出立

 ロティは手製の弓と、コットの形見の矢筒を背負うと外階段から表へ出た。柔らかい日差しが足元を照らし、静かにロティの出発を見守るように思えた。

 昨晩のことを養父母が何も覚えていないのは本当だった。明け方、目覚めた二人に何から話そうか迷ったが、結局ロティはコットのことは伏せて『トゥラヒールを出て、働きながら役人になるための勉強をしにいく』と嘘をついた。ラジンもカヤも突然の申し出に驚きを隠せなかったが、元々自分たちが望んでいたことだっただけに、すぐに喜んで許してくれた。いつ帰ってこられるかわからないとロティがその覚悟を打ち明けた時は、カヤは少しだけ涙ぐんだ。ロティはそれを見て、ウスライが探しているカウの少年を思い出した。彼も家を出るときはこんな気持ちだったのだろうか。

 一階のかまどから湯気が立ち上り、パンが焼ける匂いが漂う。工房のドアを開けようとしたが、結局は深くお辞儀をするだけだった。


 ――いってきます。


 すると、突然そのドアが開き、ロティの頭を打ち付けた。

「痛っ!」

 頭をさすりながら顔を上げると、そこには腕組みをしたラジンが立っていた。

「父さん」

「何も言うなロティ。やはり、お前は神が授けてくれた子だったんだ」

 後ろからカヤも出てきた。

「夢のお告げどおりだよ。ああ、燦爛たるスチル様」

「お告げ?」

 いぶかしんだロティに、ラジンは目を閉じ、うなずきながら静かに言った。

「明け方、お前が町を出て行くと話してくれた後に、ばあさんに話したんだ。わしは不思議な夢を見たと。そうしたら、ばあさんも同じ夢を見ていたんだよ。いやはや、腰が抜けると思ったわい」

「夢の中にね、金色みたいな銀色みたいな髪の毛をした、とっても美しい男の人が現れたの。綺麗な光に包まれて、その人は言ったんだよ。私らの子どもが、西の空に月が残る頃、朝もやの中を旅立つだろうと。それは古から続く破滅の連鎖を断ち切るための困難な道だと。その力を養い捧げるため、私ら夫婦の元に遣わされた偉大なる子なのだと。ああ、きっとあの御方は燦爛たる者に違いないよ」

 ロティは途中から笑いそうになってしまった。

 

 ――イラさん。あの人、本当にペテン師だ。


 イカサマ博打好きで女好きで術師の言うことを聞かない燦爛たる者がいるわけない。老夫婦を信じ込ませて、ロティの旅立ちに力添えしたつもりなのだろう。カヤはロティの手を取り、十万リブを旅の資金として渡した。元から小遣いを貯めていたロティはそれを受け取るまいとしたが、無理矢理に鞄に突っ込まれた。

「私らのことは心配いらないよ。優しいロティや。お前は自分の使命のために、一生懸命に勉強しておいで。立派におなり。新しい下宿先が見つかったら、手紙を書くんだよ」

「ほれ、これも持っていけ」

 ラジンがロティに手渡したのは、焼きたてのカカドの実のパンだった。

「カカドは誕生、出立を祝う時に使うんだ。お前も焼き方を覚えたいと言っていたから、材料も書いておいた。旅先で恋しくなったら自分で焼いて食べろ。これくらいしかできんダメな養い親ですまんな」

 ラジンの声が震えていた。泣いている父の姿を見たのは初めてだった。血が繋がらない赤の他人同士のはずなのに、どうしてこんなに胸が熱くなるのだ。

「ありがとう。ありがとう、父さん、母さん」

 これ以上ここにいると決心が鈍りそうだった。

「いってきますっ!」

 ロティはもう後ろを振り返ることなく駆け出した。朝もやが次第に晴れ、太陽の光が道を照らし始める。弓矢の師匠の家の前に来ると、中はひっそりとし、主を失った家は途方にくれているように見えた。

 涙が溢れそうになる。

 取り返しのつかないことをしてしまった。今までのお礼も言えていない。必死に涙をこらえ、ロティは弓と矢を胸の前で交差し、追悼と感謝の意を表した。


 ――先生、さようなら。


 滲む視界の先、家の屋根に何か白いものが見えた。じっとこちらを見ているようだ。

「ワタゲ?」

 モコモコとしたペンデックの魔鳥はクシャミをすると、ゆっくり飛び上がった。迎えに来てくれたのだろうか。ロティはワタゲの後を慌てて追いかけた。

 街の中心部にやって来ると、あちこちから果物売りや卵売りの声が聞こえてきた。ワタゲはスパイス売りの荷車の上で羽を休めており、ロティを確認すると、再び宙に浮いた。ついていこうとするや、朝市の人だかりに飲まれ、ついにはその姿を見失ってしまった。しかし、よく考えてみれば待ち合わせは橋のたもとだ。中心部とは逆方向である。もしかしたら、餌でも探しに来ていたところへ、たまたま自分と遭遇したのかもしれない。飼い主同様、あの鳥の生態も性格もまったく読めないが、どうせ後ほど落ち合うことになるのだから、ロティは待ち合わせの場に急ぐことにした。

 人だかりを抜けていく途中、突然、誰かに袖を引っ張られた。振り返ると、真っ白な長い髭を生やした小さな老人が立っていた。老人は髭をさすりながら目を細め、

「ほいほい。パン屋の息子さん」

 そう言った。

「は、はい」

「すまんね、呼び止めて」

 小さな老人はロティに近づくと、顔に左手をかざした。

「大変じゃったのう」

 ロティは老人を見つめた。

「あの、何かご用なんですか?」

「ほいほい。そんな怖がらんでも平気じゃい。全部知っておる」

 いぶかしむロティに、老人はうんうんとうなずいてみせた。そして、穏やかな眼差しで、ロティの背後を眺めた。

「過去にとらわれておるのか。前を向け、勇敢な少年。トゥラヒールに伝わる言葉があるじゃろ?『アリの大あご、歯型をつけて良しとする』と。あやつも同じじゃ。強大な相手に本懐は遂げたんじゃよ」

 いきなり老人は、ロティの背に回り込むと、弓の端っこに何かを結びつけた。

「え、あの、ちょっと」

「餞別じゃ。最大限に力を発揮できるように、そしてご加護があるように」

 親指の爪ほどの鈴と、同じように小さく透明な玉が黄色い紐にぶら下げられた。

「気をつけてな」

 そう言い残すと老人は人混みの中をふらふらと消えていった。その後姿が完全に見えなくなり、ロティに思考が戻るまで数分はかかっただろう。老人というのはお節介で人に対して馴れ馴れしいものだという認識はあったけれど、さすがに唐突だし、妙なお守りも勝手に取り付けられた。


 ただ――。


 ロティは橋を目指しながら老人の言葉の一つが気になった。『あやつ』とは誰だ。本懐を遂げるとは何のことだ。考えながら歩いていくと、すでに橋のたもとには、ウスライと座り込んでいるペンデックが待っていた。

「遅い遅い。普通、パン屋ってのは朝が早いんじゃないのかい」

「す、すみません」

 言い訳しても仕方ない、素直に謝った。

「ロティ、両親には上手く話せたか?」

 ウスライの穏やかな声に安堵する。ロティはうなずいてみせた。

「あの、イラさんの姿がないようですが」

「アイツは用がないときはどこにいるかもわかりゃしない。大方、女のところだろうな」

 ペンデックがさっさと橋を渡った。ウスライも続く。出発前に意気を高めたり、団結したりするものかと思ったが、案外こんなものらしい。行先の確認すらないのか。ロティは拍子抜けした。

「ペンデック卿、どうやって向かおう」

「時間をかける必要はないね。アンタが来た道を戻る感じでヒタムに入るとしよう」

「承知した」

 ランバット川のほとりに向かうようだ。ついに、念願の旅が始まった。あの二人はともかく、ロティは初めてのこの瞬間を噛みしめ、両膝を手で叩いた。昨晩、全速力で走ったせいか両足にしびれる感覚があったが、それも今は不思議と心地よい。意気揚々にロティがペンデックの隣に追いついた時、いきなり襟元を掴まれた。

