インス・ムアレ夫人
真正面から見るのは初めてだったが、この面差しは見覚えがあった。ロティが動くより先にジュジュールが駆け寄った。
「あ、アンタ!こんなところにいたのかよっ」
ジュジュールとピクスの姿を見つけると、ムアレ夫人は顔をひきつらせながら必死で左手を突き出した。野菜くずが火の玉と化して宙に浮いた。
「大丈夫ですよ、美しい人。彼らはボクの知人です。もう、あの怪しい結社とは縁を切っていますから」
イラはゆったりと微笑んだ。
「あなたは……」
ムアレ夫人が少しだけ表情を緩めた。野菜くずが次々と地面に落下し、黒こげになる。
「お借りしていた物を返しに来ました。こちらとこちら……たいそう役に立ちました。あちらの方も驚いていましたよ」
イラは鳥の羽と破の宝珠をムアレ夫人の前に置いた。ムアレ夫人は食い入るように美麗な男を見つめた。
「あなたも、まさか……幽暗なる
イラは無言でムアレ夫人に一礼する。二人のやりとりを見ていたウスライが目を細めた。
「あの道具は、ヒタムから逃げる際に足止めにつかったものだな」
それに対し、ペンデックがため息まじりに応えた。
「ああ。この幽暗なる者は、アイジジの森で腹痛の馬を見つけたときに、ご夫人の足取りも見つけたんだ。イラ、彼女がカウで追っ手に襲われたときにも手引きをしたな?ついでに手錠も外してやったのか」
しかしイラは何も答えず、ただ微笑むと、ケル・カを連れてそのまま消えてしまった。しばらく放心していたムアレ夫人が、地面に置かれた羽と宝珠を手を伸ばす。
その顔が苦痛に歪んだ。
「うっ!」
突然、羽がくすんだ青色に変わり、風を伴いムアレ夫人を囲った。すると、夫人はその場に座り込んだまま、額に汗を浮かべ始めた。
「初めまして、かな。インス・ムアレさん」
ペンデックがゆっくりとムアレ夫人に近づく。
「残念。そいつは、俺の宝珠と魔鳥の羽だ。アンタのはこっち。一つ試させてもらおうとね、さっきのいけ好かないヤツから預かった。しかし、眼力は強くなさそうだね」
術師の右手には別の破の宝珠と羽が握られていた。確かに良く見ると、地面に置かれたのは少し小さい羽根だった。ワタゲの羽根だ。
「……誰ですか」
ムアレ夫人はペンデックを睨みつけたが、もはや疲労の色の方が勝っていた。
「あなたも術師なのですね」
「トゥラヒールに住んでいながら俺を知らないのか」
座り込んでいたムアレ夫人は両手をつき、ついに、その場に伏せてしまった。
「ご夫人」
ペンデックが座りながら、青白い女の顔をうかがった。
「放っておくと良くないと思わんかね。呼び出した責任、果たしてもらおうか」
術師が右手で指を鳴らすと、夫人の周囲に漂っていた羽が地面に次々と落ちて消えた。ムアレ夫人は息切れをしながらも、身体を起こすと、ペンデックを上目使いで見つめた。ペンデックは、ムアレ夫人の破の宝珠と魔鳥の羽(ワタゲのより細長い)を手渡そうとすると、夫人は首を横に振るだけでそれを受け取ろうとはしなかった。
「私は、もう術を使うつもりはないのです」
「そりゃ困る」
ペンデックが間髪入れずに言った。
「わかっているはずだ。アレを封印できるのは、アンタしかいないんだよ」
ムアレ夫人は涙を落とした。
「私は何の力もない術師です。現にあなたの術も破れなかった。カウ村の人たちも助けられず、自分だけ逃げた。私は、私は」
ゆっくりとロティはムアレ夫人に近づき、膝をついた。夫人もロティの顔を真正面から見つめる。ついに、探していた人物と対峙した。
ロティは腰の袋から箱を取り出し、ムアレ夫人の目の前につきつけた。
「これを、覚えていませんか」
夫人は目を見開き、箱を凝視した。
「あなたが落としたこの箱、おれが拾いました。あの日、あなたがジュジュールとピクスに誘拐された時、おれも湖のそばにいたんです。この箱の中身も知っています。ここにいる全員が、みんなであなたを探していたんですよ」
ムアレ夫人はロティを見つめた。黒い瞳に力はなかった。
「……あなたは」
「パン屋ラジンの息子、ロティと言います。トゥラヒールから来ました」
