第終話 情炎
並みいる徐栄兵を斬り払い、呂布が部屋に入ってきた。
「皆、無事か」
真っ先に娘が呂布に飛びつく。
さすがの高順や夜叉の爪牙にも安堵の表情が浮かび、家僮達が主の元に集まる。
「お前達、よく耐えた。
もう一頑張りだ」
呂布は表情を緩めずに労いの言葉をかけ、高順や生き残った夜叉の爪牙に指示を出す。
「高順、先導して屋敷を出るんだ」
高順達は緩んだ表情を引き締め直して先頭に立ち、娘が、家僮達が後に続いて部屋を出る。
最後に残る雪葉と貂蝉。
「奉先」
声を震わせながら雪葉が呂布の胸に飛び込む。
呂布の表情がようやく緩み、穏やかな顔で抱き締める。
「信じてたけど、よかった……無事で……」
呂布の胸に顔を埋める雪葉の表情はわからない。
だが呂布が優しく抱く肩は小刻みに震えている。
無理をして気丈に振る舞っていたのだろうか。
しかし呂布の顔を見て、その緊張の糸が切れたのだろう。
「遅くなって済まない。
無事でよかった」
嗚咽を漏らす雪葉と抱擁する呂布。
二人の光景に胸が締め付けられる。
貴方に早く会いたかったのは、こんな光景を見る為じゃない。
雪葉の嗚咽が落ち着くと、呂布は貂蝉に向き直る。
「貂蝉、済まない。
俺は王允を……
王允が俺だけならまだしも、お前や家族を道具のように利用しようとするのを、どうしても許せなかった……」
呂布の言葉にも貂蝉の心が晴れない。
こんな思いをするくらいなら、王允に縛られていた方がどれだけ楽だったか。
心の渇きを潤す代償が堪らなく辛い。
「さぁ、早く屋敷から出よう」
雪葉を支える呂布の後をついていく貂蝉。
いたたまれない疎外感。
私も抱かれたい。
寄り添い、支えられたい。
想いが募る。
階段を吹き上げる熱気が心を逆撫でる。
この人がいなければ……
煙にあおられ、心が煤ける。
階下は夜叉の爪牙や徐栄兵の骸が激戦の名残と床を埋め尽くしていた。
熱気と煙に咳き込み、兵の骸に足を取られては呂布に支えられる雪葉を見ながら、貂蝉は転がる剣を拾い上げた。
血の呪縛によって抑え込まれていた十年来の想いが堰を切って全身を駆け巡り、胸に灯る嫉妬の炎に油となって注がれる。
貴方さえいなければ……
情念の炎を注ぎ込むように剣を握る手に力を込める。
その時、骸の鎧に裳を引っ掛けた雪葉が躓いた。
雪葉を助け起こす呂布は視界の隅に、牙を剥く大きな狐の姿を感じた。
振り返るとそこに剣を振りかざす貂蝉。
「お退きください、奉先様」
貂蝉の目は裳を放さない鎧に苦戦する雪葉を捉えて離さない。
「何をする、貂蝉」
雪葉と貂蝉の間に立ち、振り下ろされた剣を柳葉刀で受け止める。
鉄と鉄がぶつかり合う激しい衝撃音に雪葉が小さく悲鳴を上げる。
「お退きください、奉先様。
お退きください、奉先様」
まるでうわ言のように呟く貂蝉にただならぬものを感じ、呂布は振り返ることなく雪葉に先に行くよう指示する。
「逃しませぬ……」
貂蝉の瞳孔が縦に細長くなり、妖しく光る。
すると貂蝉の背後から狐のような形をした炎が湧き起こり、三人の周囲を駆け巡る。
炎が駆けた床から炎が吹き上がり、三人は炎の壁で取り囲まれた。
「奉先様、なぜ庇われるのです。
なぜ私だけを愛してくださいませぬ。
あの日私を守って頂けなかった償い、私が負ってきた傷、私だけを愛す事で癒してくださいませ」
頭から半透明で白銀に輝く狐の耳が持ち上がった。
裳を絡めとる鎧から解放させた雪葉は貂蝉を睨み付ける。
