3人目 桐谷美那子 (11)
時間が経っても涙も嗚咽も止まらない。けれど、このまま姉の遺体を放っておくわけにはいかないと璃佳子はなんとか起き上がり、かっと見開いた美那子の目を閉じてやった。すっと瞼を閉じ、汚れた顔まわりを整えてやれば美那子は死んでいるというよりは眠っているように見えた。幸か不幸か、首周りのロープ痕もそこまで酷くは残らなさそうだ。
少しでも美那子が寒い思いをしないようにと、璃佳子は自分のコートを脱いで美那子の体へかけてやる。暖房も何も効いていない部屋であるため、一枚脱いだだけで寒さに体が震えたが、美那子にこれ以上寒い思いをさせるよりはましだった。一瞬、クローゼットに吊るされたコートをかけてやろうとも思ったが、クローゼットを見ただけで首を吊った姉の姿がフラッシュバックし怖くなってやめた。
あとは救急車を呼べば事は済む。
その前に美那子の遺書を読んでおこう。この部屋に他人がずかずかと入り込んでくる前に、片割れが残した最後のメッセージを確認しておきたい。
糊付けされていない封筒の口を開ける。白い便箋には美那子らしからぬ乱れた筆跡で、璃佳子の知らない姉の苦痛が吐露されていた。
『こんなことをして本当にごめんなさい。でも近頃のわたしは誰のために生きているのか分からなくなってしまいました。
歌を歌うことが好きでした。曲を作ることが好きでした。少しの人に聞いて貰えれば、大切にしてもらえればそれで十分でした。
けれど、知らないうちに桐谷美那子という存在はどんどん大きくなって、本当の自分と歌手・桐谷美那子との差はどんどん開いていきました。名前が知られるようになればなるほど、わたしが本当に歌いたい歌、作りたい曲はないがしろにされて、皆が歌って欲しい歌、作って欲しい曲を生み出すようになりました。そうやって無理やり、口の中に指を突っ込んで胃の中身を吐き出すみたいに無理に生み出したものを好きになることはできませんでした。
それでもそういう歌や曲が桐谷美那子を作っていきました。無理をして作った歌や曲は大切に扱われるだけではなく、そんざいにも扱われました。賞賛も批判も半分ずつ、歌手・桐谷美那子に向けられて気づいたら、わたし自身の手元には何も残っていませんでした。
自分が出演したテレビ番組を見ても、撮影したミュージックビデオを見ても、何もかも他人事みたいで、自分が誰なのか分からなくなり少しずつ寝れなくなって、食べられなくなって、どうしようもなくなりました。
わたしは誰の人生を生きているのか、分からなくなってしまったんです。ごめんなさい。桐谷美那子はここまでで終わらせてください。わたしには桐谷美那子でいるためのエネルギーがもう、なくなってしまいました。誰のせいでもありません。わたしの弱さです。
最後に大切な璃佳子へ。璃佳子と子どもの頃、二人で音もリズムも気にせずに歌っていたあの頃が一番わたしらしくいられました。もう一度、璃佳子と曲を作ったら何か変わるかもしれないと甘えてしまってごめんなさい。わたしの命のケリはわたしがつけるから。お詫び、なんていうのはおこがましいけれど、わたしのオンラインストレージファイルに作りたくて作ったけれど、誰にも必要とされなかった曲がいくつか残ってるから何かの参考にして。璃佳子、あなたは誰にもならずに、あなたの人生をちゃんと生きて。長生きしてね』
便箋にはところどころ涙が滲んで、描かれた文字もところどころ歪んでいる。美那子は泣きながらこれを書いたのだろう。一体、どんな思いで、どんな覚悟で、どんな悲しみで?
姉の残した文字を指先でなぞると同時に再び熱い涙が頬を滑り落ちていく。
美那子が苦しんでいるだなんて、ちっとも気が付かなかった。自分は美那子との格差に、彼女への嫉妬に目が眩んで本当の姉の姿を見ることを放棄していた。これだけ人気者になればきっと何が起きても幸せだろうと思い込んでいた。
そんなはずがないのに。
どれだけ人気があろうと、転べば膝から血が出るし、自分の本意でないことをやらされれば自分の心の在処が分からなくなって疲れてしまう。でもきっと、璃佳子も含め、桐谷美那子の眩しさばかり見つめていた人々はそんな当たり前のことを忘れていたのだ。彼女がなんの苦もなく歌を歌い、曲を作っていると錯覚していた。さぞ裕福な暮らしをして、さぞ自由気ままに呼吸をして、この世の全てが彼女の思い通りになっていると誤解していた。そんな人間、一人とて存在しやしないのに。
璃佳子はポケットにしまっていた携帯電話を取り出した。インターネットで「桐谷美那子」と検索する。すると、遺書にあった通り、数多の美那子への賞賛と共に数多の非難が液晶画面にずらりと並んだ。
その一部が璃佳子の視界を行き来する。
『桐谷美那子だけが本物の歌手。他は本物のふりをした粗悪品』
お姉ちゃんを褒めるために誰かを貶すな、と怒りを伴って思う。
『桐谷美那子なんて大したことない。あんなのよりめっちゃすげえバンド見つけたからみんな見て』
誰かを褒めるためにお姉ちゃんを貶すな、と悲しみを伴って思う。
『何言われてもこんだけ露出多ければしょうがないでしょ。有名税』
有名税があるなら無名税だってあるべきだ。その有名税とやらでお姉ちゃんの命がなくなった責任は、誰が取ってくれるというのか。
有名税なんて無責任な言葉に美那子は食い尽くされてしまったのか。
無名な自分には、こんなことになってもまだ姉が何に苦しんでいたのか、きちんと理解できない。きっと一生分からない。美那子の痛みは美那子にしか分からなくて、同じ状況になったとしても美那子と自分は違う人間だから、彼女の苦痛をそっくりそのまま体験することは双子といえどできやしない。けれど、間違いなく言えるのは、美那子に重い税を課した人間の中に自分もいたということだ。
璃佳子は携帯電話をポケットにしまった。
ぎゅっと遺書を握り締め下唇を噛む。
「くそ……くそ……くそ……!」
嗚咽と一緒に漏れる罵声は、姉の苦しみに気が付かずのうのうと息をしている自分に向いていた。
姉は歌に愛されているのだと思っていた。そして自らの歌を愛しているのだと思っていた。けれど違った。自ら望んだ子ならまだしも、誰かに強要されて作った子どもを愛せる母親がどこにいる? 美那子はとっくに自分の望んだ曲なんて作らせてもらえなくなっていて、けれど曲を作らないという選択肢は彼女には残っていなくて、せめて同じように歌を愛している妹と共に曲が作れたら、これ以上自分を見失わずに済むと思って璃佳子に電話をしてきたのだ。
そしてわたしがその手を振り払った。
「ごめんなさい……お姉ちゃん……」
今更、どれだけ謝ってももう遅い。どれだけ祈っても嘆いても死んだ人間は蘇らない。桐谷美那子はもういない。誰からも求められる人だったのに。この世界に必要な、生きている価値のある人だったのに。
「お姉ちゃんの代わりに、わたしが死ねばよかった」
呟いた言葉は妙な説得力を持って木霊した。
瞬間、ぴたりと璃佳子の唇の震えが止まる。遺書を握り締めていた手から力が抜け、罪悪感で硬直していた心臓が動き出す。
そうだ、自分が桐谷美那子になればいいのだ。
どこか茫然とした心地で床に眠る美那子を見る。
この死体を見て、桐谷美那子か、桐谷璃佳子か、正確に見分けられる人間はどれだけいるだろうか。
幸い、成長した後になっても顔も体も美那子と璃佳子は瓜二つ。加えて床の上で眠っている美那子は化粧をしていない。歌手として活動する時の美那子は濃いめの化粧をしていた。対して、それに反発するように璃佳子は薄化粧であるために歌手活動の際にもほぼすっぴんに近い状態だ。
今、自分の顔に美那子のような濃い化粧を施したらどうなるだろう。どっちが桐谷美那子でどっちが桐谷璃佳子か、見分けなんてつかなくなるんじゃないだろうか。
桐谷璃佳子が桐谷美那子に成り代わる。
それは悪魔的な発想で、それでも今の璃佳子にとっては姉を生き長らえさせるためのたった一つの冴えたやり方のように思えた。美那子は死んでいい人間ではない。自殺なんかで命を落としていい人間ではない。
