call3. 嘘を被った妹へ (全13話)
3人目 桐谷美那子 (1)
クローゼットのつっかえ棒にかけられたロープは正しく彼女の首を絞めていた。
てるてる坊主みたいにぶら下がった女の細い足は、宙に浮いてぐったりしている。口から零れた泡や白く濁った瞳、足元へ落ちた胃液と思われる黄色い汚濁が彼女が死んでいることを物語っていた。
首つり死体を発見した時、咄嗟に思った。
この事実を隠さなければ。どうにかして自殺をなかったことにしなければ。
ぶら下がった遺体を床に下ろし、冷たくなっていく片割れを前に生唾を飲み込む。遺書を握り締めた
だがこの遺体を事故死と見せかけなければ、
※
桐谷美那子は目を閉じた。
専属のメイクアップアーティストは、美那子の左右対称の顔を覗き込むと、ん? と首を捻る。
「化粧水変えた?」
「変えてない」
「えーでもいつもと肌艶違うけど……ってまあ、こんな時だもんね。ちゃんと寝れてるの?」
中性的な雰囲気を漂わせながら不満ありげに唇を突き出した彼はパフにファンデーションを乗せ、美那子の頬へと押し当てる。目元までパフを移動させると「酷い隈ね」と苦々しく呟かれた。
「記者会見なんて断っちゃえばよかったのに」
「そういう訳にもいかないじゃない」
「だって、妹さんが亡くなった直後にわざわざ会見なんて……」
開かなくても、といいかけた彼はむっとしたような表情になって押し黙る。彼とて分かっているだ。いついかなる時であろうと人前に出ることが美那子の仕事であり、義務であることを承知している。だから急遽決まった記者会見にもこうして飛んできてきちんとメイクを施してくれる。
ファンデーションを終えると彼は美那子の顔へアイシャドウ、アイブロウ、チークの順番に色をのせていく。喪服に身を包んだ今の美那子に唯一許される色は全て彼が塗ってくれる。人が死を悼む時、纏っていいのは全てが闇に包まれる黒だけだ。美那子は黒色があまり好きではない。夜の暗さも何も映されていないテレビの液晶画面も嫌いだ。胸の中で眠らせていた虚しい思いが無理やり取り出されて目の前に現れたような気がして不安になる。
瞼を閉じたせいで暗闇に包まれた視界の中で思い出す。
最後に見たあの子の目は白かった。生前、あんなに綺麗だった大きな黒目はひっくり返って濁った白だけが眼孔に嵌められていた。世の中の絶望を凝縮するとあんな色になるのだろうか。
「はい、できたわよ」
目を開ける。
いつもと変わらない自分の顔が鏡に映っていた。
幅広のすっきりとした一重瞼、大きめの鼻に横に長い唇、色んな音を聞き取れるように作られた広い耳。少し吊り上がった眉の形が白雪の肌に黒々と引かれている。
死んだ妹と同じ、瓜二つの顔。違うのは瞳の色だけだ。鏡に映る自分の瞳は黒く、死んだあの子の目は白で汚れていた。
「ありがとう」
短く礼を伝えて美那子はメイク室を後にした。
会場へ足を踏み入れた途端、パシャパシャと凄まじい量のフラッシュがたかれる。美那子は目を細め、会場中央へ向かうと一礼した。再びシャッターを切る音が忙しなく鼓膜を揺らす。爪先へ落とされた視線の中で、低いヒールを履いた自分の足が震えていることに気が付いた。
面を上げ背筋を正すと、美那子は口を開いた。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。既に報道にありました通り、わたしの妹である
再び辞儀をするとフラッシュと喧騒が強くなった。
「妹の璃佳子さんは川で溺れたとのことですが、事件性はないんでしょうか?」
遠慮のない質問が投げかけられる。美那子は落ち着いた調子で返答をした。
「警察の調査によりますとないとのことでした」
「生前、璃佳子さんとは交流はありましたか?」
「仲の良い姉妹でした」
「一卵性の双子でお二人とも歌手というお話でしたが、璃佳子さんに対する印象は?」
「妹は努力家で優しい子でした。こんなことになって非常に心苦しいです」
「一部報道で言われていますが、自殺の可能性はないんですか? 首に何かで絞められた痕がわずかに残されていたとのことでしたが」
