闇夜

 全速力で走っているのに、見慣れたトゥラヒールの大通りが、果てしなく遠く感じる。ロティは強い風に煽られる麦畑を駆け抜け、中央広場まで戻ってきた。すでに空は紺色になり、月は天高く輝いている。酒場からは賑やかな歌声と竪琴の音色が聞こえ、鬱々としたロティの心を逆なでした。


 ラジンとカヤの顔ばかりが浮かんでくる。


 ――どうか、どうか、無事でいてくれ。


 もつれる足を踏ん張り、家の方へと駆け出す。ペンデックの屋敷を飛び出した時、背後から主が何か叫んだようだが、もう居ても立ってもいられなかった。知らなかったとはいえ、好奇心にかられた自分の過ちを激しく後悔した。ペンデックの方円術やウスライの変貌を目の当たりにした今、あの木箱の怪しい光を、単なる自然現象で片付けられるはずがなかった。

 ペンデックは、ロティに術師の素質があるかもしれないと言った。

「そんなの嘘だ」

 もし、そうならどうしてあんなに危険なものを拾ったりしたのだ。おかしくなったウスライを止めることすらできなかった。足がすくんで何もできなくて、こんなに臆病でバカな人間が特別な力を持っているわけがない。

 ロティは自分の家の屋根が見えると、一旦立ち止まった。周りは静寂に包まれている。時々、隣の家から笑い声がしてくる程度だ。一階の窓から湯気が立ち上っていた。カヤが夕食の支度をしているのだろうか。ロティは少しずつ、そして最後は駆け足になり家のドアを開けた。

「父さん!母さん!」

 振り向いたのは、いつもの優しい笑顔たちだった。

「おや、お帰り」

「遅いぞロティ。いったいどこまで行ってたんだ」

 いつものようにカヤは茹で上げた芋をすりつぶし、ラジンもお気に入りのカップで温かいミルクを口に運んでいた。

 ロティはラジンの身体にしがみついた。

「大丈夫?何ともない?」

「いやいや、どうも夜は腰が痛くてね」

「そうじゃなくて、もっと、こう苦しいとか」

「それよりロティはどこに行ってたんだい。明日はちゃんと手伝っておくれよ」

 そう言いながら、カヤが二階の方に顔を向けた。

「さっきから冷たい風が吹き込んでくるんだよ。お前ったら、出かける前に窓を閉めていかなかっただろう?寒いから閉めてきてちょうだいよ」

 カヤが身震いする真似をすると、微笑んだ。それを見てロティは胸をなでおろした。本当に、何ともないみたいだ。一気に力が抜けていく。いつもどおりの夕食の時間がそこには流れていた。外階段から自室に戻ると、確かに部屋の窓が開けっ広げになっており、風が吹き込んでいた。窓を閉め、光り輝く月を見上げながら、ロティはため息をついた。ペンデックに何の挨拶もしないで出てきたことが、今になって気になり出した。あんな人間とはいえ、このトゥラヒールでは一目置かれているのは間違いないのだから。


 ――明日また挨拶にいこう。ちゃんと謝ってこよう。


 優しい月明かりがロティを照らした。部屋がうっすら明るくなると、蜘蛛が壁を伝って天井の隙間に隠れた。それを追うように、窓枠の十字型の影が壁に映る。今日の月は本当に明るい。

 何かの音が聞こえた。風か。麦畑でも強い風が吹いていた。

 ところが、ロティはすぐに違和感を覚えた。

「え?」

 どうして気づかなかった?

 振り向いたロティは心臓の鼓動が早くなるのがわかった。


 部屋の窓枠は、横に一本だけのはずだ。

 この影、どうしてなんだ?


 また何か音がした。

 天井――。

 ロティがゆっくり見上げると、頬に何か木片のようなものが落ちてきた。

 つまんでみれば、それは――。

「うあっ」

 蜘蛛の腹と足だ。

 慌ててそれらを振り落とし、床と壁に目をやると、もう一歩も動けなくなってしまった。

 十字に伸びていた窓枠の影が、いつの間にか横一本に

 自分の呼吸の音だけがする。


 まさか。

 まさかまさか。


「こら、まだかいロティ。もうすぐ夕飯だよ。今日はシチューだよ」

 カヤの声がした。

 ラジンの声も続く。

「わしゃ腹減ったぞ」

 それらは、すべて天井から聞こえた。

「だから、早く食わせろ」

 また一つ、木片が落ちてきた。また一つ、また一つ。

 蜘蛛の頭、蛾の羽、ムカデの身体。


 そして、人間の小指――。


 突然、闇から飛び出した黒い縄状のものがロティの首に巻き付いた。声を出す間もなく、物凄い力で持ち上げられる。ロティは、目の前の存在に身体が凍りついた。

 天井には異形のものが逆さまに張り付いていた。

 その顔には見覚えがある。

「ひ」


 向かいの家の狩人、ロティの弓矢の先生――コット師匠だ。

 しかし、身体は巨大な蜘蛛の姿だった。

 その腹に、二本だけ矢が刺さっていた。


「う、う」

 ロティは助けを呼ぼうにも、恐怖で声が出ない。呼吸すら上手く出来ない。身体に絡みつく化け物の長い足、そのゴツゴツとした感触が、夢ではないことを容赦なく告げてくる。コットの顔が斜めにひん曲がり、いびつな笑みを浮かべると、その耳から白い糸が出てきた。それは徐々に張り巡らされ、ロティの身体を包み込もうとする。

 木箱のあの光がこいつを、この魔物を呼び寄せてしまったのだ。

 化け物の腹から矢が一本抜け落ちる。


 ――もしかして、先生はこいつを退治しようとしたのか?


 首を締め上げられ、ロティの目からボロボロと涙が流れ出てきた。遠のく意識の中で、誰かの声がする。

「間一髪」

 ぼやける視界の先に、部屋に誰かが立っているのがわかった。

 その時、

「ギギギギギギギイギィアァーーーーーッ」

 コットの顔が激しく歪み、口から紫色の液体が溢れ出した。そして、ロティの身体を縛り付けていたものが一気に闇に引っ込んで行く。

 天井から落下したところで、誰かに受け止められた。

「初めまして。素敵な月夜ですね……あれ、男?」

 それは、若い男の声だった。

 ゆっくり床に下ろされたが、あまりのことに足腰が立たない。

「あ、あ」

「話が違いますね。さては――。ああ、失礼。ともあれ今は残りを片付けましょうか」

 男は軽くジャンプをすると、何とそのまま天井に吸い込まれていった。次の瞬間、さっきと同じ不気味な悲鳴が部屋中に響き渡り、一瞬だけ昼間のような明るさになった。そして、静寂と共に暗がりが戻る。しゃがみこんだロティの前に、さっきの男がゆっくりと現れた。月光に照らされた金色(銀色にも見える)の髪がキラキラと光り、その顔はトゥラヒールの舞台俳優のような美しい顔立ちだった。

「少年、泣くんじゃありません。ご両親だけは無事です」

「えっ」

「ただ危険です。蜘蛛の糸でがんじがらめにされて養分を吸われてしまっています。早いところ処置をしないと手遅れになるでしょう」

 そして、壊れた天井から下ろされてきたのは、白い糸にからまったラジンとカヤだった。

「こちらの二人はご老体だったために、化け物も後回しにしたんでしょう。強靭な身体の狩人は、さっさと食べてしまったんですね」

 見覚えのある弓と矢を男が差し出す。折れ曲がったそれを見てロティは胸が締め付けられ、吐き気に襲われた。それでも何とか横たわる老いた養父母に駆け寄ると、まとわりついた糸を必死にむしり取った。

