瞑捜された女

德藤和之(本名:徳野眞之)

          瞑捜された女


                德藤和之




    序文



この小説の原文は、私が二十一歳の時に書いた文章であり、

それを五十四年後に校正した物語である。

その原文の結末に、次の様な文章を書いてある。


浅井は生涯青年として生き

人生を全うする




    前書



初恋とは…

 私はこの書に、浅井眞之が瞑捜に因って創作した、初恋の女性の物語を書こうとしている。

 人間の心は微妙且つ魔物であり、一片の事に因ってその心は何の様にも動かされる。人生は美しい要素を持っているが、それは一片の些細な事に因って泡の様に消される。それでも、人間はその美しい要素を目標に生きようとしている。そして浅井はこの様な人生を生きる目的としている。全ての人間はそれが無価値か価値存在かを論じ無ければ、その人なりに一つの世界、一つの人生論を何かの手段に因って表現する事が可能である。私はその手段として小説を選択したのであるが、この物語を書く為に六十八年の過去に遡らねばならない。

    あの事象は五十四年前の夏だった…

 暗闇の中を急行列車は猛然と走っている。一面何も見えない空間に、星と半月そして何の光か想像出来無い物が静かに白黄金色に光っている。列車の中で一人淋しく何を考えている事も無く、そして何かに失望し疲労している若者がぼんやりと外を見詰めている。手を顎の下に置き目を半開きにして、前座席に座っている人を無視し外を見詰めている。時折無意識にたばこを取り出し火をつけて口に咥えている。若者は確かに何かに因って破戒され、それは人生という難解な事を目に浮かべているのだろうか。車内の他の者達は何かにつけて笑い楽しく話しているが、その中で若者は苦悩に満ちた、もうこれ以上人生を歩む事も出来無い様な風貌で外を見詰めている。若者は現在までの自分が歩んで来た小さな人生を、一つ一つ思い浮かべた。突然若者は〝あ!俺の瞑捜は終わったか!〟と心の中で叫んだ。それは無言の叫びであり、その叫びは何時迄もその若者の体内に響いていた。若者は目を伏せて、あの運命的な出会いからこの日迄の十三年間を回顧していた…。

 若者の父が初めて校長に成り、九州に最も近い愛媛県の佐田岬半島の中程に在る、小さな川之浜小学校に転任したのは、浅井が小学校二年生の時であった。今迄の町の小学校と比べて田舎であり、全てが素朴に感じられた。海に接して1㎞程の長広い砂浜がその部落の表玄関を成し、その砂浜に沿って道路、道路に沿って家屋が立ち並び、半農半漁の幾分貧しい村であった。しかし美しい海、波、木々、小鳥の調べ、そして山の中腹まである段々畑は印象的である。

 若者はその当時の様子を明確に思い出す事は出来無い。唯若者は村一番の餓鬼大将であった事は確かであり、それを物語るように若者の顔と頭に、挫創後の禿が散在しているのはその当時の物である。

 若者はその小学校で、二年同級生の橋本和子と運命的に一年間丈教室を共にした。その女の子は目の大きい非常に愛嬌のある女子であり、浅井はその女子に関して今殆ど記憶に無い。唯々若者はその女子の名前橋本和子に対して〝カズチャン〟と呼び、その女子は若者を〝マァクン〟と呼んでいたのを憶えている。また同級生の誰かが教室の黒板に〝まあくんはかずちゃんをすき〟と落書きされた事、そして若者は和子の左頬から口唇の四分の一程に〝チュ〟をした事象が記憶に残って、それは何故か解らない…?それだけが若者の頭から消え失せ無いのであった…。



    第一章


     一


 佐田岬半島の伊方町から小型船で八幡浜港迄、或いはバスでも八幡浜駅迄約一時間、八幡浜駅から高松駅まで急行列車で四時間、高松港から宇野港まで一時間、そして宇野駅から岡山駅まで一時間程要する。

 岡山駅からの急行列車が京都駅に到着したのは、日も沈みかけた頃であった。一目で田舎者と分別出来る様な三人連れが、大きなバッグを両手に持って駅の正面に立ち何かを捜している様子である。市内バスと電車の到来の激しい事、夕方とあって通勤者や学生など人波の多い事、実に落ち着きの無い行動で急いで歩いている様相は、三人にとって別世界に来た様な感覚を与えられた。夕日が市内全体に照っていて、初春の清々とした気候にまだ寒さが残っていた。その三人の中で一番背の低い浅井は京都に来るのは、中学三年時の修学旅行以来、今年の大学受験の為に二回、そして今日で四回目に成る。一つ溜息をついて遥か遠くを見渡した。今まで懐いていた京都とは、多分に違っているなと幾らか失望しながらも、京都市を囲んでいる山々を非常に美しく感じた。

「おい!お前の下宿屋如何行けば善いんだ?」

 と先ず浅井が口を開いた。

「そうだな…」

「お前地図持ってるんだろう。それを開けて見ろよ!此処でじっとしてても仕方ないぞ」

 と浅井と一緒に京都に来た、高校時代の友人油井が言った。背の高い如何にも真面目そうに見える者が、京都大学の医学部に合格し既に下宿屋が決まっている油井、背は普通でがっしりした体格をしている者が、薬学部に合格した中川、そして中川より少し背の低い者が京都の国立一期校大学に進学を希望して受験したが不合格となり、第二志望であった立同大学工学部建築科に合格した浅井である。

 浅井と中川は未だ下宿屋を決めておらず、下宿先が決まる迄油井の下宿屋に居候することに為っている。地図を開き三人は頭を寄せ合って見た。

「このバスに乗れば良いんだな」

「おおそうだな、あれだろう」

「おい、あそこにバスの案内所があるから、そこで聞けば解るだろう。行ってみよう」

 三人は話しながら案内所に行き、三番のバスに乗り洛北高校前で下車すれば良い事が解った。バスに乗ると同乗者達はこの三人を如何にも田舎者と認識して目を注いでいたが、三人はそれ程気にもせず珍しそうに外の景色を見ながら話した。

「京都って一面寺だらけだと思っていたが、この辺りは無いな…」

「おう当たり前だろう…馬鹿だな、そんなに寺ばかりあったら大変だぞ。しかし綺麗な街だな」

「でも女性は美しく可愛いな」

 と他の人には分からない様に小声で話していたが、急に三人が正面の女に目を注ぐと、その女は〝この田舎者め〟と言わんばかりに平然としていた。浅井は窓から市内をきょろきょろ見ていると、車掌が〝洛北高校前〟と案内する声で、三人は慌ててバッグを持って下車した。京都駅前と比べると、そこは幾分閑静な地域である。通り道で出会った人に道順を尋ねながら漸く油井の下宿屋に着いた。そこは如何にも下宿屋らしく窓が多くあり、静かで環境の良い所であった。

 既に下宿屋に着いていた、布団、机、本箱、本、等々が一応片付いた時、三人は幾らか疲れた様子で転寝をした。横になって二〜三言話していたが、急に空腹を感じ、下宿屋の人に近くの食堂を尋ねて食事に行った。夜道を散歩しながら、下宿屋に帰ったのはもう十時近くであり、何もする気も起こらない程に疲れていた為か、三人は直ぐ敷物の上に電気炬燵を置き、その上に布団と毛布を放射状に掛けて寝る用意を済ませ、三人はそれ相応の寛ぎ方を取り色々話し合った。

 浅井と中川はたばこを吸いながら、その煙を力一杯〝フゥ〟と天井に向かって吹き付けている。京都市内の事、これから始まろうとしている大学生活の事、高校時代誰か好きな女生徒が居たか又下宿屋の事等を、多少窮屈らしく身を微かに動かしながら話していると、中川が浅井に言った。

「浅井、明日の朝起きたら直ぐ下宿屋を見付けに行こうな。良い下宿見つかれば善いがな…」

 油井は頷いて浅井の下肢を軽く蹴って言った。

「長生、兵頭、辻皆んな来年合格すれば善いが。理屈無しに勉強をすれば大学なんて合格出来るよ、お前高三の時の事を思い出してみろよ、解かるだろう」

 浅井は真妙に聞いていた。浅井は高校時代高校の傍に下宿していた為に、悪友の奴等が頻繁に出入りしていた。不因あの三年になってからの事を思い出しながら…同級生の女性と恋人関係に為り、たばこを吸い勉強も疎かに突然遊び出して、模擬試験で初めて順位を下げた時を回顧した。その時一階にある柱時計が〝ボーン〟と夜中の一時を打ち、三人は頻りに欠伸をして電気を消し目を伏せた。

「明日は買い物に行ってそれから…」

 と油井が一人言の様に言った。浅井はその暗い室の中で目を半開きにして、何を考える事も無くじっと上方の天井を見ていた。するとじわじわと十一年も一度も会って無い、殆ど記憶に無い、中肉中背、色白で髪の長い、美しい目、口唇、白い歯、唯瞑捜によって創作した和子が目の前に浮かんで来た。〝カズチャン〟と浅井は心の中で小声で呼んでから、睡眠を取りたかったのである。

 浅井は時の過ぎるのも忘れて、ガラス窓から見える満月に近い月が白黄金色に輝いているのを眺めつつ、次は大学進学の経緯を回想していた。浅井は京都の国立一期校大学に入学出来無かった事を後悔して止ま無かった。母は息子の心情を全て知りつつも、息子を元気付ける事が母に出来る唯一の事であった。その為に母は立同大学工学部に合格した事に満悦の表情を表し、そして善く頑張ったと言う言葉を耳にすると、浅井は自己嫌悪に陥り淋しく孤独を感じた。親の勧めで浅井は立同大学工学部に入学することに成ったが、しかし如何しても満足する事は出来無かった。入学式迄にもう一度受験の機会を与えて欲しいと、何度も父にお願いしようと試みたが、高校三年の事象を考えると浅井には出来無かった。

 浅井はもう何も考え無いようにしよう、空虚な頭にして目を閉じていると何時の間にか眠っていた。

 翌日浅井が目を覚ますと、油井は既に起きて窓を開き敷居に腰を据えて、朝日を浴びながら外を見詰めていた。油井が浅井の欠伸の声で室内に目を向けるなり笑って言った。

「浅井寝れたか、よく荒びていたぞ」

「おう寝れたよ、お前早いじゃないか」

「いや今さっき俺も目を覚ましたばかりなんだ、中川の奴よく寝るな」

 二人の話し声で中川も如何にも眠そうに目を擦り両手を力一杯伸ばして欠伸をした。

「ああ!善い天気だな、眠いな」

 と強烈な朝日が眩しいらしい。三人は今日の予定を話し合い各自別行動を取り、夕方再び油井の下宿屋で会うことになった。

 浅井は不馴れな京都を珍しい気持ちで散策しながら、立同大学に行き下宿屋を紹介してもらい、早速紹介された下宿屋を訪問した。そこは立同大学工学部の裏に在り木々の立ち込んだ閑静な地域で、同じ大学の者と浅井の二人が下宿人で、浅井はその下宿屋に入居する事を決定した。夕方油井の下宿屋に行くと、中川は既に来ていて良い下宿屋を見付け三人共京都市に住居が決まった。三人各自これから始まる大学生活を、三人様々に期待と希望に満ちた話を真夜中迄語り合った。


    二


 立同大学の入学式が大講堂で執り行われて終了すると、大勢の先輩達がその講堂前の広場に屯して投手、各クラブ活動の勧誘が盛んに行われていた。浅井は中学時代には野球部に入部しと内野手で活躍し、そして高校では軟式野球部の同好会に在籍し投手として野球を楽しんだ。それ故に、軟式野球部の同好会に興味を示し雑多な話をしたが、入部するかは諸事情によって保留にした。

 大学講義も教養課程から始まり、英語と数学そして理科学は多少高度であったが、浅井はこの三教科は得意であった為に特に苦慮しなかった。親しく話し合える同級生も数人出来て、楽しい学生生活を日々過ごしていた。四月下旬頃油井から電話があり、「五月のゴールデンウィーク後に医学部の医学祭が実施されるから来ないか?」と誘いがあり、浅井は興味深く思い承諾した。浅井は幼少の頃から高校生まで、ラジオや望遠鏡、家、そして模型作成など色々な物作りをする事が大好きであった為に、工学部建築科を受験したのである。これまで医学には全く関心が無かったので、医学って何の様な学問なんだろうか?と想像しては、その都度医学への関心が湧き上がって来るのを感じた。

 浅井は医学祭の当日、油井の指定する大学構内の場所に可成り早く到着して大学周辺を散策していた。一般の人々、特に親子連れの人が医学祭に興味を感じて多くの人が来ていた。約束の場所と時刻に油井がやって来た。

「久し振りだな、元気か?」

 と油井は言って浅井に握手を求めた。

「おう、久し振り、お前は元気そうだな、大学生活は楽しいか?」

 と浅井は言って油井の手を強く握って握手を交わした。

「おう、楽しいよ」

「お前は?」

「俺はまあまあだよ」

 と浅井は少々平凡過ぎる程に答えた。

「それじゃ、医学祭を俺なりにお前を案内してやろう、俺も医学の事は全く解らないし高校の理科で学んだ程度のレベルだぞ」

「ああ、そうか、それじゃ頼むよ」

 浅井は医学に関して油井に問い掛けたが、油井も現在は一般教養課程の授業ばかりで、医学講義は三年生からだと言って、

「俺達高校の時、理科で人体に関して学んだ事を思い出して観察せえよ、その部所部所にドクターが居るから質問があれば聞けば善いよ」

「了解した」

 浅井は何故か、ときめく感情を高揚しつつ油井と並んで会場に入って行った。多少混雑していたがすんなりと各部所の人体の展示を観ながら、そして医師の解説を聞く事が出来た。

「これらが本物の人間の脳、神経、心臓、肺、骨、筋肉、内臓…か」

 浅井は人間の全てを興味津々に観察して、その中でも脳から脊髄神経そして末梢神経に至り筋肉を作動させる仕組、又心臓から動脈を経して全ての臓器に酸素と栄養等を与える仕組を担当の医師から説明された時は、今までに感じた事の無い感動を覚えた。

「油井、医学って凄いな」

 浅井は力強く言った。

「そうか?」

 油井は平然と言った言葉に浅井は油井を心底から羨ましく思った。浅井の誘いで夕食を食堂で食事をし、浅井は唯々医学の尊厳さと重大さ重要さを油井に語ったが、油井は「そうか」と平常心で対応していた。

「油井、お前何故医学部に進学しようと思ったんだ?詳細に解かる様に話してくれ!確か高校時代にお前と何学部に受験するかを話し合った事あるな…」

 と浅井は真剣に問い掛けた。すると油井は

「特別な思いで医学部に進学したかな…?唯、医学部に行こうかな…と思って…」

 浅井は油井の発言に落胆した。もっと浅井の心に衝撃を与える様な発言を期待していたからである。思い出せば、高校三年生に進級した頃、油井は医学部に進学したいと、そして浅井は工学部建築科を受験すると簡単に話し合った事が記憶にある。食事を済ませてお互いに「元気でな、又会おう」と交してそれぞれの下宿屋に帰った。浅井は帰宅中もあの人間の全ての臓器を思い出しながら、医学部に進学したいなどと今まで考えた事も無かった思いが、一時そして又一時と高揚して来た。

 浅井は下宿屋の自室に着くなり、畳の上に仰向けに十文字に寝転がった。今こそ両親に浪人させてもらい、医学部に進学する事をお願いする時だと一心不乱に決意して、そして、難解な人生について全身を絞る様に考えた。考えれば考える程心情が大きく成り、それは束の間の人生に対する自信であっただろうか…。浅井は即座に起床して直ぐ机に向かい、便箋と万年筆を取り出し父母に手紙を書き始めた。


 拝啓

 御父さん、御母さん、御健勝にて日々御暮らしの事と存じ上げます。さて突然の手紙ですが、御両親にお願いがあり筆を執っております。本日僕の友人で医学部に進学した油井の大学の医学祭に誘われて行って参りました。御父さん、僕を信頼して下さい!僕に一生一度の機会を与えて下さい!僕はこれから浪人生活をして、来年春に国立一期校の医学部に必ず合格してみせます!僕の勝手を許して戴きたい!

 御父さん、御母さん心よりお願い申し上げます。            敬具

 眞之より御両親に


 浅井は神様に祈りつつ書いた。

 手紙を書き終わった時は翌日夜中の三時過ぎであり、外は暗い夜であったが、浅井の頭は興奮し冴えている状態に為って寝る気にならなかった。本棚にある大学受験と高校三年の教科書を引っ張り出し、何気なしに見ていると高校三年のあの事象が目前に浮かんで来た…。丁度父母に手紙を出して十日目の日、午前中で授業は終了し大学の同級生達と雑談をして、その後一緒に夕食を済ませて下宿屋に帰った。すると自室入口の戸口の下に手紙があった。浅井はその手紙を見付けた時、血が頭に昇るのを感じ、封筒の差出人〝浅井正志〟という父の名前に目を伏せて祈った。机の腰掛けに正しく座ってその手紙を開封した。〝眞之へ〟という父の達筆な字が、浅井にどれ程の強烈な衝撃を与えただろう…、心拍動は最高に上昇した真情で手紙を読み始めた。

そして神様に祈りつつ…


 眞之へ

 さて、君の手紙を父さんは何度も読み返した。父さんと母さんが何の様な心境に為ったか、君には理解出来るだろう。過ぎ去った事に関しては何も言いたく無い。〝君を真意に信じよう〟頑張り給え。そして、今、君が熟慮した君の人生を肝に銘じ給え。何よりも健康であれ、祈っている。                 父                                      


 短い手紙であったが父が石に掘り付けて書いているような字が、浅井の目に焼き付けている様だった。浅井は嬉しさの余り力強い声で「やるぞ」と叫び、拳で机を叩き付け、早速、父に至上の感謝の気持ちを伝える手紙を書いた。そしてこの件を、中川、油井、浪人生辻には電話で知らせ、又東京で浪人生活をしている長生と兵頭に簡単な手紙を書いて連絡した。全員それなりに驚いていたが、油井は「浅井、近日中にお前に会って詳細を聞きたい」と言って驚愕していた。

 浅井は翌朝、下宿屋の主人に五月中に下宿を引っ越す事を伝えた。心良く承知され「頑張れよ」と励まされた。浅井は早速京都市内の立同大学に行き退学届けを提出し、そして不馴れな京都市内を散策しながら、近畿文理予備校を伺い六月一日から中途入学手続きを済ませて、下宿屋を紹介してもらい訪問した。その下宿屋は予備校からバスと徒歩で二十分程要する閑散とした住宅街で、紹介状の住所を道で会う人に尋ねて漸く見付けた。そこは紹介状ではアパートとあるが閑静な地域の大邸宅であり、浅井は一瞬驚いて辺りを見渡しながら〝真逆こんな大きな家に下宿するんじゃなかろうな〟と半信半疑にもう一度紹介状を見直したが、確かに此処だと確信して門のベルを押した。奥から六十歳台中程のおばさんがゆっくりと出て来た。浅井は軽く不格好に礼をして言った。

「こんにちは。僕近畿文理予備校から紹介された浅井と申します」

 自己紹介をして予備校からの紹介状を提示した。おばさんは浅井を横目でそっと見詰めて、その紹介状を丁寧に見ていた。そして浅井に出身地と希望している大学々部を質問し、浅井はそれに対して

「愛媛県南予地区の田舎出身で国立一期校の医学部に進学致します」

 とはきはきと信念を持ち、直立不動の姿勢で答えた。

するとおばさんは、

「一寸待ってくれやす」

 と低い声で言って奥の方に行った。浅井はほっと一息入れて、広い庭を見渡す間も無くおばさんは姿を現し一緒に邸宅の門を出た。

「アパートは此処から150m程の所に在るんですよ」

「ああ、そうなんですか」

 と浅井はおばさんの横に付いて歩きつつ、浅井の身の上を尋ねるのに猶も丁寧に答えている間に、少々古いが清潔さを感じられる二階建ての一二室あるアパートに着いた。既に入室している者の洗濯物が、各自の窓の前面に干してあった。室代も割合安いし静かであったし入室者が全て浪人生であることに満足し、二階で南側の一室が空いていたので入室の契約を交わした。入室者は全員予備校に行って授業を受けている様子であった。

 その夜、中川、油井、辻には電話で新しい下宿先を教え、長生と兵頭には葉書で知らせて、そして父母には手紙を書いて連絡した。父母への手紙には〝父さん母さんありがとうございました、僕は国立一期校の医学部に絶対合格してみせます〟と追加した。


    三


 浅井はアパートに住むようになって、予備校に通学しながら本格的に受験勉強に取り組む日々を過ごした。転居して来て間も無く二階に住む六人は各人の出身地、志望大学学部など如何にも浪人生らしく立ち話をした。体が大きく浅黒い山岡、外見三十歳程に見えて落ち着きのある吉田、長身でおしゃべりの堀内、肥満体で短身の佐藤、痩せた浜田である。浅井は愛媛県の田舎育ちで、立同大学工学部を中退し医学部を希望して浪人した事を話すと、五人の全ての者が驚いていたがその詳細は話さ無かった。このアパートに住むようになった頃の堅苦しさは無くなって、友人の様に日々親しく為り廊下で立ち話をしたり、お互いの室で受験を主体に話し合える仲に為った。

 浪人生活も二ヶ月が過ぎようとした頃の土曜日、翌日は休校なので、予め二階の六人で気晴らしに焼き肉パーティーをする事を計画した。酒も多少飲んで、この日だけは全員破目を外して、受験を忘れ楽しい夜を過ごそうという訳である。六人で各々の役割を分担して準備をし、漸く七時半頃にウイスキーを入れたコップを差し出して「乾杯」の発声と同時に、全員恰も野獣が檻から解放されたかの様に「美味いな」と喚きながら好物を食べつつ、受験の話は絶対にしないよう約束して雑談ばかりした。ウイスキーも少々飲んで、全員が口に任せて勝手に話し合い、大声で笑い楽しい一時を過ごしている時、山岡が神妙な顔付きをして言った。

「君ら高校時代楽しかったか?僕は何かに束縛されて、余り楽しいというより有意義な楽しい高校生活を過ごせ無かったな…」

 山岡が大きい体を前に差し伸べて言った時全員静まったが、直ぐに佐藤が発言した。

「うん、楽しかったな」

 と一口に言って、高校時代の事を振り返ったのであろうか、薄笑いを見せて「楽しかったな…」と繰り返した。堀内と浜田は楽しかった事は友達と遊んだ事、楽しく無かった事は受験勉強をせねばならなかった事だったと臆病に話し、それと逆に吉田は「総体的には楽しかったね」と力強く落ち着いて、一言一言ゆっくりと正面を向いて話す姿は独特の風格があった。浅井は自分なりの高校生活を中途半端に話し、各人は口に焼き肉を入れ、それにウイスキーを飲んでその事に関して論議を続けた。高校生活について話終わる頃になると、浜田は酩酊し吉田が浜田を彼の室に連れて行き、吐く用意に洗面器を枕元に置いて寝かせた。時々〝ゲェ〟という苦しそうな声が聞こえたが、五人はそれ程気にもせず、青春論と人生論などに関して自説を話し合った。焼き肉も殆ど無くなり、ウイスキーも底の方に少々残っている頃、堀内が頭を固定出来無い程に酔ってしまった。

「あ!頭が…天井が回ってる…俺達未成年者なのに酒飲んで…その上浪人生なのに…」

 と浅井に向かって少し皮肉を含めた言葉を言った。今夜ウイスキーを飲もうと言ったのは、既に高校時代から少々酒を飲んでいた浅井であり、京都に来てからは未だ一度も飲んで無かったので、久し振りに飲みたいと他の五人にも勧めたのである。

「浅井君、君は高校時代からたばこを吸ったり、酒を飲んだりして不良生じゃなかったん?」

 と堀内が浅井に直接顔を向けず下を向いて語尾を暈して言うなり、浅井は少し憤りを感じたが笑って誤魔化した。堀内は独り言の様に固定出来無い頭を振りつつ話していたが、遂に自室に入り横になって二三愚痴を言いながら寝てしまった。吉田は彼の掛け布団を堀内に掛けていた。暫く残った四人は口を開かなかったが、色黒い顔に赤味を帯びた山岡が話した。

「君ら恋人居る…?また恋愛した事ある?」

 と相当酔っているが意識だけは鮮明にして三人に質問をし、浅井と佐藤は上機嫌になって酔っているが、吉田は相変わらず落ち着いた風貌である。小さな六十ワットの電球が夜の静けさの中で薄暗く光って、四人が沈黙を保つと、爽やかな風の音そして何か解らないが〝シュー〟という音が常に聞こえていた。もう夜中の二時近くになる頃、浅井の一言の発言によって、沈黙を保つ事は非常に特異な雰囲気を醸し出すだろう…と浅井が考えていた時、佐藤が口を開いた。

「俺一人居たよ。今もだけど、彼女今東京女子大に行っていて、時々ラブレター来るけどね…」

「良いな、相思相愛か…僕なんか恋愛した事無いな…悲しい…唯…片思いはあるけど、しかし…それも相手は全然僕に関心が無かったな…佐藤君が羨ましい!」

 と少し落胆した風情で佐藤を見て山岡は話した。

「吉田君はどうだった?何か君は女には無縁な顔してるけど…しかし…」

 と薄笑いをして頭を下げ上目使いで吉田を見つつ山岡は言ったが、吉田は少々笑いながら話した。

「いやいや、君には済まないが僕は彼女居ますよ、中学時代の同級生と文通してちょいちょい会ってるよ。彼女看護学生でね、京都に居るよ」

 三人は予想外の発言と思ったのだろうか…酔いも覚める程に茫然と自失の心境に為った。

「じゃ、君、休みの日外出してるの、あれ、デイト?」

 山岡が言った。

「うん、実を言うとね」

「うわ!凄いな、羨ましい…畜生、俺だけか!浅井君は浅井君でね…」

 と山岡が浅井の方を向いて笑い、浅井は三人共自分の方を向いたのに驚いて体が猶さら火照るのを感じ、〝ああ…和子か!〟と心の中で叫んだ時吉田が浅井を直視して話した。

「浅井君如何だった?何か嬉しい事ある様だね」

浅井は途惑った。〝和子の事正直に話そうか〟〝否、何故話す必要があろうか…俺達はまだ友人じゃない…否吉田は良い奴だ、佐藤は…うん…〟と心の中で疑って、〝ああそうだ、中学から高校時代の事を話せば〟と思っていた時、

「なんだ…隠す莫れ、善いじゃないか」

 と吉田が浅井に言った。浅井は何故かその吉田の態度と風格に圧倒されたばこを吸い、一息でコップに残っていたウイスキーを飲んでゆっくりと話し出した。

「実を言うと、僕は満足する本当の恋愛は経験無いんだが…」

 と話すと吉田が瞬時に質問をした。

「本当の恋愛?」

 その時はもう、浅井はあの特殊な自分の瞑捜の女の事も全て正直に話してやれ!と決心し、何故か平然とした顔で三人を見渡して語り出した。

「恋愛には精神的な面と物質且つ肉体的な面を持っていると思うね。そして全ての事象には理論と実践が交差していると思うんだ。恋愛も勿論だ。だから恋愛にも理論と理想があり、その上に実践が伴わなければ、相思相愛という理想的なケイスは生じ無いと思うね。言うなれば、精神面に於けると同じ様に、肉体面が共に合致していなければならぬと思うんだ。しかしこの場合の肉体面が全面的にセックスを意味しては無いんだよ。うん…どうかな…まあ僕の場合ね、今まで中学時代はこれでも持て持てだったよ。しかしそれは唯、純粋に好きだなんて声で言うだけで、唯精神、感情だけでね。そして高校時代は、うん後で写真見せてあげても良いが、好きな女性が居たよ。相手も俺をね。しかし何故か解らないが、多分大学受験を最優先に考えたのかな…高三の二学期頃から破れつつあってね、破れたというより、恋をしている時にその恋愛感情が未熟だったんだろうな。その上に、僕は本当に〝好き〟だなんて言え無かったんだ…うん…何故なら僕には十数年、心の中で愛し続けている女性が居たんだ、以前山岡君に少しだけ話したけどね。それは小学校二年の時に出会っただけなんだ。その女性と文通もした事も無いし、二年生の一年間以後一度も会った事も無いんだ。その二年生当時の記憶は全然無いんだが、あるといえば、名前と二つの事象だけなんだ…それも本当に確かとは言えないかも…小学生と中学生の頃は〝あぁあんな女性が居たな〟と思い出す程度だったが、高校二年生頃から原因不明、何故か解らないけど暝捜し始めてね、今迄その女を瞑捜だけで、僕の理想の女性に創作したんだ…そしてその創作した女性が現在も俺の脳裏に焼き付いているんだよ…」

 浅井は自己喪失し夢中状態に為った。三人は静かに無言のまま聞いていたが、浅井はそれ以上何も話そうとしなかったし、ぼんやりと前を直視して溜息をつき、咽が乾々に成っているのに気付いた。〝ああ!俺の恋は余りにも神秘的過ぎるんだ。何故あの和子の為に悩まねばならないのだ、この三人はこの事を理解出来様か…〟と一人考えていると、浅井は心の不安の為に怯えて、そして数分間沈黙が続いた。

 外は薄っすらと夜が明けて、牛乳配達の自転車の音が異様に響いていた。

「うん…浅井君には済まないが…僕は信じられないし非現実的過ぎるね、それに…」

 と佐藤は何か続けて話したそうであったが、浅井の厳しい顔を見て口を閉じた。

「いや、何れにしても美しい物語だね、美し過ぎるね」

 と、山岡は吉田に同調を求めて話すと、吉田はきりっと口を結んで少し深く頭を下げた。四人は口数が少なくなり、浅井は依然としてこの告白に関して複雑な心境に為った。話が中途半端に成り気まずい気持ちだったが、最後に〝受験勉強頑張ろう〟と励まし合って寝る事に賛同した。

 浅井は直ぐ自室に入り、布団を敷き下着のまま床に入った。欠伸が出て眠いのだが目と頭は反対に冴えて〝愛とは、愛とは…俺のは無償性の愛だろう…ああ俺は痴人だろうか…〟と一人思いに耽っていた。あの瞑捜によって創作した和子を浅井は夢想し始め、笑った和子の顔がそして愛嬌のある和子の顔が現れた。〝和子、カズチャン、好きだ!好きだ!〟枕を恰も和子と思い抱き締めて、そして自慰行為の後満足感と疲労感によって深い眠りに入って行った。

 アパートの台所では、吉田と山岡の二人が後始末をしている。

「ああ、六時近いね、吉田君もう寝ようよ。片付けは皆んな起きてからやろうよ」

「そうだな、もう寝よう、それじゃ、おやすみ」

「おやすみ…」

 という声を交わして山岡が浅井の隣室に入った。

その日の夜、油井から電話があり、

「受験勉強頑張っているか?頑張れよ!」

と励まされた後に油井は率直に浅井に発言した。

「浅井、お前の気持ち理解出来るんだが、今は和子さんの事は忘れろよ!お前の現在の生活、人生には無益なんだと思うぞ!和子さんはな…集中して勉強せにゃ!」

 浅井は友人の忠告を神妙に聞いたが、〝忘れる事が出来るなら直ぐ忘れたいよ!〟とむしろ反発する心情が生じて、真情を吐露する心になった。


    四


 日々の経過と共に、浅井は吉田と山岡に対して友情を感じるように為り、浪人時代という束縛された生活の中で浅井は最大の〝者〟を得たような気がした。同じ屋根の下に住んで気性の合う若者同士なら当然であろうが、それは心の奥から生じる光明であった。青春時代の友情は新鮮な命と命の接融であるという事を暗黙の内に感じ、お互いを親身に激励し合って受験勉強に一層集中出来る様に成った。それと比例するかの様に受験勉強も日々努力して、予備校の模擬試験の成績表に於いて少しづつ順位が上昇し上位に成りつつあった。

 また二ヶ月に一、二度、中川と油井が、浅井の生活状況を窺って励ます為にアパートに訪ねて来た。そして〝浅井今日ぐらい息抜きして遊べよ〟と言わんばかりに、浅井を京都市の繁華街に連れ出した。和子を瞑捜する日の度合いは多少減少しつつあったが、その反発であろうか…ラウンジに行くとホステスに夢中に為り心身共に癒すのである。

 東京で浪人している長生と兵頭からは時々手紙が来て、特に長生は受験勉強に熱中し予備校で上位であると言っていたが、兵頭は徒然なるままに浪人生活を送っている様子である。

 師走の頃になると、浅井は受験勉強期間の短さに対して強迫観念に捉われて、直一層努力して勉強せねばならぬという使命感が一気に身に染みる様に湧いて来た。

 その頃辻は困った事態に為り、浅井が予備校から帰宅途中に辻の下宿屋に寄ると留守であり、辻の隣室に居る学生に尋ねると、近くの喫茶店に居るのでは…そして最近辻は勉強を疎かに頻繁に女が辻の下宿屋に出入りしているらしい…。浅井は直ぐその喫茶店に行くと、辻はカウンターに座ってたばこを吸いながらホステスと会話をしていたが、「いらっしゃいませ」と言うホステスの声で辻は浅井の方を向いた。

「おう、浅井か。元気か?久し振りだな」

 と言いながら手を浅井の方に差し伸べた。浅井は辻の横に座ってたばこに火を点け、そしてコーヒーを注文し辻に言った。

「久し振りだな、元気そうだな、しかし予備校でも会う事が無いしお前元気か?如何しているのかと心配してたぞ。時々は俺のアパートにも来いよ」

「おう、どうだ。頑張ってやってるか?」

「うん、頑張っとるけど、ところで…お前最近勉強もせず予備校にも行かず、こんな所に出入りして、その上女と遊ぶばかりらしいな…?」

 と浅井が最後まで言い終ら無い内に、辻は驚いた様子で浅井の右下肢を蹴った。

「黙っとけ!」

 と辻は小さい声だが強く言った。

「何故だ?」

「否…、善いんだ。そんな事如何でも良い、俺に構うなよ、お前はお前なりに真面目に頑張れば良いだろうが…」

「そうだな…確かに…一寸言い過ぎて済まん!」

「うん。人の事ばかり言うなよ。俺は俺なりに考える事もあるし、やらねばならない事ぐらい俺でも解ってるからな…唯々…」

 その後に続く言葉を、浅井は改めて聞こうと思わず且つ辻も無言状態のままであった。

「はい、コーヒーどうぞ」

 と、髪の長いこってりと化粧した女性がコーヒーコップを浅井の前に差し出した。ボックスでは若い男女が楽しそうに話している様子であったが、二人は口を聞かず身体を小さく動かしている時、そのホステスが辻に親しく話した。

「こちらの方、辻さんのお友達?」

「おう、そうだ。高校の同級生でな…予備校も一緒だ」

 辻はいとも簡単に、浅井をその女に紹介した。辻はお互い久しぶりに会ったというのに、あんな事を言ったので少し怒っているだろうかと浅井は彼の心情を考えていた。二人はしばらく話さなかったが、そこには虚無感だけが存在して何も充実した感情は湧いて来無かった。浅井は気まずそうに口を開いた。

「辻、お前の下宿に行かないか?」

と誘い、辻は気に入らない様子だったが承知した。

「ミッチャン、こいつの分も俺のに付けといてくれな」

 と辻はその女に伝えてその店を出たが、二人は話そうとし無かった。辻の下宿の室に入り電気炬燵に足を入れても、依然と二人は無口のままである…。室内は汚れ乱雑に物が散らばり教科書が何処にあるかも解ら無い状態からして、勉強をしているとは考えられ無かった…、二人はたばこを吸いながら尚も無口でいたが遂に辻が口を開いた。

「浅井、確かに今の俺の生活はなっていないし、受験勉強などやっていない…がお前も浪人中だ、勉強せにゃ行かんのだから俺に構わ無いでくれ!俺もお前の気持ちは良く解るけど…俺は近々下宿屋を変わる予定だが、お前達等には悪いけど住所は知らせないから…、俺は俺なりに…お前頑張れや!中川と油井にもこの件伝えといてくれ…」

 辻は浅井に複雑な気持ちでゆっくりと話したが、浅井は不可解かつ驚いて言った。

「うん、まあ如何話せば良いか頭に浮かば無いが…唯、俺達が今やらんといけない事は明白なんだからな…それに…うん…お前に聞くが、女遊びをしているとの事らしいが、真逆か…あの喫茶店のミッチャンとか言う女か…?」

「まあお前に理解出来無い事だよ。この事は隠しても仕方の無い事だ…確かにあの女だよ」

「やっぱりな、直ぐ気付いたよ…その女と如何な関係なんだ…?」

 辻は笑みを浮かべて

「何を言っとるんだ…浅井お前は少し物事を純朴に考え過ぎるんだよ…!俺あの女と肉体関係にあって、今度同棲するんだよ…お前はカズチャンとか…まあカズチャンの話しは止めよう!済まん…要らぬ事言い掛けて御免」

 辻は照れ臭そうに横目で浅井を見て言った。それにしても、あの高校時代の辻の変遷に浅井は驚愕すると共に、カズチャンの話しを如何に話そうとしたのか?聞きたかった…。辻は平然としてたばこを吸っていた。

「まあ…俺もお前に何も言えねえよ、しかし俺は頑張るから!しかしお前も俺の忠告を忘れるんじゃ無いぞ。それに両親と友人達を忘れるなよ、お前はお前の人生を歩めば良い。しかし後悔するだけだぞ頑張れな!」

「おう解っとる。そう言うお前頑張れよ」

 浅井はそれ以上話す気にもなら無かった。下宿屋を出る時浅井は辻の肩を叩いて言った。

「まあ、何事にも頑張れよ、お互いに努力して頑張ろうな!俺のアパートにも来いよ」

「おう解った。お前頑張れよ!」

 と辻は笑って言った。

 アパートへ帰途中、浅井は辻の余りにも激しい変貌に驚いて心配に成って来た。しかし今の浅井には如何して良いか解らず、今夜直ぐ中川と油井に手紙を書いて辻の現状を知らせようと考えた。二人から数日後返信が来て二人共〝ともかく浅井、受験勉強頑張れ〟と書いてあった。虚栄の空しさの中で、一時の快楽を求めて人生を楽しむ事程、その人間にとって不徳の致すところは無い。

 浅井は受験日迄に二ヶ月半程となり、綿密な計画を考案し最後迄頑張る事を己に誓った。しかし心配なのは辻と、最近何の連絡も無い兵頭であった。


    五


 京都の冬は格別寒い。朝晩の寒さは四方山に囲まれて盆地である為か特に厳しい寒い季節である。こんな寒い日々に夜遅くまで受験勉強をする事は、何か忍耐との戦いの様に思えた。浅井は予備校の授業が終わると、予備校から幾分近くに流れている鴨川の川堤を散歩する事が好きであった。冷たい鴨川の水に加えて、肌寒い風は無情にも浅井の心身を一層冷却した。霜の為に少し濡れている芝生の上に膝を曲げて座り、そこからは京都市を囲む山々が見え、空は紺碧色を呈し、その山々の輪郭を暈かして写していた。果てし無く連続している様な鴨川は冷たい音を立てて流れている〝何と美しい、何と俺を厳しく見詰める風景なんだろう。この山、川、街路樹、芝生…美しい。しかし何と厳しいのだろう〟と浅井は目の焦点を何処に合わせる事も無くしばらく正面を見ていた。〝ああ…何処の大学を受験しようか…〟浅井はぼんやりと思慮していた。浅井の前を若い男女が肩を組み合って笑いながら歩いている。そして大学の運動部員が力強く走って通り過ぎて行った。

 浅井はゆっくりと立ち上がり一息入れて歩き出したが、もう少し志望校に関して徒然なるままに考えたい為に歩いて帰る事にした。アパートに夕方の五時半頃に着くと、二階の五人は全員廊下で立ち話をしていた。

「おう!浅井君、レター来てるよ、彼女からだよ」

 と佐藤が笑いながら言った。

「そうか、嬉しいな」

 と浅井は不恰好に笑ったが、男の友人か両親からの手紙である事は明白であり長生から来た手紙であった。一先ず自室に入ってその手紙を読んだ。長生は帝大の法学部を志望し、将来は外交官に為ると決意を書いて、最後に長生は〝浅井、若い内に己の能力の限界に挑戦するんだ、その限界を知った時、次はその限界を如何に活用するかを考え努力し挑戦するのだ、頑張ろう!〟と浅井を厳しく力付ける様に書いていた。浅井はその最後の文章を何度も読み返して、その真意を考えている時、廊下では昨日発表された総合模試に関して色々話していた。

「浅井君、模試の結果如何だった?」

 と堀内が浅井の室を覗いて呼んで言った。浅井はゆっくりと廊下に出て皆に加わり、

「いや、僕は帝大は合格の確証が無さそうなので、安全策にて次のランクの大学かな…現在は石川大学医学部に決定しつつあるよ」

 と浅井は満面の笑みを浮かべて語った。又堀内は

「僕は上位に成ったよ。だから第一志望を神戸大学の経済学部にするよ」

 と得意気に言った。

「吉田君はすごいじゃないか、トップランクだったね!凄いな!東大か京大合格するね」

 浜田は吉田に向かって嬉しそうに話した。

「ありがとう、浜田君」

 吉田は本当に嬉しそうにお礼を申し上げた。そして浜田は国立一期校岡山大学、山岡と佐藤は慶応大学と早稲田大学を第一志望校にしたらしく、浅井を含めて全員が希望通りに成り嬉しそうに自信満々に語り合った。

 日々はダムの水が流れ落ちる様な速さで無情に過ぎて行き、微かな苦痛を味わいながらも、合格への自信が浅井の頭には常に充満していた。

 そして、三月に入り国立一期校石川大学の受験日がやって来た。

 試験は無事に終了し、浅井は合格の二文字だけを脳裏に焼き付け、京都に寄って一応アパートの部屋を整理して帰省した。合否発表通知が来る迄は、結果を唯々待つだけの日々である。

 浅井はこの様な浪人生活を過ごした日々を振り返っていた。少しでも楽しく充実した浪人生活の人生を送る為には、両親と友人の御助力は当然の事であるが、しかし何と言っても浅井には瞑捜された女〝和ちゃん〟の存在が一番であった。和子を瞑捜する事は反面苦しい事であったが、浅井に平安な光を放ったのである。そして〝瞑捜によって創作した女〟という手記を書き始めた。和子の顔を思い出せ無い為か、夢に見る事は出来無かったな…それには虚しさだけが充満したかもしれないな…その奇怪且つ激しい不可解で孤独な瞑捜の後、浅井は全身に汗をびっしょりかき、ぐったりと俯せに為るのが常であったな…その疲労で虚無感を味わいつつ深い暗闇の中へと入って行ったな…と回顧した。浅井は自分の脳裏に詰め込めた瞑捜された女和子を一つ一つ引っ張り出して、極短編の手記を完成しつつあった。

 高校時代の友人で浪人していた者、そして同じアパートに住んで浪人生活を過ごした同胞達から大学受験の合否の連絡を日々受け取り、長生は東北大学の法学部に合格し既に帰省していた。結果として当然であるが、辻と兵頭は一校も合格出来無かった。そして吉田、堀内、浜田、山岡と佐藤は第一志望大学に合格し喜んでいた。

 浅井が石川大学医学部合格の通知を受け取ったのは、受験日から十日目の日であった。浅井の父は「良かったな!これからがお前の人生の始まりだぞ!」と言葉少無く言った。「はい」と返答して「お父さんありがとうございました」と感謝の礼を言った。

 一方母は無言のまま合格通知書を持って、涙を浮かべながら息子を力一杯に抱き込んだ。浅井は母の耳元に「お母さんありがとうございました」と一言呟いた。すると母の抱き込む力は一段と強くなり、時は少しも止まる事無く過ぎていった。

 其の二日後、中川の提案で、八幡浜市内の居酒屋に於いて、中川、油井、長生そして浅井の四人で合格祝いの宴会が執り行われた。中川と油井が二人を本心から祝福して、又二人は大学生活を楽しく話しつつ、しかし意識して長生と浅井二人の浪人生活に関しては出来るだけ触れない会話をした。浅井は大変楽しく嬉しい会だったと、友人達に感謝の真意を全身全霊にて申し上げた。しかし、この宴会に辻と兵頭の顔を見る事が出来無かった事は、浅井にとって無情の悲しみであった。

 歓喜の宴会は夜中迄執り行われ、浅井は自宅に帰る交通手段が無く為り其の夜は中川の家に泊まる事に成った。四人共多少酔っていたが、相互に抱き合い今後の健闘を誓って惜別した。

 浅井は酔っている状況で、九ヶ月間の浪人生活の心身倦怠感、そして何よりも両親と交わした約束を果たした安堵感に因って、何故か覇気が薄れつつある自分に気付いた。大学入学式迄には、実家で静養して取り戻す事を考えた。

 中川の家迄は、お互いに肩を組み合って少しふらつきながら、お互いに無口のまま歩いて行った。突如、中川が常々口癖である言葉を言った。それは、

「浅井、お前はど田舎の伊方中学校から、八幡浜高校に入学して来たんだから…その頃、俺がお前に色々教えてやったから、今のお前が在るんだぞ…!」

 と、二人は大笑いした。浅井は〝此奴また同じ言葉を言いやがって…〟と思った。

 中川の家に着くなり、お互いに早く眠りたい一心で、口数も少なく為り早々に転寝をした。中川は直ぐに鼾の音を発して眠ってしまった。浅井は中川の顔を見ながら小さい声で心おきなく言った。

「中川、誠にありがとう、感謝してるぞ!」

 と。

 そして、浅井が寝付きに入るなり瞑捜された女が浅井の目の前に映し出されて来た。浅井は本心のままに「和子さんありがとう!…おやすみ」と、一つの言葉を言って瞬時に熟睡した。



    第二章


    一


 北陸トンネルを通過すると、辺り一面は点々と浅雪の白い風景であった。このトンネルを境にして、表日本と裏日本の気候の違いを様々に見せ付けている。浅井は通過と同時に一瞬目を伏せ静かに下を向いた。二等車の座席に腰掛けて、これから始まろうとする大学生活に希望を抱いていた。列車は多少混雑して、高校生の人数も多く、乗客者は浅井にとって聞き馴れない言葉を使って何かを話していた。

 金沢駅に着いたのは昼の一時過ぎであった。直ぐ駅の案内所に行き、大学から送られて来た下宿先の紹介状にある住所へ如何に行けば良いのかを尋ねた。案内所には同じ石川大学新入生らしい者が、数人大きいバッグを持って目をきょろきょろさせて立っている。案内所の女性は浅井と同年齢程で、幾分加賀美人的な女であったが、語尾に付ける金沢特有の〝ケ〟とか〝ジ〟という発音が妙に浅井の耳を擽った。しかし非常に親切に案内して頂いた事に、浅井は感心して満足感を感じた。浅井は案内人に教わった通りに、駅前から小立野行きのバスに乗り石川大学病院前で下車した。丁度バス停前には、浅井が二年後に来る筈の医学部と大学附属病院がある。通行人に道を尋ねながら、馴れた住人なら十分余りで行く所を、紹介してもらった下宿屋にその三倍程の時間を要して到着した。

 その家は豪邸で広い庭と外観も新しい家で、浅井は驚いて非常に満足した。入口のベルを鳴らすと、直ぐその家の住人が〝はぁ〜い何方でしょう〟と出て来た。年齢三十五歳程で背が高く可愛い奥さんを見て浅井は少し戸惑った。一瞬にしてその奥さんは浅井が何の様な人なのか解ったのであろうか笑みを浮かべ、本当に性格の明るい善良な女性心を懐いて対応をした。浅井は咄嗟に〝和子もこの奥様の様な女性だ〟と瞑捜しつつ言った。

「僕、今度石川大学に入学して、お宅を大学の方から紹介してもらった浅井と申します。何卒宜しくお願い致します」

 と浅井は毅然たる態度と口調で話していると、奥の方から五、六歳程の男の子が出て来て、奥様に縋り付いて甘えている。

「いいえ…こちらこそ宜しく…何卒上がって下さい。実は二階なんですよ。二日前に机などが着いて二階の室に置いていますから…浅井さんだったかしら…?出身は愛媛県でしたね?」

「はい、そうです」

「又、遠い所から金沢に来ましたのね」

「ええ…まあ…」

「何学部なんですか?」

「医学部です」

「ああ…そうなの、石川大学の医学部は良いですからね…私は教育学部出身ですよ…主人は医学部を卒業して僻地で開業医をしているんです、それでこの家に帰るのは月に二度程なので、用心棒の為に下宿人を二人置いているんです。実家は医師なの?」

「いいえ、父は教員で今中学校の校長をしております。尚母も曾ては小学校の教師をしておりました」

「そうなんですか…お母様は私と一緒ですね…」

 本当に魅力的な顔をした奥さんの話す姿に、浅井は嬉しく為ってちらりと奥さんを見詰めた。室に案内されると、そこは六畳の間で既に着いていた荷物が隅にきちんと置かれて、南向きに窓が在り明るく見晴らしの良い室である。

「暖かい愛媛県からだと金沢は寒いでしょう?」

「いいえ、それ程変わりませんが、雪は凄いんでしょうね…」

「ええ、真冬になると1mから2m程積もりますよ」

「へえ…凄いですね!僕の故郷は最大2~3㎝も積もりませんよ…ハハハ…」

 浅井は奥さんと話していると親しみを感じ、奥さんの可愛らしさが一段と増すようだった。子供は尚も母親に甘えている。

「ぼく、これから宜しくお願いしますね」

 と浅井が笑って話し掛けると、子供は恥ずかしがって奥さんの後方に隠れた。

「春彦っていうんですよ。春ちゃん挨拶しなさい…悪戯っ子ですからね…」

 奥さんは笑って子供を浅井の前に出させようとしたが、子供はしっかりと母に縋り付いて「いや」と声を発した。少し話して奥さんと子供は一階に降りて行った。浅井は緊張から解放され畳の上に腰を据えて、良い下宿屋に巡り合った満足感で一杯であった。一階では時々電話のベルが鳴り、奥さんが朗らかに話す声が家中に響いていた。

 一応荷物が片付いたのは七時頃であった。幾分急いで片付けたが、途中下宿の長男で小学校三年生の子供が浅井の室に入り何かと珍しそうに見渡し、浅井に色々と特に愛媛県の事を詳細に質問してきた。奥さんに近くの食堂を尋ねて夕食を食べに行き、帰りに雑貨物を買って下宿屋に帰宅すると、奥から奥さんが出て来て笑いながら言った。

「ああ、お帰りなさい。ちょっと疲れているでしょうが、主人が帰って居ますので…何かお話があるそうですよ」

「ああ、そうですか、それじゃ上がらせて頂きます」

 浅井は一番奥に有る応接間に案内されると、少し小柄であるが太めの体格で、色白の御主人がソファーに腰を据えてたばこを吸っていた。

「やぁ、どうぞ座りなさい、疲れたかね?」

 と主人が落ち着いた態度で浅井に言った。

「ええ…少し…あの、浅井と申します。何卒宜しくお願い致します。先生は石川大学医学部の先輩ですね…色々御教示下さい。お願い致します」

 浅井は丁寧に挨拶をして、主人の正面に腰掛けた。主人は石川大学医学部に関して、多種多様に説明した後、

「私は仕事上家を空ける日が多く、家には妻と小さい子供二人だけなので、留守番と用心棒変わりに居て欲しいんだよ」

 と説明された。奥さんがお茶とお菓子を持って来た時、二人の子供も応接間に入って来て父親の両側に座り、そして奥さんは浅井が座っているソファーの端に座った。浅井は〝用心棒には自信あります〟と言いたかったが…発言しなかった。

 暫く浅井は自分の浪人生活の事、そして趣味は野球で大学でも野球部に入部する事、又「酒も大好きです」と話すと、主人も「酒は好きだから何時か一緒に飲もう」などと、予想以上に長時間楽しく語り合って二階に上がった。直ぐ銭湯に行き、帰って来ると疲れが押し寄せて来たが、両親と友人達に手紙を書いた。それには良い下宿屋が見つかったと書き、特に友人達には〝奥様は容姿端麗で美人というよりは可愛い…あたかも俺の和子の様な女性だ〟と付け加えた。入学式の前日浅井の隣り室に、医学部附属放射線技師科の学生が入室した。               

 そして明日は石川大学の入学式である。


    二


 大学教養課程の授業が始まった頃、浅井は誰一人も知人の居無い幾分淋しい毎日であったが、何かに付けて初めての事象ばかりの新しい人生であった為か、その淋しさも消え失せる様だった。金沢市の中心に在る金沢城の跡地に石川大学の本部、教養課程部と文系の学部が有って、春には桜に囲われた美しい白い城門を通って大学校舎に入るのである。その白い城門を出ると国道を横切る陸橋が在り、兼六公園と直結している。浅井はその公園を散歩しながら大学に登下校し、その兼六公園を通過する時の気分は此の上無い喜びであった。

 百万石の城下町を今にも思い起こさせる様な白い城門、堀、桜の木、そして陸橋を渡ると、池と白鳥、殿様の優雅な生活を思い起こさせる煌びやかな庭、美しい松、石によって創作された兼六公園は、浅井を大いに感動させ豊満な心にさせた。

 不馴れな大学生活を過ごしている間に、同級会がありそして友人も数人ずつ出来てきた。浅井と同じ野球部の野上と田中、合唱部の上田、田森、岡諸、そして大阪出身の音楽家増田、そして立花などである。特に浅井が京都のアパートで浪人生活をしていた時、その近くに下宿し浅井と同じ予備校で浪人生活をしていた酒好きの立花は、頻繁に浅井の下宿屋に来て酒を飲み彼の得意な人生論を語り合った。

 大学に入学して、授業や野球練習そして友人との遊びや酒の飲み会と何かと落ち着か無い日々を送っている頃、余り和子の事を瞑捜に耽る事は無かったが、一応大学生として身に付いた五月下旬から六月頃より、恰もダムの水が溢れ出るように浅井の頭に浮かんで来た。長かった苦しみの中で何かの一片の安らぎを見付けたかの様に…。しかしそれは以前の瞑捜に〝如何すれば和子を見付け出せるだろう…?必ず見付け出すぞ〟という決心は、戦場で負傷した戦士が死に際に掛ける叫びの様な声が付け加わっていた。

 浅井は石川大学医学部野球部に入部して、投手と三塁手、そして野上は捕手の要と成り、又田中は強打者の外野手として一年生から活躍した。新潟大学医学部野球部そして岐阜大学医学部野球部との定期戦、金沢市そして石川県地区大会、北信越大会、又大学祭等々慌ただしい日々を過しもう夏休みも間近になった。入学以来、何も充実した事は出来なかったが、クラブ活動と友人達と遊んだり、そして金沢市や石川県内を散策して楽しい日々を過した様な心情であった。

 二ヶ月間程の夏休みを如何に過ごそうかと計画していた。野球部合宿前の二〜三週間は、鉄工所で筋肉強化と遠征費用を蓄える目的にアルバイトをして合宿に臨み、その後西日本医学部体育大会などで約一ヶ月間野球主体の日々である。残る三週間は旅行でもしようか、それとも帰省して中高時代の友人達と遊ぼうか…などと計画しつつ、勉強もしなくてはならないなと考えていると楽しく為って来た。

 こんな日々の土曜日、昼前から久し振りに雨が降って野球の練習は中止に成った。一週間程暑い日が続き幾分涼しく感じた。土曜日の最後の英語の授業が終わり、浅井、立花、野上と上田の四人は安いウイスキー二本と日本酒一升、果物と鯣烏賊などを買って浅井の下宿屋に行った。それは立花の提案であったが、浅井も望んでいた事である。「二級酒は美味しく無いから一級酒にしたぞ」と如何にも酒通であるかの様に、立花はそれを持って四人揃って浅井の下宿屋に着いたが、下宿屋は鍵が掛かっていた。「さあ飲もうぜ」とお互いにウイスキーを注ぎ合って、〝カチン〟という鋭い響きを残して「乾杯」と発声し飲み始めた。今日の英語の講義で、大場教授の独特で大変面白い授業の話題から話し始めた。

「大場教授の授業は他の教授と違って良いな!価値あるよ!唯英語の教科書を、機械的に訳すだけなら俺達自分で出来るし訳本でも買えば充分だろうが、例えばGoodについての意味の解釈などの説明良かったな!」

「確かにな…それにしてもまあ…大場教授の頭はつるつるだな」

「大場さんも若い頃は、女郎遊びに行ったんだろうか?あんなに女郎屋を知っているとはな!」

「多分行っただろう、大場さん達の学生時代は女郎は法的に認められていたんだろう?」

「そうだろう…」

 四人は各々笑いながら話した。その後瞬時無言のまま、ウイスキーと日本酒を飲み交わしていた。その時、野上が浅井の机の上にあった、浅井が浪人時代に乱雑且つ走り書きした〝瞑捜によって創作した女〟の手記を見付けた。昨日浅井は久し振りにその手記を読み、本箱に仕舞うのを忘れ机の上に置いていたのである。

「浅井、これ読んでも宜しいか?」

 浅井は恰も狂犬に追われているかの様に言った。

「駄目だ!駄目だ!野上駄目だぞ!」

 と野上からその手記を激しく取り上げて本箱の中に隠す様に入れた。他の者は浅井の余りにも興奮して言った事に少し驚いた様子で、じっと浅井を見詰めていると少し身を震わせているのに気付いた。

「何故だ!変だぞ!何か読ませたく無い事でも書いているのか?秘密は作ら無い方が善いぞ、友達じゃないか!」

 と上田が反抗的に言った。

「いや、何もお前達に秘密を隠す訳では無いが…今は読ませたく無いんだ、解ってくれ!まあね、唯俺が浪人中に書いた文章なんだ、気にしないでくれ!さあ飲もうぜ…」

 と、弁解する様に三人にウイスキーを勧めた。三人は何か浅井を疑っている様子であったが、しかしそれ以上問い詰めようとし無かった。浅井はあの手記に書いている痴人的な文章を他人に読ませたく無かったし、あれは俺一人の世界であると思い決めていた。

 その後、医師の在り方や学生運動などに話は転じたが、浅井は急に黙り込み…あの浪人時代の和子を瞑捜する己を思い出して一人でに淋しく為った。ちっぽけな人生の中で、一時期の焦燥が浅井を包む様だった。立花は旨そうにウイスキーと日本酒を交互に飲みながら話した。

「ところで…お前ら将来何の様な医者に為ろうと思っているんだ?俺の場合は、親父が開業医だし、後継ぎしなければ成らないからな…まあ金を蓄えて、それで何か一つやらかそうかな…権力者にでも…」

 と如何にも自分の将来に自信ありそうに語った。

「俺も立花と同じ境遇だな…まあ立花に負け無い様な男、医師に為ってやるよ!」

 と上田がたばこを歯で銜えて、如何にも貫禄有る様な気分で立花の方を向いて笑った。

 野上は口数が少なく、他の者が話すのを静かに聞きながら「俺はまだはっきり解ら無い」と一口言った。野上が言い終わるや否や浅井は三人に必然的に口を開いた。

「確かに権力者になる為には、金は必ず必要だろうな、この現世ではな…金を貯える為に医師に成ったのでは、医は仁術なりと言う言葉はある面無価値だろうな。医師の倫理は相手が人間だけに非常に難しいし…今は俺もはっきり解ら無い。俺は少し理想的かもしれないが、俺の生活を保証出来る程の金は必要だけど、夢物語だけど、名誉ある医師、例えば医学者に為りたいね。もちろん今の俺は頭も良く無いし、その上努力家でも無いから絶望的だけど…ハハハ…」

「いや浅井の性格も発言も、実に常識的で美的に思われるが、俺から見て実践不可能な事を言うとるな!考えて見てみ…例えば教授と開業医をな、実際教授は名誉も有り医学的実力者かもしれない、しかし本当に医術を己のままに適用出来、多くの患者を診るのは何方かとね…俺は飽く迄も正当に診療をしたいな!それにこの現世で金の力が何れ程強力な物か明らかだろう!人間は金の力で動かされるんだ。女も金で買える。しかし貧しき人々、公共的に金を使うのも立派だと思うな…」

 立花は大きな体を前へ差し出して、大きい目を一杯に開けて浅井に言った。浅井は立花の力強く思われる将来の人生目標に感心しながら、立花の方を向いて見ていた。

「確かに立花の言う事は解るな。だから医師は飽く迄も医師なんだ、まあ俺もこれからじっくりと考えなきゃな…」

「まあ、浅井が何の様な医師に成るか二十年後が楽しみだよ。現実は厳しいぞ…」

 〝立花は確かに堅実な考えを持っているが、彼には精神的な安らぎが無いだろうな、それがもし有ったとしても、無理にそう思っているだけだろう。世間に多い現実的に金だけを使って権力者に成り、裕福な生活と人生を送ろうとする者は、必ずやその為に苦しむだろう。如何だろう…俺の方こそ立花の将来の姿を見たいよ…〟と浅井は一人考えていた。一瞬沈黙が続いたが、上田はたばこを吸って、ぷかぷか煙を吹き出し側臥位になって寛いでいた。

「浅井、あのノート見せろよ!お前が隠そうとするから猶見たく為るんだ!な…?」

 と立花は野上に合図した。浅井は浪人時代あの京都のアパートでも同じ様な事象があり、あの時も同じ様に戸惑った事を思い出した。

 その時、ガラッと玄関の開く音がして、奥さんが帰宅したのである。

「浅井さんかしら…電話有りませんでした?」

 と一階から奥さんが叫んだ。浅井は直ぐ室を出て答えた。

「ええ、僕が帰宅してからは有りませんでした」

「ああ、そうですか…今日はお友達とお酒飲んでるの…?」

 と奥さんは笑いながら言った。

「ええ…悪友達と飲んでいるんです。久し振りですよハハハ」

 浅井は両手で顔を隠す様に笑って室に入ると、三人の円陣の真中にあの手記が置かれていた。

 浅井が咄嗟に語ろうとしたが、立花が笑いながら先に言った。

「ここの奥様可愛いな!御主人は楽しい事だな…!」

 浅井は嬉しく思った。

「浅井、この手記見るぞ、善いだろう!」

 と上田が再度要求したが、何故か浅井は不安な気持ちの中で見せようと思った。しかし〝こいつら本当に内容を理解出来るだろうか…軽薄に受け取りはしないだろうか…〟と熟慮した。その時、浅井は三人の顔を鋭い目で見詰めながら強く発言した。

「お前ら、今恋していない様だけど、それなりに女に恋した事はあるだろう?こんな場合…うん…初恋の人を何時迄も忘れる事が出来ず、瞑捜に耽ってその女性を自分の理想の女性に創作し、その女性を何時迄も忘れられ無い場合如何思う?」

 浅井は身を乗り出して三人に問い掛けた。三人共不思議そうな顔をして聞いていた。

「それを浅井は今しているんだろう?」

 と上田が疑う気持ちも無く発言して、浅井は何かに頭を打たれた様に緊張した。

「上田の奴…実際その通りなんだ。まあ、俺も真剣にそして強烈に書いているから好い加減に読むなよ!」

 と浅井は話して上田に手記を渡した。立花と野上は上田の周囲に寄り添って三人は読み始めた。〝カズチャン好き愛してる…〟などと小声で上田が読み出したので、浅井は気不味く為りポットを持って一階の台所へ降りて行った。両下肢は少しふらふらしていたが、〝あいつら今何処ら辺を読んでいるだろうか…?そして如何感じているだろう〟と少し心配しながら浅井はお湯を沸かしていた。じっとそのガスの火を見ていると、今まで集積した浅井の人生が儚く焼かれている様に思われた。

 玄関を出て降りしきる雨音を静かに聞いていた。北陸特有の大粒の雨が、この大地を水で征服するかの様に降っていた。数分後に浅井は台所に行くと奥さんが居た。

「浅井さんはお酒が好きですね…善い顔色に為っていますよ…」

「そうですか…」

 と浅井は笑った。それに連れて奥さんも大笑いした。

「又立花さん来てるんでしょうね、立花さんもお酒好きですね…体格も良いしお酒強いでしょうね…若い人は自由に遊べて、お酒も自由に飲めて善いですね!」

「ええ、ありがとうございます」

 浅井は重い気分でポットにお湯を注いで二階に上がろうとした。

「奥さん、どうもありがとうございました」

 と浅井は丁寧にお礼を言った。

 浅井は故意に階段を強く踏んで足音を立て、今自分が二階に向かっている事を三人に知らせようとした。彼らは如何感想の言葉を言うだろうか…と浅井は猶も心配であった。室に入ると三人は頭を寄せ合って静まり返っていた。

「お前ら紅茶でも飲まないか?」

 と浅井は三人に話し掛けたが、三人は浅井の方に振り向きもせず「要ら無い」と答えた。その時上田が浅井の方を向いて言った。

「浅井サンキュー」

 浅井は三人が何の様な感想を述べるか想像していた。

「浅井って本当に純粋な人間なのかな…?理想家かな…一つの事に没頭する人間かな…しかしお前浪人中サロンとかバーへ行って、ホステスと遊んだりして…真実のお前は如何かな…?」

 と上田が浅井の心を理解出来無い素振りをした。

「実際、俺も自分が解ら無い、俺の心理をね、しかし彼女らと遊んだのは、多分和子に対する反動だと今思っているよ…」

「強烈な瞑捜だな、信じ難い程にな」

 と立花が言い終わるや否や野上が言った。

「橋本和子って本当に実在したのか?」

「おう、その手記の初めに書いている通りなんだ…信じられ無いのが当然だろうな」

「しかしお前もお前だな…一人の女性に…」

 と上田が微かに笑いながら言った。〝あ…あ!彼らも俺の心情を理解出来無いんだな〟と浅井は多少落胆した。

「浅井、もっと現実的に為れよ!お前の感情は解るが、実際こんな事に没頭して何に成る。この手記の様に苦しむだけだと思うぞ、こんな事に拘らずもっと大きい人間に為れよ」

 と立花が力強く言った。浅井はそれに対して答える事も無く心の中で思慮した。〝そうか、俺は俺なりの人生がある!立花は何を思って小さい人生と言ったのか解ら無いが良かろう。これは俺自身の事だから…俺は理想を立てそして実践して行くぞ…〟と浅井は一心不乱に思いつつ手記を取り上げ本箱の中に入れた。

 浅井は三人の友達が帰ってから、一人で残ったウイスキーを飲みながら〝創作した和子〟を瞑捜した。恰も、戦場で兵士が如何生き抜こうかと考える様に…。ああ…!到頭俺のこの瞑捜を理解出来たのは、中川とそして山岡だけか…と考えると、その二人に手紙を書きたくなった。二人に全く同じ文章を書き、最後に次の様に付け加えた。〝俺はどうも痴人的愛の瞑捜に因って、己を殺しそうだ〟と。


    三


 前期試験が終わった十月頃に成ると、大学に行っても同級生は幾分のんびりした雰囲気であった。良く晴れた日、数学とドイツ語の教科書を持参し、晴れ上がった秋空の太陽の日光を一杯に受けて大学の教養部校舎に登校した。教室に入ると、窓際に浅井と親しい数人の者達が笑い声を混じえて話していた。その中に居る立花が、先ず浅井に気付き「オッス」と言って少しだけ頭を下げた。すると略全員が浅井の方に目を向け、お互いに笑いによって挨拶を交わした。教室では数ヶ所に別れて各自太陽光線を浴びて話し合っているが、現状では中心的話題を持ち出している岡諸が楽しそうに言った。

「浅井、今皆と相談して話していたんだけどな…今度石川女子大学のダンス部から、俺達にそのパートナーとして参加して欲しいと、俺の知人を通して申し込んで来たんだ。俺達もダンスなど習う機会なんて無いじゃない、これはダンスを覚える絶好のチャンスだし行こうか?皆行くと決まったんだけど」

「ほう、そりゃ善いね。皆参加するんだったら俺も喜んで参加するよ!」

 岡諸のグループの者達は全員同意していた。

「ダンスも習って、女子大に可愛い子居れば恋人にするか」

 と上田はたばこを歯で噛んで言った後全員大笑いをした。

 浅井は如何見てもダンスなどする様な柄では無いが、楽しく嬉しい気持ちであった。その話があって、次の日曜日はダンスに関して最初の懇談会が執り行われた。浅井の同僚達は申し合わせた通り普段着とは変貌し、背広を着用の上ネクタイもぎこちなく締めて出席した。石川女子大学の構内に在る四階建ての会館の入口を入ると、女子大学の女性達は既に二階の会場の準備を済ませて、四人が一階の入口で男子学生の応対をしていた。

「いらっしゃいませ、靴は此処に置いて、スリッパに履き替えて二階に上がって下さいね」

 と女学生が案内していた。浅井達はぞろぞろと会場に入ると、室内一杯に略円形に長い机を並べて椅子も用意され、その机の上にお茶とお菓子が置かれてあり、浅井は立花と道上に挟まれて座った。男性は浅井のグループの他に、石川大学工学部と法学部の学生も参加して二十名程居た。浅井達は自由勝手に会話をしていると女子大生二十人程が男子学生の対面に着席して、ダンス部部長の挨拶後ダンス教師の女性が紹介され手短に自己紹介をした。

 浅井は前に座っている女子大生一人一人を見詰めて、好みの女性を探索していた。色取り取りの服を着て何か澄ましている女性達、それに略同人数の背広を着た男性達の風情は何か異様に子供染みて見えた。その女性の中で幾分肌色は極めて白くは無いが、目の大きい髪を長くした、薄い青色のワンピースが似合っている女性が浅井の目に飛び込んで来た。その女学生の澄んだ目が、取り分け浅井の方を見詰めている様に思ってしまった。常々浅井は自分の好みの女性に会うと、この女性が〝和子〟ではないかと一瞬の間想像するのである。しかしその女性は外観の雰囲気の点で和子とは違っている様に思われ、その想像は無下に数十秒間続いただけだった。浅井はその女性の頭から足先までを鋭く見詰めていた時、その女性は浅井の様相に気付いてか少し下を向き、浅井はその時嬉しく思った。既にダンスの運営方法に関しての説明が終わった後、溝口は質問をしながら冗談を言って皆を笑わせていたが、暫くして初めに挨拶をした女性が言った。

「では皆さんに、変わった方法で自己紹介をしてもらいます。ここにある用紙を渡しますから、これに自分の事を書いて下さい。それを男性の文は女性に、そして女性の文は男性に配って、それらが当たった人に読んで頂きます」

 用紙が配られて、浅井は真面目に出身地、大学学部、趣味などを書き、そして浅井は若宮照子という女性の用紙を受け取り、一人一人順番に読んでいくと其の都度笑いが起こった。道上が終わり浅井の順番に成ると、浅井は照れながら立ち上がり

「では若宮照子さん立って下さい」

と全体を見渡しながら話すと、驚いた事に先刻迄浅井が見詰めていた女性である。〝ふうん…若宮ってのか〟と和子では無かった事に少し失望したがしかし本当に嬉しく思った。

「では読みます。名前若宮照子、出身は福井市郊外です。趣味はお琴です。学部は英文科ですが英語は余り出来ません。性格は内気な面と積極的な面が混合しています。今ボーイフレンド募集中です、だそうです。以上」

 浅井が読み終わると、溝口が「俺、彼氏として立候補しよう、若宮さん可愛いね…」と大声で言ったのには、全員大笑いした。浅井は額に僅かに汗をかいて、気持ちは落ち着いて無かったが嬉しくて有頂天に為った。猶も続く自己紹介を如何にも聞いている様だったが本気では無く、皆が笑えば笑うし、静かにしていれば静かにし、真意は若宮とかいう女性で充満し、時々その女性と目が合うと、常に女性は目を伏せて下を向くのであった。


    四


 石川女子大学主催のダンス会の懇談会の次の週から、早速ダンスの練習が始まり、常々浅井達は可能な限り集団になって会場に行った。行く途中には、あの女はこうだ、あの女はああだと話しながら行ったが、仲間達は取り分けて若宮について話さなかった事に、浅井は安心し嬉しく思い、浅井も若宮に関して何も話そうとし無かった。浅井達はダンスを踊る事など初めてなので、基本練習から始められ若宮と直接接触する機会は無かったが、横目で見たりして常に若宮を注意深く見詰め観察していた。しかし若宮は浅井に特別関心がある様な態度は見せず、それでも浅井はダンスの練習日を楽しみにして欠席もせず毎回練習に参加した。

 基本練習も終わり、浅井も一応皆と同等程に成りつつあったが、男性の中では下手な者の略先頭であった。ダンスを初めて三週間程過ぎた木曜日、何時もと変わり無く浅井達グループは会場に行った。浅井は野球部の練習が長引いた為、少し遅れて野上と二人で会館に入ったが、二階では笑い声に混じって、レコードの音、履物の音が複雑に混合して聞こえた。丁度若宮が手洗所に行って、ハンカチで手を拭きながら二階に上がろうとしていた時、浅井達の靴の音で、若宮は二人に気付いて後ろを振り向いて微笑んだ。浅井は若宮を眺めて、身長は1m55㎝程で容姿端麗で、特に白い歯は雪の様に美しいと思った。

「やあ!今日は遅くなって、皆来てますね」

 と無意識に浅井は若宮に語ると

「ええ、浅井さんと野上さん遅刻ですよ…」

「うん、そうですね、済みません。今日野球の練習があって遅く成り御免ね…えらい二階は騒がしいですね」

「ええ、今日から本格的なダンスなんですよ、頑張りましょうね!」

 若宮は笑顔を見せて話すと同時に、浅井は上履きに履き替え若宮に近づいて、二人が肩を並べ二階に上がる姿を、野上は拍子抜けした様相で見詰めていた。ダンス会場に入ると、女性と男性がペアに成り踊っていて、笑い声と音楽の音でうるさく感じる程であった。

「やぁ、浅井達遅いじゃないか、野球長引いたのか?お前は下手なんだから…早く準備して練習せえよ!」

 と立花が女性と組んで顔だけ浅井の方に向けて大声で話した時、教師は辺りを見渡しながら言った。

「君達今来たんですね。今日から本格的なレッスンをしているんです。簡単ですからね、ええと、君達のペアは…若宮さん、それから山本さん、今空いてたらこちらに来て、このお二人の相手に成って教えてあげなさい」

 言い終わらない間に浅井は嬉しく成ったが、汗ばんだ手で女性の手を握る事は失礼だと思い、その汗をズボンで拭いて、野上に構わずすたすたと若宮の方に行ってペアに成る様切願した。

「宜しく!僕は下手ですから、上手にご指導お願いしますよ、優しくね!」

 と浅井は若宮の顔を見ながら笑って真剣に言った。

「いいえ、お互い様ですよ、頑張りましょうね、じゃ始めましょうか…」

 と若宮は話して、浅井の方に手を差し出した。

「ありがとうございます」

と浅井は妙に御礼を申し上げると若宮は笑って、そして真剣にダンスを教える若宮を、浅井は本当に可愛らしいと思った。

「手の握り方はこうするんですよ、それからもう一方の手は私の腰の辺りを押さえて、例えばあんな風にね」

 と隣のペアを見習う様に指示した。〝何と冷たい手なんだろう…何と軟らかい手なんだろう〟と浅井はそう思いつついじらしく手を握った。

「じゃ次に、右足を前に出して、そう、それから左足を斜め前に出して…」

 と一つ一つ若宮は丁寧に説明指導し、時々目と目が合う、体と体が触れる、浅井は全身が暖かく成るのを感じつつ、若宮の教授を聞いて実行した。そして若宮の全てを凝視しながら、色々と連想しつつダンスを習っている浅井を、他人が見れば滑稽に見えただろう…。

 その日は休憩時間も含めると、三十分程度若宮とペアを組んだが殆どダンスの話をした。帰途中仲間達は女性達について夢中に話していた。野上は浅井が若宮に関心を懐いている事に気付いたのであろうか、頻りに若宮の話を浅井にした。浅井は平然としていたが、

「俺、若宮さんを好きだ、恋してるぞ…」

 と一言野上に話した。

 下宿屋に着いてからも暫く若宮の事が頭から離れなかった。〝ああ、如何すれば恋人に為れるだろうか…何の様なタイミングで如何に語ったら良いのだろう…〟と思案に耽った。その日は珍しく和子の事を忘れて、若宮の事だけを思慕して浅井は寝てしまった。

 そんな日々を過ごしていると、浅井達のグループの道上が小柄で可愛い西谷を好きだという事実が明るみに出た。浅井達が会場に行く途中、常々皆が道上を冷やかしていた。浅井も若宮と如何にしてでも相思相愛の恋人に為りたいという希望が募って来た或日、上田を誘って兼六公園へ散歩に行った。

「上田、他の者には成る可く黙っててくれな…、お前あのダンスのな若宮っていう女性いるだろう、あの女性を何の様に思う…?」

 上田は拍子抜けした様な素振りで浅井の顔を観ながら話した。

「お前若宮さん好きなんだろう!まああの女性に対して如何も思わ無いが、可愛いし善い女性だと思うよ。井上なんか良い容姿してるなと言ってたぞ…ハハハ…」

「そうか、確かに俺、若宮さんに恋してるよ!そこでな、彼女を誘ってみようと思ってるんだ、次回のダンス練習日にな…」

「ほう、そりゃ善いじゃないか、積極的にやるんだな、男ならドンと、しかし和子さんは如何するんだ…?」

「それは、上田、別問題だぞ…」

 上田は皮肉って笑ったが、浅井はそれ程気になら無かった。相変わらず兼六公園は人が多く、新婚らしい男と女が手と腕を組み合って浅井達の前を通り過ぎた。


    五


 十一月初旬頃に為ると、金沢は雨降りの日が多く、或土曜日は昼過ぎ迄大雨が降り午後からの野球練習は中止に為り、いつもと同じ様に浅井達はダンス会場に行った。頻繁に上田が浅井の横に来て「浅井頑張れよ」と言ったが、浅井の内心は不安な気持ちで充満していた。若宮は何時もと変わり無く、浅井は若宮を見る度に一層可愛い女性と思い、浅井は成る可く若宮とペアを組める様に配慮しながらダンスを習っていたが相変わらず下手であった。その時教師の女性が大きな声で言った。

「では皆さん、これから半分の人は休んでいて下さい、残りの人は充分に場所が有りますから、力一杯に練習して下さい」

 と全員がダンスをしている真中から二つのグループに分け、幸いに若宮も浅井も初め休む組に入った。立花が如何にも上手に成って、軽やかにステップを踏んでいた。又溝口は1m80cm程ある男なのに、ペアの女性は小さく何となく踊りにくい顔をして、浅井達の方を向いて笑っていた。〝ああ何時そして如何言うべきか〟を一人考えていた。窓から見える景色は素晴らしく、こんなに空は晴れているのに浅井は何故か淋しそうであった。それは何か無しに心の不安から生じる現象であるのだろうか…。浅井が無意識に横を向くと、若宮は一人で自分のバッグを開けて何かを捜している様子である。浅井はこの時だと許りに、レコードの音も笑い声も耳に入らず若宮に近付いて行くと、若宮はそれに気付いて慌ててバッグを閉め、きょとんとした顔付きで若宮の横に座った浅井を見た。

「若宮さん、今日ダンス終わったら暇ですか?もし時間があれば付き合って頂けませんか?」

 浅井は直立不動の格好で一気に話し、そして若宮は浅井のその可笑しい雰囲気を感じつつ言った。

「ええ…暇は暇なんですけど…」

 と言い終わらない内に浅井は話した。

「じゃ!ダンス終わったら付き合って下さいね、お願いします」

 と浅井は強制的に言った。若宮は突然の要求に驚いている様子だったが、微かな笑いを浮かべて言った。

「ええ…え…良いわ…」

「ありがとう、サンキュー!じゃね、ダンス終わったら僕会館入口の横端辺りで待ってますから!」

 と浅井はその言葉を言い残して、休んでいる組の道上と井上の所へ行った。組が反対に成って、浅井達がダンスを練習する番に成ると、浅井は直ぐ若宮に「パートナーお願いします」と頭を下げながら若宮に切願して楽しく嬉しくダンスを踊った。若宮は何時もと身振りは同じであったが、笑顔が多くそして浅井の方を見詰めて一層指導を優しくする様に為った。ダンス練習は六時頃に終わり、浅井は同僚達に理由を話して一人で早々に会館入口の横でたばこを吸いながら若宮を待っていた。上田と野上が笑い顔を浮かべて浅井に合図した。屋外は薄暗く、夜空には星が疎らに輝き、また微かに聞こえる虫の声が異様であった。

 十分程待ったであろうか、女性達が階段を降りて来る足音が聞こえて来た。すると若宮は入口から出るなり駆け足で浅井に近づいて来て、又浅井も若宮の方に早足で向かい、そして合して若宮は笑顔で言った。

「浅井さん…お待たせしました、御免ね…」

「いいえ、とんでも無い…ありがとう!」

 二人は実に簡単な会話を交わして、肩を並べて歩き出し、浅井は何を話そうかと迷ったが…、一先ずダンスに関して話し出した。

「僕はダンス下手だろう…?どうもこんな事は苦手でね、しかし楽しいね!」

「いいえ、浅井さんそんなに下手でもないわよ…普通ですね…ウフフ…」

 若宮は初めて笑い声を発した。

「いや下手ですよ…しかし早くマスターして上手に成らないと、貴女の足を踏んだりご迷惑ばかりお掛けしているからね」

 と浅井も多少大声で笑って冗談混じりに話した。その時二人はお互いに顔を向け合い〝可愛い〟と浅井は心の中で若宮を思いつつ幸せを感じた。

「何処か喫茶店に行こうか?」

「ええ、良いわ、何処へ…?」

「そうだな、此処から近い公園下に有る喫茶エルに行こうか?」

「はい…」

 浅井は若宮の方に顔を向け、嬉しくそして幸せを感じて満面の笑顔で微笑んだ。十分程歩いた所に店が在り、そこは奥の方に一組の男女が居るだけでがらんと空いていた。二人は同じ紅茶を注文し、それから浅井は手拭きで汗ばんだ顔を力一杯拭いた。その浅井の行為を若宮は観察して笑い、若宮は上品に美しいあの冷たい手を一指づつ親指から拭いていた。浅井はその間如何に話題を作ろうかと思案していたが、そうすればする程に頭が困惑する様に為ると思いつつ…。

「若宮さんは、英文科だったね? どんな事勉強してるの?もう英語話せる?」

 と浅井が口を開いた時、ウェイトレスが紅茶を持って来た。

「いや、全然まだ話せ無いんですよ」

 浅井は笑った。

「そう、矢張り会話は難しいね、僕も英会話は上手く無いんですよ…How are you. くらいなら話せるね」

二人は大笑いしていると

「私もI am fine thank you. くらいなら話せますよ、ウッフフ…」

 と若宮は白い歯を見せて、浅井の方を見詰めて笑った。浅井は薄暗い赤色のシャンデリアの光で若宮を見詰めると〝可愛い〟と心の中で何度も繰り返した。

「浅井さんは確か愛媛県出身だったでしょう?金沢は如何ですか?寒いでしょう」

 と一口紅茶を飲んで浅井を見た。〝可愛い、美しい〟と浅井は思いつつ言った。

「ええ、そうだな、皆そう言うんだけど、寒さはそれ程変わりませんよ。唯、雪が凄いんでしょう。1mも2mも積もる雪なんて想像付か無いし、見るのを楽しみにしてるんだけど…」

「そうね愛媛だと少ないでしょうね。金沢は酷いですよ。私は地元でしょう、もう雪は嫌いに為りました…」

 始終お互いに笑い顔を見せ合って話した。

「僕京都に一年間、二ヶ月半は立同大学工学部に、そして九ヶ月は浪人生活でした。京都は美しい古都であったけど寒かったですよ。冬はもう毎朝鉄管が凍り掛けてね…」

 若宮は一瞬大きい目を浅井に向けて言った。

「そうなの…京都に住んでたの…一度大学に入学しててよくも受験し直す気に成りましたね。大変だったでしょう…じゃ私より一つ年上ですね、お兄様ですね、ウフフ」

「そうだね、驚いた?」

「いいえ、初めから私より年上では…?…と思ってたんですよ…何か落ち着いていたのでね」

 若宮は何故工学部を中退して医学部に進学したのか、浪人生活又京都に関して色々と尋ねたが、浅井は和子の件と希に女遊びをした事以外は正直に話し、特に和子のことは今話す必要が無いと思ったからである。四人の学生達が入って来てもう七時半に近かった。

「じゃ、帰りましょうか?」

「ええ…」

「で、次は何時会ってもらえる?僕は月金曜日の夕方からは家庭教師の日なんです。それ以外の日は大抵暇です。唯、土日曜日は野球の練習か試合が有ったりしますけどね」

 と浅井は服を整えながら言った。

「私の方は何時でも良いですけど、時々実家に帰省するので…それ以外は…」

「そう、下宿してるの?」

「ええ、あの西谷さんて居るでしょう、一緒の下宿屋ですよ」

 一瞬道上の顔を浮かべたが、それに関しては何も話さ無かった。

「じゃ、次の日曜日如何でしょう?」

「ええ、善いわ」

「何処が善いかな…?兼六公園の入口で昼の三時に会いましょうか?そして良かったら、夕食を一緒にしませんか?」

「わぁ!嬉しいわ!」

 若宮は猶も笑い顔を見せて喜んでいた。外は少し寒く感じる程だったが星は美しく輝いていた。

「何処ですか、下宿は?僕は笠舞の方なんですけど」

「私は寺町の方です。公園前からバスに乗るんですよ。寺町バス停から直ぐ近くに下宿屋が在るんです」

「ああそう…それは良いね!僕は歩いて帰るから、一緒にバス停まで行こう」

 二人は肩を並べて歩きながら下宿屋の事を話し、時々若宮の手と浅井の手が自然に接触しつつ浅井は幸せを感じた。サラリーマン、学生、髪を長くした今流行の服を着た若者達は、二人に無関心に散歩していた。兼六公園は格別美しかった。ここでも虫の声が聞こえたが、それは以前の虫の声より楽しく鳴いていた。静かな公園を通っていると、浅井は感傷的に成って一段と若宮を恋しく思い横目でちらりと見つつ、公園の入口に来た時浅井は言った。

「じゃ、照子さん、日曜日此処でね、気を付けて帰って下さい!」

 と浅井が言うなり、若宮は驚いて言った。

「浅井さん…今、私の名前を…何て呼びました…?」

 浅井は無意識に「照子さん」と言ったのである。

「う〜ん、照子さんて言いましたよ!」

 若宮は顔を両手で覆って「嬉しいです、ウフフ…」と、そして大声で笑った。すると若宮は、

「眞之さん、ありがとうございました。次の日曜日楽しみです…お気を付けて帰って下さいね…」

 と言い終わるや否や、浅井は右手を差し出して「照子さん気を付けてね」と言って握手を交わし、若宮は「はい…」と小声で言った。浅井は若宮がバスに乗り、発車して間も無く若宮が見え無く為る迄手を振り、そしてバスが見え無く為る迄見送った。別れ際の若宮の顔が浅井の目に焼き付いていた。急に腹の空いているのを感じながら、浅井は公園を通り過ぎて下宿屋に向かった。

 それ以後、浅井は時々若宮と会う様に為って、その内に浅井のグループの者達は浅井と若宮の仲を感じる様に成り、それに連れて浅井の友人達は、浅井に対して若宮と和子の間に横たれる交差を皮肉混じりに尋ねる様に為った。

 浅井自身、瞑捜に因って創作された女〝和子〟と現実の〝照子〟が頭の中で入り混じり、ある時は苦、ある時は喜と妙に変遷する日々を過ごしていた。


    六


 北陸金沢は、もう十二月初め頃から雪が降る。雨と混じった雪は何故か人々の心を淋しくさせる様だ。一月頃になると雪は本格的に降り出し、幾分南国育ちの浅井にとって、1m以上も積もった雪景色は、別天地にでも来たかの様に感じられた。浅井の下宿屋から見える外界は白一色と成り、この白銀の世界に人間が生きていると思うと何か無情さを感じ、そして雪の上に長く続いている足跡は人間の強さを感じさせられた。

 兼六公園の雪景色は格別美しい。針の様に尖った松の葉の上に恰も綿の様に積もっている雪、その幹に堅固にこびり付いている雪、燈篭の上に白い帽子の様に積もっている雪、木の葉の上に一握り程にこじんまりと積もっている雪、その雪の華麗な美しさは反射光線と共に人々の目に入って来る。その真白い雪と比較すると人間は如何に不潔な者か…。

 浅井は大学登校時、その兼六公園の雪を一握り掴もうと手を雪に近付けると、その自分の手が如何に不潔かを知り雪を掴む気持ちにはならなかった。浅井は雪を直接口に入れると、この美しい雪も体温に負かされて哀れに溶けてしまった。浅井は再度口に入れた。下界は雪で白一色に征服され、雪は遠慮無く三月上旬迄略連日降るのである。しかし、そんな雪景色の天気の日に、浅井は若宮と日程が合えば再会した。

 後期テストが終わり、そしてダンス教室も終わって一年生を終了し春休みに入った日、浅井は若宮を喫茶店エルに誘った。その日は日中から晴れて久し振りに清々しい初春であり、又その日は帰省する前日である。三時に会う約束をして、浅井は既に十分前にエルに着いたが若宮は未だ来て無かった。浅井は一人でコーヒーを注文してたばこを吸いながら、何か不安と期待と希望が交差する心の中で、和子では無く若宮を思い続けている。

 入口の扉の開く音が聞こえると、若宮は浅井の前に足早に現れ、それは丁度三時であった。ベージュ色のコートが非常に綺麗な色彩で若宮に大変似合って可愛い顔をし、笑いながらお互いに挨拶を交わした。

「こんにちは…長く待ちました?御免なさい」

 と若宮は笑って言った。

「いや、僕も少し前に来たんだ」

 十分前に来た事を言わずに、浅井の前でコートを脱いでいる若宮を意識して見詰めている。

「今日は久し振りに良い天気でしたね、そして暖かいじゃないですか?」

「そうだね。しかし、数日前迄時々少々雪も降って寒かったからね」

 ウェイトレスがおしぼりを持って来て、若宮に「何にしましょうか?」と尋ねると、若宮は紅茶を注文した。

「もう春休みでしょう。良いわね!私達は一週間程講習が有るんですの。嬉しいでしょう、久し振りに故郷の空を見れて…」

「そうだね、久し振りに雪の無い世界で住めますよ!善いな!楽しみですよ!」

 二人は笑った。

「今日は、若宮さんずっと暇なんでしょう、この後食事して、ゆっくりしようか?」

 と浅井は少し強制的に言った。

「わーい…良いですよ、嬉しいです」

 と若宮は即答した。その後散歩をしながら色々話してレストランに行き、楽しく同じランチを食べて店を出たのは七時を過ぎていた。

「若宮さん如何するかね、これから…貴女何処か行きたい所ある?」

「いいえ、特別に無いわ、お話ししたいわ」

「そう、じゃ少し寒いかもしれないけど、兼六公園に行こうか?」

「ええ、公園が良いわ」

 後期テストの事、今日若宮は朝寝坊して大学に遅刻した事、そしてダンスと野球に関する話などをしながら歩いた。そこは香林坊から兼六公園に行く時、二人が必ず歩く道路であり、人影の少ない兼六公園の真中にある池の周りを歩いて一番見晴らしの良いベンチに座った。

「ああ美しいわ、あれ見て…月が池の水に写って浮いてるみたい」

 と若宮はその美しさに感嘆したらしく言った。夜空には雲一つ無い空に月が空中に浮かび、その月が池の水面にぽっかりと写し出され星も疎らに光っている。

「本当に美しいわね!」

「そうだな、兼六公園の美しさをありありと見せ付ける様だね、こんな風情を当地の金沢の人は割合知らないんじゃ無いかな?僕の高校時代の友人達は、僕に会うと何時も兼六公園と白い城門は美しいだろう、一回お前が金沢に居る間に見に行きたいなどと話してるよ」

「そうね、是非招待なさったら…でも今夜の夜空は格別よ!」

 若宮は少し身を乗り出して見詰めていた。浅井は若宮の容姿そして仕草が可愛らしく嬉しく楽しく彼女を見ている。何故だろう…浅井は動揺する気持ちが募る様に湧いて来るのに気付き、その心を押さえようと思いベンチからすっと立ち上がって言った、

「ああ綺麗だ!この残雪も月の光で美しいね」

 と一息入れる様に背伸びをすると数人の人影が薄らと見えた。

「照子さん、少し散歩しようか?」

 と浅井が月を見ている若宮を見下ろして言うと、直ぐ若宮は浅井を見上げて「善いわよ」と言った。

「寒くない?」

「ううん、眞之さん寒いの?」

「いや全然寒くないよ」

 二人は顔を見合わせて話した。

 浅井はその時、何時の間にか若宮の手をしっかりと握っていて、時々体と体が自然に触れ合い、そして何気無く浅井は雪の無い乾いたベンチに座った。雪が高々と歩道の横に積まれていた。今が浅井にとって若宮に対する愛情を示す最高の状態であると思った。暫く二人は口を閉じていたが、次の瞬間浅井は「所でね…」若宮は「眞之さん、あのね…」と普通の話し言葉で同時に発言した。しかしお互い何を話そうとしたのかを二人は聞き糺そうともせず、又改めて話そうともせずにじっとお互いの顔を見詰め合っている。若宮は浅井の鋭い目付きに少し驚いた様子であるがじっと見ていた…それは一瞬であっただろう。浅井は左手で若宮の右肩を持ち、自分の方に引き寄せ、右手で左頬を自分の方に引き寄せた。心臓の高鳴りの中で浅井は自分の唇を照子の唇の上にそっと合わせた。若宮の冷たい顔が次第に浅井の体温で温かく為り、若宮は何かを言ったが、それは気中に漏れる事も無く浅井の口の中で反響していた。陶酔の感情が浅井の魂の深淵なる部分に浸み込んで行き、十数秒後、浅井はゆっくりと若宮から離れた。若宮のあの大きい目が二つの線と成って、不動のままに唇は紙が二枚入る程に開かれている。驚きの為だろうか?若宮の胸は大きく波を打っている。若宮はゆっくりと頭を浅井の右肩の上に傾けて置いた。その時の沈黙は異様な雰囲気を浅井に投げ掛け、浅井は何かを話そうと困惑したが何も言え無かった。「照子さん好きです」と微かな声で浅井は言ったが、若宮は何も言わなかった。「貴女怒ってる?」と謝る様に言った時初めて口を開いて「いいえ…」と少し頭を振って言ったがその声は陶酔の声であり、一方浅井は力が抜けた様に安心した…。浅井は若宮を自分の方に引き寄せて「愛してるよ、照子さん」と耳元に囁いた。物音一つしない兼六公園で、二人は無言の行を整えていた。時は何れ程過ぎただろう…、浅井はそっと時計を見ると九時を回っていた。

