことはない。事実、僕は大学食堂のルーが溶け切っていないカレーと、なぜかワカメの味がするスープの豚骨ラーメンを日替わりで食べているんだから。


「だから絶対大丈夫だって」

「でも」

「ほら、せっかく作ってくれたご飯が冷めちゃったらもったいないよ」


 僕の顔をちらちらと横目で伺っていたきつねちゃんが、ようやく観念したのか小さく頷いた。


「でもでも、本当に期待しないでね!」と念を押してくるきつねちゃんに軽い相槌を返しながら、僕は手を合わせた。いただきます、と小さくお辞儀をして丼の中を覗き込む。


 まず目に入ったのは揚げだ。丼の半分を占めるほど大きい揚げが自分が主役だと胸を張ってそこにいた。その下には白い麺がひょっこり顔を覗かせている。


「わ、きつねうどんだ」

「だ、だめだった?」


 僕の顔を覗き込むようにきつねちゃんがぐいと前かがみになる。慌てたような表情を見せることは珍しい。


「ううん、逆だよ。僕、きつねが一番好きなんだ」

「一番、好き……」


 なぜかきつねちゃんが顔を赤らめた。暑いのかパタパタと顔を手であおいでいる。どうしたのと訊いても「いいから食べて」と答えをはぐらかされた。


「じゃあ、いただきます」


 判然としないままに僕は箸を手に取った。黄金色のつゆの中から麺をつまみ上げると、ちゅるりとすすった。美味しい、と思った。歯ざわりがよくもちもちとして、それでいて歯切れがよい。


 今度は丼を持ち麺を流しこむようにつゆを飲んだ。するとどうだ、ほんのり感じる甘味と抜群の旨味が口の中で爆発し、薫り高いかつお出汁の風味が鼻からすぅーと抜けていく。ごくりと動いた喉仏ですら旨味を感じた気がした。


 感想を言う間もなく僕の手は動いていた。出汁の海を優雅にたゆたう大物、揚げを口へ運び、かじる。じゅわっと音が聞こえたかと思うと、口の中は醤油の香ばしさと優しい甘味の洪水だった。噛めば噛むほどに旨味が染み出してくる。無限だ。


 揚げの横に申し訳なさそうに控えていた小さなカマボコも、コロンと可愛く丸まった卵も美味しい。添えられたネギが風味を増して鬼に金棒だ。


 そこからは一心不乱に麺をすすった。揚げを齧ってはつゆに浸した。揚げと出汁の旨味が混ざり合い、更に豊かになっていく。かといって、濃厚な出汁の旨味にシンプルな麺自体も決して負けていない。


 それぞれが主役で、それぞれが引き立て役だった。

 麺、揚げ、出汁。三者が揃って、初めて作り上げられた最高の舞台。


 丼の底が見えた時、これほど寂しくなったことがあっただろうか。僕は閉演の緞帳どんちょうが下りるのを惜しみながらも、最後の一滴までを余すところなく飲み干した。


「ふぅー」と思わず長いため息が漏れた。決して落胆してのものではない。それどころか全く逆だ。感嘆かんたんのため息、至福のひと息。丼を置いたときに立った音は名演たちへの万雷の拍手だった。


「あー、幸せだぁ」


 幸せいっぱい、腹いっぱい。これ以上求めるものがあるだろうか。いや、ない。この世のすべての幸せを僕はいま感じている。


「すっごくおいしかった! 麺ももちもちしてて、出汁は美味いし揚げも絶品! いままで食べたきつねうどんの中で一番おいしかった!」

「そ、そう? ならよかった……」


 きつねちゃんの視線がふいと僕から逃げた。一気に食べきった僕とは違い、僕の反応を見ながらゆっくりと食べていた彼女の丼にはまだ半分は残っている。けれど、彼女は箸をおいてしまった。どうしたのだろう。


 もしかして僕の感動が伝わり切っていなくて、彼女は失敗したと思っているのだろうか。そう思って僕はひとつひとつ、事細かに彼女へ感想を伝えていく。


 だがどうしたことだろう、言葉を重ねるたびにきつねちゃんは苦しそうな顔になっていく。いまにも泣き出してしまいそうだ。彼女の視線が緩やかに下降していき、ととう彼女は頭を下げた。


「みどり君、ごめんなさい」


 突然の謝罪の言葉に僕は面食らって反応を返すことができない。きつねちゃんは「ちょっと待ってて」と言いキッチンへと向かうと、すぐになにかを手に持って帰ってきた。


「実はいまのきつねうどんはね、私が作ったんじゃないの。これ、なの」


 彼女が差し出したのは赤色の目立つカップだった。スーパーの店頭やテレビCMで見たことがある。ペロリと舌を出したマークが可愛らしい。


「赤いきつね……?」

「そう、これを丼に移し替えただけなの。本当にごめんなさい」

 

 彼女は頭を下げ続けた。僕は状況が飲み込めずにあたふたとするだけだった。きつねちゃんは潤んだ瞳で僕を見上げて言葉を続けた。


「私、本当は料理がすごく苦手なの。だから、みどり君に手料理が食べたいって言われて困っちゃって……たくさん練習したんだけど、ちっとも上手くならなくて……このままじゃみどり君に嫌われちゃうかもしれないって思ったら、怖くなって、だからこんな騙すようなことを……本当にごめんなさい」


 きつねちゃんの目から涙がこぼれた。僕は呆気に取られていた。まさか完璧な彼女に苦手なことがあるなんて思ってもいなかったからだ。でも、そんな僕の勘違いが彼女に重荷を押し付けていた。


「ううん、謝るのは僕の方だ。苦しんでることに気づかなくってごめん」

「違う、悪いのは私の……」


 これ以上謝らせたくなくてきつねちゃんを抱きしめた。ひゃっと小さな悲鳴をあげたけど、ぎゅうっと強く抱きしめる。


「きつねちゃん、僕がどれだけきつねちゃんのことが好きか知ってる? 料理が出来ないことくらいで嫌いになんてなったりしないよ。そんなことを言ったら苦手なことばかりの僕はどうしたらいいのさ」

「でも、みどり君は素敵だもの」

「バカ言うなよ、素敵なのは君のほうだろ」


 僕の胸の内がポカポカとあったかくなっていく。心の内から言い知れぬ温かいものが滾々こんこんとわき出してくる。ああ、この人をずっと抱きしめていたい。そしていつか溶け合ってひとつになってしまえばいいのに。そうすれば、僕の気持ちがすべて余すところなく伝わるのに。


「君の苦手は僕が補う。料理は僕が覚える」

「でも、みどり君に任せっきりにしたくない」

「そんなのいいよ。その代わり、きつねちゃんにはふたつお願いをしたいんだ。ひとつは僕の作った料理を笑顔で食べてくれること」

 

 彼女が腕の中で小さく頷く。 


「もうひとつ」


 腕を緩めて彼女の顔を見ながら言う。赤く潤んだ目をまっすぐ見つめる。


「赤いきつねはきつねちゃんに作って欲しいな」


 彼女は一瞬驚いた顔をして、それからふにゃりと笑った。


「うん」


 ###


 この日、揚尾きつねが僕に初めて弱さを見せたこの日、僕は本当の意味で恋に落ちたに違いない。だから、きっともうこの日食べた赤いきつねに勝る料理なんて食べることはできないだろう。


 人生で一度きり、初めて知った恋の味なのだから。

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