call4. たった一人の愛しき人へ (全10話)

4人目 道端健悟 (1)

 道端健悟は握ったマイクのハウリングに悩まされていた。先ほどから、どれだけ調整しても直らない。とんとん、とマイクを指で叩いただけでキイィンと聞くに堪えない音がする。大講義室へ集まった百名近くいる学生たちが、うっと一斉に嫌そうな顔をしたのを見て、健悟は教卓へマイクを置いた。


「人間には存在論的恐怖があります」


 部屋の隅まで自分の声が届くかどうかは怪しいが仕方ない。使えないマイクに内心舌打ちしながらも、顔にはおくびにも出すことなく健悟は出来る限り声を張る。


「存在論的恐怖とは自分の生が有限であることに対する恐怖、端的に言えば自分はいつか死んでしまうのだという漠然とした恐怖のことです。この恐怖を完全に取り除くことはできません。なぜなら、人の死亡率は百パーセントであるからです。どんなに地位や名誉に恵まれたとしも、人間である限り僕たちはいつか死にます。この恐怖を和らげるために人は群れを成し、他人との共存関係を築いていくと言われています。人の群れの別名は社会です。本講義では社会における心理学、すなわち社会心理学の切り口から人間の心について科学的に学んでいただきます」


 何か質問はありますか、と声を張り上げたまま言うと、ぽつりと手が挙がる。今どきの若者らしく頭に刈り込みをいれた、頑丈そうな男子生徒だ。


「先生、いいですか」

「どうぞ」


 男子生徒が立ち上がった。


「人が死を恐れるというのなら、どうして自殺をする人がいるんでしょうか? 自殺をする人は死を恐れなくなった人ということでしょうか?」


 ただでさえ静かであった講義室が、男子生徒の一言でより一層水を打ったように静まり返る。しかし、当の本人は気にすることなく、担当教員が自分の問いにどう答えてくれるかを心待ちにしている。男子生徒の目は知的好奇心に満ちて輝いていた。そこには何の悪意もない。故に健悟も冷静に回答をする。


「君はキルケゴールという哲学者を知っていますか?」

「知りません」

「素直でよろしい」


 健悟は座ってよし、という意味で生徒へ向けて手を下げる動作をした。男子生徒は彼の意図を正確にくみ取りすっと席へ戻っていく。


「キルケゴールの有名な著書の一説にはこうあります。

『死に至る病とは絶望のことである』

 さきにも言った通り、人には本能的に死を忌み嫌う恐怖心が備わっています。しかし、その恐怖を凌駕するほどの絶望に陥ると人は自ら死を選びます。人が絶望する過程には、社会、すなわち自分以外の他人の存在が必ずあります。周りに自分以外の人間がいなければ、人は絶望することはありません。他人と比べて自分は劣っている、出来損ないだ、役に立たない。そうした罪の意識が人を絶望させ、死に至らしめます。こうした意味では、社会と人の生死は表裏一体といえるでしょう。今の質問も踏まえて、まずはその社会というものがどのように構築されていったか、心理学の歴史と共に学んでいきましょう」


 そう言って、健悟は手馴れた手つきでPCを操作しパワーポイントのスライドを動かしていく。学生たちは健悟の流れるような講義に耳を澄まし、頭の中を社会とは何か? という疑問で満たしていった。


 そんな中、一人、健悟の頭の中だけは先ほどの男子生徒の質問が反芻されていた。彼は口だけは達者に動かしながらも「自殺をする人は死を恐れなくなったということか?」という命題について考えていた。


 自殺をした人間は死を恐れなくなった人間なのだろうか。いや違う。自殺を決行した人間であろうと死は等しく恐ろしいだろうと健悟は思う。ならば、彼らは何故自ら死を選んだのか。本能というどうしようもないところで死を恐れる心をねじ伏せてまで、彼らを彼岸へと導いたものはなんなのだろう。