「首の痣はつけていたネックレスが川辺に引っかかったせいでついたものではないかとのことでした。なので自殺の可能性は、ないとのことで……。すみません、ちょっと、これ以上は……」
美那子の瞳に涙が浮かぶ。
口元を手で抑えると再びフラッシュが強くなる。きっと明日の記事の一面は自分の泣き顔になるのだろうと美那子は頭の片隅で思った。
「本日はここまでになります。お集まりいただきありがとうございました」
マネージャーの鈴木の声がした。
まだまだ聞きたいことがあると押し寄せる記者たちを遠ざけるため、彼は美那子の肩を抱き彼女と共に退席する。楽屋へ辿り着くまで二人は無言で歩いた。
部屋へ入った途端、鈴木と二人になった美那子は目尻に張り付いた涙を親指で拭い去った。
「わたし、大丈夫だった?」
「ああ、うん。悲劇的って意味では大丈夫だったよ。でも、正直どうなのかなって俺は心配してる」
「何が?」
あっという間に乾いた瞳で鈴木を見やる。
彼は美那子の鋭い視線にたじろぎながらも小さな声で
「妹さんは自殺だったのに、それを隠すなんてどうなのかなって」
と囁いた。
「まだそんなこと言ってるの? その話はもう済んだでしょ」
美那子は一纏めにされた髪を解き、ソファへ座る。
記者らの前で見せた苦悶の表情が嘘のように、足を組んで携帯電話をいじる彼女の姿に鈴木は戸惑いを隠せないようだった。
「やっぱり正直に言うべきじゃないかな。確かに身内が自殺したなんて芸能人にとっては少し、ショッキングな報道になるかもしれないけど、事実を隠す必要はないと思う」
「少しショッキングな報道、ですって?」
美那子の長いまつ毛がぴくりと動いた。引き絞られた弓のように緊迫した雰囲気を湛える瞳に見つめられただけで、鈴木は蛇に睨まれた蛙の如く硬直してしまう。
「少しどころじゃないわ。妹が、しかもわたしと同じ歌手で顔も体も瓜二つの双子の妹が自殺したなんて知られたら、ありもしない不仲説を立てられてまるでわたしに問題があったみたいに囃し立てられるに決まってるじゃない。痛くもない腹を探られて、何も知らないコメンテーターに好き勝手言われて、両親だって巻き込まれる。それで最後には皆言うのよ。家庭に問題があったんだって。売れてる姉の存在が売れない妹を追い詰めて死に至らしめた。そうなったらわたしはどうなると思う? ここまで築き上げたキャリアは妹が死んだってだけで全部ぱあ。必死に守ってきたイメージも桐谷美那子っていうブランドも一瞬で崩れ去る。たかが、妹が自殺したくらいのことで」
「た、たかがってそんな言い方はないんじゃないか。それに……」
言いかけるも鈴木は口ごもる。そこへ畳みかけるように美那子は捨て台詞を吐いた。
「あなたに何が分かるの? 気楽でいいわよね。あなたはわたしの後ろに隠れてただへこへこしてるだけだもの。矢面に立つのはいつだってわたし。後ろから物見遊山してるだけの奴が分かったようなこと言わないで」
鈴木は完全に沈黙した。
納得したわけではないのだろう。しかし、これ以上美那子に何を言っても無駄だと諦めたのかもしれない。
美那子は早鐘を打つ心臓の鼓動を鈴木に悟られないように、平静を装い携帯電話を弄った。
わたしと璃佳子の秘密は決してバレてはいけない。相手が誰であろうと、この秘密だけは必ず守り通さなければならない。
桐谷美那子の妹、桐谷璃佳子は事故死した。自殺ではなく、凍結した橋から誤って足を滑らせ真冬の川へ落ち、溺死した。
死体を見つけたのが、首についたロープの痕がくっきりと残る前でよかった。あと少し遅かったら、もう誤魔化しようのないところまできていたかもしれない。
苦労して作り上げたこの筋書きを今更覆すことは、美那子の地位を守るためにも絶対にできない。何を犠牲にしても、妹の死は事故死として片づけなければ。
液晶画面を指先でタップしながら、無意識に美那子は下唇を噛み締めていた。
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