2人目 土井天馬 (終)

 みっともなく零れる涙をハンカチで拭う。ついでに道端に差し出されたティッシュでチーンと盛大な音を立てて鼻を噛むと徐々に気持ちが落ち着いてきた。


「ありがとうございました。俺一人だったら、あの子が何を伝えたいのかまるで分かりませんでした」

「いえ、彼が暗号表の存在を知っていてラッキーでした」

「暗号表って、道端さんが死者の情報を数値に置き換える時に使うのと同じものですか?」

「恐らく。数値の並びが似ていたのでもしやと思いましたが、当たりでした。暗号表にも様々な種類がありますので、三上忍さんが使用したものと僕が知っているものが一致していてよかったです」


 なるほど、と思いながら鼻を啜る。

 忍はクロスワードが好きだった。もともと暗号など、謎解きへの興味が強いタイプだったのだろう。道端は忍が暗号表の存在を知っていてラッキーだったと言ったが、天馬からすれば道端が暗号表を丸暗記していたことのほうがラッキーだ。そうでなければ例え電話が繋がったとしても、忍が自分に何を伝えてくれようとしているのか分からず、一方的な贖罪をして終わっていたかもしれない。


「本当にありがとうございました。おかげで色んなことが分かりました」


 ふうっと息を吐いて呼吸を整、レンズ越しにこちらへ視線をくれている道端を真っすぐ見返す。


「やっぱりあの子は自殺で、俺のせいで色々引っ掻き回してしまって。あの子が死んだって聞いてから、正直、俺、教師続けていいのかなって迷ってたところがあって。斎藤先生っていう人にも言われたんです。救済者気取りになってるんじゃないかって。教師は生徒を救えるわけじゃない、分をわきまえろって。その通りだなって思いました。俺はあんまり頭で考えてどうこうするタイプじゃないから、俺にやれることはなんでもしてあげたいなんて甘いこと思ってたけど、そもそも俺にできることなんて何にもなかったのに……思い上がりも甚だしいですよね。今回の電話も結局、あの子に励まされて終わっちゃったし」


 ははっと乾いた笑いを浮かべたが道端が笑うことはなかった。彼は表情筋をひくりとも動かすことなく、


「本質的に僕は他人に興味がありません。なので、土井さんの人を救いたいと願える心は美徳です」


と言った。


「へ?」

「確かに土井さんのような教員や看護師など、対人援助職に就く人々には救済者願望、メサイアコンプレックスと言われる心性があります。誰かの役に立ちたい、人を救いたいというその願望は時として自己破壊的な結果を生んだり他人にとってもありがた迷惑になったりすることもあります。しかし、シンプルに考えて利己的に生きる人間よりは、利他的に生きる人間のほうが尊いという評価を受けるべきです」

「は、はあ……」


 分かるような分からないような。

 急に饒舌になった道端に戸惑いながら気の抜けた返事をする。道端は眼鏡のブリッジを押し上げた。


「物事において重要なのは結果ではなく過程です。あなたから自分の望みを叶えるための勇気を得た三上忍さんは結果的には亡くなりました。しかし、三上さんがあなたと出会って得たものが無駄になったわけではありません。今もあなたから貰った温かさが彼の中で息づいているからこそ、三上さんはあなたとの電話を承諾したんです。面倒な暗号まで使ってあなたに感謝の気持ちを伝えてきたのですから、少なくとも土井さんへ悪感情を抱いてはいないでしょう」

「そう、なんでしょうか。俺、結局あの子が俺のことをどう思っていたのか、よく分からなくて」


 言いながら鞄から一枚の紙を取り出した。死んだ忍のポケットに入っていたというクロスワードだ。最終回答が『どいてんま』となるように設定されたそれは、あの子の綺麗な文字が書き込まれている。

 道端は無言で天馬からそれを取り上げると蛍光灯の明かりにかざすように眺めた。それからこのクロスワードが何なのかを尋ねてきたため、天馬は事の次第を伝えた。すると道端は一言、


「あなたはバカですか?」


と呟いた。


「え? 今、バカって……?」

「失礼。あまりにも非合理的なことでうじうじと悩んでいるようでしたので」


 道端はクロスワードを摘まみ上げると、天馬の目の前でぶら下げる。


「『ど』は憧憬、『い』は生き甲斐、『て』は天使、『ん』は安心、『ま』は満点。あなたの名前を構成する言葉はどれも好意的なものです。三上さんがあなたをどう思っていたかって? そんなもの、これを見れば明らかでしょう」


 彼は唯一無二の絶対的正解を告げるように言った。


「あなたのことが好きだった。ただそれだけです」


 天馬の視界がくしゃりと歪む。

 止まりかけた涙が再び溢れそうになった。

 叶うなら、母親のことなどどうでもよくなるほどかわいがってやりたかった。満たされない彼の寂しさに寄り添ってやりたかった。どれだけ望んでももう何一つ叶わないけれど、せめて彼が天馬を信頼してくれていたこと、大切に思ってくれていたことだけはきちんと胸に留めておこう。


 俺も、お前のことが大好きだったよ。


「……っ本当に、ありがとうございました」


 天馬は席を立ち、頭を下げた。

 これ以上、この部屋にいるといつまでも惨めたらしく泣いてしまいそうで道端の迷惑になりそうだ。道端は天馬を引き止めることなく玄関まで見送ると、


「お疲れさまでした」


と短く言って扉を閉めた。


 ホテルを出ると日が暮れて、辺りは橙色の夕焼けに包まれていた。街路樹も高層ビルも天馬自身も、何もかもが緋色に染まる。

 忍がよく夕焼けを見ていた理由が分かった気がした。暖色に包まれると、体の芯から温められてほんのひと時、苦しかったことを忘れられる。


 忍との思い出は穏やかなものばかりではなく、天馬の心に苦々しくこびりついた部分もある。けれどそれもまとめてこれから先も抱えていきたい。そして願わくばもう一度、生まれ変わった彼の担任になれますように。その日まで俺は教師として生きていこう。


 そう思って踏み出した一歩は重たく感じられたが、悪い心地はしなかった。


「そういえば、道端さんに御礼したいけど……」


 連絡するなと言われたしな、と歩きながら考える。今からホテルに戻っても冷淡な彼のことだ。部屋の扉すら開けて貰えないだろう。


 どうしたものかと悩んだ末に、あ、とある考えに辿り着く。

 早速携帯電話を操作すると予想通りの検索結果が表示され、一人でビンゴと小さく呟いた。


 天馬は道端の驚いた顔を想像し、鼻唄を歌いながら帰路へついた。

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