 答えは簡単だ。

 彼らの目の前には、死よりも恐ろしい自らの生があった。それだけのことである。そこまで考えて健悟は思考を講義へと戻した。


 講義は滞りなく終わった。

 マイクが故障したせいで普段は使わない声帯を酷使し喉が痛い。講義室を後にした健悟は資料を小脇に抱えて自分の研究室へと向かう。廊下を通ると何人かの学生がこんにちは、と挨拶をしてくれるので無言で会釈した。誰一人として顔も名前も判別できないが、挨拶をされたら機械的に返す。


 数分歩いてすりガラスが嵌められた扉の前で立ち止まる。扉の横には「道端健悟 准教授」と書かれたプレートと、道端研究室の業績一覧がA0のポスターの中にずらりと並んでいた。

 彼が専門とする社会心理学分野の研究者が見れば、「ほう、この研究室の主はなかなかいい仕事をしているようだ」と分かるが、素人が見ても「はて、新手の呪文か何かだろうか」と首を傾げるような内容ばかりである。そもそも、道端研究室の輝かしい功績を示すポスターには日本語はほとんど書かれていなくて、英語や中国語、はてにロシア語まで並んでいるものだから見ただけで眩暈がする人がほとんどだろう。


 健悟は彼にとっては見慣れた呪文ポスターには目もくれず、ポケットからキーケースを取り出すとそのうち一本を取り出してがちゃがちゃと鍵穴に突っ込んだ。それからドアノブを捻るとすぐさま足で扉を蹴って解錠。いつもこうやって開けているせいで道端研究室の扉の中央下辺りには妙な灰色の汚れ、つまりは彼の靴跡がついている。


 ばさばさと適当に講義資料を机の上に置いた健悟はお気に入りの椅子へ腰かけた。四方八方に学術書が詰まった本棚が並ぶ研究室の一番奥、デスクトップ前の赤い椅子が健悟の特等席である。

 健悟は一人でいることがコーヒーを飲むことと同じくらい好きだ。研究室は大学という場所で唯一、一人になれる場所だった。PC横に並べた保温ポットからインスタントコーヒーへ湯を注ぎ、温かい漆黒の液体を口にして満足げに息を吐く。


 さて、午後は空いている。会議もなければ学生への指導もない。今日はゆっくり自分の研究に精を出すことにしよう。今日だけは研究室の扉を誰にノックされても居留守を使ってやると心に決めてデスクトップの電源を起動した。

 

 道端健悟はマイペースである。マイペースであるがゆえに人に振り回されることはほとんどないし、自分が決めた予定は必ず完遂するのが彼のいいところだ。

 しかし、今日に限っては少々予定外のことが起きた。

 電話が鳴ってしまったのである。携帯電話だ。

 健悟は液晶画面に表示された名前を見てしっかりと渋い顔をした。出たくない。しかし出ないわけにもいかない。そういう相手は不思議なことにこの世の中、結構多い。


 通話ボタンをタップし、スピーカーフォンにしてコーヒーを啜りながら応答する。


「もしもし」

「あ、道端くん? 久しぶり」

「用がないなら切ります」

「用ならあるよ。気が短いなあ」


 健悟は知っている。この人が用があると言った時は大体用がない時だ。逆に用がないと言った時は大事な用がある時だ。


「右田さん、今は勤務時間なのでは?」

「斎藤くんが全部やってくれるからね。校長なんて毎日が日曜日みたいなもんよ」


 嘘だなとは思ったが突っ込むのは面倒くさいので放っておく。

 そんな健悟の態度を察知した右田は「あ、無視してるでしょ」と年甲斐もなくむくれた。御年還暦の御仁が何をしているのやら。

 健悟はため息を吐く代わりにコーヒーを啜った。


 電話の相手は右田米蔵みぎたよねぞう。現浅葱中学校の校長にして、死者と生者を繋ぐ公衆電話の前管理人である。

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