2人目 土井天馬 (11)
夏休みを挟んでからの半年間、トラブルはあるものの比較的穏やかな日々が続いた。ミシェルはあれから本当に禁煙に成功したらしく、褒美に何か寄越せと訴えてきたため、効果的な筋トレ方法を教えてやるとげんなりされた。礼央奈は時折校内でトラブルを起こしたり、忍へあらぬ疑いをかけたりすることはあったがマイペースに過ごしていた。忍は相変わらず一言も声を発さないが、何かあれば時計台へ行くため施設から忍がまだ帰っていないという報告を受ける度、天馬は彼へ会いに時計台へ向かった。
夕焼けに染まる街並みを見ながら二人でクロスワードを解く。三学期も終わりに近づき、今日も礼央奈の騒動に巻き込まれた忍と天馬は寒さに震えながらコートにくるまり二人で問題を解いていた。このところ、忍はクロスワードを自作するようになり彼が作った問題を天馬が解くというやりとりが続いている。
忍は喋らないが初対面の頃よりは彼が何を考えているのか、随分読み取りやすくなった。天馬が言ったことがぴったり忍の意図するところと合っていれば頷き、そうでなければ固まる。基本的にイエスかノーで答えられる質問にしか彼は反応できない。
「随分いい問題を考えられるようになったなあ」
忍が作ったクロスワードを解きながらそういうと、彼はほんのわずかに口角を上げた。寒さのせいで二人とも鼻の頭が赤くなっている。冬の盛りにわざわざ外に出てクロスワードを解くのはなんだかおかしな気もしたが、忍は屋内で天馬と過ごす気はないようだったため彼のペースに合わせることにした。
「もうすぐお前たちも三年生だな。忍は卒業したら支援学校へ行くのか?」
こくりと頷く。
「そうか、今まで聞いたことなかったけどさ。忍は支援学校に行きたいか?」
すると彼は固まった。
本当は行きたくないのだろうか、と思い天馬は
「何か別にしたいことでもあるのか?」
と尋ねてみる。すると忍は頷いた。
「へえ。何だろう、忍のしたいことか」
返事は期待せず独り言のように呟く。
すると忍は天馬が持っていた自作のクロスワードが書かれたノートの端へ何やら書き始めた。鉛筆を持った手をどけたあとには
『お母さんに会いたい』
という綺麗な文字が残る。
忍が初めて筆談をしたことに驚いた。そして彼が抱える母親への郷愁を改めて感じ切ない思いに駆られた天馬はわずかに眉を寄せた。
「そうか。どうやったら会えるんだろうな」
再び忍は鉛筆を走らせた。
『女の子になる』
という文字が書き込まれる。
意味が分からず天馬は目を細めた。
「忍は女の子になりたいのか?」
今までずっと避けていた話題であったが、彼は首肯した。
そうかと呟きながら、やはり忍は性同一性障がいであったのかと理解する。母親に会うことと女の子になることとの間にどういう繋がりがあるのかは分からないが、彼の母への思慕も女性への憧れも否定すべきではないだろう。
天馬は慎重に言葉を頭の中で取捨選択しながら口を開く。
「他の人がなんていうかは知らないけど、先生は忍の味方でいたいと思ってる。忍は忍のしたいことをしたらいいと思うよ」
丁寧に紡がれた天馬の言葉に忍は頷いた。
それからすっかり暗くなった周囲に今更気が付いたふりをして、二人は時計台を後にした。
終業式を目前に控えたある日のこと。天馬へ辞令が下りる。急遽新宿区の中学校にて教員が体調を崩し辞職することになったため来年度からそちらで通常級の担任をやってほしいとのことだ。その中学は浅葱中学校とは違い、生徒数は一学年百五十名以上在籍しているマンモス校。もともと熱血教師への憧れがあった天馬は願ってもない辞令に一も二もなく頷いた。
今年受け持った三人の生徒の行く末を見届けられないことだけが心残りであったが、千種がいれば大丈夫だろう。だが千種も別の中学へ移ると聞かされ、さすがの天馬にも不安がよぎる。それではあの子たちの面倒は誰が見るのかと尋ねると
「異例ですが、わたしが見ますよ。たった三人ですから」
と教頭の斎藤が苦虫を嚙み潰したような顔で言った。
彼はもともと支援級のどの生徒にも良い感情を抱いていない。そうは言っても斎藤とて教員の端くれだ。しかも天馬よりも経験は豊富とくれば不安要素はなくなる。
天馬はよろしくお願いします、と頭を下げた。斎藤は唇を斜めに曲げたままはい、と嫌そうに返事をした。
迎えた終業式。
礼央奈は天馬や千種と離れるのが嫌で二人に縋りついて泣いていた。ミシェルは泣き喚くことはないものの、彼にしては珍しく目を真っ赤にしていた。忍は相変わらず何の感情も映していない顔をしていたが天馬へ近寄ってくると、ずいっと一枚の紙きれを差し出してきた。手紙でも書いてきてくれたのだろうかと思い見て見ると、そこには忍が自作したクロスワードが書かれていた。
「ありがとう。ちゃんと解くからな」
腰を屈めてそういうと忍は何度も頷いた。自宅へ帰ってから早速解いた教え子からのクロスワードの最終回答は『またね』となった。不器用な彼からのメッセージに自然と笑みが浮かぶ、成長した忍と再び会える日のためにこれから頑張ろうと心に決めた。
そうして天馬は浅葱中学校を離れた。新学期が始まり、彼は都心の中学校にて一癖も二癖もある生徒に手を焼きながら忙しい日々を送っていた。
教員生活二年目の夏。
突然、ミシェルからメールが来た。珍しいこともあったものだ。連絡先を交換したはいいものの一度も連絡を取り合ったことはない。天馬がいなくなり寂しくなってメールを寄越してきたのだろうかとにやにやしながらメールを開いた瞬間、天馬の顔からさっと血の気が引いた。
『忍が死んだ』
ミシェルからのメールに書かれていたのはそれだけだった。
詳細は何も書かれていない。天馬は慌ててミシェルへ電話をするが繋がらない。
一体、何がどうなっているのか。混乱した頭のまま気づくと浅葱中学校へ電話をかけていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます