3人目 桐谷美那子 (9)
あの日の夜も璃佳子は一人、いつものように路上で歌っていた。寒さに凍える指先で冷たいギターの弦を押さえると、弦の硬さに指の腹の皮膚が負けて破けてしまいそうだった。
目の前を通り過ぎかけた二人組の大学生の一人が、璃佳子の顔を見てあ、と声をあげる。
「桐谷美那子じゃね? え、やば!!」
そう言ってカメラを構えた学生を連れが制する。
「ちげーよ。桐谷美那子じゃなくて、ほら、妹の……」
「あー、売れてない方かっ! なんだ、あっぶねー。損するとこだった」
言って大学生たちは笑いながら人混みへと消えていく。
それでも璃佳子は歌っていた。内心、腹立たしくて恥ずかしくて今すぐ自宅へ逃げ帰りたい思いでいっぱいであったが、ここで歌うことをやめたらあの二人に負けたような気がして癪だ。その一心で璃佳子はますます声を張り上げた。
璃佳子の歌を立ち止まって聞いているのは一人、二人。一人はいつも必ずいる、ニット帽を目深に被った男性。もう一人は気まぐれに立ち止まった通行人。その他大勢の人の群れは璃佳子の存在など見えていないようにざあっと流れ去っていく。
全ての曲を歌い終えて頭を下げる。ニット帽の男性からギターケースへ投げられた数百円のカンパを握り締めて帰ろうとした時、電話が鳴った。ポケットに手を突っ込んで液晶画面を見ると『お姉ちゃん』と表示されている。
璃佳子は咄嗟に眉を顰めた。出たくない、と思ったけれど姉は電話を無視しても何度でもかけ直してくるため気が付いた時に応答しておくのが一番マシだ。通話ボタンを押して、璃佳子は低めの声で
「もしもし」
と呟いた。
「璃佳子? いま大丈夫?」
「路上ライブ終わって帰るとこですけど」
「え、そうだったの!? なんかごめんね」
「別に。お姉ちゃんと違ってわたしの歌聞いてくれる人なんていないし」
電話を持っていない方の手で荷物を次々とまとめていく。姉、美那子が電話越しに苦笑いをした。
「璃佳子にもちゃんとファンがいるじゃない。ほら、帽子の人。人数なんて関係ないよ。応援してくれる人がいるって凄いことだよ」
「武道館ライブもホールツアーも飽きるくらい経験した人には言われたくありませーん」
「もう。またそんなこと言ってさ」
「で、何? 用ないなら切るけど」
「あ、待って! 璃佳子にお願いがあって」
「えーやだ」
「まだ何も言ってないじゃない」
また美那子が笑った。美那子はよく笑う。彼女はいつ見ても朗らかで、卑屈で笑顔が苦手な自分とは大違いだった。満たされた人間の余裕というものなのだろう。国民的歌手として大成した姉と、いまだCDもジャケットも自主製作している妹とでは人間としての器も異なるというものだ。あるいは、人間としての器が異なるから、美那子は成功し璃佳子はくすぶっているのかもしれない。
どのみち、璃佳子は姉と話すのが好きではなかった。美那子が笑うだけでお前はわたしより下だと格下扱いされているような気がしたし、美那子に少しでも頼みごとや指示をされると余計に惨めな気がして嫌だった。
美那子は一度もそんな風に自分を扱ったことはないのに、不思議だ。
昔は仲の良い姉妹だったと思う。二人とも小さいころから歌が好きで、声も顔もそっくりで何をするにも一緒だったのに、姉は爆発的な人気を誇る歌手となり、妹は歌手と名乗るのもおこがましいほど無様な現在を送っている。
美那子は人気者になっても変わらなかった。
こうして家族として当然のように急な電話を掛けてくるし、変に驕った態度もない。
変わったのは璃佳子の方だ。一流アーティストへと上り詰めた姉に触れる度、己の満たされなさが浮き彫りになっていつの間にか姉のことも自分のことも嫌いになってしまった。
「あのね、手が空いてる時でいいんだけど楽曲の製作、一緒にどうかなって思って」
「……は?」
「ほら、わたしたち、姉妹で双子で二人とも歌手なのに一度も一緒に曲を作ったことなかったじゃない? わたしも璃佳子も歌手活動を始めて七年経つし、そろそろ一緒にどうかなと思って」