「そろそろ、帰ろうか?」

 と若宮の頭を支え起こしながら浅井が話すと、若宮はバッグからハンカチを出し顔全体を軽く圧迫する様に拭いていた。二人が公園の入口に来た時、若宮は突然言った。

「眞之さん、ここから歩いて帰るんでしょう、私はバスだから…」

 とゆっくりと話した。

「ああ、そうだね、バスが来る迄一緒に居るよ…照子さん…」

「ありがとうございます…眞之さん…」

 二人は無言のままバス停に立って、浅井はそっと若宮の手を握った。

「明日帰省して、何時金沢に来るんですか?」

 とやっと浅井の顔を見て笑いながら話した。

「そうだね、三月二十八日から野球の春季合宿と練習があるから、それまでには金沢に来ますよ…」

「じゃ、私、多分金沢に居ると思うんですが、電話下さいね。実家に帰ってるかもしれませんけどね…必ず下さいね!」

「うん、絶対電話するよ!貴女がその時居無かったら、僕四月五日には野球合宿終わるから、照子さん、金沢の下宿屋に来たら必ず電話下さい!」

「ええ、絶対するわ!」

「バスが来た様だね…もっと一緒に…、照子さん少し強く手を握るよ…、じゃね、元気で、気を付けて、さようなら」

「手が痛いわよ…ウフフ…眞之さんの方こそ気を付けてね…さようなら」

 バスに乗る直前に若宮は微笑んで初めて告白した。

「眞之さん好きよ!愛してます!」

 と…浅井は至上の幸せを感じて…

浅井は若宮の乗ったバスを見ながら「照子さん愛してるよ」と叫んで手を振ったが、もう照子さんは見えなくなった。そして、池にはあの美しい月も浮かんで無かった…。

 浅井は翌日早朝の急行列車で帰省した。



    第三章


    一


 雪景色の金沢とは打って変わって、浅井の故郷は雪が無く晴れ上がっていた。

 浅井が帰省して二日目の日、中川から〝暇だったら遊びに来い〟との電話を受け取った。浅井が薬局を経営している中川の家に着くと、何時もより客が多く店員又中川の父と兄達が客に薬の説明をして商売に忙しい様相であった。そこへ浅井が入って行くと、もう中川の父とは顔馴染みである為か、中川の父は浅井に親しみのある笑いを浮かべ浅井も笑って挨拶をした。

「こんにちは、千ちゃん居ますか?」

「おう、居ると思うが、おーい千弘居るか?浅井君が来てるぞ」

 と奥の方と二階の方に向かって叫ぶと、奥の方で中川の母が、「自分の室で整理整頓させているよ」と言う声が聞こえ、中川の父は「二階に上がんなさい、居るらしいから」と浅井に言った。

 薬局らしく薬の異様な臭いのする一階から二階に上がり、中川の自室の入口の戸を叩くと、中川は既に浅井が来たと感づいたのか、

「はあい、浅井か?入れよ!」

 と室内から叫び、そして浅井は入口の戸を開けて中川を見ながら話した。

「オッス、久し振り、元気そうだな、何だこの室は?」

 と浅井は笑って言った。

「おう、その事だ、御袋が余りにも俺の室を汚しているからよ、少し整理せよって言ってな、今やってる最中だ」

「真逆、俺に手伝わそうと…?」

「まあまあ…善いじゃないか、座れよ」

 二人は笑いながら話し、浅井は少しづつ整理する事を始めた。八畳の室は一面に本、プラモデル、アルバム、ギターなどが散乱してごった返し、浅井は数冊の本を重ねて横に置き、浅井が座るなり中川が言った。

「お前の以前の手紙に書いていたが、金沢の方は凄い雪らしいな。そんなに凄いのか?しかし雪の兼六公園は綺麗だろうな、絶対に学生時代に金沢に行くからな、それも真冬に行くから、雪景色を見たいからな!」

「まあ雪には驚いたよ、兼六公園は美しいぞ、最高だ!中心街から少し離れた道路は1mから2mも積り、道路の中心だけ除雪して、それが又風流で何とも言え無い世界だぞ」

 中川は漫画本を数十冊整えて紐で括り室の隅に置き、ギターの教本を数冊纏めて机の上に置きながら、

「処で、お前相変わらず〝カズチャン〟の事思って…ああそうだ、お前別口を作りやがって、何て言う名だったか、そう若宮とか…?〝和チャン〟泣くぞ…ハハハ」

 中川は浅井の頭を指で小突いて言うなり浅井は笑って話した。

「うん、その事なんだけど、今頃浪人中の様に瞑想に耽ら無いんだな…若宮さんって可愛い女性だよ…」

 中川は驚いた様相で語った。

「ふぅーん、その女性良い女性か」

「おお、あの美しい兼六公園でデートして、手を握って肩を寄せ合って歩いたり、ベンチに座って話したり、本当に嬉しくて楽しいよ」

「今頃、瞑捜の女は怒ってるぞ…ハハハ」

「そうかな、あれは別問題だよ」

 中川は呆れた顔をして笑いながら、あの浅井が浪人中に強烈な瞑捜をした者と、今の浅井とは別人の様に変わっていると中川は感じた。

「浅井、少しそこのがらくたを、この袋の中に入れといてくれ。俺、下からお前の好きな紅茶を持って来るから」

 と中川は言って下に降りて行き、浅井は中川に言われた通りにがらくたを袋の中に入れていると、その横に中川の中学時代の入学式の記念写真集が在った。浅井は手を休め、初めて見るその写真集をしげしげと見ていると、高校時代同級であった者も幼く写っていたが中川は一年A組に今の顔と余り変わって無かった。

 男子には余り興味が無く女子を特に注意深く見ていると、一年C組の後列の方に髪を少し長くした善く顔の整った女が写っていて、浅井は〝うん、この女良いな、俺達の高校に居たかな〟と無意識に名前の欄を見ると、橋本和子と記載されている。浅井は、〝ほう橋本和子って名前か、俺達の高校の同級生じゃ無いな〟と思った瞬間、浅井は電気ショックを与えられた様に全身が〝ピクッ〟と成り、〝橋本和子、真逆あの和チャンでは?〟。浅井は手が震え、目を最大に開き、写真を見、再び名前を見る。心臓がはちきれんばかりに、何処までも聞こえる程に脈搏は拍動していた。浅井の目は大きく開かれているままに、室内が何故か黄色く為りつつあるのに気付き、浅井は魂の中で叫び続けた。〝和子!本当の和子だろうか…確かにそうだ、確かに…否、待て、橋本和子、和子、和チャン〟と。浅井の体中の神経は麻痺している様相で、浅井は身を震わせて猶も交互に写真と名前欄を見詰めている。その時中川が入って来て、浅井の顔が真白になり、写真と名前欄を交互に見ながら、身を震わせ、中川の方に目を向け無いのに驚いた。中川は紅茶とお菓子を畳の上に置き、浅井の肩を叩きながら叫んだ。

「浅井!如何したんだ、おい!おい!浅井!」

 浅井はじっと猶も写真を見ている。

「浅井如何かしたんか?」

 と中川も興奮気味に浅井の前に座り、浅井の顔を両手で持ち上げて正面を向かせると。浅井の口は強く閉じられて一文字になり、目だけが大きく開かれ、体全体が微かに震え、恰も死人の様に青白く化した浅井の顔を中川は軽く叩いて叫んだ。

「如何したというんだ!おい!浅井!答えろ!」

 浅井は依然と変わらないままであり、中川の激しい口調にも浅井は口を開かず、その写真集を中川に見せると、中川は拍子抜けした顔をしてその写真集を見た。

「何だ、これ、俺の中学の写真じゃないか…」

 と中川は言いながら荒い息遣いでその写真を注意深く見直した。浅井は不動のままじっと中川を見詰めていると中川は大声で叫んだ。

「ええ!橋本和子…真逆…」

と愕然と驚いて、浅井の顔を見、再びその写真を見た。

「浅井!真逆…本当の橋本和子か?真実か…」

中川はじっと浅井の顔を見詰めながら話した。浅井は無言のまま不動の状態を維持して、そこには恐ろしい様な沈黙の時間が経過したが、浅井は突然気が狂った様に正面を向いて叫んだ。

「そうだ!確かに橋本和子だ!確かにな…ウワッハッハッハー」

「おい、浅井、驚かすな、まあ落ち着いてな…さぁ!冷静になれ!浅井!」

 中川は写真集を横に置き、浅井の両肩に手を掛けそして浅井の両頬を軽く叩いて言った。

「確かにそうだ。瞑捜された女と似てるよ。それに小学校二年生当時のあの顔とな…あの俺を苦しめた女とな…中川見てみろ…遂に見付けたぞ!到頭な…お前らが笑って俺を馬鹿にしてた事を、この俺は実現したんだ。それもお前の室でな…どうだ!この通りだ。ええ!見てみろ!この俺を!」

 浅井は勝ち誇って中川の方に身を乗り出して叫んだ。

「おお!解った!浅井気は確かか?」

「勿論だ!確かだよ!この女もな」

 中川は浅井の顔色が平常色に変化して行くのを感じ安心したが、再び沈黙の時間が続いた…。

「中川確かにこの女だぞ。確かにな、ああ!中川済まん、俺如何かしたんだよ、もう何が何だか解らなかったんだ。いや、もう気持ちも落ち着いたし大丈夫だ。済まん!しかしお前と同じ中学校に和子さんが居たというのに…お前この女性全然記憶無いのか?」

 浅井は初めて笑いを見せて発言すると、中川は平常に成った浅井の方を向いて、背部からどかっと仰臥位に為って直ぐ浅井の方を向いて話した。

「あああ…驚いたぞ、お前気違いに成ったのかと思ったぞ、まあ正常に戻って良かったわい。俺まで変に為ったぞ。しかしな、こんな所に和子さんが居たとはな…C組だろう。俺はお前に悪いが全然知らねえよ、ちょっと写真集見せてみろ」

 中川は起き上がって浅井と二人で頭を寄せ合って見た。

「C組か、おっ!西本、宇都宮、野本…鈴木らが居るな、男連中は変わって無いな。それじゃ、お前も親しくしてた西本に聞けば!」

「そうだな…直ぐ西本の所に行こう」

「まあ浅井落ち着け、紅茶でも飲め」

 紅茶が入っていた一個のカップはひっくり返って、盆の中でどんよりと焦茶色に溜まっていたが、もう一個のカップを中川は浅井に渡して、自分はお菓子を食べ始めた。

「中川、本当に済まなかったな!許せ!」

「いや、善いよ、気にするな、しかしびっくりしたぞ、お前の顔、真白だからな、ああ驚いた」

 中川はお菓子をバリバリ音を立てて食べながら浅井に言った。

「もし本物だったら、お前如何する?」

「あたり前だろう、住所を聞き出して、会ってみせるよ!しかし西本知ってるかな?如何だろう、お前が知ってれば簡単だったのに、俺もあんなに悩む事無かったろうに…」

 浅井は笑って語った。

「そうだな、西本知ってるかもしれないが…西本に電話掛けてみようか、直接西本の家に行くのも悪いしな。喫茶店にでも呼び出そうか…じゃ俺が一階で電話して来るからな」

「おう、済まんな…」

「いや、お前又発狂するんじゃないぞ!」

 中川は笑って一階に降りて行き、浅井は一人でじっくりと思慮していた。この偶然!恐ろしい様な偶然!同時に不安な気持ちは津波の様に浅井に押し掛かって来た。あの浪人中そして今までの大学生活での痴人的瞑捜を一つ一つ思い浮かべ、そして不安な心情の中に喜びを感じていた時、中川が室に入って来た。

「浅井来るって言ってたぞ、余りにも突然なので西本も変な気持ちだろうな」

「ああそうか…、しかし喫茶店に誘うよりも、電話で直接聞いた方が良いんじゃないんか?」

「それもそうだな、本当だ、その方が良いぞ、西本も変な気分だし…じゃな…二階に電話を回すからそこでお前話せよ。あんまり興奮するな、西本びっくりするぞ」

「解った、じゃ頼むよ」

 浅井は再び胸の高鳴りを感じ、中川の室に取り付けられている受話器の場所へ行った。不安、絶望、喜びが変に交差する中で、受話器の音を待ったが、間も無く〝ブー〟という呼びブザーが鳴ると直ぐ浅井は受話器を取り上げた。

「もしもし、西本君か?浅井だけど久し振りだな。突然呼び出して申し訳ないな」

「いやいや、金沢の方に行ってるんだって、金沢は良い所だろう?」

「おう、良い所だよ、雪は凄いけどな、一度遊びに来いよ」

「おう、ありがとう、それはそうと如何したんだ?」

「ああ、済まんな。用件を言うとな、君が中学校の時、同級生だった橋本和子って女性の事を聞きたくてな、知ってる?覚えてる?」

「橋本和子?ううん…ああ…そうか、あの女の子だな、一年の時同級だったな」

「そうだ!その女の子なんだけど」

「うん、はっきりは覚えて無いが、確か副級長してたと思うが、それ以上は知ら無いな…しかし確かな、高校の時俺達と同じクラスだった兵頭政子と親しかったと思うぞ…その兵頭に聞いたら!」

「そうか、ありがとう、兵頭さんに聞いてみるよ、本当にありがとう」

「おう、でもその橋本和子が如何かしたのか?」

「いや、又機会があったら話すよ、それまで待っててくれ、話が長く成るからな…、西本、本当にありがとう、じゃサンキュー、金沢に来いな」

「おお、了解した。何時か金沢に行くからな、その時は宜しくな。じゃ元気で」

 浅井は受話器を置いて振り返ると後ろに中川が居た。

「浅井、兵頭さんが知ってるって?」

「おう、はっきりは覚えて無い様子だけどな、兵頭さんには手紙で聞こうか、如何しよう?」

「そうだな、呼び出すのも気の毒だから、そうせえよ」

「高校時代、俺、案外兵頭さんとは親しくしてたから必ず返事くれると思うがな、それよりも彼女びっくりするな…」

「そうだろうな、住所は高校の卒業アルバムと名簿を見れば解るだろう、本当に良かった!」

 お互いに急に口数が少なく為り、中川は以前の浅井の余りにも急激な変化を思い出して、「青白い顔」「たまげたぞ」「びっくりしたぞ」と呟いていた。浅井は済まない心情で笑っていたが、それ程真剣に耳を傾けず、唯これから起ころうとしている事を、尚もぼんやりしている頭で考えつつ…。そして浅井が中川の家を出る時、中川は浅井に厳しく忠告した。

「浅井、感情的に為るな、冷静に落ち着いて実行せえよ!又近い内に来いな、俺もお前の家に行くから、そして和子さんの件如何なったか教えろよ。又辻や油井もその内帰省するだろうから、その時は会おう、じゃ、グッバイ、巧く行く様祈っとるからな!」

「おお、今日は迷惑掛けて済まなかったよ、じゃグッバイ、本当にありがとう!」

 中川も浅井も笑って別れたが、浅井は複雑な心境で帰途に就いた。


    二


 浅井が家に着いた時、丁度母は夕食の用意をしていた。その時から食事中も、母は何か普段の息子とは違っていると感じたが、何も尋ねようとし無かった。常々なら、夕食後家族でテレビを見ながら、その日の出来事を楽しく笑い声を混じえて話すのだが、浅井は食事を済ませると直ぐ自室に入り、静かに外を見ながら和子の事を考えていた。夕食後しばらくして、浅井の弟が「父と三人で酒を飲まないか」と誘って来たが、浅井は用事があるからと断り、その後、母が浅井の室に入って来るなりしんみりと話した。

「まあくん、今日何か有ったの?変ですよ、母さん心配なの…差し支えなければ話して頂戴…」

 浅井は少し笑いを浮かべて言った。

「いや、何も特別な事は無いよ、心配しないで、ちょっとやる事があるから、お母さん済まないけど室を出てくれる…心配御無用だよ!」

「それなら善いんだけど…でも…まあくん…」

 母の気掛そうに心配して出て行こうとする姿を見て、浅井は「大丈夫だよ!心配しないで!ハハハ…」と笑って、母の肩を軽く叩くと母も笑って一階に降りて行った。

 父と弟は楽しそうに、世間話をしながら酒を飲んでいて、時々父と弟が大笑いしながら会話を楽しんでいる時、浅井は机の椅子に座ってぼんやりと外を見つつ、何の様に兵頭さんに手紙を書こうかと考えていた。〝和子か、遂に見付けたんだな!到頭夢が実現したんだな!偶然だ!いや俺の執念だ〟浅井は一人問答を繰り返して勝ち誇っている。〝そうだ、全てを兵頭さんが知っているんだ、そして手紙を出せば必ず返信が来て、橋本和子さんは川之浜小学校から八幡浜市の小学校に転校して来た女性です〟と書いて来る事を確信しつつあった。そして、この一人問答と兵頭に対する確信に因って、浅井は遂に兵頭さんに書く手紙の文章が決定した。浅井は便箋と万年筆を用意して〝橋本和子さんに関して、知っている事全てを教えて欲しい〟主旨の簡潔な手紙を丁寧に書き始め、そして、何時の間にか書き終わり、封筒の中に手紙を入れ切手を貼り直ぐ浅井は投函する為に外へ出たが、辺り一面は月光に因って薄暗い夜であった。浅井が帰った時もまだ父と弟はウイスキーを飲んでいて、浅井も飲みたくなり二人に加わったが、既に父は相当に飲んだらしく酔っている。

「親父さん善い気分に為っているな。哲ちゃん俺にも注いでくれ」

 と浅井はグラスを取り出して、弟に差し出すと弟は笑ってグラスの三分の一程ウイスキーを入れ、浅井は父と弟に「乾杯」と発声して飲み始めると、母の顔は息子の姿を見つつ安心して笑っている。

「おとうさん、余り飲み過ぎると、肝臓病が悪く為るよ、大丈夫?」

「大丈夫だ、まだまだ眞之、お前達には負けないぞ!」

「じゃ…おとうさん、勝負しようか!ハハハ…」 

「じゃ、やろうか! …哲夫も眞之も掛かってこい…ハハハハ…」

父母も兄弟も笑った。浅井は興奮する気持ちを沈めようと、ウイスキーを一気に一口で飲んでしまったが、善い気分にも為らず気持ちが落ち着くどころか反対に高揚するばかりであった。

 母は一人で連続テレビドラマを安らかな顔をして静かに見ている。


    三


 兵頭に手紙を出してから浅井は全く別人の様相を呈して、長い一日が連続して過ぎ去る日々を異常な心理状態で過ごしていた。六日過ぎても返信は来無い。〝ああ兵頭さんは返信呉れ無いんだろうか…?それとも和子を知ら無いのだろうか…?〟浅井は次第に不安に為って絶望の気持ちで充満しつつあった。丁度投函して八日目の朝、浅井が一階に降りて行くと、母は父と弟の食後の後片付けをしていた。浅井の足音で母は気付いたらしく浅井の顔を見て言った。

「おはよう、善く寝ましたね。まあくんは幼少の頃から善く寝る子だったね…。直ぐ食べますか?」

「おはよう、うん、食べるよ、顔洗ってから…腹ペコだよ、弟は…?」

「貴方と違って早く起きて、食後に池田君の所へ遊びに行くって出掛けましたよ。ああ…!そうだ、まあくんにラブレターが来てますよ、その棚の上に置いていますから…」

 〝ああ!兵頭から遂に来たな…如何だろう…?〟浅井は胸のどよめきを感じたが平常心を保とうと何気無しに母に話した。

「ああ、そう、ちょっと二階で読むから食事の用意しとって」

 浅井は自室の机の椅子に座って〝頼む!兵頭さん〟と封筒に祈って封を切った。

 今までの浅井の痴人的瞑捜が、明か暗として何方かに判明するだろうと考えれば考える程に浅井は恐ろしく成り、しかしその恐ろしさを忘れたかの様に手紙を読み始めた。


 前略

 浅井さんが石川大学医学部に入学してる事は知っていました。余りの突然の手紙で驚きました。本当にお久し振りですね。金沢は兼六公園とかお城が在り美しい街でしょうね。一度行ってみたい気もします。雪は酷なんでしょうね、浅井さんが金沢に居る間に行きたいよね!案内して頂けますか?お願い致しますね!