「どわ!な、何ですか」

「パン屋。それどうした」

 ペンデックが弓に触れる。小さな玉が鈴とぶつかって心地よい音を立てた。

「最近の若者はそういうものが好きなのだな。洒落た飾り物だ」

 ウスライがほんの少しだけ優しい表情を浮かべて褒めてくれた。しかし、ペンデックはため息をつくと、目を細めてロティに言った。

「どこでもらった?」

「あの、朝市で」

「白い髭のジジイじゃなかったかい?」

 ロティは老人の風貌を思い出し、何度もうなずいた。

「何でわかったんです?」

「当たり前だ。俺の祖父さんだ」

「えっ?」

 ペンデックが弓に結ばれた小さな玉に触れた。かすかに光を発したように見えた。

「ペンデック卿。それは」

 ウスライが興味深そうにのぞきこんだ。

「こいつは力の宝珠だね。あのジジイめ、小さく削って加工しやがったな。いくらすると思ってんだ」

 術師は頭が痛そうな顔になった。

「あの、どうしてペンデックさんのお祖父さんが?」

「差し向けたのはたぶんイラだ。あの小悪党」

「イラさん?」

「祖父さんはイラと何故か仲が良いんだよ。幽暗なる者と一緒に酒盛りするイカれた術師だ。ついでに言えば、魔物に殺された狩人も、祖父さんとは古くからの知り合いでね。俺は黙っていようと思ったが、イラが口を滑らせたようだな」

 ペンデックはため息をついた、

「まあ、結果的に良かったのかもしれないが」

 初めて老人の意図していたことがわかった。あやつとはコット師匠のことを言っていたのだ。強大な相手というのも昨夜の蜘蛛の化け物のことだろう。圧倒的な力の差だったとはいえ、師匠は矢を二本命中させたのだ。


 狩人としての本懐――意地を見せたということか。


 ウスライが、弓の飾りを見つめたまま言った。

「その老ペンデックは、ロティに何を伝えたのだ」

「えっと、何だか難しいことを色々と言われました。過去にとらわれるなとか、アリの大あごとか、歯形を残すとか……」

「相変わらず祖父さんは小難しい単語並べて子どもを説教するのが好きだな。そんな古い格言が今のガキに理解できるものか」

 ペンデックの苦笑にロティはむきになって応戦した。

「お、おれはちゃんと理解してますよっ!あのお祖父さんも、コット先生が亡くなったことを悲しんでいるんですよ。でも、いつまでも引きずっていないで前を向けと、おれを勇気付けるためにお守りをくれたんです。あぁ、何で教えてくれなかったのかな。ペンデックさんよりよっぽど優しい術師様だと思いましたけど!」

「ふん。その優しい術師様が間違って放った術で、俺は湖までブッ飛ばされたことがあるんだけどな。しかも、探しに来ない。優しいってのは基準が難しいな」

 その時、ウスライが小さく吹き出した。この人、笑うことがあるのか。それを見て、ロティもペンデックも顔を見合わせ笑った。

「さあ、行こうか」

 三人が初めて一致団結したように思えた。この先、何が起こるかわからないけれど、やはり気持ちが上向いた旅にしたいと心から感じた。

「そういえば、ワタゲを見つけました。コット先生の家の屋根に留まっていて」

「パンを食いたかったんじゃないのかね」

 ペンデックが歩きながら魔鳥を呼ぶ口笛を吹いた。トゥラヒールの空をワタゲが飛んでくるところを想像したが、あの白い物体が現れることはなかった。

「ワタゲとは一体」

 ウスライが尋ねてきた。そういえば、この女剣士はペンデックに襲いかかった時のことを覚えていないのだった。ワタゲのことも知らないはずだ。

「俺が飼っている魔鳥だ。もう何十年という付き合いだけどね、あまり愛想は良くな……いや、人見知りをするんだ」

 もう一度、ペンデックは口笛を吹いた。少しさっきより長く感じた。しかし、やはりあの白い魔鳥は姿を現さなかった。そこへ、ランバット川の上流から歩いてくる二人組みをロティは見つけた。旅芸人だろうか。大柄な男、奇妙な帽子をかぶった若い女性が近づいてきた。

 大柄な男が、ウスライに話しかけた。

「アンタら、ここからどこに向かうんだ?ヒタムか?」

「そうだが」

「無駄だよ。橋の大改修工事が今日から始まったらしいんだ。迂回して、キャースグリー側から入るしかない。それと、ちゃんとヒタムの通行許可証はあるんだろうな」

 ウスライが視線を送ると、フラフラと術師が一歩前に出た。

「やあやあ、ご親切にどうも。少し聞きたいんだがね」

 例の胡散臭い柔らかな笑みだった。ロティは自然と身をすくめた。すると、帽子の女性が大柄な男の前に躍り出た。

「何かしら?」

「さっきの話――通行許可証だって?おかしいね。ここにいる剣士は先日までヒタムにいたようなんだが、そんなもの持っていなかったみたいだ」

 ウスライが首をかしげた。それもそのはずだ。この半仮面の女剣士はそのあたりの記憶がないのだ。よく考えてみれば、ウスライが何も覚えていない以上、ヒタムに立ち寄って剣の鑑定士に呪いをかけられたというのも、実際は全部ペンデックの予想に過ぎないではないか。ロティは旅立ちに際して、いきなり不安になってきた。