自分はきっと、この日のために姉と瓜二つの顔と体と声を持って生まれてきたのだ。桐谷美那子という優れた人間が崩れていなくなってしまった時、彼女の残したデータを引き継ぐことができる唯一無二の代替品。
姉の苦しみに気が付けなかったという罪の意識は、璃佳子の正気を砕くのに十分な威力を持っていた。
璃佳子は素早く準備を始めた。
服を脱ぎ、下着ひとつまではぎ取ると美那子が着ていたものと自分の衣服を全て交換した。美那子の遺体に自分の洋服を着せてみると、本当に璃佳子との区別がつかなくなった。
次は化粧だ。リビングへ行き棚に置かれたメイク道具で美那子がよくしていた濃いアイメイクと真っ赤な口紅を施す。出来上がりを見てみると、鏡に映った自分は桐谷美那子そのものになっていた。その頃にはあんなに湧いて止まらなかった涙も止まっていた。桐谷美那子に成り代わる作業をするうちに、桐谷璃佳子としての感情がぷつり、と千切れたのかもしれない。それでいい。桐谷璃佳子は必要ない。今からわたしはわたしを殺す。
作業部屋へと戻った璃佳子は、妹の服を着た美那子の遺体の横へ膝をつく。そっと彼女の頬に触れながら思考を巡らせる。
うまくやれるだろうか。
歌やダンスは誤魔化せるだろう。もともと声質は似ているし、美那子への嫉妬がおかしな方向へねじ曲がった時期に、自分は彼女の歌い方や踊り方を完コピしたことがあった。インタビューなどもきっとこなせる。嫉妬に汚れた目で姉をいつも観察していたから、この世の誰より美那子の癖や特徴は理解しているつもりだ。
あとは、と考えながら無意識にネックレスをいじる。
桐谷美那子が変わらず歌手として輝いていくために邪魔なものは全て排除したい。そのためには、桐谷璃佳子に自殺してもらっては困る。売れない歌手であった妹が自死したとなれば、美那子はいわれのない批判を浴びるかもしれない。姉はもう十分、非難を浴びた。これ以上はもういらない。
ブッブッ、と作業台の上に置かれた携帯電話が震えた。美那子のものだ。見ると「マネージャー 鈴木」と表示されている。璃佳子は応答ボタンを押した。
「もしもし?」
「あ、鈴木です。新曲の進捗どうですか?」
璃佳子はしばし沈黙した。
姉の死因を誤魔化すのはさすがに自分一人では骨が折れる。共犯者がいると良い。それに、自分の演技がどこまで通用するか、大衆の面前に立つ前に試しておきたい。できれば桐谷美那子に近い立場にいる人間を使って。
「妹が死んだの」
「……え?」
「今日、妹が部屋に来るって言うから先に入っててって言って、今家に帰ったら作業部屋で首を吊ってて。わたし、どうしたらいいんだろう、ごめんなさい、気が動転してて。できれば誰にも言わないで。わたしもう一体、どうしたらいいか分からなくて……」
「ちょ、ちょっと待って。今家にいるの? ならすぐ行くから」
「……うん」
電話は切れた。そのまま自分のポケットに美那子の携帯電話を入れた。
璃佳子は気づくと笑っていた。鈴木は電話の相手を美那子と思い込んでいた。寸分の疑いもなかったではないか。
大丈夫。これならきっとうまくいく。そう思うのに、なぜか一筋の涙が頬をつたい、璃佳子は不思議に思いながら親指でそれを払ってなかったことにした。
再び姉へと向き直る。首についた赤い筋は薄くはなったものの完全には消えていない。
璃佳子は身に着けていたネックレスを外した。
服は全て交換したが、アクセサリーまで入れ替える必要はないかと思いそのままにしていた。いや、本当は今更になって美那子からもらったプレゼントが彼女の形見のように思えて惜しくなったのかもしれない。しかし、美那子の首にはロープと分かるような細かな編み目は見えないが、首筋をぐるりと囲むように赤い線が走っている。
璃佳子は膝をつき、眠る美那子の首へネックレスをかけた。
これで首に残った傷跡はネックレスが引っかかってついたものとして誤魔化すことができる。璃佳子がつけると身の丈に余ってみえたアクセサリーは、姉の首元に据えられるとやっと本来の輝きを取り戻したようにみえた。
「あとは任せて」
璃佳子はネックレスのチャームを握り締める代わりに、姉の遺書を握り締めた。これは誰にも見せずに後で燃やす。そうすれば桐谷美那子の死はなかったことになる。あとはいつも通り、本物の美那子のように微笑みをたたえて過ごせばいい。
この日以来、桐谷璃佳子は桐谷美那子になった。彼女は一滴の涙もこぼすことなく姉を演じた。誰も彼女の正体に気がつく者はいなかった。
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