「ラジン……あの親切なパン屋さんですね」
「ムアレさんのことは両親から聞きました。よくない噂があるのも知っています。関わるなと言われたのに、関わったおれが悪いのもわかっています。あなたを責めるのはお門違いかもしれませんが、おれは、この命の宝珠のせいで、大切な人を……弓矢の恩師を失ったんです。あの人の無念を晴らすためにも、本当のことが知りたい。そして、こんな恐ろしいものを早くこの地上から消したいんです。どうして、あなたは幽暗なる者などを呼び起こしてしまったんですか。どうして」
無意識にロティはムアレ夫人の身体をゆすっていた。我に返り、慌てて謝る。
夫人はただ地面の一点を見つめたまま動かない。
「最初は……術師の力が欲しかっただけなのです」
やがて、ゆっくりと言葉がつむぎ出された。
「私はキャースグリーで主人と暮らしていました。彼は敬虔なマリジャ教徒で、神殿に仕える身としてヒタムに出入りしておりましたから、私も同行することが何度かありました。あれは三、四年前だったでしょうか」
夫人の眼差しがペンデックに注がれた。
「ヒタムの町に黄昏の術師会という結社が設立され、ドブロという人物が中心になり、方円術を一般人に教え始めたのです。興味本位で術を習得した人々の話を聞きました。いつしか私自身もそれに魅了され、夫の了承を得て入会したのです」
驚いたジュジュールが声を上げた。
「旦那さんが許したって?マリジャ教徒はそういうの嫌いかと思っていたのに」
確かに意外ではある。夫人はうなずいて話を続けた。
「使いようによっては方円術は人助けになります。人を救うことはマリジャの教えの根幹……私もそのために習得したいと決意したのです。でも私は落ちこぼれで、火を灯すことが出来るようになるまで随分とかかりました」
ロティは馬の縄を焼き切った痕跡を思い出した。当時が落ちこぼれでも、今ではピクス以上の使い手なのだから、だいぶ頑張ったのだろう。
「ある晩でした」
ムアレ夫人は再び地面に目を落とした。
「主人が私に術師結社を脱会するように言ってきたのです。聞けば、ドブロは方円術を扱う術師ではなく、催眠や洗脳を得意とする催眠呪法師で、育てた術師を洗脳し、わざと各地で災いを起こさせながら、それをまるで救世主のように助けるなどして、一般人からお金を巻き上げていたらしいのです。その被害者が主人に相談したようで、彼は密かに調査を進めていました。ですが、私ももう少しで術師(として自信が持てる段階まで来ていましたから、彼の説得に応じるフリをしながらも修行を続けていました。その後も、ドブロたちの自作自演の術は人々の心を魅了し、結社への志願者が後を絶ちませんでした。それを、ついに私の夫が糾弾したのです」
ムアレ夫人は鼻をすすった。
「ヒタムはマリジャ信仰が強い町です。その神官が狂言だと指摘した黄昏の術師会は、町の中で次第に敬遠され始めたのです。その時です。我が夫が神殿の真ん中で何者かに襲われました。犯人はタルバカ地方からきた術師で、それと対峙して捕らえたのは黄昏の術師会だと、ヒタムは大変な騒ぎとなりました。しかし、実際は違うのです。タルバカは炎の神を崇める国、術師もそれなら炎を使って夫を襲ったはずです。しかし、夫の身体は血に染まっていました。間違いなく術ではなく刀剣類によって襲われたのです」
目を閉じて聞いていたウスライが、静かな声でムアレ夫人に尋ねた。
「……聞いてきた話と違うようだ。ムアレ卿は、その時は」
「はい。一命を取り留めました」
夫人は涙を拭うと、一同に向き直った。
「彼らは単に脅迫するために夫を襲ったのです。これ以上危険な目に遭わせたくなかった私は、キャースグリーで療養するよう言いました。もうその頃には、黄昏の術師会は権威も知名度も高まっておりましたし、ヒタムの住人もマリジャの神官の仇討ちをしたと、手の平を返したようにドブロを讃え始めていましたから。しかし、夫は床につきながらも再び結社を糾弾しようと支援者を募り始めたのです。私はマリジャ神殿の方にも相談をしました。もはや、神殿側が黄昏の術師会とどういう関係を結んでいくか次第だったからです」
