3人目 桐谷美那子 (5)
都心のクラブのVIPルームで美那子が三杯目の酒に口をつけた時だった。コンコンとドアがノックされたため、はいと返事をする。扉の向こうから背の高い眼鏡の男が姿を現した。男はミラーボールに照らされた室内を見て嫌そうに顔を顰めたが、
「桐谷美那子さんですか?」
とこちらへ声をかけてきた。
「はい。あなたが道端さん?」
「はい」
「どうぞ、こっちへ来て一杯やりましょう」
彼は静かに首を振ると美那子とは少し離れた席へ腰を下ろした。
道端という男は見るからに神経質そうな風体をしていて、VIPルームの真っ赤なソファの上で膝を揃えると同時に動かなくなった。
美那子がグラスを差し出してもじとりと視線を動かすだけで何も言わない。受け取られなかったロックグラスには代わりに自分が口をつけることになった。レモンハイボールのすっきりとした酸味が喉を通る。
美那子がグラスをテーブルに置いても道端は身じろぎ一つしなかった。
あまりにも不自然な硬直と沈黙に耐えかねて、美那子は
「あの、気分でも優れないんですか?」
と尋ねてみた。
すると道端は今度は美那子の顔をじっと見た。芸能人と言えどここまで人からまじまじと見つめられることもないため、美那子は妙な緊張を感じた。
「芸名ではなく本名で活動されているんですね」
やっと飛び出した道端からの一言に肩の力が抜ける。美那子は商売用の笑みを浮かべた。
「ええ、よく言われます。元が芸名みたいな名前ですよね」
「そうですね」
再び道端は黙ってしまった。
いや、正確にはただ黙っているというより視線だけを忙しなく動かしている。美那子を見たかと思うと自分の鞄を見、また美那子を見たかと思うと鞄を見る。
もしかして、と美那子は微笑みと共に
「あの、よかったらサインとかいります?」
と筆を走らせるジェスチャーをつけて冗談っぽく言ってみた。
死者との電話の管理人を名乗る道端健悟という男は想像以上に地味な男だった。一日外を歩けば十人は似たような人に出会ったと思ってしまうほど外見的には特徴のない男だ。こんな朴訥とした男が自分のようなミーハーな歌手のサインを欲しがるようには思えないが、あまりにも挙動不審であるためせめて空気が和らげばと思い声をかけてみた。道端は、ぱっと見の印象だけなら桐谷美那子より聞いたこともない海外アーティストの曲を聞いていそうだ。そういうお堅い、人とは簡単には交わらない雰囲気が彼にはある。
しかし、美那子の予想は外れた。
道端は美那子からの申し出を聞いた瞬間、首の後ろを掻いたかと思うと素早い動作で鞄を開き色紙とペンを差し出してきた。
「娘があなたのファンでして。お電話をいただいた時、もしやと思い僭越ながらこんなものを持ってきてしまいました。お嫌でしたら無理にとは言いません。断ってください」
そうは言いながらも突き出した腕を引っ込める様子のない道端に苦笑いが漏れる。美那子がいいですよ、と快諾すると表情はほとんど変わらないものの、彼が安堵するのが分かった。さらさらとサインを書いて色紙を返すと、彼は綺麗に九十度の辞儀をして
「ありがとうございます」
と言う。
いいえ、と返しながらこんな地味な男に本当に娘なんているのだろうか、と無粋なことを考えた。ひょっとしたら美那子のファンなのは道端本人で娘なんて架空の存在でしかなかったとしたらかなり笑える。
そんな美那子の失礼極まりない思考には気づかず、道端は丁寧に色紙を鞄にしまった。ペンはそのままテーブルの上に置いておくようだ。後で何かに使うのかもしれない。
「早速本題に入りますが、桐谷さんが話したい死者というのは妹の桐谷璃佳子さんで間違いありませんか?」
「はい」
「お電話でもお伝えしましたが、死者との電話を繋ぐためには亡くなられた方の名前、性別、生年月日、死亡年月日が必要です」
「はい、分かってます」
道端は先ほどの不審な挙動が嘘のようにすらすらと話す。説明し慣れているのだろう、発する言葉に迷いがない。業務的なことをこなすのは得意なタイプなのだろう。その分、サインをねだるような雑事にはめっきり疎いらしい。
道端は、はっきりとした口調で尋ねてきた。
「通話ができる相手は自死によって亡くなった方のみです。失礼ですが、僕の記憶が確かなら亡くなられた桐谷璃佳子さんは事故死であったのでは?」
美那子は数秒、沈黙した。
レンズ越しに見える道端の目からは余計な下心や野次馬根性は感じられない。同情や妙な気遣いもないその態度に、美那子は道端が管理人でよかったと思った。