璃佳子は白く染まる息を一つ吐くうちに想像した。
売れっ子歌手として名高い美那子と、売れない歌手としてどこにでも転がっている石のような自分。そんな二人が一緒に曲を作り発表したらどうなるか。
肺に入った冷気は体だけでなく、璃佳子の心まで凍らせる。璃佳子は無意識に首元のかけたネックレスのチャームを指先でいじった。いつだったか、美那子から貰った高級アクセサリーだ。捨てようかと思ったがアクセサリーを自分で買うお金なんてないからライブの時は仕方なくつけている。
「バカにしてんの?」
「え?」
気が付くと冷酷な声が喉の奥から湧き上がっていた。
「歌い続けて七年も経つのに芽の一つもでないわたしに同情でもした? それはそれは、随分お優しいことで」
「璃佳子? どうしたの? わたし、そんなつもり、」
「お姉ちゃんはさ、無自覚に酷いことするよね。知ってるよ。本当によかれと思って誘ってくれたんだって分かってるけどさ。嫌味にしか思えないんだよね。お姉ちゃんが言うように、わたしたちがお花畑みたいな脳味噌してきゃあきゃあ言いながら一緒に曲作ったとしてさ。世間の皆様は、わたしのことを桐谷美那子の知名度にあやかった売名野郎としか見ないんだよ。これ以上わたしに惨めな思いさせて楽しい? 分かったら変なこと言ってないで自分一人で名曲ばんばん生み出してくださいよ。わたしと作るより、お姉ちゃんが一人で作った方がずっといい曲になるよ」
「……そう。璃佳子がそういうなら、分かった」
璃佳子は唇を噛んだ。
桐谷美那子は怒らない。昔からそうだ。癇癪を起して惨めたらしく怒り狂うのも泣きじゃくるのもいつも璃佳子だけ。そんな自分を見て姉はいつも困ったように笑っている。どれだけ自分が我儘を言おうと、憎まれ口を叩こうと嫌味の一つも言いやしない。
「璃佳子、無神経なこと言ってごめんね。でも、わたしは本当に自分がいいと思った曲を、璃佳子と一緒に一度でいいから作ってみたかっただけ。それだけは、信じてね」
「……うん。ごめん、わたしも言い過ぎた」
「うん。おやすみ」
おやすみ、と言って電話を切った。
都会の夜は明るい。
星が輝いているわけではない。自然が生み出した温かな光は街灯やらビルの明かりやら、人工的な光に食い尽くされてもう見えない。
ギラギラギラギラ、誰かの思惑と利益のために作られた明かりが夜の街を照らしている。その中の一つには桐谷美那子の姿もあった。
ビルに貼りつけられた巨大なモニターに姉の姿が映る。思惑と利益の光の中にあっても美那子は綺麗だった。美しさは人を魅了する。道行く人は足を止めて、桐谷美那子だとモニターを見上げて指をさす。桐谷美那子は大衆の視線を一身に浴び、優しく美しく微笑みながら歌っていた。それだけで画面越しであるにもかかわらずわあっと歓声が上がる。
なのにこんなにも虚しい気持ちになるのはどうしてなのだろう。
誰もが桐谷美那子を称賛してやまないのに、自分だけが白けている。時代の波に一人だけ乗れていないような、誰もが拍手を送ってやまない舞台を前に自分だけが硬直して動けないような、孤独と虚しさに胸の中心を占拠される。
わたしが桐谷美那子の妹だから?
瓜二つの双子として生を受け、自分よりもたった数秒先に母の胎から飛び出した姉との差は今となっては数秒では埋められないほどにまで広がっている。
わたしが先に生まれていたら、何か違ったのだろうか。
わたしが美那子と同じ歌手を目指さなかったら、姉を疎ましく思うこともなかったのだろうか。素直に彼女が受ける称賛を自分のもののように受け止め喜ぶことができたのだろうか。
嫉妬は醜い。それは知ってる。
けれど心のどうしようもないところが、姉を羨んでたまらない。
「どうしろっていうのよ……」
これ以上惨めな人間になりたくない。
大きなモニターの中で姉が放つ光の渦に焼き殺されそうだった。
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