2人目 土井天馬 (10)

 天馬は時計台へと続く階段を登った。筋肉をたっぷりつけた自分が焦って木製の階段を登るとぎしぎしと不穏な音がするため、できるだけゆっくり進むように気を付ける。

 浅葱中学校は四階建てで職員室と特別支援級は一階にある。二階に一年生、三階に二年生、四階に三年生がいるという構造になっているが、天馬は基本的に一階で事足りる生活を送っていたため校舎の階段を登るということがなかった。四階へと続く階段を登り切ったところで少し上がり始めた息に、鍛え方が足りないなと歯噛みしてしまう。

 教員になってからは予想していた以上にデスクワークが多く、体のメンテナンスが疎かになっていた。これを機に見直そうと胸に誓って再び足を踏み出す。


 屋上へと続く扉を開けると橙色の夕陽に体が包み込まれた。初夏になり日も長くなったとはいえ、時刻はもう17時を過ぎている。じんわり汗ばんだ額を拭いながら天馬は辺りを見回した。


 時計台といっても浅葱中学校にあるものは観光名所のような立派な内装はしていない。白い立方体の箱に赤の三角屋根が付いたモニュメントへ時計がどんと張り付けられているだけだ。屋上の中央へ位置する時計台には、申し訳程度の梯子が付いていて上へ登れるようになっている。見たところ、忍の姿はない。いるとすれば時計台の上だろう。天馬は梯子へ手をかけた。


 カンカンと年季の入った鉄を踏みしめる音を数回させ、頂上へと辿り着く。屋上よりもさらに高いそこからは夕焼け色に染まった街並みが一望できた。すぐ足元で壁の側面に貼り付けられた時計がカッカッと秒針を動かす音が響く。黒い柵に囲まれた時計台の上から見る景色は屋上から見るそれとは比べものにならないほど広々として美しかった。


 そこに、忍の姿もあった。

 彼は手すりを片手で掴んでいつものようにぼんやりしていた。夕焼け色に染まる街並みが黒い瞳に映っている。温い風に吹かれるたび、彼の細い黒髪がさらさらと流れて青白い頬の上に散らばっていく。


「忍」


 びくりと薄い肩が揺れる。

 驚かせないようにとりあえず名前を呼んでみようと思ったが失敗だったらしい。彼は幽霊にでも話しかけられたかのようにゆっくりと振り返り、天馬の姿を確認する。それからまた顔色一つ変えずにゆっくりと夕陽へ視線を戻す。


 天馬は忍の隣へ並んだ。視界に新緑をたたえた山々や商店街の街並み、道路を走り去る小さな車の陰が広がった。どれもこれも等しく赤く染まっていて、柵を掴んだ忍の骨ばった指も橙に色づいている。


 天馬は忍に何と声をかけてやったらいいのか、分からなかった。

 千種は嫌なことがあると、忍は真っ直ぐ家には帰らず時計台へ行くと言っていた。忍がここにいるということは今日起きた一連の出来事は彼にとって嫌なことであったのだ。天馬は口を開きかけたが、自分より下に位置する忍の横顔を見てやめた。


 俺はあまり、この子のことを知らないなと思った。

 彼がどうして人と話さないのか、どうして礼央奈の服を盗んでいたのか、体の性と心の性が一致せず苦しんでいるというのは本当なのか、天馬には何一つ分からない。


 ミシェルが喫煙をしていた時、拠り所のなさが彼を非行へ走らせているのだと分かった。礼央奈が泣いていた時、何もできない自分に嫌気がさしてかんしゃくを起こしているのだと分かった。


 けれど天馬には忍が何に、どうして苦しんでいるのかが分からない。天馬が隣に立つことを彼は嫌がらないが、本当は一人の時間を邪魔されたくはなかったかもしれない。千種に言われるがまま忍を探し彼に辿り着いたのはいいものの、自分がすべきことが思いつかなかった。