彼は純粋に、死者との電話を繋ぐために必要な条件の確認をしているのだろう。妙にこちらを詮索したり、腫物に触るような態度をとられたりするより道端のように聞くべきことをきちんと聞いてくれたほうが美那子にとっては都合がいい。
「その前に、わたしからも確認したいことがあります」
「何でしょう」
「あなたはわたしからの依頼を外に漏らさない、と電話で言ってましたよね。それを証明する手立てはある?」
「守秘義務についての確認ですね。では先に誓約書に目を通して貰います」
道端が鞄から取り出したのは色紙ではなく、一枚の紙ぺらだった。美那子は依頼に際して道端が守るべき事項、それに伴い自分が守るべき事項を聞きながら頷いた。
「僕から説明は以上になりますが、何かご質問はありますか?」
美那子は首を振った。
双方あと腐れのないよう設定された誓約は美那子にとって必要十分なものであった。依頼が終われば、はいさよなら。その後は何があっても互いのことを人に話すこともなければ連絡を取り合うこともしない。素晴らしいシステムだった。
「では、サインをいただく前に再度確認させていただきます。電話を繋ぐことができるのは自死した方だけです。桐谷璃佳子さんは該当しないはずですが?」
美那子はわざと俯いた。できるだけ悲劇的に見えるよう気をつけながらしおらしく背を丸め、瞳を潤ませ、唇を震わせる。
「実は、妹は本当は自殺してしまったんです。ですが、公には事故死と発表させていただく他なくて」
「それはなぜですか?」
「妹の遺書に書いてあったんです。自分が自殺しただなんてことを世間に知られたらお姉ちゃんが困るだろうから、事故死ということにしてほしいって。いけないことだって分かってました。でも、妹からの最後の頼みを断るわけには、いかないと、思って……」
うっと言葉につかえたふりをして顔を覆った手の隙間から道端の様子を伺う。彼の目は変わらず何の感情も映っていない。
「つまり桐谷さん、いえ、この場合は死者の名前も桐谷さんですのでご依頼人である桐谷美那子さんのことは僭越ながら美那子さん、亡くなられた方を璃佳子さんと呼ばせていただきます。美那子さんは璃佳子さんの遺言を守るために妹さんの死因を偽った、と。つまりあなたは詐欺を行ったということですか?」
ぴくりと自分の頬が引き攣るのが分かった。幸い、顔を隠しているせいで道端には気づかれずに済んだだろう。彼からはどこまでも殊勝に妹の死を思って泣く健気な姉の姿が映っているはずだ。
「詐欺、だなんてそんな言い方……。あんまりです」
「ですが法律上、死因を誤魔化す、あるいは大衆へ虚偽の説明をすることは詐欺にあたります。死体を別の場所へ移すなどをした場合には、死体遺棄の容疑も。まあ、僕にとってはあなたが詐欺をしていようと死体遺棄をしていようとどうでもいいことですが。ともかく、桐谷璃佳子さんは自死で亡くなったということでいいんですね?」
美那子ははい、と返しながら面を上げ、目尻に浮かんだ涙を指先で払った。
道端は相変わらず冷えた視線をこちらへ向けている。感情なく見つめられると、自分が実験に参加した動物にでもなったような、どこか落ち着かない心地がした。常に表舞台に立ち人々からの感情の的になる生活を送り続けてきた美那子には、道端のこちらを冷静に観察するような視線が真新しくもあり、奇異でもあった。
「面倒なことに巻き込まれたくありませんので念のため聞いておきます。妹さんの死について、偽ったのは死因だけですか?」
一瞬、心拍が早くなった。
道場は変わらずこちらを見ている。しかし、心臓までは見えはしない。美那子がどれだけ胸の内で動揺しようと彼には決して分からない。この唇が余計なことを口走らない限りは。
「……はい、それだけです」
「分かりました」
道端はあっさりと納得したようにみえた。
緊張で縮み上がった肺がすっと緩まり、美那子はばれないように息を吐く。
「ではこれも一応念のためにお聞きしますが、妹さんと電話をする目的は?」
一瞬、どうするべきか迷いが生じた。
本当のことを言うべきか否か。しかし、嘘は重ねれば重ねるほど後が苦しくなることを美那子は身をもって知っていた。嘘をつく時は少しの真実を混ぜたほうがいい。その方が信憑性が増す。百パーセント人工甘味料のジュースより、二十パーセントだけ本物の果汁が混ざっているジュースの方が人から好かれやすい。
「実はあるパスワードを知りたくて。それで妹と話がしたいんです」
「パスワード、ですか」
「はい」
美那子はこれから話す二十パーセントの真実が百パーセントの真実として伝わりますように、と唇を舐めた。
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