 ところで、お尋ねの件ですが、橋本さんは川之浜小学校から市内の松陰小学校に転校して来て、愛宕中学に在学しましたが、二年生の時転居し転校しました。その後転居しつつ、現在は岐阜大学教育学部に在籍しております。小中と同級生で今も友人として仲良くしております。その住所は左記の通りです。

 岐阜市祈年町九の九、小川方、電話0582―49―1486

 返信遅くなって御免なさいね。何時か再会したいですね。又金沢で再開出来れば幸いです。浅井さん、お体に気を付けてお元気でね。           かしこ

                                兵頭政子


 短く簡明に書いているその手紙を読み終えた時、浅井の体は震えている。浅井の心も身も大気中に浮いて、ふわふわしている状態で…〝ああ遂に見付けたぞ!やったぞ!あの瞑捜された女を…到頭やった、実現したんだ〟と叫んだ。あの苦しみ、痴人的愛、一瞬の喜怒哀楽、あの瞑捜、全てが浅井の肉体の中で踊っている様子である。その時、母が浅井の室に入って来たが、浅井は気付か無いままその手紙を読み続けて、母は浅井の肩を叩いて言った。

「まあくん、何してるの?何か良い手紙だったの?何回呼んでも返事が無いし、降りて来ないから如何しているのかと思って上がって来たのよ」

 浅井は驚いてその手紙を机の中に入れた。

「そうだよ!本当に良い手紙、知らせだよ、僕が望んでいた事が今実現したよ!」

 浅井は少し赤面して話した。

「お母さんにも読ませて頂けない?どんな良い手紙なのかね?」

「いや駄目だ!これは若者しか理解出来無いと思うからね。お母さんも青春時代に、もしかしたらあったかもね!」

「そう、それなら尚更読みたく為るわ、駄目ですか?」

「駄目だね!」

「了解しました、早く食べなさいね!」

 浅井は母に一言で断り、母の肩を前に押しながら一階に降りて行った。食卓には牛乳、パン、サラダ、紅茶が並べられていた。

「まあくんは可笑しい人ね…」

 と母は浅井の前に座って、浅井に話し掛けながら息子の食事をする姿を見ている。

「実に嬉しい!嬉しいだろうお母さん!」

 浅井は笑いながら話すと、

「何言ってるの、変な子だね!」

 母は呆れ返った様子である。

 食後再び自室に入り、もう一度その手紙を読み直した。もう一度…。そしてもう一度…。浅井は薄笑いをしてもう一度読んだ。そしてまず兵頭政子さんに、お礼と感謝の気持ちを最大に表現し、是非金沢に来て下さいという主旨の手紙を書いた。それから中川、油井、長生には電話にてこの事象を知らせ、そして兵頭、辻、それから山岡、吉田、又上田、野上、立花、岡諸、森田達には、略同じ短い文章の手紙を書いてこの件を知らせた。〝ああ彼らは如何思うだろう…俺は遂に実現したんだからな!俺の夢、理想、瞑捜された女を…〟

 浅井は頭の中ではもう既に、和子に如何手紙を書こうかと考えていたのであった。

 翌日、八幡浜市内で中川、油井、長生、浅井の四人は再会して昼食会を催し、油井と長生には和子の件をありのままに話すと

「へえ…お前には負けたよ、浅井は偉い!」

 と三人共口を同じくして言った。浅井は得意に成り、嬉しく楽しく酒も特別美味く成り少し酔ったが、今日は実家に帰らねばならない為に自制しつつ酒類を飲んでいた。三人は心から浅井を祝福し昼食会を盛り上げて戴いた事に、浅井は彼等に心から感謝した。宴会も終了して別れ際に三人は浅井に語った。

「今後如何為ったか、必ず知らせろよ!」

「了解した。今日は本当にありがとう。じゃ又会おうな!ありがとう、感謝するよ!」

 と浅井は三人と握手を交わして帰途に就いた。帰途中全ての時間を和子へ如何に手紙を書けば良いかを熟慮したが…しかし最良且つ適切な文章を思案する事は出来無かった。如何書けば良いのだろう…和子が真心を抱いて感動する文章は…?友人達に良い文を教示して頂こうか…。しかし浅井は自身も真剣に考え、一心に思慮したが名文は浮かば無い…。唯々日々は無情に過ぎ去って行った。

 そんな日々を過ごしていると、春休みも終わりに近付いて浅井が金沢に行く日が来た。



    第四章


    一


 金沢行きの列車に乗っている間、全ての時間を浅井は如何に和子に手紙を書こうかと考えていた。金沢はもうすぐ四月なのにまだ雪が残って何と無く寒く感じたが、浅井の体は火照っていた。実家から金沢の下宿屋に到着するのに略一日要して、翌日から医学部球場に於いて野球部の合宿が実施された。浅井の体力も精神も心身共に、和子の事象に因って落ち目に成り、野球にも気合が無く部員全員が心配する程であった。先輩には何度も「浅井如何したんだ、気合が入って無いぞ、気合入れよ!」と注意され、浅井は自分自身に〝頑張れ、気力を出せ〟と覇気する意気を奮い立たせるのだが…。野上はこんな浅井の状況の理由を理解してか、取り分けそれに対して何も発言し無かったが、唯一言「浅井頑張ろう」と励ます事が精一杯であった。その都度、野上に「解った頑張るよ、ありがとう」と真意に感謝した。野上は浅井が和子の住所を探し当てた事に驚いていて、又上田に電話をしたが上田も野上と同じ心境であった。〝何の様な手紙を書けば良いだろうか…和子は私を覚えて無いだろう…私の一人芝居かな…その手紙はちっぽけな紙切れの様に思われるかな…〟と思いつつ浅井は如何しても手紙を書く事は出来無かった。

 野球の合宿が終わった翌朝に若宮から電話があり、金沢に来たら若宮に電話をすると約束した事を忘れていて、若宮の顔もあの若宮と初めての愛の接吻も頭に浮かぶ事は無かった。

「浅井さん、お久し振りね、お元気でしたか、合宿は昨日終わったんでしょう。私の下宿に電話しましたか?」

 若宮の声は以前とは別人の様に親しみを込めて話した。

「ああ、本当だ、実は電話をしてなかったんだよ。その…」

 浅井はその理由を話そうか、それとも話すべきで無いと思いつつ迷っていたが、浅井が言い終ら無い内に若宮は言った。

「そう、良かった。私今朝金沢に来たのよ」

 浅井は良かったと思いほっとした。

「ああそう、僕も多分貴女まだ金沢市に来て無いと思ってね、電話し無かったんだ」

「そうだったの、良かったわ。所で今日野球練習あるの?」

「うん、五時頃迄ね、でもその後暇だから、例の所でデイトする?六時半頃如何?そして夕食を一緒に食べようか?」

「はい、解りました。善いわね、嬉しい、嬉しいわ!」

 浅井は胸騒ぎする心の中でほっと安心したが、浅井の頭の中は始終和子への手紙の事で充満していた。浅井が六時半過ぎに兼六公園の入口に着くと、既に若宮は来ていた。

「やあ、どうも待たせて御免!」

 と幾分急いで来た為か荒い呼吸をしながら言ったが、若宮は何時もと変化の無い様相で、笑い顔を見せて嬉しそうにそして一段と可愛い容姿であった。

「私もちょっと前に来たのよ。故郷は如何だった?」

 と何気なく尋ねるその言葉が妙に浅井には聞こえた。

「いや別に、何時もと同じだったよ。照子さん如何だった?」

「私も同じだったね、でも愛媛は気候が良いでしょうね?」

「うん、そりゃ良いよ。気持ち良かったな!」

 浅井達は何時もと同じ道順に沿って手を取り合って歩き、残雪が奇妙に浅井達を取り囲み池に差し掛かった時若宮は言った。

「あれ、今夜はお月様池に写って無いわ、雲が出てるからかしら、しかしあの日のお月様は美しかったわね!…それにあの夜は急に黙ってしまって済みませんでした、御免なさい…」

 若宮は下を向いて次第に低く為る声で話したが、それに対して浅井は微かに笑いそして照子は本当に可愛い善き女性だと思い再確認したが…。

 春の清々しい気候の為に多くの若者達が居て、ある者達は無言のまま、ある者達は微かな声で、または大声で話しながら歩いている。相変わらず浅井は和子に何の様な文章の手紙を書くべきかを真剣に考えて苦慮していたが、その決断は一向に決定し無かった。浅井達は何時の間にか、あの初めて接吻をしたベンチに座っていた。浅井はこんなに可愛い若宮に対する恋心が薄れつつある事に気付き〝これでは不可ない〟と思い静かに若宮を見詰めていたが、若宮はそんな浅井を、帰省する前日の浅井とは何か違っていると感じて不可解でそして悲しく思った。

「浅井さん、今晩の浅井さんは何か変ですよ…余り話さ無いし…楽しそうで無いし…」

 浅井はびくっとして突如和子の事が頭から消えてしまった。

「そう…かな…?僕は普通だし何も変化無いよ…そんなに変ですか?」

 浅井は若宮の可愛い顔を見詰めると、大きい目が浅井の方に美しく輝いて、浅井は徐々に若宮が瞑捜された女と化して行くのに気付き、それを確かめる為に強い目付きで若宮を見詰めた。それはやはり照子は和子では無かった。若宮の顔は熱り可愛い顔が浅井に向けられたが、浅井はそんな純粋な若宮を抱擁する気持ちには如何しても為らなかった。浅井は再度若宮を見詰めた。若宮は浅井の強烈な目と強く閉ざされた口を見て驚き、若宮は微かな声で言った。

「浅井さん…恐い顔してるわ!」

浅井は微笑み掛けたが直ぐ元通りに為り、浅井はゆっくりと正面に向き直して和子の事を考え始めた。若宮は浅井の肩に頭を凭れ掛かり何かを話していたが、浅井は唯それにある間隔を置いて頷いた。

 浅井が妙に和子の事を若宮に話そうか…如何手紙を書けば良いか若宮に尋ねてみようか…?馬鹿な…そんな事出来る訳が無い…と一人問答を繰り返していた時、若宮は浅井の肩から頭を離して大きい声で「浅井さん」と言った。浅井は驚いて若宮の方を向いて言った。

「若宮さん、何か言った?」

「はい、本当に浅井さん変だわ、何か有ったんだったら、私に話して下さいません…」

 若宮は女に特有な母性本能を丸出しに微かな声で言った。

「いや、何も無いんだよ。気にしない様に…合宿の疲れかな…本当に普通で何も無いからね、安心して…御免ね!」

 浅井は笑って言った。若宮は何かを言いたそうであったが、直ぐ様浅井は若宮を引き寄せて力一杯抱擁した。そしてその女性を確かめたが、それは和子では無く可愛い照子であった。「照子さん愛してるよ」と耳元で囁いた。若宮は何かを話したくそして語ったが、その言葉は気中には漏れず浅井の体内で反響していた。それから兼六公園から歩いて香林坊のレストランに行き楽しい雰囲気でランチをお互いに食べ、その後若宮を近くのバス停まで見送り浅井は歩いて下宿に帰った。再び実在の素敵な照子と、瞑捜された女和子が、浅井の頭の中で妙に交差していたが…。

 しかしながら、浅井の頭は和子で充満し、何時の間にか下宿屋の門を開けていた。直ぐ机の前に座ると、ぐったりと疲れた様子で外を見詰めていた。浅井の頭は混乱し照子の顔が不思議に現れて来た。〝何故だろう…〟と浅井は思慮しつつ外界を見ていたが、次第に混乱した頭が整理されているのに気付いた。そうだ!思うままを正直に正確に真心を込めて書けば善いんだと無言の叫びを発した時には、浅井は万年筆を便箋に走らせていた。


 拝啓

 春とも成れば、もう雪も融けて消え、金沢の兼六公園も美しく、その片隅に残雪が淋しく縮こまって残存しております。さて、突然の手紙で貴女はさぞかし驚かれた事と思いますが、先ずはお許し頂けますようお願い申し上げます。

 私は名前を浅井眞之と申し、現在石川大学医学部に在学中の学生です。何故貴女に手紙を書いているかを説明させて下さい。しかし、もし、これは確かでしょうが、貴女が私の事を全然記憶して無ければ、この手紙は貴女にとって全て不可解で大変失礼な物に過ぎないでしょう。私は敢えて書かせて頂きます。

 貴女との出会いは愛媛県の九州に最も近い佐田岬半島、西宇和郡の中間程にある川之浜小学校でした。小学校二年生の時、私の父が校長として赴任し、私も同時に川之浜小学校に転校し貴女と一年間教室を共にしましたが、貴女は三年生の時八幡浜市の小学校に転校致しました。

 私は貴女に対しての記憶は僅かです。貴女の名前、そして可愛い少女であった事、そして同級生の誰かが教室の黒板に〝まあくんは、かずちゃんをすき〟と書かれた事、又私が貴女の頬に〝チュ〟をした事ですが、これらは略十三年の年月が経ていますから確信はありません…。唯確信してる事は貴女と出会った事と貴女の名前は橋本和子であるという事だけです。私は今になっても貴女を忘れる事が出来ないのです。何故か解りません…当の本人が解りませんから…しかし貴女を瞑捜に耽って、貴女を私の理想の女性に創作して参りました。

 今春休み、故郷八幡浜市で偶然、本当に偶然に貴女の住所を貴女の中学時代の友人、兵頭政子さんからお聞きし今貴女に手紙を書いている次第です。何故忘れず貴女を覚えていたかは私にも全く解りません…が貴女は私の頭から離れず、ある時は苦、ある時は楽と、私の人生の中で貴女は重大な位置に存在して参りました。この手紙を読んで、貴女は、何が何だか解らず困惑する事と思います。しかし、私は貴女からの返信を希望致します。如何お書きになられても結構です。今学生生活を何の様に送られているかを教えて頂ければ誠に幸いです。

 今まで、私は貴女をどんな風に思って瞑想したかは次の機会に書かせて頂ければ幸いです!では健康にて良き学生生活を過ごされます様祈っております。                        敬具          

 橋本和子様                          浅井眞之                                


 手紙を書き終わった時、既に夜中の二時を回っていた。何度もその手紙を読み返し、再び身動きせずに祈る様に読むと瞑捜された女が紙面上に現れ、浅井を見詰めている様な…気がした。翌朝、意外にも早く目を覚まして、浅井は手紙を投函したが、一心に神に祈る、封筒に祈る、それは妄執たる老人の迷信者の様だった。


    二


 投函してから一週間、二週間と時は静止する事無く過ぎて行った。浅井は絶望の日々を過ごしつつ〝ああ駄目か…何故返信出さ無いのだろう…何故!和子は俺を怖がっているのだろうか…和子は俺を全然記憶に無いんだろうか…〟と浅井は淋しさと儚さを味わいつつ日々を送っていた。〝俺があれ程迄に思い瞑捜したのに…何故返信呉れ無いんだ…〟

 丁度手紙を投函して二十日目の野球練習の帰り、浅井の誘いで野上と二人で大学病院前に在る喫茶店に行った。浅井の友人達は、最近浅井が非常に気落ちしているのを心配していたが、その原因を知っているのは上田と野上だけであった。薄暗い喫茶店には数人の客が居て、従業員が紅茶を持って来るまで二人は野球に関して語っていた。

「所で、浅井最近凄く窶れているな、野球の練習にも気合が入って無いし…、まあ原因は、和子さんの事で悩んでいると思うが…相手の立場になれば…」

 浅井は静かに野上の話を聞いていた。

「一体、お前は和子さんに対して何を求めているんだ?お前はお前でそっと思っていればそれで充分だし、和子さんにしてもそれを望んでいるんじゃないのか…?」

「当たり前だろう、俺が求めている事は…それくらい解らないか?気障に言えば、和子本人そのものを求めている訳だ。何故今まで俺が忘れずにいたと思う…?」

 野上は、浅井が少しづつ興奮して気持ちが高まっているのを悟って、下を向いて紅茶を飲んでいた。

「しかし和子も返信ぐらい出しても良かろうにな」

「いや浅井、相手にとっちゃ大変な事だよ。相手も年頃だし、考える事もあろうに、名も知らぬ男に手紙出すか?」

「そうだろうか?友人、恋人に年令的限界があるかな?自由だと思うが…」

「いやそれはお前が男だからだ…俺もお前と同じ考えだけど、主観的に物事を考えては駄目だと思うし客観的に考えなきゃ…」

 浅井は野上の顔を見詰めて、そして浅井はこれ以上野上と話す気持ちは無くなった。

「俺は一体何だろう…?人間だろうか?人間としてもそれは痴人か?」

 浅井は自分を振り返って自分の人間としての存在を疑った。

「その上な、もしもだぞ、和子さんがお前の瞑捜した女性に適合していなかったら、その時こそ、もっとお前は失望して落胆するだろうな!和子さんはこの件を一番心配して…配慮して…」

「何言ってるんだ、当の俺でも其の位の事は予想し理解してるよ。前も言った様に問題は彼女、和子全てだ」

 浅井は反抗的に言った。

「何せ、俺は何処か可笑しいんかな?小学校二年の時会っただけというのに…もう一度手紙書いてみよう…全てを思い切ってな!」

「いや、俺は何も言えないが、お前が満足する様に熟慮してやれよ!」

 浅井は冷たくなった紅茶を一息で水を飲む様に飲んでしまった。

 浅井が下宿屋に帰宅した時、隣りの朝倉の所に、友人二人が来ていて雑談をしていた。〝女〟〝学生運動〟〝セックス〟などの語句が跡切れ跡切れに浅井の室にも聞こえた。

 浅井は夜の冷たい風が入って来る窓に、年老いた老人の様に夜空を見ていると、今迄の瞑捜が一つ一つ目の前に現れて来たがそれは直ぐ消え失せていった。一階では電話のベルが鳴って直ぐ奥さんが楽しい声で話していた。〝女性か…、女か…〟浅井は目を伏せて無造作に夜風に晒されていた。

 浅井は何時の間にか二通目の手紙を書いていた。浅井の身上、浪人中どんなに強烈に瞑想に耽ったか、それに因って何れ程苦悩したか…色々頭に浮かぶ事を全て書いた。返信は頂けないだろうと予想して書いた為か、その手紙は乱雑常識外れな文章であったが浅井は無我夢中に書いた。その反発が、書き終わった後押し寄せて来たらしく、浅井はその便箋の上にぐったりと顔を伏せ、腕をぶらりと垂らして微動ともしない。鼻を押し潰して目を閉じている。何十分経過したであろう…。浅井はそっと目を開け、そして便箋を見詰めると書かれた文字がぼやけて見え、それに焦点を合わそうとして目を細めたがそれを読む事は出来なかった。翌日一通目の手紙を投函した時と同じ心境でポストに入れたが返信は来なかった。

 日々は無情に過ぎ去り五月初旬の快晴の日、野球練習終了後、主将は部員に「岐阜大学医学部との定期戦が六月一日、土曜日に決定しその日の早朝に岐阜市に出発する」と告げた。浅井は微かな楽しみと喜びを味わい、野球練習後部室を出て帰途に就いていると、後ろから野上が肩を叩いて笑った。浅井は夕食を済ませて帰宅し直ぐ机に向かって椅子に座り、和子に三通目の手紙を書き始めた。

 浅井の気持ちは、喜びに満ち溢れていたが…。


 拝啓

 五月中旬というのに、日中は暑く感じますが、貴女はお元気でしょうね。貴女はこの手紙を見て〝又か〟と思うかもしれませんが…?私が貴女を何の様に思っていたかは、以前の手紙でご理解して頂いたと思います。私は貴女からの返信を何れ程に待った事でしょう。貴女にとっては、この件に全く無関係だとお考えの事と存じ上げますが、私にとっては非常に重大な事、人生なのです。私は貴女に言いたい事は全て書いた積もりです。

 さて、私にとっては本当に幸いな事ですが、私は六月一日土曜日、岐阜大学医学部と野球の定期戦が有り、その日の早朝に岐阜市に行き野球試合を実施致します。しかし残念ながらその夜どうしても京都に行かなければならないのです……。私はその日是非貴女に会いたいのです。しかし貴女が迷惑がるお気持ちは明らかかもしれませんが…又は電話するかもしれません。私は本当に勝手な行動をするかもしれませんが、ご配慮頂きお許し下さい。ご健勝にてお暮らし下さい。          敬具              

 橋本和子様                           浅井眞之


 坦々とした文章を浅井は書いたが返信は来無かった。

 浅井は最近野球の練習が忙しいという理由で、若宮と会うのは二週間に一度程であった。浅井は若宮とあった折に至上の幸せを抱き、楽しく嬉しい会話を交わしたいと考え、お互い相思相愛の関係で居たいと常に思っていた。しかし和子の事を考えると、若宮との恋愛を止めようとも考えたが、浅井が本当に好きに成り愛を感じ相思相愛の可愛い照子さんを思慕すると、その様な事は絶対に出来無かった。


     三


 浅井達野球部員二十一名は、恰も名古屋行きの特急列車を貸し切ったかの様に、我が物顔で目を閉じ足を前座席に伸ばしている者、四人が大声で話し笑っている者達、静かに週刊誌、新聞を読んでいる者、漫画を読み時々童心の様に笑っている者で、六号車は特異な雰囲気を漂わせていた。それ程他の乗客者は気にもして無い様相で、列車の激しい雑音で部員達の話し声と笑い声が聞こえなかったのかもしれない。浅井は野上、田中、一年後輩の島村達と同じボックス席に座り、田中と島村は目を閉じている様子だった。浅井は、今日惹起するであろう事象を一つ一つ目に浮かべていた。野上はその事に付いて何も話そうとはせず、今日の試合に関して色々と策を考えながら浅井に質問し意見を聞いていた。

 岐阜駅に着くと、部員達は野球の事だけを話して気合いを入れていた。「さあ今日は徹底的に遣っ付けるぞ」と主将が再度気合いを入れたが、浅井にとっては今日の試合には全く無関心であった。主将に「浅井何か気合が入っていない様子だが…大丈夫か…」と言われた程である。駅前に来ると岐阜大の主将が迎えに来ていた。金沢市と違って初めて見る岐阜市は何と無く陰気臭く感じたが、金沢の曇り空の多い気候と比較すれば岐阜の青空は素晴らしく感じた。部員達は直ぐ岐阜大生の誘導でバスに乗り球場に行った。浅井は〝祈年町って何処だろう…〟とバスの車掌が地名を言う度に心を躍らせた。球場の近くで軽く食事をして休憩に入り、暫くのんびりと皆で雑談をしながらユニホームに着替えた。試合は午後一時頃から始まり結果は石川大学が圧勝したが、浅井は始終鋭い動き、力強い打力、ピッチングは出来無かった。

 試合終了後に宴会が執り行われ、その後は自由行動と為り、夕日も沈みかけた六時頃に成っていた。浅井は少し酒を飲んでほろ酔い気分に成っていたが、考える事は依然唯一つの目標に変わりはなかった。浅井は直ぐ野上と田中達とバスに乗り岐阜駅へ行き、荷物を駅構内の手荷物預かり所に預けた。

「京都には八時二十三分の快速列車で行こうか…」

 と浅井は何気無く二人に言った。実は翌日二日は浅井の誕生日であり、久し振りに京都に居る中川、油井、兵頭と共に祝う約束をし、夜の十時半頃に、中川が行き付けている洋酒喫茶で集合する事に為っていた。

「田中如何する、これから…?」

「そうだな、折角岐阜へ来たんだし遊んで帰るか、金沢行きは、九時、十時…適当に有るじゃないか、明日は日曜だしゆっくり帰ろう」

 野上と田中は駅の改札入口上にある発車時刻表を見上げながら語り合い、浅井は二人の後ろでぼんやりと立っていたが駅前に出た時野上が言った。

「浅井は如何する?八時過ぎの列車で京都に行くんだったら…そうか〝あれ〟があるか」

 浅井は遂に、再会の為に和子の下宿屋を訪ねるか、それとも電話をするか、決断する時が来たと思った。田中は浅井のこの件を僅かに知っている程度であったが相当関心を寄せていた。

「浅井、和子とかいう女性の事か…?」

 と、ぶっきらぼうに浅井に言った。

「そうだ!そうだよ、街でもぶらぶらして途中喫茶店にでも入らないか、俺もじっくり考えたいし」

 三人は市内を見物しながら散策して、通行中に見付けた岐阜駅近くの喫茶店に入ったが、大勢の客で奥に席が空いていた。

「浅井今がお前の決め所だな、如何する!…先ずは電話が適切な対応かな…?…」

 と野上が座席に座るなり言った。田中も野上の発言に同意しているらしく、頭を二度上下に振って賛同を表現していたが、浅井も何時の間にか同じ考えに成っていた。浅井は感情が高まり胸がわくわくする度合が一段と激しく為って来るのに気付き、〝やらねば成らぬ!この機会を逃せば俺の今までの人生は水の泡の様に儚く消え失せるぞ!直接会うより電話にするべし!〟と考えている時、野上が体を前に突き出して言った。

「こうなれば考えてるだけ難しく成るな。俺なら、電話した方が良いと思うぞ!番号知ってるんだろう」

 浅井はほっと安心した。

「そうだな、俺もそう考えていたんだけど…」

「そうか、決まれば直ぐやろ!」

 野上は力強く、ゆっくりと言った。

 電話は入口受付のレジの横に有って、浅井は直立不動のまま赤電話機の前に立っていると、受付の女が浅井の方を凝視して、浅井はそれに気付いたらしく考える間も無く電話を借りてダイヤルを回した。浅井は不安と嬉しさが交差する心情で、相手を呼び出している〝ブーブー〟という音を聞いていた。五回目の〝ブーブー〟という音がした時、〝ガチャン〟という受話器を取り上げる音がした。その瞬間、浅井は妙な嬉しさと恐怖心をひしひしと感じそして味わった。

「もしもし、小川さんのお宅でしょうか?」

「ええ、そうですけど。何方でしょうか?」

「僕、浅井と申しますが、橋本さん居ませんでしょうか?」

「ああ、和ちゃんですか?ええ少し待って下さいね」

〝和ちゃんか…遂に聞いたぞ!この言葉を!カズチャンて…〟浅井は嬉しさの余り大笑いした。電話の相手は小川家の主婦らしい女性で、「和ちゃん居ないの?」と叫んでいた。

「御免ね、和ちゃん、今居無い様ですけど」

「ああ、そうですか?何処か行かれましたか?」

「そうね、今朝大学に行ってから、まだ帰っていませんのでね、何か用事あれば伝えておきますけど」

「いいえ、宜しいです。後程又電話させて頂きますから…宜しいでしょうか?」

「宜しいですよ、それでは…」

「それでは失礼致します」

 浅井は受話器を置いて立っていた。受付係の女は浅井の変わった風貌を見て変に思ったのか浅井を見詰めていた。浅井はそれに気付いて「ああどうも…」と礼を言って席に戻ると、二人は好奇心に溢れている様な顔をして浅井を見た。