「勝手な事ばかり言うんじゃないよ、この女狐。
妖狐だか何だか知らないけど、こんな妖しい力があるんなら何で奉先に頼るばかりで自分の身を守らないのよ。
あんたを失った時、奉先がどれだけ悲しんで、苦しんできたか。
私がどれだけ励まして、支えてきたかも知らないで。
あんただけが辛い思いをした訳じゃないのよ。
あんたが奉先に何をしてあげられるのかは知らないけど、自分だけ自分だけって、甘えるのも大概にしなさいよ」
激昂する雪葉に炎の狐が襲いかかる。
「止めよ、貂蝉」
呂布が炎の狐を斬り払う。
形を失い散り散りになった炎の欠片は宙を漂いながら貂蝉の元に集まり、再び狐の形を成す。
「奉先様、なぜ拒まれます。
なぜ私を受け入れてくださりませぬ」
悲しい表情をする貂蝉の裳から透けた二本の尾が揺れ、炎の狐を愛でるように撫でる。
熱気による汗を拭い、呂布は諭すように口を開く。
「貂蝉、俺は自分の過去を償い、お前に報いる思いで董卓を斬った。
この雪葉を始め、家族を守る為に王允や徐栄を斬った。
今の俺があるのが貂蝉、お前だけでなく、この雪葉や高順、張遼達がいるからこそだ。
あの日守れなかったお前に償い報いる気持ちはあるが、だからといって雪葉を切り捨てるような事は俺にはできない」
呂布の言葉を聞くにつれ、貂蝉の顔が憎悪に歪んでいく。
「妬ましきかな、憎らしきかな」
炎の狐が二本の尾から体を伝い、そして手にした剣に纏われる。
「妖狐の情念をその身に刻み、狐火に醜く焼け爛れて死ぬがいい」
貂蝉の体が宙に浮かび上がり、鷹の如き鋭さで雪葉に斬りかかる。
それに対して自らが盾となり、受け止める呂布。
「奉先様、なぜ私ではなく、その女を守られる。
私の為に、汚名に汚名を重ねて夜叉になるとおっしゃったではありませぬか。
それとも甘言を弄して私を誑かしたのですか。
この胸襟焦がす情炎をなぜ静めさせてくれませぬ」
貂蝉はそう叫びながら幾度となく剣を振るい、それを呂布が受け止める毎に悲痛に顔を歪める。
すると呂布の背後で倒れる音がした。
呂布は剣撃を受け止めつつ、背後を横目に見る。
炎に囲まれ、熱気と酸欠によるものだろう。
雪葉が意識を失い倒れている。
「所詮は人の女子。
その身を焼く前に、熱気だけで意識を失う脆弱。
未熟とは言え、妖狐の私こそ夜叉の妻に相応しいと思いませぬか、奉先様」
雪葉を嘲笑し、凶刃を振るうかつての恋人。
受ける一方だった呂布は意を決した様に、始めて柳葉刀を一閃した。
思いも寄らなかった呂布の反撃に貂蝉は大きく目を見開き、驚きの表情で飛び退く。
「奉先様、私に刃を向けるのですか……」
呂布は眉間に深く皺を刻み、苦渋の念を言葉にして絞り出す。
「時は移ろい、人は変わる。
あの日お前を失ってからこの雪葉と出会い、俺は変わった。
そして誰かを守る心を得て、人として生きると決めた。
だがお前は奪う心に染まってしまったようだ。
違えた道が交わったとしても、失った時までは戻せぬなら、せめて俺の手でその時を止めよう」
呂布も貂蝉も共に汗ならぬものが頬を伝う。
「奪う心……
私が、あの鮮卑や野盗の如き黄巾の者達と同じ心を持つと言われるのですか」
貂蝉の問いに呂布は答えずゆっくりと歩み寄る。
「さらばだ、銀蓮。
俺がかつて愛した女」
かつての名で呼ばれた貂蝉は何かに驚いた表情をし、呂布の一閃を抵抗する事なく受け止めた。
鮮血を呂布に浴びせながら貂蝉は膝をつく。