ピクスが眉をひそめた。
「あなたは、それでも修行を続けていたの?」
「確かに私の中でも黄昏の術師会への不信感が起こり始めていました。しかし、本当に糾弾するなら内部から崩すしかないとも考えたのです。私は、マリジャ神殿からの調査協力を仰ぎながら、結社内では従順な術師のフリをしていました。次第に力も認められ、幹部から任務を命じられるようにもなったのです。今、思えば」
恐ろしい光景でした、そう聞こえた。
夫人はため息をつきながら続けた。
「実は、私の夫と同じように、結社を糾弾する人物は他にもいたのです。ヒタムの中だけではなく、各地で反対運動も起きていました。国を挙げて抗議する政治家もいました。それらに対して術で攻撃すれば、結社は犯罪集団になってしまいます。口封じのためには術ではなく武器をもって密かに脅迫や殺戮を繰り返してきたのです。その後始末が私の仕事でした」
「後始末って、どうやって……」
ロティに夫人の弱々しい笑みが向けられた。
「運び屋です。力の宝珠を使うことで、女の私でも重たい物を運ぶことができました。毎回、白い布にくるまれていた荷物、今思えば死体だったのでしょう。人に見つからないように霧結界を張りながら、海や砂漠に捨てるだけでしたが、その手口を見て確信しました。目撃者がいないのです……我が夫も同様に襲われたのです」
「な、なあ。何でそこまでするんだ?真相を知ったからって、女一人でどうにかできるわけじゃねえだろ?」
岩に腰をかけたジュジュールが言った。ピクスもうなずく。
「お気の毒とは思うけど、召還術を使うほどかしら?ご主人と、静かに暮らしていれば良かったじゃない」
「私は」
夫人が言いよどんだ時、背後の草むらから音がした。
ピクスが真っ先に気づく。
「ソハン司祭……」
現れた男はうなだれていた。法衣についた葉を落としながら近づいてきた。
「後をつけて来たのか?」
ペンデックが意地悪く笑うと、ソハンは肩をすくめた。
「ミド鳥は谷の方に逃げたというのに、あなた方は北の渓谷の方へ向かって行ったと報告を受けたんですよ。ここは住人さえ近づかない場所です。ですが、驚きました」
ソハン司祭は夫人を苦しそうに見つめた。
「いつ戻ってきたんだ。インス。心配したんだよ」
夫人は答えない。ただ泣いているだけだった。
司祭は一同に向き直った。
「襲撃事件の際、ムアレを助けて、インスに知らせたのは私なのです」
ウスライが横目でソハンを見やると、静かに口を開いた。
「神殿の事件の後のことは何も知らぬ、そう仰せられていたようだが」
「……貴方たちを完全に信頼するには抵抗があったのです。ですが、事情が変わった」
術師はあくびをした。それを見てソハンは頭を下げて謝った。
「事件の後も、インスが黄昏の術師会に出入りしていたのを知っていました。町の行事などで外に出れば、結社の周辺で顔を見ることもあった。インスの行動が危険を伴うことだと知りながらも、見守っていました。私にはインスの気持ちがわかるからです。私自身、友を守りきれず何もできないことが呪わしかった。しかし、いつかインスとともに結社を糾弾して、町から追放できるよう下準備をするつもりだったのです。ところが、インスは突然消えてしまったのです」
ソハン司祭の視線を受けてムアレ夫人はうつむいて言った。
「ごめんなさい、ソハン。貴方には申し訳ないと思っているわ」
すすり泣きが聞こえてくる。
「夫はある日を境にみるみる衰弱していきました。異変に気づいた時には遅かった。すでにドブロは私の思惑を知っていたのです。誰かに催眠術を使って、夫の元へ届けられる薬品に毒を仕込ませていました。夫は身体の自由も言葉も失っていました」
その手は固く握られている。
「……私は怒りで我を忘れた。ドブロと刺し違える覚悟で、結社に乗り込みました」
ソハン司祭は弾かれたようにムアレ夫人に詰め寄った。
「そ、そんなことが?なぜ相談してくれなかったんだ!」
ムアレ夫人は話など聞いていないかのように宙を見つめた。
「冷静さを失った私に勝ち目はなかった」
黒く大きな瞳から涙が溢れ、口が歪められた。
「私は、ドブロに催眠をかけられ、辱めを受けました。もう、我慢できなかった」
「な、何だって」
ソハンは口に手をあてて硬直した。誰も言葉を発せられない。ムアレ夫人の目は何かを探すように空をさまよった。
「私はあらゆる文献、宝珠、剣、お金すべてを盗んで、夫を連れて逃げました。死体運びで培った結界術のおかげで追っ手を振り切ることもできました。たどり着いたのは、湖の近くにある空家でした。私はそこで、何度も実験をしたのです。失敗するたびに身体中に火傷や切り傷が増えていきました。それでも何度も何度も。すべてはあのドブロに復讐するためです」
ムアレ夫人は、小さく笑い出した。
「そんな姿に絶望したのでしょう。夫は程なく息を引き取りました。ちっとも良い妻ではなかった。けれど、あの時はもうそんなこともどうでも良かった。……ペンデック様、こんな未熟な術師でも、人間として最低の、醜い心を持っていれば、あれを呼び出せてしまうのです。あの晩、悲鳴を上げて逃げ惑う私の首をつかみ、あの者は、こう名乗りました。幽暗なる
ソハン司祭が顔を覆った。ガタガタと震えている。
「インス、嘘だろう?今、何と言ったんだ?」
「ごめんなさい、ソハン。あなたの温情と誠意を、私は最悪な形で無にしたわ。私は悪魔に魂を売ったのです。その後の恐ろしい顛末など考えていなかった。あのドブロだけは許せなかった。夫と私の恨み、晴らせるのなら何でも良かったのです」
ムアレ夫人はペンデックに向き直った。
「その晩のうちに、幽暗なる者バワはドブロを殺しました。私との契約を果たしたのです。ですが、私はあの者を封印する術を知らなかった。命の宝珠は箱に入れて結界を張り、夫の法衣で守りましたが、あの者はこれをいつか取り返しにくると言い残して消えました。それから数週間した後、追っ手が何度か私の家に現れました。その度に結界を張って難を凌ぎましたが、私のような未熟な術師では身体が持ちませんでした。ついに弱りきったところを、そちらのお二人に見つかってしまったのです」
ジュジュールがうなだれた。
「オレたちも未熟だったから逃がしちまったんだけどな」
ピクスが何か言いたそうな顔をしたが、そのまま黙ったまま頬を膨らませた。
その場を少し離れたウスライが、湧き水をカップに入れて戻ってきた。ムアレ夫人に差し出した。
「あの赤毛の少年は、カウ村の人間なのだ。何か言うことはないか」
ウスライの言葉に打たれたように、ムアレ夫人は泣きながら赤毛の少年に謝った。
「私のせいです。村の人たちは親身になって私を救ってくださったのに、私は自分のことしか考えていませんでした。あの時、火が村のあちこちで上がるのを見て、すぐに術師の仕業だとわかりました。自分の結界術が弱まっていることに気づき、急ぎ逃げ出したのです。村を駆け回るうちに、目の前に現れたのが金色の髪をした男性の方でした。森の中を導いて下さり、おかげでキャースグリーの近くに出てこられたのです」
ムアレ夫人は、ジュジュールの前に近づくと手をついて頭を垂れた。
「本当に申し訳ありません。私のせいで、あなたの大切な故郷が大変なことになってしまいました」
目を潤ませたジュジュールは、落ち着かせるように大きく深呼吸をすると、ムアレ夫人に言った。
「オレ、馬鹿だから上手く言えねえけど、もういいよ。村は全滅する前に師匠に助けてもらったし、祖母ちゃんも無事だったし。何よりアンタを取り逃がしたのはオレだしな」
顔を覆い泣き崩れるムアレ夫人の肩にソハン司祭が手を置いた。そして一同を見渡す。
「インスは疲れています。どうか、今日は休ませてもらえませんか。皆さんの部屋も私が用意しましょう」
その言葉に反対する者はいなかったが、ペンデックは一人、山上の暗い雲を眺めていた。
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