3人目 桐谷美那子 (10)
璃佳子は結局真っ直ぐ自宅には帰らなかった。
姉のところへ寄ろうと思った。
自分のつまらない嫉妬で酷く彼女を傷つけてしまった罪悪感が遅れて湧いてきて、ギターを背負った数秒後には顔を見てきちんと謝りに行こうと決めていた。
車は持っていない。意地を張って姉の背を追うように東京へ出てきたのはいいものの、アルバイトで食いつなぐのに精いっぱいで自家用車なんて夢のまた夢だ。
在来線へ乗り込んでギターケースを前に抱えてガタゴトと揺られる。幸い、都心部の駅前で歌っていたおかげで姉の家までは三十分あれば到着する。姉の自宅の最寄り駅へ到着した途端、両手で抱えていたギターを背負い凍結寸前の路面をだらだらと歩く。アコースティックギターは見た目より軽いわりに、小柄な璃佳子が背負うと頭の先からネックが飛び出す。街灯に照らされ自分の影がアスファルトに映った途端、頭からツノが生えて見えてカブトムシみたいだと思った。蜜なんてとっくに出ないとわかっているのに、いつまでも未練たらしく同じ木にしがみつくカブトムシ。蜜をたっぷり吸ったヘラクレスオオカブトはとっくの昔にもといた木から飛び立って大空を舞っているのに、自分だけが虫けら同然の地位から抜け出せない。
そこまで考えて夜になると思考が卑屈になるな、と自分の根暗さに呆れる。こんな調子では美那子に謝るどころか、また憎まれ口を叩いてしまいそうだ。
せめて、何か手土産でも買った方がよかっただろうか。その方が口が滑ったとしても、ちゃんと謝る気はあったんですという証が残る。しかし、ここまで歩いてきてしまったのだから今更引き返すのもな、と近づいてきた姉のマンションへは手ぶらで向かうことにした。
オートロックの高級マンションではあるが、美那子から一方的に合いカギを渡されているため姉の許可がなくても中へは侵入可能だ。璃佳子はインターホンを押すこともせず勝手にマンションへ入り、勝手にエレベーターへ乗った。
美しい都会の夜景がよく見える上層階に位置する美那子の部屋を思い出す。部屋へ入ったら窓から見える景色はできる限り見ないようにしよう。抑え込もうとする嫉妬心が再び鎌首をもたげて美那子へ噛みついてしまうかもしれない。
目的の階で停止したエレベーターから降り、美那子の部屋へ向かう。扉の前で立ち止まりここは一応、とインターホンを押してみるが反応がない。
たまに美那子はこういう時がある。楽曲の製作に夢中になっていると他の音が一切遮断されてしまうらしく、耳元で璃佳子が大声を上げてやっと気が付くということもままあった。
璃佳子に楽曲の共同制作を断られ、しょげながら一人で制作に打ち込んでいるのだろう。真面目な姉のことだ。そうに違いないと高を括って合鍵を使って解錠する。
「美那子ー。璃佳子だけどー」
玄関へ上がり家主へ向けて声を張り上げる。てっきりリビングで作業をしていると思っていた姉の姿は見当たらず、璃佳子は首を傾げた。美那子も璃佳子ももともとが弾き語りからスタートしているため、楽曲の基礎を作る時、美那子はいつもギターを弾きながら構想を練る。リビングが一番広々としていてギターを弾くにはちょうどいいのだ、と近所迷惑も考えず以前の彼女は快活に言っていた。
ひょっとすると、あらかたの譜面はもうできたためデモの制作に入っているのかもしれない。デモ制作には美那子はギターではなく作業部屋のパソコンを使う。高性能機器が取り揃えられたあの部屋へ入ると、いまだにギター一本で楽曲制作をしている自分と姉との格差を痛感して泣きたくなるのであまり入らないようにしている。だが、いないのなら仕方がない。
面倒くさいなあ、と思いつつ、リビングを通り抜け作業部屋へと続く引き戸を開けた。
「お姉ちゃーん?」
ところがそこにも美那子の姿はなかった。
スピーカーやマイクなどの音響機器の他に、部屋には作業机に置かれたパソコンとキーボードが並べられている。ふと、キーボードの上に一通の封筒があることに気が付いた。真っ白なそれには真っ黒な文字で「遺書」と書かれている。
「何これ……」
冗談きついな。
封筒から漏れ出る不穏な空気をどうにか見なかったことにしたくてそんな感想を頭に浮かべてみるものの、妙な胸騒ぎは止まらない。