「さっき、見た時はあんなに元気だったのに……一体、どうして天井なんかに」

「お台所にいたご両親は、偽物です。相手の潜在意識に呼びかけ具現化する術ですが、少年くんの感受性が強すぎて鮮明に見えたのかもしれません。実際はただの木切れです」

 男はそう言うと、今度は床下に消えて、何かを掴んで戻ってきた。それは糸をぐるぐる巻きにした木材だった。かろうじて人の姿に見える。

 これを相手に自分は話しかけていたのか――。

「それにしても遅いですね。また酔っ払っているのかな。しょうもない」

 ロティはようやく我に返った。今までそれどころじゃなかったとはいえ、この男も何者なのだ。すると、察したように男が微笑んだ。

「初めまして。ボクはイラって呼ばれています」

 その時、ラジンの指がわずかだが動いた。

「と、父さんっ!今すぐ医者に連れて行くから!」

 ロティが二人を運び出そうとした時、外階段から人の気配がした。

「医者じゃ無理無理。中央に寝かせてくれ」

 そこに現れたのは、力の宝珠をランプ代わりに持ったペンデックと、青白い顔のウスライだった。

「遅刻ですよ」

 イラが言った。

「家の周りに結界を張っていたんだ。これ以上やっかいなものが寄り付かないように」

 ペンデックが中に入ってきた。

「あ、あの」

「下がっていろ」

 狼狽するロティを押しのけ、ペンデックはラジンとカヤのそばに座ると、ゆっくり首元に触れた。二人の皮膚が赤く腫れ上がっているのが見える。

「かなり中にまで食い込んでいるなあ。で、相手はどんな感じだった?」

「蜘蛛のお化けです。一人は手遅れでしたね」

 イラと名乗った男がそう答えると、術師は小さく息をついた。そして、上着から青紫色の玉――破の宝珠を取り出し、手首にぶら下げた。そして、ラジンの首元に向かって印を切ると、一瞬にして皮膚の腫れが消えてしまった。同じようにカヤにも印を切ると、いつものシワだらけの首に戻った。

「術を消滅させておいた。化け物が死んでいるから自然に消えるのを待っても良かったが、この年齢だと体力が持たない。あとは自然に起きるのを待てばいい」

 ペンデックは難儀そうに立ち上がると、ロティを見つめた。

「ただ、死んだ人間を呼び起こすことはできない。残念だが、祈りを捧げてやれ」

 ロティはうなだれた。自分のせいで弓矢の師を失ったのだ。きっと。コットは両親の悲鳴を聞いて駆けつけたに違いない。自分が犠牲になって助けてくれたのだ――。

 ロティは胸元に手をあてて小さくつぶやいた。

「燦爛たるスチルよ、我が恩師の御霊を癒し慰め導きたまえ」

 すると、イラが小さく悲鳴を上げた。

「久しぶりに聞きました。ゾクゾクします。その祈りはまだ流行しているのですか?」

「あの、さっきは助けてくれてありがとうございます。えっと」

 しかし、イラはロティではなく、ペンデックに向き直った。

「この酔いどれ術師。美女が危険な目に遭って泣きぬれているというから、ボクは慌てて駆け付けたというのに……何て底意地の悪い人間なのでしょう」

「幽暗なるブラハンに意地悪とか言われたくないわな」


 耳を疑った。

 幽暗なるブラハン


 ロティも、そしてずっと無言だったウスライも驚愕の声を上げた。

「ペ、ペ、ペンデックさんっ!今、何て?」

「どういうことだ、ペンデック卿」

 術師は思いっきりため息をついた。

「こいつの名前はイラだ。何かと俺が苛立つから、イラと呼んでいる。八歳の時、召還術に失敗して、俺が呼んじまった幽暗なるブラハンだよ」

「えぇっ?」

 動揺するロティをイラは見下ろした。

「お初にお目にかかります。幽暗なる者イラです。この術師にまだ可愛げがあった時にボクは呼ばれました。もうあの時は泣かれて泣かれて……。あまりに不憫だから帰ろうと思ったくらいです」

「あれは祖父さんに叱られて宝珠を取り上げられたからだ。勘違いすんな」

 二人の言い争いを見つめていたウスライが首をかしげた。

「本当に幽暗なる者なのだろうか?もっと凶悪なものかと思っていた」

 それに対してペンデックがつまらなそうに答えた。

「俺が遊び半分で呼んだから、こんな中途半端なヤツが来てしまったわけだ。こいつは単なるイカサマ博打好きの女好きで、小悪党みたいなもんだね。まあ、幸いにして害はないよ。一応、俺とは『仕事を手伝う』という契約関係にあるけど、せいぜいさっきみたいに魔物を追い払う程度の力しか持ち合わせてない。そもそも、ほとんど言うことを聞かないがね。おまけに命の宝珠も行方不明だから封印することもできやしない。俺はもう二十年近くこいつの命の宝珠を探し続けているんだ。パン屋が持ってきたヤツも期待したんだけどなあ。はあ、だから俺は召還術が嫌いなんだ」