 しかし、帽子の女性はペンデックの姿を上から下まで眺め回すと、口の端を色っぽく持ち上げた。

「説明が足りなかったわね。ヒタムは数年前に起こった神官殺害事件の頃から、国境警備が厳しくてね。一般人は問題ないのだけど、特殊な力を持つ人間は許可証がいるのよ」

「ほう」

「その上着の膨らみ、宝珠か何かかしら。魔力で私のうなじがヒリヒリするもの。あなた術師ね」

 ペンデックは片方の眉を持ち上げると、楽しそうな目で言った。

「察知したか。ははあ、やるね」

 若い女性は帽子を脱いだ。

「言っておくけど、私は術師ではないわ。この帽子は私の故郷から持ってきたものだけど、軽い魔力なら感じ取ることができるの。英雄になるための旅じゃないし、危険なものは避けて通らないとね。無駄な苦労はしない主義なのよ。本当、ただそれだけなのに、ヒタムの門番に追い払われてしまったわ。怪しい術を使うと言ってね」

 バカみたい、女は笑った。

「だから、きっとあなたは門前払いよ。そちらお二人は普通の人間だから入れるでしょうけど」

 しかし今の話を聞いて、ロティはある確信を持った。

「ペンデックさん。ヒタムには呪術の秘密結社があるんですよね。よそからの術師を受け入れないというのは、絶対に何か理由が……」

「そんなことはわかっているよ、パン屋。それより気になるのは、その神官殺害事件の犯人がまるで術師だったような扱いじゃないか。締め出しまで喰らって、不名誉なこった」

 それを聞いていた大柄な男がペンデックの肩を軽く叩いた。

「まあ、そう怒るな。とはいえ、実際にその神官を殺したのはタルバカ地方から来た炎の魔術を使う術師だったらしい。それを術で対抗して見事手討ちにしたのが、今もヒタムであがめられている『黄昏の術師会』の連中だよ」

「黄昏の術師会?」

「ああ、町の連中からは英雄扱いだ。それに憧れて弟子入りする人間も後を絶たないらしいからな」

 ウスライが、どこか考え込むような顔つきになった。彼女の意図していることは何となく伝わる。カウの老婆から孫探しを依頼されたものの、今の話を聞く限りでは、孫のジュジュールは町の英雄たちの元で修行していることになる。老婆は秘密結社だの、生贄だのと心配していたようだが、だいぶ話は違うみたいだ。

 ペンデックは旅芸人の二人に礼を言うと、大柄な男は片手を上げてそれに応え、その場を立ち去った。帽子をかぶり直した女も、

「トゥラヒールは陽気な町だと聞いたわ。ガッポリ稼がせてもらうから」

 ウスライにウインクを飛ばすと軽やかに立ち去った。

「ペンデック卿。どうやら迂回してヒタムを目指すしかないようだ」

「そうだな。しかし、何で女のアンタにさえくれたウインクを、俺にはくれなかったんだろうな」

 それには答えずウスライは地図を広げて、あたりを見回した。その視界に何かとらえたのだろうか。空の一点を見つめ、半仮面の女がつぶやいた。

「不思議な雲だ」

 ロティもその方向を見つめたとき、思わず声を上げた。

「あ、ワタゲだ!」

「アイツ、さては橋の工事のこと知っていたな。無駄足になるのを見越して命令無視とは、偉くなったもんだな」

 苦々しい顔でペンデックが空を睨みつけると、ワタゲはうっそうと生える木々の中へと飛んで行った。

「あれはアイジジの森か。貴殿の魔鳥は迂回路へ導いてくれるようだ」

 飼い主に罵倒された魔鳥を半仮面の女剣士は擁護した。もしかしたら、ワタゲもウスライには心を開くかもしれない。三人はにわかに方向転換をし、川を背にしながら森へと入って行った。

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