3人目 桐谷美那子 (12)

「それであなたはマネージャーの鈴木さんと一緒に橋の上から美那子さんの死体を落とし、溺死に見せかけることにしたと。その後、桐谷璃佳子さん、つまりはあなた自身の死亡届を提出したんですね」

「……そうです」


 まるで事情聴取のようだ、と璃佳子は思う。

 璃佳子は話すうち、何度か取り乱したが冷静な道端の合いの手や勧められた椅子へ腰かけることでなんとか最後まで話し切った。洗いざらい、全て聞いてもらったおかげか、あの日以来、真っ暗に狭まっていた視界が少し開けて気分も多少楽になっている。告白を終えた罪人というのはこんな心持がするのだろうか。


 ベッドから立ち上がり、テーブルを挟んで璃佳子の正面に座った道端は、事の次第を全て聞き終えても表情一つ変えなかった。この男は自分が襲われかけても、姉に成り代わろうとした哀れな妹の話を聞いても、何の感情も湧いてこないらしい。ここまでくるといっそ、人間としての機能のうち重要な何かが欠けているのではないかと思えてくる。


 道端はしばし、視線を上にして何か考えているようだった。不意に口を開くと


「それで結局、あなたはなぜ美那子さんのオンラインストレージファイルを開きたかったんですか?」


と尋ねてくる。


「そんなの、美那子が作った曲を桐谷美那子の新曲として発表するために決まってるじゃないですか」

「そんなことをせずとも、あなたが完全に桐谷美那子に成り代わるのならあなたが作った曲を桐谷美那子の曲として発表すればよいのではないでしょうか。多少毛色が違っても、大衆は桐谷美那子の新境地として受け入れるでしょう」

「わたしにそんな実力はないですよ。姉の遺作に頼らないと、桐谷美那子は守れませんから」


 自分が作ったしょうもない曲なんて誰も待っていない。虚しいけれどそれは嫌というほど分かっている事実だった。ならばせめて、美那子が本当に作りたくて作った曲を世の中に知らしめてやりたい。


「ストレージファイルに残っている姉の遺作を発表したら、桐谷美那子は引退する予定になっているんです」

「引退、ですか」

「ええ。作らされて作った曲じゃなくて、作りたくて作った曲で姉の最期を飾ってやりたい。そうやって綺麗に終わらせてあげたいんです。わたしは結局、お姉ちゃんを支えてあげることは出来なかったから」


 道端は何も言わない。代わりに璃佳子が口を開いた。


「一応、確認しておきたいんですけど、死者との電話は戸籍をもとに繋がれているということは、わたしが姉と電話をすることはできないってことですよね?」


 戸籍上、桐谷美那子は生きている。書面の上では死んだのは璃佳子のほうなのだ。生者として判定を受けている美那子へ電話を繋ぐことは道端にはできないだろう。

 予想通り道端は頷いた。


「できません。あなたがご自身の死亡届を取り下げ、美那子さんの死亡届を提出すれば話は別ですが。しかし、そうしたところであなたは既に一回分、死者との電話を使ってしまったので恐らく死亡届を提出し直したとしても、美那子さんと電話をすることはできないと思われますが」

「ふふ、さっきはかけ直せばいいとかなんとか言ってたくせに。だめなんじゃない」

「あの時は、確認しなければならないことがありましたので……」


 道端は首の後ろをぽりぽりと掻く。

 よくも悪くも嘘のつけない男なのだろう。目の前にいる人物が桐谷美那子ではなく、桐谷璃佳子であることを確かめるための方便は使えるが、気の利いた優しい嘘なんてものとは無縁の人間なのだ。そんな道端の有り様が璃佳子には羨ましく感じられた。頭の先からつま先まで嘘に満たされた自分とは大違いだ。


 道端はわずかに視線を揺らすと、


「これからどうされるおつもりですか?」


と遠慮がちに尋ねてきた。

 朴訥としたその態度に思わず笑みが漏れる。


「どうもこうも。パスワードは分からないままになっちゃったし、これじゃあ桐谷美那子の新曲はもう発表できません。桐谷美那子は妹の死にショックを受けた末、引退。はい、これにて終劇」