「如何だった?」

「いや、和子さんの下宿屋に電話は繋がったが、そこの主婦らしい人と話しただけで、彼女は不在だったよ。今朝大学に行ってまだ帰って無いらしい…」

「じゃ、後でもう一度電話してみろよ」

「そうだな」

 浅井は何故か気持ちは落ち着いて平常心であったが、偏屈な予想と考えを浮かばせた。〝真逆今日俺が岐阜に来るので、和子は実家に帰省したのではあるまいな…真逆…〟と。三人は今日の野球試合の事、そして浅井の事を話している間に三十分程時は流れた。浅井は腕時計を見て七時二十五分に成っているのに気付き、立ち上がって二人に言った。

「じゃ電話して来るからな!」

 すると、野上は多少怒った様相で浅井に言った。

「浅井、お前本当に京都に行くんか?こんな大切な時にやで!もし京都へ出発する迄に和子さんが帰宅して無かってもか…?お前後悔するぞ!後悔先に立たず…だぞ…」

 浅井は下を向いて…考えた。〝如何しよう?〟そして、ゆっくりと二人に向かって言った。

「いや絶対に京都に行かにゃならんな!高校時代の友達と約束しているし…破る訳にはいかない、まあその時は電話番号も知っているし、金沢から電話出来るし、しかし…」

 浅井は沈黙して思慮した。しかし如何しても約束を破る事は出来無かった。

「お前は馬鹿だな!京都の友人に電話でもしてな、な…田中!」

 浅井は再び考えたが、如何してもあの友人達との約束は破れなかった。

「残念だけど…必ず和ちゃんは帰宅するってや!」

 と浅井は確信して二人に言ったが、野上は浅井の真情が読み取れ無いらしく呆れていた。

 三人が喫茶店を出て、駅前の対面の大通りに来た時、もう七時半を過ぎていた。三人の立っている前に電話ボックスが有り、浅井は一心に祈った…。〝何も要らない…和子が帰宅している様に…〟と。

「じゃ、電話するけんな」

 浅井は二人に言って電話ボックスの中に入った。その中は暑かったが浅井はそれ程気にならず、ボックスのガラス越しに外を見ると二人が浅井を見詰めていた。二人に不恰好に笑いを浮かべてダイヤルを回した。〝ガチャン〟という音と共に浅井は無意誠に言った。

「もしもし、小川さんのお宅でしょうか?」

「ええ、そうですけど、もしかして浅井さんでしょうか?」

 電話の声は以前の女性の声と違っていた。この女性こそ、浅井が十四年間瞑捜によって創作した橋本和子であった。浅井は魂の中で叫び続けた。〝この女性が和子だ…!和チャンだ…絶対そうだ!〟浅井の胸は歓喜の余り破裂寸前の様にどよめいて、大きく口を開けて笑った。外に居る二人も、浅井の笑い顔に気付いて同じ様に笑い、「田中、和子さん居たんだな」「そうだな、あの嬉しそうな顔を見てみろ」外の二人はガラスを叩いて嬉しそうだったが浅井は気付か無かった。

「ええ、そうですけど、私は浅井です。橋本和子さんですか?」

「はい、そうです。橋本です。どうも済みませんでした。今日は教育実習が有りましてね。それから土曜日だし友達と映画を見て今帰宅したんです。もう京都に行ったのかと思いました」

「ああそうですか…僕も貴女と話す事が出来ないまま、京都に行かざるをえないかな…と思ってましたよ。お話が出来て本当に嬉しいです。本当に嬉しいですよ!所で教育実習って、実際に子供達に授業をするんですか?子供に教える事って難しいでしょう?僕も子供の家庭教師のアルバイトをしていますが、教えるって本当に難しいですね」

「ええ授業するんです、大変なんですよ。所で野球定期戦の結果は如何でしたか?」

「今日は、我々石川大学が断然強くて圧勝しました。貴女の母校を敗って御免なさい…ハハハ」

「そうなんですか、おめでとうございます。私の大学負けたのね、残念ですよ、ハハハ」

 和子は初めて笑った。浅井は安堵の胸を撫で下ろして、思い掛け無い程に親しく話し合った…何故だろう…どうしてこんなに親しく楽しく…恰も恋する男女の様に…・・・

「以前は不快な手紙を出して、驚いたでしょう、変な文章だったし…」

「ウフッ…いいえ、私の方こそ返信も出さずに…如何しても…如何書けば良いのか解らなくてね」

「うん、やっぱり、僕もそうじゃないかなと思っていたんですけどね、和子さん、僕を全然覚えて無いですか?」

「ええ、川之浜の事は少々覚えていますよ。でも忘れてしまいました…」

「そう、残念です…少しでも僕の事覚えていて欲しかったですね、ハハハ、でも僕も貴女の事を僅かにしか覚えていないんですよ、仕方無いですね…」

 少しの間、無言のまま浅井は受話器を持っていた。野上と田中は浅井の嬉しそうな顔を見て笑い、そして浅井もそれに連れて笑った。

「所でね、本当は今日小川さん宅まで押し掛けようかと思ったんですけど…如何しても出来無くて、非常識かなと思って…そこで電話したんです…まあ…この事象は貴女にとって、もしかして不快な事だと思ったりして…僕、金沢に帰ったら直ぐもう一度手紙を出しますので返信頂けませんか?」

「本当に、私、如何に書けば良いのか解ら無いんです。うん…浅井さんの様な名文は書け無いし、残念ですけど…その上に、私自身浅井さんが思っている様な女性とは多分に違っていますよ!美人でも可愛くも無いですよ…もしも会ったら、浅井さん驚くかも…ね…?」

「いやいや、そんな事無いでしょうし、そんな事如何でも良いのです。電話で話している限り和子さんは私が瞑捜した女性の様に思いますよ。それから何を書いても宜しいですからね」

「そうでしょうか…え…」

「本当に勝手な要求でしょうけど、僕としてはどうしても欲しいんです。自己紹介とか、大学生活とか、川之浜小学校から岐阜大学へ進学した経緯とか…返信頂け無いと前進出来無いのです!分かって下さい!僕は貴女と前進したいのです!お願い致します!…ご理解して頂ければ幸いです…」

 無言の時間が経過した。

「じゃ何かを書いて…着き次第に…。」

「やあ、ありがとう。是非お願いするね、本当に無理な事を言って御免なさい」

 和子は笑った。

「じゃ、僕どうしても今から京都に行かなければならないので…これで失礼します。先程の件必ずね。和子さん!こんな私が、和子さんと電話でお話し出来て僕は至上の幸せです。本当にありがとうございました。ご健勝をお祈り致します。さようなら」

 和子は神妙に言った。

「浅井さんもお体に気を付けて下さいね、さようなら」

 浅井はゆっくりと受話器を置いて、そして満面に笑い、それは勝ち誇った姿である。外では二人がガラスを〝トントン〟と叩き、浅井はそれに気付いて外を見ると二人は嬉しそうに笑っていた。外に出ると急に寒く感じたのは、顔に大粒の汗が噴き出て、それが夜風に晒されて寒く感じたのである。

「浅井如何だった?嬉しそうだな、何の様な女性だった?」

 と野上は笑って言った。それに対して、浅井は嬉しさの余り気中に浮いている感じで言った。

「ああ、善かったよ、俺が瞑捜して創作した通りの女性だったよ。笑い声といい、話し方も最高だよ!俺は到頭実現したんだ!遂に和子と会話を交わしたんだ!何か初めて話した様な気がし無いよ。恋人の様に親しく楽しく話したよ。それに手紙も出すって…本当に嬉しい!」

 二人は浅井が余りにも嬉しく話す姿に唖然として聞いていた。

「お前本当に京都に行くのか?」

 と野上が発言した言葉に、浅井の心情が静まった。〝今日和子に会うべきか…いや、あいつらとの約束は破れない!残念だが…〟と思いつつ言った。

「おお、約束した事だから…」

「馬鹿な、ここ迄進行して来ているのに」

 野上は浅井が今から京都に行く事を理解出来無かった。

「でも善いよ、彼女手紙を呉れるそうだからな、それからなら何時でも岐阜に来るよ」

「それは別問題だ!お前、必ず京都に行った事、今日和子さんと再会し無かった事を、絶対に後悔するからな!浅井!馬鹿だぞ!」

 野上は浅井を非難した。浅井は腕時計を見ると八時十分に近づいていた。

「ああ!大変だ、遅れるよ、じゃ俺先に行くぞ、グッバイ」

 その時、丁度横に有る横断歩道信号が赤色に成る寸前である事を確認して、浅井は飛び跳ねる様に走って行き、その姿を野上と田中は唖然と見ていた。

 〝やあ、嬉しい!あの声、笑い声…嬉しい〟と浅井は叫びたい気持ちであった。列車は幾分混雑していたが、浅井はあの電話の事だけを頭に浮かべていた。〝俺の友人達は如何思うだろう、あの中川の家で和子を見付けた時以上に驚くだろうな〟と浅井は思った。

 浅井達が約束していた集合場所である、河原町の洋酒喫茶店に十時半過ぎに着くと、既に中川、油井そして兵頭は来て居て、カウンターに一列に座りウイスキーを飲みながら話していた。浅井が来たのを三人は気付いて三人共笑って合図した。

「おうい、浅井、此処だ!」

 店内は混んでいたが、中川は大声で叫んだ。

「元気だったか?色黒に成ったな」

「おう元気だったよ。毎日野球だからな、黒くも成るよ。お前らは如何だ?」

 浅井は真中に座って、そして四人は順番に近況を皆に話したが、その中で浅井が特別に嬉しそうな顔をしている様子に三人は気付いて油井が言った。

「浅井何だ、お前、いやに嬉しそうだな!」

「おお、最高に嬉しいぞ!お前達に会えたのも本当に嬉しいが、そんな嬉しさじゃ無い…」

「何だ?若宮とかいう女と何かやらかしたのか?それとも…何だ…?」

「驚くなよ!以前お前達に、手紙で和子から返信来ないのに悩んでいると書いただろう…しかし今晩、京都に来る前に彼女と電話で話し合ったんだ…如何だ…!」

 三人は驚いて浅井を見詰め和子に関して詳細に尋ねると、浅井はそれに対して嬉しく笑いながら答えた。丁度十二時に成った時、兵頭が大きな声で言った。

「まあ…驚きだ!しかし良かったじゃないか…それはさて置き、0時だ、六月二日だ。それでは浅井を祝して乾杯しよう!浅井と和子さんの幸せを願ってな、又照子さんもな!俺達全てに乾杯しよう!」

 兵頭が浅井にビールを注ぎ、各々注ぎ合って四人はコップを持ち挙げ大声で「乾杯」と叫んだ。店のマスターが奢りで、特製のカクテルを四人にプレゼントした。他の客達も驚きながら「乾杯」と同調して、浅井達を見詰めていた。閉店迄四人は色々と話していたが、常に浅井に関する会話であった。店を出た時中川が言った。

「浅井、今日お前にとって最高に良い日だったな!明日も京都に居れよ、そうだ今日だ、お前とゆっくり色々話したいぞ」

「いや、今日帰らにゃいかん」

 中川は相当酔っている風だったが、他の三人も足がふらつき四人は肩を組み合って河原町通りに出て、歩道を歩きつつも浅井は〝嬉しい〟の連発であった。その夜は全員中川の下宿で雑魚寝をした。四人は横になって色々と話していたが、三時頃中川、油井そして兵頭は一人づつ鼾の音を発して寝てしまった。浅井だけは次第に頭と目が冴えて来るのに気付き、あの浪人中和子を瞑捜に耽った思い出を一つ一つ思い浮かべた。嬉しさの余り大声で笑いたくなる気持ちを必死に押さえながら、今後の自分と和子の事を夢見ていた。

 浅井は今日の昼三時頃の急行列車で金沢に帰ろうと考え…〝和子さんおやすみなさい„と呟いて何時の間にか熟睡していた。


     四


 岐阜で和子と電話で話した情景が、尚も浅井の頭の中に残像として映っていた。二日の夜、浅井は直ぐ和子に四通目の手紙を書いた。今迄とは全く違った文章、すなわち、これから文通と再会を繰り返して、我々が前進出来れば幸いである主旨を、親しい女性に書く様に一文字一文字丁寧に書いた。そして今迄と同じ様に、熱烈な信者たる老人の様に祈りつつ投函した。浅井の大学の友人達は、浅井が非常に明るく成ったのに気付いて、特に上田は浅井の岐阜での事象を聞いて言った。

「ほう良かったな!お前の理念を実現させたのだから嬉しいだろうな、しかし本当に返信来るかは解ら無いな。例え返信が来たとしても、金沢と岐阜じゃ遠いしそう簡単に会う事も出来ず、本当にお互いの気持ちを理解出来んのじゃ無いのかな…?しかし神秘的だな!それは扠置き御目出度う!」

 と相変わらず卆直に話す態度には少々反感を抱いたが、偽りの無い正直な言葉に逆に上田に真意の友情を感じた。

 浅井が和子に手紙を投函した翌日の夕方、若宮から電話があり彼女は特に浅井に会うのを楽しみにして兼六公園で会う事に為った。何時もの様に池の周囲に置いてあるベンチに座って話したが、今夜は月が池に写って無かった。

「野球勝ったの?浅井さんはヒット打った?三振したり、エラーしたりしたんじゃ…ウフフ…」

「いや、ヒット打ったよ、エラーもしなかったし、ピッチングも良かったし、大勝したよ!でも気合が入って無かったな…」

「そう、そんなに活躍したの?勝って良かったね、おめでとう!如何して気合が入ら無かったの?」

「如何してかな…解ら無いな…?照子さんは、僕は野球下手だと思ってるな…?」

 浅井は若宮の額を軽く人差し指で突いた。

「いや、そんなには思っていませんよ…以前野球の試合を見に行った時は、三振したり、ヒットも打たれたりしてたからね…御免なさいね…」

「なんだ、あの試合は相手が強すぎたんだよ。特別な試合だったからね」

 若宮の可愛い笑い顔が始終浅井の前に晒された。浅井は突然池の方を見詰めて言った。それは浅井の本心から発せられた偽りの無い言葉であった。

「照子さんね…二人の異性を一度に恋して、付き合う事出来る?」

 若宮はその言葉を聞いて、それ程驚ろか無かった。それ故に…何故か…如何しても…浅井は若宮に和子の事を話そうと思い詰めたのである。

「そうね…如何かしら、第一経験無いから…解ら無いわ…如何して?」

「いや別に、ちょっと聞いてみたかっただけですよ…」

 浅井はゆっくりと若宮の右肩に右腕を回すと、若宮はそっと浅井の右肩の上に頭を置いた。

「あのね、僕の友人が最近好きな人が出来たんだって、しかしね、お互いに好きとか愛してるとか言え無くて、会っているとお互い変に反発したりしてね、それですごく悩んでいるらしい…人間って不思議な動物だな!」

 若宮は微かに笑い声を発した。

「そうだな、人間って本当に変な生き物だね。僕もつくづくそう感じるな…照子さんね…僕に恋して…僕を愛してる?如何程に?」

 浅井はぶっきらぼうに、若宮の肩を強く握って自分の方に引き寄せ「照子さん愛してるよ」と言った。若宮はびっくりして目を大きく開けて言った。

「勿論だわ…!如何して…?」

「ありがとう!変な質問だったね…」

 二人は可笑しくて笑った…。浅井は不図和子を思い出すと同時に、真妙に為って若宮に真実を話し出した。

「照子さん、僕がこれから話す事を絶対に誤解しないで下さい!絶対にね…僕は照子さんに恋して、愛しているんだから!…うん…今の僕にはもう一人思慕する女性が居るんです…。いや好きとか恋してるんじゃ無く、何と言ったら良いか僕には分からないけどね…その女性とは小学校二年生の時に愛媛県の田舎に在る小さな川之浜小学校で、勿論同級生で、一年間だけ会っただけなんだけど…。それ以来会った事も無いのに、その女性を忘れた事が無いんだ。それが今年の春休みに高校時代の友人のアルバムを見てて、偶然に住所を知りあの岐阜に野球の試合に行った時十数年振りに電話で話したんです。その女性は僕を全く覚えて無かったんだ。他人がこんな事象を聞けば馬鹿げた事かもしれないけど、僕にとっては〝瞑捜された女〟として本当に重大な事なんです。照子さんも理解出来無いでしょう…馬鹿みたいな話でしょう…しかし現在僕にとって一番大切で、恋し愛してるのは照子さんです!真実です…信じて下さい…お願い…!」

 浅井が言い終わるなり、若宮は浅井の肩から頭を持ち上げて下を向いた。あの楽しそうだった数分前とは別人の様に考え込んで寂しそうな様相であった。若宮は何も話そうとし無い。浅井は若宮の方を向き、両肩に手を当て身を起こさせて若宮の顔を見ると、目を半開きにして浅井を見てそして又下を向いた。

「何も、その女性の為に、照子さんと如何とかなどと言って無いよ!もちろん、これからも今迄通り貴女と会いたい、恋したい、僕が世界で一番愛してるのは照子さんです…唯この事を貴女に話しておきたかっただけなんです。誤解しないで欲しいと最初に言ったでしょう!」

 若宮は依然と口を開かずに下を向いている。浅井は如何話せば理解して頂けるか悩んだが解ら無かった。〝ああ話す必要が無かったんだな…しかし若宮さんは何を考えているんだろう…〟浅井は若宮の肩から手を離して前方を見詰めた。

「照子さん、何を考えてるの?言う必要も無かったろうけど…僕は照子さんには隠さず秘密も作らず真実を話したい一心で…!怒ってる様だったら心から失言を謝りたい!御免ね!」

 若宮は唯々沈黙している。二人の無言状態は数十分続いた。浅井は前方を向き、若宮は下を向いている。浅井はそっと腕時計を見た。

「じゃ帰ろうか…?もう九時だし…」

 と浅井は気不味そうに言ったが、若宮は無言のまま立ち上がった。

「少し腹空いたし、何か食べに行こうか?」

 浅井は若宮に親しみ深く言ったが、若宮は微かに聞こえる様な声で

「私いいわ、帰りますから…」

と言うその声は少し震えていた。

「ああそう、残念だな!じゃバス停まで送りましょう!」

「いいえ、いいわ。ここで…さようなら…」

 浅井はそっと若宮の淋しそうな後姿を見詰めて優しく言った。

「照子さん、本当に悪かったよ!言う必要無かったんだろうけど…気にしないで欲しいな!頼むから…唯々僕は照子さんには秘密、そして隠し事を絶対にしたく無かったからね!」

浅井は必死に弁解した。しかし若宮は涙を流しながら                       

「さようなら」

と言い終わるなりすっと振り返り、小走りに浅井から遠ざかった。浅井は若宮の後を追ってバスに乗るまで見届けた。そして浅井は大声で言った。

「照子さん、好きだ!愛してる!気を付けて帰ってね!」と。

 浅井は茫然と若宮が乗ったバスを見ながら、「照子さん」と手を振って叫んだ。〝ああ話す必要は無かったのに…〟後悔の波は浅井にどっと押し寄せた。〝俺は正直に話しただけなのに…〟若宮はもう見え無くなった。兼六公園の池の水面には月は浮かんで無かった。

 あの美しい月が…


     五


 歓喜の心情で和子に手紙を書いて郵送してから二週間が過ぎたが、返信は来無かった。そして、不吉な予感を感じつつ浅井は若宮に電話をした。

「照子さん、お変わり無くお元気ですか?」

「…はい…」

「照子さん今日デイトしようよ、何時もの所で、そして食事をしよう…!」

 と浅井は平常の口調で言ったが、若宮は無言のままであった。

「照子さん、先日僕が話した事、変に誤解しているんでしょう…?気にしないで欲しい。お願いします…失言本当に御免なさい!」

 若宮は猶も話さ無かった。

「照子さん、今日は会ってくれるよね…?」

 浅井は少し強い声で言った。

「今日はどうも…体調も…、又用事もあるんです…済みません…」

 と若宮は小さい声で言った。

「如何して…?」

 と浅井は尋ねたが、その返答は無かった。浅井はその理由を百も承知だった為にそれ以上話さなかった。

「じゃ、又電話するからね。本当に先日の事は気にし無いで下さいね…唯々正直に話しただけです!お願いします!じゃ電話切りますね…さようなら…」

「さようなら…」

 若宮の声は、受話器を耳に力一杯押さえて初めて聞こえる様な音声であった。

 浅井は若宮との恋は、これで破綻したと思った。

 明日は和子から返信来るだろうと期待しながら一日一日を過ごしたが、二十日過ぎても来無かった。〝ああ何故だろう、あれ程に頼んだのに、そして返信出すと約束したのに、何故?しかし明日は来るだろう…いや毎日そんな風に思っているのに何故来無いんだ、何故だろう…〟浅井は以前の様な苦悩の毎日を過ごしていた。浅井は二十一日目の日、思い切って和子に電話をした。和子は在宅していて、思いのほか楽しく会話が出来た様だったが…

「浅井ですけど、お元気でしょうか?」

「はい」

「所で、手紙の事なんですが、二十一日過ぎても来ないので…失礼ながら電話させて頂きました」

「済みません、最近忙しいんですよ。教育実習があってね」

「ああそうなの…しかし手紙は一時間もあれば書けるでしょう」

「ええ、そうですけど…いざ書こうとしても如何しても書け無いんです。如何書けば良いのか迷ってね。それに、私浅井さんを全然記憶に無いでしょう、だからもう…」

「その気持ち理解出来ますよ…何でも良いですよ。川之浜から何の様にして岐阜に来たのかなど…」

「ええ、しかし変な気持ちに成るんですよ…全然知らない男性に手紙を書くなんて…」

「そうだろうけど…川之浜小学校の同級生だと思って…又僕は自己紹介したんだから…何を書いても良いですよ…」

「じゃ、〝拝啓、お元気でしょうか?かしこ〟と便箋に二行程書きましょうか?」

 浅井は笑って、そして和子も大笑いした。

「それは手紙じゃ無いよ。もうちょっとだけ手紙らしくね!ハハハ」

 浅井が笑うと和子も笑うのであった。

「うん、如何しよう…じゃ考えますから…」

「じゃ今度こそ必ず下さいね…お願い致します。ではお元気でね。さようなら」

「どうも金沢から電話して下さって、ありがとうございました。さようなら、浅井さんもお元気でね…さようなら」

「いいえ、こちらこそ失礼して、本当にありがとうございました。再びさようなら」

 浅井はゆっくりと受話器を置いた。そして、気落ちする心の中で何故か解ら無いが僅かな希望も湧いて来た。浅井は一人で居るのが淋しく苦しく為り、野上に電話をして「今からお前の家に行くから」と伝えた。野上は浅井の心情を読み取っていた。金沢駅近辺に在る野上の家に着くと、既に十時近くに成っていた。野上は明日の授業の予習をしていたが、浅井が来てからはそれを中止し、直ぐ野上は浅井の好きな紅茶を持って来て浅井に向かって言った。

「夜遅く突然に来て何だ?和子さんの事だろう」

「おお、その通りだ。まあこの事は後で話すよ。別の話をしようじゃないか。野上ウイスキーを少し飲ませよ」

 野上は「おお飲めよ」と言いながらグラス二個と上等のジョニーウォーカー黒ラベルウイスキーを浅井の前に置いた。浅井はぐいっと一息でグラス三分の一程を飲み、お互いに野球の話と世間話をした。一階に在る柱時計が夜中の十二時をボーン、ボーン…と十二回打った時「さあ寝るか、布団を被せて横に成るか」と布団を敷きながら言った。「ああ眠いな」と野上は照明を消したが、浅井は天井を見詰めながら話した。