 情けないな、と視線を下げた拍子にふと、忍が小脇に抱えているものが目に入る。『傑作 クロスワード』と銘打たれたそれは蛍光色の表紙をしていた。


「クロスワード、好きなのか?」


 声に出してから前にも同じことを聞いたことがあったなと思い出す。すると、忍がこちらを見た。そしてごくわずか、気のせいだったかと思うほど小さく頷いた。勘違いかもしれないと思ったが、天馬は続けた。


「もう全部解き終わったのか?」

「……」


 頷きもせず、首を振ることもせず忍は固まっている。何か間違ったことを言ったのだろうかと思い、


「まだ解いてないものもある?」


と聞き直すとまた本当に小さく、震えるように頷いた。


「今解いてるのもあるのか?」


 再び頷く。

 天馬は妙な緊張を感じて唇を舐めた。


「その、先生に今解いているの、見せてくれないか?」


 忍は頷く代わりに、緩慢な動作でクロスワードをぱらぱらと捲った。それからあるページを開いて天馬へ向けて数ミリ、クロスワードを差し出す。

 受け取ってみるとそこには既に彼の綺麗な文字でいくつかマスが埋められていた。簡単な問題から難解な問題まであるようで、天馬は問題文とマス目を眺める。色が付いたマスが三マスあり、全ての問題を解いてその三マスに書かれた文字を繋げると最終回答となるようだ。

 天馬は十番の問題に興味を引かれた。問題文には短く『淡水魚。わざと』とだけ書かれている。


「これなんだろうな」


 忍にも問題が見えるように本を持つ。彼は素直にクロスワードを覗き込んだ。天馬は十番の問題を指さしながら


「淡水魚ってことは、えーっと、ブラックバス?」

「ふっ」


 噴き出したように、誰かが笑う声がした。

 見ると忍が口元を手で覆い隠し、目を細めている。まさか、彼が笑ったのだろうかと半ば信じられない思いで忍を見つめると、彼は口元から手を外しとんとんとクロスワードの二マス分を人差し指で示した。


「あ、そっか。二文字の言葉か。じゃあ、うーん、『こい』かな。魚の『鯉』と、わざとの『故意』?」


 はっきりと忍が頷いた。

 それから二人は日が暮れるまでクロスワードに熱中した。天馬がバカみたいな間違いをするたび、忍は目を細めるか噴き出すのを我慢するような仕草をした。橙色の空が闇に侵され、夜が訪れようかという頃になってクロスワードは完成した。


「色のついたマスを合わせると、『か、ぞ、く』かな」


 忍が頷く。


「おおー、できた! 面白いな、クロスワード」


 忍はわずかに口角を上げる。

 クロスワードに夢中になったせいで気が緩んだ天馬は、『家族』という言葉に思わず


「忍は普段、お母さんに会ってないんだっけ?」


と何の気なしに尋ねていた。

 言ってからすぐしまった、と後悔する。彼は母親からの虐待を受けて今に至ったと聞いている。本人に複雑な家庭事情を聞いてはいけなかった。ただ、この時の天馬は性別に関する話題は避けようという頭しかなく、家族の話題も忍にとってそれと匹敵するほどにデリケートな話題であることを忘れていた。


 しかし、忍は予想に反して素直に頷いた。

 謝罪のために開きかけた唇を、「そうか」と呟ける形に直してから天馬は遠慮がちに


「お母さんに会いたいか?」


と尋ねてみた。

 自分を酷い目に遭わせた親になど会いたくないだろうと高を括っての質問であったが、予想に反して忍はこくりと頷いた。

 天満は彼の反応を意外に思いながらも


「そっか。いつか会えるといいな」


と言って微笑んだ。


 どれだけ酷い親でも忍にとってはたった一人の母親なのだ。会いたくないわけがない。

 しかしこの時はまだ知らなかった。彼にとって母親に会いたい気持ちと、女性になりたい気持ちは密接な関係を持っていることに天馬は気が付くことができなかった。

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