「芸能人である桐谷美那子さんの行く末を聞いたのではありません。僕が聞いたのは、璃佳子さん。あなた自身のこれからの人生のことです」


 道端の言葉に瞬きを繰り返す。

 璃佳子自身のこれからの人生。そんなもの、あの日以来考えたこともなかった。ただ、桐谷美那子を演じることに必死で、それ以外のことには気が回らなくなっていた。今だって桐谷美那子の引退会見で話す文言は湯水のように頭の中に湧いているが、桐谷璃佳子の今後の人生については何一つ思い浮かばない。


「……わたしの人生は、どうでもいいので」


 美那子が死んだあの日、美那子の命と一緒に璃佳子は自分の命も地面に埋めた。自分の死亡届を提出しもう二度と、桐谷璃佳子として生きたいと願うことがないよう完全に退路を断った状態で今日まで過ごしてきたため、その後のことなんてまるで考えていなかった。


 むしろ、その後のことを考えると少し怖い。

 桐谷美那子の皮を剥がされた生身の自分がこの世に晒されることが恐ろしい。姉を死に追いやった自分がこの先どうやって生きていったらいいのか、生きていく価値があるのか、璃佳子にはいまだ分からないでいた。


 すると、道端が唇を開いた。


「生き残った者の罪悪感、サバイバーズギルドと呼ばれるものがあります」

「はい?」


 耳慣れない言葉に怪訝な声を上げるが、道端は気にせず続ける。


「事故や災害など、親しかった人物が亡くなったものの自分だけは生き残ってしまった場合に人が抱く罪悪感のことです。自分とその人物の生死を分けた境目は何だったのか、どうして自分だけが生き残ってしまったのか、自分が死んだほうがよかったんじゃないか。生き残った者は亡くなった命を前にして、自分の命の軽さを痛感し己を責めることがあります。お話を伺ったところ、あなたは美那子さんの死に対して並々ならぬ罪悪感を抱いているようにお見受けします」

「それは、そうですけど……」

「あなたはクラブで僕に自傷行為は無意味だと言いましたね。けれど、不幸にも人には最後の権利として、自分を痛めつける権利が残されています。そしてその権利はその人個人の意思によって施行されます。美那子さんには美那子さん自身を痛めつける権利があり、残念ながらそれが施行されてしまった。けれど、それはあなたのせいではありません」

「……綺麗事じゃないですか、それは」

「はい。綺麗事です。しかし、あなたがそれで少しでも救われるなら綺麗事にも価値はあります。ついでにもう一つ綺麗事を言わせていただきます。

 あなたは最初、美那子さんの遺書にあった通りの指示で死因を誤魔化したと言っていましたね。結果的にそれは嘘だったわけですが、あなたにはそんな嘘よりも守るべきものがあるはずです」


 道端は何の感情も映さない、それでいてどことなく祈りを込めるような口調で言った。


「長生きしてください。桐谷美那子としてではなく、かけがえのない桐谷璃佳子として。それが、美那子さんからのあなたへの遺言なのですから」


 道端の言葉に胸が詰まり、思わず俯く。

 そこでようやく思い出す。


 最後の最後まで優しかった姉は自分に恨み言の一つも言わず、長生きしてと綴ってくれた。悲しみに支配された視界の中では姉の祈りは見つからず、ただ自分の失態を責めるどうしようもない罪の意識がこびりついて離れなかった。


 しかし、少しだけ視界がクリアになった今なら分かる。桐谷美那子を守ること、延命させることは姉の本意ではない。

 道端の言う通り、璃佳子が長生きすること、自分の人生を歩むことを姉は最期まで望んでくれていたのだ。


「……はい」


 やっとの思いで絞り出した返事はみっともなく掠れていたけれど、道端の耳にはちゃんと届いたようで彼は大きく頷いてみせた。

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