 ウスライの目が一瞬大きく見開かれた。

「なるほど。ペンデック卿の探し物というのは、この御仁の命の宝珠か。探知力を上げるために私の剣が欲しいのだな」

 ペンデックが疲れたようにうなずいた。それを見たイラが優雅に微笑む。

「ふふふ、かなり遠くに飛ばしましたからね。もしかしたら海の底かもしれません。いや、火山の噴火口かも」

 ロティはイラをあらためて見つめた。耳が少し尖っているが、それ以外は普通の人間と変わらない。それが不思議だった。すると、ペンデックがその理由を教えてくれた。

「異界の者は、呼ばれた環境に順応しようとするんだ。術者の目を欺き、封印されにくくするためらしい。本当のところはすべて謎だがね」

「でも、このイラ……さんはおれを助けてくれました。幽暗なるブラハンなのに」

「こいつは女のためなら何でもするからな。日頃の怨みもこめて、俺が嵌めた。パン屋は運が良かったな。だいたい、こっちの世界で遊びすぎて幽暗なる者という自覚があるのかさえ疑わしい」

「もう帰り方も忘れてしまいました。早く何とかしてくださいね、術師チャディア

 姿かたちだけなら善良そうに見えるが、その行動や言動との隔たりが、なるほど幽暗なるブラハンという得体の知れなさをかもし出している。助けてもらった身としては、どう接したら良いのだろう。

 ペンデックがあくびをして言った。

「そんじゃ行きましょうかね」

「え、どこに?待ってくださいっ」

 ロティは慌てて呼び止めると、酩酊した顔が振り向いた。

「さっきの話聞いてなかったのか。ウスライの呪いを解いてもらいにヒタムへ行く」

「私はジュジュール少年の足取りを探るつもりだ」

 確かにそういう話をしていたのは覚えているが、ロティは横たわるラジンとカヤに目をやって言った。

「おれの両親にはどう説明したら良いんですか?」

「心配しなくても覚えちゃいない」

 すでに二人は外階段に出ていた。

「そんな。このままにしていけないです」

「しょうがないなあ。おい、イラ」

 すると、イラはラジンとカヤの身体を両脇に抱え、床下に消えた。ロティが慌てて一階に駆け下りて行くと、イラがベッドのある部屋に二人を寝かせ、そして、ニコニコしながらロティの頭を軽く撫でた。幽暗なる者とは思えない行動に、ロティは戸惑いながらもイラに頭を下げた。

 家の前では、眠そうな術師と半仮面の女が月明かりの中に立っていた。ロティの胸に強い衝動が沸き起こる。突き動かされるようにそれを二人に打ち明けた。

「あ、あの、おれも一緒に連れて行ってください!」

 ペンデックは変な声を上げた。代わりに答えたのはウスライだった。

「両親の容態が心配ではないのか?起き上がれるようになれば問題ないとは思うが」

「もちろん、心配です。だから、二人が回復するまで待ってくれませんか?」

 すると、ペンデックが吐き捨てるように言った。

「待ってくれません。だいたいパン屋もそんな危ない代物に関わるからこうなったんだろう?その湖の近くにポイッと捨ててくりゃ良いんだよ」

 闇からイラの声がした。

「可哀想に。こんないたいけな少年の願いも聞き入れられないとは。本当はあなたこそ幽暗なる者なのでは?」

 ロティにはイラの姿が見えなかったが、ペンデックは空に向かって言った。

「うるさい色魔。一般人はのんびりパンを焼いて平和に暮らしていれば良いんだ」

 口は悪いが、ペンデックはロティを案じてわざと突き放しているのだろう。そのくらいは伝わった。


 けれど――。


「ペンデックさん。コット先生は平和に暮らしていたんです。それなのに、おれの両親を助けるために命を落としました。弓矢の腕は一流でしたが、無駄な殺生はしない立派な人だったんです。そんな人を死なせてしまったんだ。……この命の宝珠をムアレ夫人に返して、ちゃんと事情を知りたい。そうでないと、おれ、先生に合わせる顔がないよ」

 涙でもはや言葉にならなかった。

「だって、巻き込んだのは、おれのせいだから」

 袖で涙を拭っていると、肩に何かがかけられた。

 ウスライの鼠色の外套だ。

「ペンデック卿」

 静かな声だった。

「私も命の宝珠の行く末を見てみたい。この勇気ある少年は、私が守ろう」

 ペンデックがため息をついた。

「まったく。俺も殺せないような呪われた剣士に護衛が務まるのかね」

「約束する」

「まあ、俺はその剣さえいただければそれで良い。パン屋、一緒についてくるなら親から外出許可をもらってくるんだな」

 ロティに背を向けるとペンデックは夜闇に消えていった。ウスライはその後を追いながらロティを振り向いた。


「明日の朝、橋のたもとで」

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