まさか、いやそんなことがあるものか。
あの桐谷美那子だぞ? 今が一番輝いていて、どこへ行っても引く手数多の成功者の脳裏に死がよぎるなんてあるわけがない。こんな高級マンションへ暮らして、こんな良い機材を持っていて、才能にも恵まれた人間が死ぬなんてそんなおかしなことはないだろう。報われる気配が一向にみられない自分が死ぬならまだしも、美那子が自ら死を選ぶ理由なんてどこを探しても見当たらなかった。
そう思って封筒を手にしたまま作業部屋から出ようと踵を返した時、クローゼットが目に留まる。少しだけ扉の隙間が開いていた。その隙間から人の足のようなものが見え隠れしているような気がして、璃佳子は生唾を飲み込む。
きっと、コートの袖が足のように見えているだけだろう。
確認するまでもないことだけれど念のため、目の錯覚であることを確かめよう。そうしたらこの妙な胸騒ぎもきっと落ち着くはずだから。
みっともなく震える足を叱咤してゆっくりと、一人暮らしにしては大きなクローゼットへ近づいていく。扉に手をかけ勢いに任せて開いた先には姉がいた。クローゼットのつっかえ棒に括りつけられたロープは姉の首を絞めている。ぐったりと脱力した姉の体はコートと一緒に並んで吊るされていた。
「あ……あ……」
璃佳子は小さな声で喘いだ後、錯乱しながらも手に持っていた荷物を全て床へ投げ捨てて姉の首からロープを引きちぎる。一体、自分のどこにそんな力が眠っていたのかわからないが、姉の首を絞めていたロープは璃佳子の細い指の力に負けてあっさりちぎれた。
途端、支えをなくした美那子の体重全てが自分に圧し掛かってきた。さすがに支えきれなくて彼女の体と一緒に床へ投げ捨てられるように転がる。すぐに起き上がり、フローリングの上に横たわった美那子へ必死に声をかけた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃんってば!」
どれだけ揺さぶっても、呼びかけても姉はぴくりとも動かない。白目をむきかけた眼球や口から零れた醜い体液は、美しかった姉の姿とは思えないほど荒んでいて生きている人間のものとは思えなかった。
死んでいるかもしれないという思いと、まだ間に合うかもしれないという思いが頭の中を飛び交う。気づけば璃佳子は姉の口元を自分の服の袖で拭い、彼女の唇に耳を押し当てていた。気のせいかもしれないが、まだ息があるように思えた。体だってちゃんと温かい。まだ、今ならまだ、美那子をこちらへ呼び戻すことができるかもしれない。
璃佳子は泣きながら姉の胸に両手を乗せ、必死に心臓マッサージを始めた。やり方なんてほとんど分からなかったけれど何もしないよりましだと思った。ぐいぐいと力を込めて押すあまり、姉の細いあばら骨が折れてしまったらどうしようと思ったが、それで姉がまた息を吹き返すなら安いものだ。数十回、姉の胸骨を圧迫した後、璃佳子は美那子の唇へ自分の唇を押し当てた。
ふうっと自分の息を姉の肺まで届けようと思うのに、うまくいかない。それどころか、押し当てた姉の唇からは体温がまるで感じられなかった。決死の口づけの先に待っていたのは柔らかい唇の感触でもなければ、温かい姉の笑顔でもない。ただ、姉の死を告げる冷たさが、硬さが返ってきただけだった。
「うっ……うっ……」
璃佳子は美那子から唇を離し、そのまま彼女へ覆いかぶさる。ぎゅっと抱きしめた片割れは少しずつ体温を失っていき、腕の中に感じる温度がフローリングの冷たさなのか、姉の体の冷たさなのかが分からなくなった。
「なんで……お姉ちゃん……なんで……」
返事はない。
璃佳子は冷たい美那子の体を抱きしめて、みるみるうちに凍り付いていく姉の頬に熱い涙を零した。どれだけ泣いても、どれだけ抱きしめても姉の体は温かくはならない。もう、美那子の命は戻らない。何かに追い詰められたたった一人の片割れは、自ら命を絶ってしまった。もう二度と歌うこともなければ、笑うことも話をすることもできやしない。
璃佳子はその事実が受け入れられず、数分の間、姉の体を抱いたまま静かに泣いた。
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