「実はな、今晩此処へ来る前に和子さんに電話したんだ。まあ、何故返信頂け無いのかと聞いたんだ、それに対して教育実習があるから忙しいんですと言ってたが…」

「ほう…」

「しかし朗らかで賢明な女性だな!今日も笑っとったわ。やはりお前が言った通りだった…和子さんにとっては、顔も知らぬ男性に手紙を書くのは本当に変な心情に為るらしいな、何を書けば善いのか解らないらしい…」

「それは当たり前かもしれん…」

「それじゃ、拝啓、お元気ですか?かしこ、って書いて返信出しましょうか、などと言ってたよ…馬鹿らしい!」

「いや仕方無いな、彼女の気持ちに成ってみればな…だから言っただろう。あの岐阜に行った時会うべきだったんだ!京都に行くなと忠告したのに…あの時和子さんと会っていればな…今は…」

「もうその事は言うなよ。仕方無かったんだ。しかしあの時会ってくれと言ったら会ってくれただろうか?」

「それは解ら無いが、多分会ってくれたと思うよ、多分な」

「そうかな…」

「しかし、もう和子さんに関してこれ以上悩むのは止めよ!身を滅ぼすだけだぞ、俺もお前を見てると哀れに成って来るよ。言うちゃ悪いがこんな神秘的な事象に因って…その上若宮さん、あんな善い女性とも駄目にして!」

「俺も止められるものならすぐ止めたいよ。しかし考えて見ろ、小学校二年の時会っただけというのに、ここまで実現させて…俺も色々経験したが、これだけは俺にとっては実践するしか無いんだ。俺もこれ以上一喜一憂したく無いよ!忘れられるものなら今でも本当に…しかし俺の瞑捜された女は何時も俺に押し掛けて来るし、その度に俺はな…どうしようも無いよ、俺の今までの人生に於いてこの事象は一番重大な事だっただろうな…しかし…本当に若宮さんには悪かったし…俺も後悔…そして残念だ…」

 浅井は一言一言区切る様に話した。闇夜の中で、浅井は悲しさが絶頂に達し今にも涙が出そうに為った。

「しかし浅井、若宮さんも悲しんでいるだろうな…お前に気を使ったんかもしれないし、しかし女って不思議な生き者だな…お前の言ったことは当然だと思うぞ…女は魔物だな…」

「お前もそう思うか?俺は正直に言っただけなのに…話しても断るし…もう駄目だ」

 野上は暑いらしく、掛け布団を足で足先の方に押しやっていた時、柱時計は〝ボーン〟〝ボーン〟と二時を打った。野上が「おい、もう寝よう」と言って静かに成って、浅井は天井を見ていると何時の間にか睡眠状態に入っていた。

 和子からの返信を、受け取れる筈が無い落胆の気持ちと受け取れる願望の気持ちを抱いて待ち続けたが、夏休み直前になっても来なかった。その上若宮の下宿屋に電話をすると、若宮は浅井に通知せずに転居していた。下宿屋の家主に転居先を訪ねたが不明であると説明され、浅井は全てを失った真情に為った。

 浅井は、七月初めから夏休みに為るので休み期間の計画を考えていた。休みに入って直ぐの二週間を野球合宿前の筋力強化と遠征費用を蓄える事を兼ねて、鉄工所でアルバイトをし、それから十日間石川県七尾市のお寺に宿泊し、七尾高校の野球場で練習を行い、その後石川大学医学部野球場で調整をしてから、八月五日から始まる西日本医学部総合体育大会に臨むのである。今年は岐阜大学医学部が主幹大学であったが、浅井は以前からこの事を知っていて楽しみにしていた。大会前迄に和子と交際が出来る状況に成っていたら、大会の日々に和子に会える事を夢見て、切望していたのである。

 浅井はこの大会中の日が、和子と今後関知出来るか如何か決定する最後の機会だと密かに考え、何の様にすべきかを熟慮し、そして熟慮を重ねる日々を過ごしつつ…。浅井は岐阜に出発する五日前に、唯悲愴感のみが漂った五通目の手紙を和子に書いた。


 拝啓

 真夏の暑さが厳しい日々ですが、貴女はご健勝の事と存じ上げます。

 私は身勝手に貴女の所在を捜し求め、約五ヶ月間に今書いているのを含めて五通の手紙と三回の電話に因って、私自身の事と且つ貴女への思いをお伝え致しました。しかし、当然だろうと私は今思っているのですが…あれ程返信を切願したにもかかわらず、一度も頂けませんでした。残念です…。そして、私は何故貴方に会うために、貴女の下宿屋にお伺いし無かったのか…又どうして貴方に会って下さいと、直接的に切願し無かったのか…今本当に後悔しております!

 さて、再び手紙を書いたのは、八月五日から岐阜市で、岐阜大学医学部主幹の西日本医学部体育大会が実施され、私は野球大会に参加致します。大会が終了致すと同時に、貴女に最後かもしれない電話をさせて下さい、お話ししましょう、そして可能なら会って下さい!これ以上和子さんにご迷惑をお掛けするのは如何なものかと… …。其の頃、貴女も夏休みでしょうが、是非下宿屋に居て欲しい!お願い申し上げます。では、お元気にお暮らし下さい。               敬具         

 橋本和子様                           浅井眞之

                              

 浅井は翌日神に祈りながら投函した。


     六


 浅井は最後に成るかもしれないこの機会を如何なる手段を駆使しようかと考える内に、一時の嬉しさと一時の絶望感が、輪転機の様に回転していた。十四年間の浅井の〝瞑捜された女〟の結晶とも言うべき一瞬が、ゆっくり、ゆっくりと浅井の真髄を削る様に押し寄せて来た。そして岐阜市に於いて八月五日から大会が始まった。

 野球は午前中に二回戦で敗退した。その瞬間、浅井のやるべき最後の手段を実践する時が来た。恰も戦争に於ける激戦地に出兵する一人の兵士の様な心境であった。真夏の太陽は容赦無く照り付けていた。〝ああ…何故、何の為にこんな痴人的瞑捜を繰り返せねばならなかったのか…〟浅井は冷静に考えた。野球道具などの荷物を片付けた後、宿泊ホテルで反省会を兼ねて細やかな昼食会を催して解散した。〝遂に来るべき事象が来たな〟と浅井は思った。

 浅井、野上そして田中の三人は特別する事も無く、夕暮れ前の幾分混雑している市街を散策した。近辺の喫茶店に入り、コーヒーを飲みながら野球大会の事と世間話をしたが、野上も取り分け和子の事を話そうとし無かったし、浅井は全く二人の話に興味も無かった。喫茶店を出た時、

「浅井、じゃ俺達金沢に帰るから、ここで別れようか」

 と野上が如何にも浅井に気遣って言った。

「そうだな、じゃ俺も適当に帰省するから、グッバイ、田中元気でな、グッバイ」

「グッバイ、浅井気を付けてな…」

 浅井は二人と別れて、反対方向に歩いていると、後ろの方から野上が走って来た。

「浅井、俺も要らぬ事は何も言いたく無いが、唯言いたい事は、平常心を失わないで感情的に為るなって事だな…それに…」

 浅井は野上を見詰めて、一言「おう!ありがとう」と言って浅井はゆっくりと歩き始めたが、野上は立ち止まって浅井の後ろ姿を暫く見詰めていた。

 浅井は岐阜駅前の公衆電話ボックスに来た時、その電話を凝視していた。〝和子の下宿屋に直接訪問しようか…いやそんな事は出来無いぞ…失礼且つ非常識だろう…和子は驚くだろう…その為に…〟そう考えた揚げ句に、浅井は電話ボックスに入った。浅井は六月一日に初めて和子と話した電話ボックスである事に気付かない程頭は困惑していた。ゆっくりとダイヤルを回した。そのくるりと回し、手を離すと自動的に元の位置に戻る単純な動きが、浅井にとっては心身に浸み込む様な運動の法則であった。〝ブー〟〝ブー〟と相手を呼び出している呼び出し音が聞こえたが、四回鳴った時十円銅貨が〝ガチャン〟と落ちる音がした。〝ああ!〟と魂の中で叫んだ時浅井は口を開いた。

「小川さんの御宅でしょうか」

「ええ、そうですけど、何方でしょうか」

「私、浅井と申しますが、橋本さん居ますでしょうか」

「はい、ちょっと待って下さいね、呼びますので」

 受話器を台の上に置いたらしい音が聞こえた。「和ちゃん、電話ですよ」と言う声が小さく聞こえた。〝和ちゃんか…この名前も…〟受話器を取り上げる微かな音が聞こえると共に、浅井にとって最終であるだろう事象が始まろうとしていた。

「橋本です」

「橋本さんでしょうか、僕浅井ですけど、再度手紙とか電話して失礼しております。御免なさい」

「いいえ、こちらこそ約束を破って、勝手な事をして…」

「今日午前中に野球も二回戦で敗退しましてね、僕もこれから愛媛に帰省しようとしている所なんです。それで電話したんです」

「ああそうなの、負けたのね、残念だわ、すごく練習したんでしょう」

「そうですけど、しかし強いチームは沢山ありますからね」

 短時間沈黙が続いたが、和子が言った。

「これから愛媛に帰ると、実家に着くのは…明朝いや昼頃に成るんですか?」

「そうですね、寄り道をしなければその頃だろうね。しかし僕は今晩、大阪の親戚の家に泊まるんです。二日程大阪で遊んでから愛媛に帰ろうかと思っているんです」

「そうなの、遠いからね…」

 また短時間沈黙が続いたが、浅井は鮮明な声でゆっくりと話し出した。

「今更、貴女に会って下さいとか、返信下さいとお願いするのは無駄な事でしょう…ね」

「うう…ん」

「何度か貴女の下宿屋に訪問して、貴女に会う事を考えましたが、貴女の事象を考えると、出来ませんでした…私は自分が…こんなに弱者とは…悔やみました…」

 沈黙が続いて和子は言った。

「本当に済みませんでした。私も何度も手紙を書こうとしましたが、如何しても書けませんでした」

「ああそうですか、僕も貴女の心情解らない事も無いんですよ」

「うう〜ん、私も本当の事言って、浅井さんて何の様な人なんだろう?会ってみたい気持ちは常に有るんですよ…然し乍ら…、けれども…私は熟慮したんです!その結果…浅井さんの瞑捜された女と現在の私とは本当に違っていると思います。それ故に今の浅井さんの心情を幻滅させたく無いという気持ちが有意に成って…浅井さんが、橋本和子という女性を瞑捜によって創作した女性のままに、私を思われ通して頂ければ私は本当に幸せなのです…、その方が…お会いしたら、唯浅井さんの真情が傷付くだけだと思います…そして浅井さんが落胆するだけだと思います…。本当に勝手な事を言って済みません。だけどこれは私の本心なのですよ…ご理解して頂ければ私は嬉しく本当に幸せです…浅井さん…私のこの言葉を信じて下さい…ね…」

 浅井は一心不乱に聞いていた。和子の声は震えて涙声であるのに気付いた。

「そうですか…僕は何も言え無く為りました…が僕は今からでも貴女の下宿屋に訪問したい!何故僕は貴女の下宿屋に訪問し無かったのか!僕はこんな弱い気性を情けなく思って…僕は貴女の事を色々と過剰に、余りにも考え過ぎたのでしょうか…貴女は僕と会って逆に不幸に為りはしないか…とも…考えました…自分の事はさて置き、和子さんの事ばかり考え過ぎました!もっと単純に気楽に言動すれば良かったのかな…と…反省と後悔が…又友人から助言と忠告を受けて…浅井!お前は馬鹿か!と言われた事も有りましたよ…でも私は、和子さんと瞑捜された女は合致してると確信しております…」

 浅井は興奮する心を必死に押さえた。数分間沈黙が続いて、浅井は鈍りつつある頭で和子の事を考え、最後の声を聞き取ろうとした。

「じゃ最後に…貴女を〝カズチャン〟と言いますが宜しいでしょうか…宜しいね!ではカズチャンに関してお尋ねしても良いですか…?」

「ええ、善いですよ…」

 と和子は跡切れ跡切れに話した。

「答えたく無かったら結構ですからね…先ず何の様な顔をしてる?可愛く、天真爛漫な性格でしょう!」

「そうでしょうか…ううん解ら無いし、如何言えばよろしいでしょう…か?…」

「いや、済みません、次に身長、体重など体型は?」

「身長1m55cm、体重など他の事は想像にお任せします…」

「そうね、将来は岐阜で教職者に成るんでしょうか?」

「ええ、今の所はね…」

 もっともっと、全てを聞きたかったが、浅井は次第に近付くこの会話の終結を恐れてか、逆に何も言え無く為ってしまった。沈黙が続いた…浅井は心身を振り絞って言った。

「他に聞きたい事は沢山有りますが、如何もね…一つお願いが有ります…それは…僕が今までカズチャンに実施した事は、全て僕の本心から湧き出て来た事ばかりです。そして真実です。そして僕は真剣に考慮した事許りです。これだけは信じて下さい。僕も何時かは貴女を忘れるかもしれません。又一生忘れられ無いかもしれません。何時か貴女に偶然に会うかもしれません。僕は再会出来る事を一心不乱に祈っております。ああ…そうだ…今僕は夢物語が頭に浮かびましたよ…それは、カズチャンお互いに長生きして、五十年後に会いましょうね!浅井眞之を絶対に覚えていて下さい。絶対に忘れない様にお願い致します…!」

 和子は笑いながら言った。

「本当に夢物語ですね…でも、もし実現しましたら…とっても幸せ…素敵な…物語です…ね」

 二十秒程沈黙が続いた。

「じゃ、カズチャン…善い教師に成って下さい。健康にして素晴らしい人生を送って下さい!五十年後の再会の為にも」

「はい、本当にありがとうございました。心から感謝致します。こんな私に…私も浅井さんが立派な医師に成られます様、心からお祈り致します…頑張って下さいね…お元気でね…御健勝にお暮らし下さい…ね…」

「はい、ありがとう!ありがとう!ではさようなら…カズチャン…五十年後に絶対会いましょう!さようなら」

「さようなら…浅井眞之さん…是非会いま…しょ…う、さよ…な…ら」

 全ては終了した。長い苦に満ちた、その中で微かな光を捜し求めた十数年間に比べて、その苦の後に来るべきはずだった喜びは何と短く儚かった事か…。

 浅井は受話器を持ったまま、暑い電話ボックスの内で身動きせずに立っていた。ガラスの壁にぐったりと疲れ果てた様に、目を閉じ凭れ掛かっている。しかし浅井は全く汗をかかず、むしろ体は冷たく成っていた。倒れる様に浅井は入口を聞き歩き始めた。何処へ行くとも解ら無かったが、無意識に足は駅に向かっていた。改札口の真上にある時刻表を茫然と見詰めた。八時二十三分発大阪行きと表示していた。浅井は列車の窓際の席にゆっくりと座った。〝ジィーン〟と列車が発車する合図のベルが鳴り始めた。

〝ああ終わりだ!俺は何をしたんだ…!終わったんだ、終了したんだ〟と繰り返し、ベルが鳴り終わるまで叫び続けた。列車はゆっくりと加速度を増して走り出した。浅井は遠くなる岐阜市をぼんやりと、何時迄も見ていた…。



     後書



 若者は依然として、両手を顎の下に置いて恐ろしい顔をして、車窓から暗闇を見詰めている。若者の目の中は光っていた。目の縁にも光る物があった。若者の前座席には何時の間にか品の良さそうな老母が座っていて、若者のその奇妙に光る物と、若者のぐったりと疲れ果てた姿を見て「ちょっと」と若者に話すが、若者はそれに気付か無いまま外を見ている。その老母は若者の両側大腿部を軽く叩きながら「ちょっと」と言う言葉に、漸く若者は気付いたらしく、ゆっくりと正面を向いた。その老母は若者を見て、

「何か悲しい事でもあったんですか?目に涙を浮かべているでしょう…」

 心配そうな顔をして尋ねた。若者は驚いて手を目に当てると確かに涙が出ていた。若者は慌てて目の涙を手で軽く拭いて言った。

「いや別に何でも無いんです。ご心配掛けて…ありがとうございます。済みませんが席取っといて下さい」

 と口を半開きにして立ち上がり、揺れる列車の通路を目線を下に向けて歩き出し洗面所に行った。そこの鏡の前で鏡に写った自分の顔を見詰め、そして両目を凝視した。すると、兼六公園に於いて抱擁し合った相思相愛の照子さんと、十数年間瞑捜された女和子さんが、両目の涙水にそれぞれ浮かんで投射されていた。目を閉じると、今迄目に溜まっていた涙が大粒と成り頬の上に蛇行を描いて下に落ち、しっかりと閉ざされた一直線の唇の上に広がっている。

 若者は立ったまま、鏡に写っている自分の顔を見ながら今までの若者の人生を閃光の如く振り返った。若者は叫んだ。「ああ!俺は何をしたというんだ…!瞑捜に耽って十数年…終わったんだ…!」と。

 若者は洗面所を出て、乗客が乗降する扉の前で扉のガラスを透視して窓外を見た。

 若者は口を閉じ、列車の揺れにも負けず、両足を広げて踏ん張り、微動ともし無い仁王立ちの様相のまま、暗闇の外界を心身共に空虚にして見詰め続けていた…。


                       ・昭和四十三年十一月九日・ 



    あの日から二十一年後


 浅井は諸事情に因って、香川県高松市に於いて開業医に成った。この頃大学同級生の増田が音頭を取って、ゴルフと宴会を楽しむ〝四八ゴルフ会〟を発足した。昭和六十三年九月十八日に第一回の会を計画実施され、片山津ゴルフ倶楽部でゴルフを楽しみ、その夜は山中温泉やましろ屋に於いて宿泊と宴会を執り行った。

 増田幹事の乾杯の発声で宴会が始まり、先ずゴルフの表彰式を行い、各賞を受賞した者の弁を楽しく聞いた後会食に為った。北陸産の素材を主に、誠に美しく盛り付けた美味しい料理を食し、旨いお酒を飲み、楽しくゴルフ談義と学生時代の思い出話で盛り上がった。浅井は元来酒豪であるが、宴会の雰囲気に飲まれて少々酔っていた。宴会の最中に、和服姿の美しい女将が入室し、正座をして来会者に向かってお礼を申し上げた。その後女将は幹事の増田の横に座って、増田と近辺の者と笑顔で話しながらお酌をし、再度お礼を言って退室した。仲居の給仕と御世話も素晴らしい対応で、一段と料理を美味しく味わった。浅井は美しく可愛い女将を見詰めていると、過去に会った事が有る女性…?と思いつつ…真逆、照子さんでは…?と思った。

 宴も中締めの頃、或る仲居が浅井の後ろに来て右肩を触り合図し、席上で後ろ向きにされ、仲居は折り畳んだ紙を差し出して言った。

「浅井さんでしょうか?この文を女将さんから預かって参りました。どうぞお読みになって下さい」

 浅井はその文を受け取ったと同時に、この文は照子さんからだと確信した。文の内容は〝浅井さん、お久し振りです。照子です。覚えておりますか!一階の応接間でお待ちしております…〟と書いてあった。浅井は酔いが醒める程に驚きと歓喜の心情が絶頂に達した。〝やっぱりあの女将は照子さんだったんだ〟浅井は直ぐ一階の応接間に急いで行った。照子さんはソファーに座っていたが、浅井を見付けると立ち上がり、笑いながら少し歩いて浅井に近付いて来た。〝ああ!照子さんだ〟と心の中で叫び、嬉しさが込み上げ、右手を差し伸べて強く握手をしたまま、一瞬言葉を失いそしてお互いに顔を見詰めて嬉しさをさらけ出した。

「やっぱり照子さんだったんだね、お元気でしたか?嬉しい!照子さん学生時代と全く変わらず…若くて…可愛いよ!一段と美しく成ったね」

 照子さんはニコッと笑って話した。

「今夜はありがとうございます、浅井さんとこんな風に会えるとは夢にも思いませんでしたよ…私も本当に嬉しいです…」

 浅井は不図、兼六公園で和子の事を照子に話すなり、二人の仲が気不味く為り、恋愛が破綻したあの日を思い出した。

 始終、照子さんは可愛く微笑んでいた。浅井もソファーに座って楽しく嬉しく会話を続けた。浅井の心は高揚し過ぎて、照子さんにお話ししたかった過去と現在の本音を話す事が出来無かった。

 翌日、やましろ屋を出て帰り際に、照子さんはあの可愛い顔で浅井に言った。

「浅井さんお元気でね、又来年来て下さいね、待ってますよ…」

 と幾分小さい声で言うなり浅井が言った。

「照子さん絶対に来るよ!」

 浅井は照子さんの顔を笑顔で見詰めながら、照子さんの手を優しく握った。照子さんは嬉しそうに笑って、

「ありがとうございます、必ず来てね…」

 と言って礼をした。浅井はタクシーの中から照子さんを見つつ、見え無く為る迄手を振った。

 その後四八ゴルフ会は、その年の計画通りに実施され、浅井は照子さんに毎年少なくとも一回は、再会出来る事を最高の幸せだと思った。

 浅井は照子さんと会って嬉しく楽しい会話をすると、必ず思う事象があった。それは、あの学生時代に恋して愛した可愛い照子さんと、永久に恋し愛し合っていたら、何の様な豊満な人生を歩んだだろうか…と想像する事である。

 浅井眞之は、今、自分と若宮照子さんの短い期間の物語を振り返って思慮すると、何時何時迄も照子さんを回顧して、思慕する人生であったそして人生であると結論付けた。

 それでも、浅井は今からでも照子さんと、豊饒の恋愛をしたい切ない希望を現在も懐き続けている。



     あの日から五十四年後


 あの日以後、和子さんを瞑捜する事は、直後は殆ど無く、その後は全く無かった。

浅井は不図、和子さんに最後の電話をした時、〝カズチャン、五十年後に会いましょう、浅井眞之を忘れないで下さい〟と、約束したあの日を思い出した。それから、高校時代の友人知人達、そして川之浜小学校且つ高校の後輩の者にも、和子さんの消息を捜して欲しいと希望を言ってお願いした。真先に中川に話して相談した。そして中川と浅井の高校の同級生である某女性の二人が主体に為って、各自真剣に御助力して頂いた。その結果、和子さんの八幡浜市立小学校在学中、多分五年生頃に撮影した写真のコピーを手に入れた。但し、住所など詳細な事は、もうひと踏ん張りで判明した筈だったが、或不可解な事情によって某女性が中断した。浅井は本当に残念な心情と為り、最後の手段として探偵事務所に相談し依頼したが、資料不足の為に困難な件であると言われた。尚、写真に写っている和子さんは、浅井が瞑捜して創作した女性と似ていて浅井は大変喜んだ。

 浅井は再び和子さんの事象に関与して、様々な人間像を見せられ、其の結果、嬉しい事と悲しい事を味わって雑多な人間関係を経験した。最大に嬉しい事は和子さんの写真のコピーを手に入れた事である。そして最大に悲しい事は、六十数年間親友であった者と、些細な不可解な相互間の誤解と第三者たる某女性の介入に因って、気不味い関係に成った事である…。浅井は其の真相を……。

 浅井眞之は、今、自分と橋本和子さんの物語の全貌を振り返って思慮すると、〝喜怒哀楽〟の心情を繰り返した人生であったと結論付けた。

 それでも、浅井は和子さんと会いたい切ない希望を現在も懐き続けている。


                        ・令和三年十月十日 補完・ 


                       ・令和四年一月十八日 完結・

 






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瞑捜された女 德藤和之(本名:徳野眞之) @mmtt2162

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