3人目 桐谷美那子 (8)
床に手をついてげほげほと咳き込む。痛んだ体の節々を気遣いながら道端を見上げた。
「わたしが、璃佳子ですって?」
息を乱しながら唇の片端を歪めて放った虚勢はしかし、道端には通用しなかった。
「はい、あなたは桐谷璃佳子さんです。自死によって亡くなったはずの」
「それって普通に考えておかしくない? じゃあわたしはなに? 幽霊だとでもいうつもり?」
透けてないわよ、という代わりに両腕を広げて見せる。道端は大した興味もなさそうに一瞥すると、抱えていた公衆電話をベッドの上にそっと置いた。それからこちらへ向き直り、公衆電話を自身の背に隠すようにベッドの端へ腰かける。再び美那子に電話を取られぞんざいに扱われることが嫌なのだろう。
「今から話すことは僕の憶測です。その前に、まずあなたに死者との電話にまつわるシステムをお伝えしておかねばなりません」
「それはさっきクラブで聞いたはずだけど。他にもまだあるの?」
「いえ、概要は先ほどの通りです。ここからは依頼者へは通常、説明しないより細かな仕組みの話になります」
美那子は地べたにへたり込んだまま、黙って道端へと視線を注ぐ。マネージャーの鈴木とは異なり、彼は美那子の鋭い視線に晒されても涼しい顔を崩さない。
「死者との電話を繋ぐためには亡くなられた方の名前、性別、生年月日、死亡年月日が必要です。その仕組みは一重に戸籍に則って作られています」
「戸籍?」
道端は頷いた。
「つまり、戸籍通りの名前、性別、生年月日、死亡年月日をダイヤルへ打ち込まなければ死者への電話は繋がらないということです。例えば、失踪したきり行方が知れず、失踪宣告の申し立てから七年が経ち戸籍上死んだことになった人がいるとします。その人の本当の死亡年月日はその人にしかわかりません。失踪した三日後かもしれないし、あるいはまだ生きているかもしれない。それでも決められた手続きに則って考えれば、失踪宣告の申し立てを行ってから七年が経ち、死亡届を提出した日が当該人物の戸籍上の死亡日となります。よって、正確な死亡年月日は分からずとも戸籍上の死亡日は確定するので死者への電話に必要な情報はクリアされます」
美那子はへえ、と気のない返事をした。
どうでもよかった。そんな人間が本当にいるのかどうかすら、美那子には分からないのに会ったこともない架空の人間の話をされても興味は持てない。
道端は続けた。
「他の情報についても同じです。性自認が女性でありながら戸籍上は男性として登録されている死者へ電話をする際も、戸籍上の情報に則れば何の問題もありません。そして、もう一つ、死者との電話を繋ぐための重要なポイントがあります。それは死者自身が、自分は自殺を決行したことによって命を落としたという自覚を持っていることです。この条件だけは、戸籍上の問題とは別になります。目に見えない本人の認識の問題ですから」
水か流れるように滞ることなく話し続けていた道端は一度言葉を区切った。レンズ越しの瞳がわずかに細められる。その仕草に、美那子は自分への憐れみが混ざっていることを感じ取った。
やめろ、と激情を伴って強く思う。
そんな目でわたしを見るな。まるで報われない無駄な過ちを犯した動物を見るような目でわたしを見るな。
「以上を踏まえた上で僕の憶測を聞いてください。桐谷璃佳子さん。あなたはご自分の死亡届を既に提出し、桐谷璃佳子という人物は自死によって死亡したと強く認識しているのではないですか? そして、今は死んだことになった桐谷璃佳子の肉体で桐谷美那子を演じている」
美那子の唇が震える。うるさい、黙れと怒鳴りたい衝動と、道端の言っていることが正しいという諦めが拮抗して喉が引き攣った。
やめろ。それ以上言うな。
それ以上言われたら、わたしは。
「自死により亡くなったのは桐谷璃佳子さんではなく、本当は桐谷美那子さんなのではないですか?」
桐谷美那子ではなくなってしまう。
璃佳子の瞳から涙が零れた。もう限界だ。そう思った途端、泣かないと決めたあの日から一ミリたりとも溢れることはなかった涙が止まらなくなる。
「違う、違うの……わたしは、桐谷美那子で、死んだのは、妹の……」
服の袖で目元を拭うと落ちたマスカラがこびりついて黒い汚れがついた。できるだけ、死んだ姉に似るようにと今までしたことがないくらいに濃い化粧を施していたのに、これではせっかく被った皮が剥がれてしまう。
死んだ姉を蘇らせるために、一人で勝手に姉から引きはがして頭から被った化けの皮。誰にも盗られないように、ぎゅっときつく握り締めて離さなかった。けれど、道端という知り合ったばかりの男の手によってあっさりと剥され、隠し続けていた璃佳子の素顔が露わになる。
しばらく室内には泣きじゃくる璃佳子の声だけが響いた。
数分経っただろうか。不意に目の前にずいっとティッシュ箱が差し出される。顔を上げると道端が首の後ろを掻きながらティッシュを持っていた。
「僕で良ければ、事の次第を聞かせていただけませんか? 守秘義務は徹底します」
少し迷ってから、璃佳子はティッシュを受け取った。
それから懺悔室で自らの罪を告白する異端者のように、姉が死んでから凍り付いたように閉じていた桐谷璃佳子の唇が割り開かれた。
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