仰向けに倒れようとした貂蝉を呂布も膝をついて抱きかかえた。
「すまぬ、俺はお前を守るつもりだった。
だが救うことは……できなかった」
呂布に抱かれた貂蝉は溢れ出る鮮血を眺め、やがて自身の結末を悟る。
その目から涙があふれ、憎悪の炎が消えていく。
涙を流して呂布の頬に手を触れ、呂布もその手を握った。
「謝らないでください。
何故でしょう、私は嬉しいのです……」
貂蝉の言う意味がわからず、呂布は悲痛の表情のまま貂蝉を見つめる。
「遂にこの呪われた血から本当の意味で解放されるのです。
私は以前『なぜ抱いてくれなかった』と言いました。
あれは、本心ではありません。
もしあの頃に、貴方に抱かれていたら、おそらく私は鮮卑に拐われた後、自ら死を望んだでしょう……
貴方に抱かれなかったから、私は心渇きながらも生きる事ができ、こうして貴方に再会できた……
そして貴方の腕の中で、貴方に見送られて死ぬ事ができる」
そこまで言うと貂蝉は大きく咳き込み、血を吐いた。
呂布はもう喋るなと首を振って制止するが、貂蝉は構わずに力を振り絞って言葉を続ける。
「九尾になれなかった未熟な妖狐が、人知れず野垂れ死ぬわけでなく、愛する方の腕の中で見送られようとしているのです。
短き天命、辛く満ち足りぬ心地の多き生涯ではありましたが、今この時を思えば幸福でありました。
夜叉と呼ばれながら、自分よりも人の事を考える優しい方……
私がその子を宿したいと思った、最初で最後の方……」
そう言って咳き込む貂蝉の口から鮮血が溢れる。
「銀蓮……」
呂布は貂蝉をかつての恋人の名で呼ぶ。
貂蝉は弱弱しく微笑んだ。
「お別れです、奉先様……
最後に、貴方の為に力を使い、道を作ります。
振り返らず、前だけを見て、あの羨ましき方と共にお行きください……」
呂布の手を握る力が失われていき、貂蝉はゆっくりと目を閉じる。
壁となっていた炎の一部が鎮まり、道となった。
呂布は貂蝉の体をゆっくりと横たえると雪葉を抱いて屋敷の外まで出る。
その瞬間、鎮まっていた炎がそれまで以上の勢いで燃え上がり、屋敷を包み込んだ。
まるで死して晒す自身の本性の姿を隠し、燃やし尽くそうとするように。
その後呂布は兵を纏めあげると、勅に従って郿塢の董卓一族を殲滅した。
士孫瑞と共に、王允が生前に構想として残していた政策を施し、長安の世情は落ち着いていった。
しかし残された董卓残党は李傕や郭汜を中心に結集すると、郷里にて『呂布や士孫瑞らが涼州人を根絶やしにしようとしている』との噂を流して更なる兵を徴用し、長安を目指した。
そして呂布はこれに敗北し、長安を脱する事となる。
その後呂布は中華の地を所狭しとその武を示し、後漢末の大乱世を華々しく彩る事になるのだが、六年後に迎える死の時まで側室を置こうとはせず、また各地を転戦しながらも二度と長安の地を踏む事もなかった。
妖が心を乱すのか、心の乱れが妖を呼ぶのか。
人に化身し、人の精を吸い成長する妖狐。
その美貌は時の権力者や英雄をも魅了し、国家中枢も傾ける争乱まで生むと言われる。
しかし時としてその争いの渦に巻き込まれ、時として私利私欲に利用され、また自身の情愛の深さ故に自ら難を生み、避けられず、九尾にまで生き長らえる妖狐は数少ないという。
妖狐連環譚 −蕾は咲かず、その身を燃やす− 井上滋瑛 @THE-A
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