2人目 土井天馬 (8)

 ミシェルには申し訳なかったが、彼に呼ばれてやってきた千種に事情を伝え天馬はひとまず体育の授業へ向かった。折角のプール開きだというのに特別支援級の生徒はミシェルしか参加できなかった。あとの二人は千種と話をしている。

 

 天馬はラジオ体操をしている間も、クロールのお手本を見せている間も、生徒の泳力測定を行っている間も、ずっと気が気でなかった。あまりにも上の空であったために、通常級の生徒からも「先生ぼうっとしすぎじゃね?」と陰口を叩かれる始末だ。


 幸い、体育の授業は五時限目であったため、授業が終わった瞬間に天馬は水着からスーツへと着替え職員室へ直行した。千種の席は空だ。ざっと職員室を見回すが彼の姿は見当たらない。その代わり、奥の面談室の扉が閉まっていることに気が付いた。


 学校によって異なるが、浅葱中学校の職員室には生徒と面談を行うための部屋が設置されている。主に問題を起こした生徒と話をするための場所だ。恐らく千種はそこで二人と話をしているのだろう。


 天馬は面談室の扉を控えめにノックした。中からはあい、と千種の柔らかい声が聞こえる。失礼します、と入室すると千種と忍が壁際の席に、テーブルを挟んで礼央奈が入口側の席へ座っていた。礼央奈はまだ半べそをかいていて、天馬に気が付いてもすんと鼻を鳴らしただけでそっぽを向いてしまう。一方、忍は天馬へ目線をやることもなく、千種の隣でじっと俯いていた。テーブルには二人のものだろう、青とピンクのプールバックが置かれている。


「土井先生、よかったらそちらへ」


 千種に促されるまま、礼央奈の横へ腰を下ろした。礼央奈は怒っているのか、隣へ座るとあからさまにお尻をずりずりとずらして天馬から距離を取る。


「えっと、礼央奈、大丈夫か?」

「しーん」


 口でしーんという奴を初めて見た。軽口が叩けるなら大丈夫か。天馬はテーブル越しに俯いた忍の顔を覗き込み、


「大丈夫か?」


と声をかける。が、やはり視線すら合わない。忍はいつもの青白い顔のまま、切れ込みの深い二重瞼を半分ほど瞳に被せたまま動かない。

 弱った天馬は千種を見た。すると、千種はテーブルに並べた二つのプールバックを天馬へ差し出した。


「結論から言うと、忍くんのバックに礼央奈さんの水着は入っていませんでした」

「忍くんがどこかに隠した」


 すかさず礼央奈が言う。礼央奈、と注意すると


「だって本当だもん。忍くん、礼央奈のこと殴ったもん」

「先生も見てたけど殴ってはなかっただろ」

「殴ったもん。背中すっごく痛かった」


 それは床へ叩きつけられたからであって忍に殴られたからではない、と言おうとしたが口を噤む。これ以上礼央奈の間違いを正そうとしても、彼女の被害感が増すだけだ。


「痛かったんだな。それはかわいそうだった」

「……うん」


 礼央奈は少しだけ天馬の方へ顔を向ける。


「礼央奈はどうして忍が水着を盗ったと思ったんだ?」

「だって前にも盗られたことあるもん」

「忍、そうなのか?」

「……」


 忍はまたしてもだんまりだ。

 さらに質問を重ねようと天馬が口を開きかけた時、千種がそれを片手で制した。


「ともかく、今回は礼央奈さんの勘違いでした。お互い、ごめんねをしておしまいにしましょう。二人とも、いいですね?」


 礼央奈は渋々頷き、忍は何の反応も示さなかった。千種はそれでも満足げに頷いて


「それぞれの保護者へはわたしから連絡をしておきます。二人とも、気を付けて帰ってください。土井先生、二人を玄関まで送ってあげてください」

「……分かりました。二人とも、行くぞ」


 礼央奈は下唇を突き出してまだ不満があるというアピールをしたものの、自分のプールバックを引っ掴むと早々に面談室を出た。忍は緩慢な動作でバックを持つと、千種へ向けてぺこりと頭を下げ部屋を後にした。


 二人を送り出してから面談室を出ると、千種は自分の席へ座り電話をかけ始めた。一件目の電話はすんなり終わったようだが、二件目の電話は難航したようで受話越しに何度もぺこぺこと頭を下げている。電話口からは怒鳴り声が聞こえてきた。

 千種を手伝いたいと気ばかりが急くものの何もできない天馬は、隣のデスクで自分の仕事に手を付ける。数十分経ったところでようやく千種は受話器を置いた。もともと高齢な彼であるが、電話を置いた今となってはより一層やつれてしわしわになったようにみえる。


「だ、大丈夫ですか?」

「忍くんのところはね。礼央奈さんのところが相変わらずで」


 千種は苦笑いを浮かべた。どうやら二件目の電話の相手は礼央奈の両親であったらしい。余計な面倒をかけてしまったようで申し訳ない。自分がもっと早く二人の揉め事に介入できていれば誰も傷つかずに済んだのに。


 しょぼくれた天馬を見て、千種はふうっと息をつき


「しかし、電話をしたおかげで分かったこともあります。礼央奈さんの水着はやはりご自宅にあったようです。彼女がうっかり持ってくるのを忘れただけでした」


と教えてくれた。


 それを聞いてわずかに安堵する。


「やっぱりそうですよね。あんな大人しい忍が人の物を、まして女子の水着を盗むなんて考えられない」


 ミシェルならまだしも、と言いかけてやめておいた。彼は彼で、「(礼央奈のような) 餓鬼に興味ねえよ!」と怒りそうだと思ったからである。

 そうですね、と千種から肯定の言葉が返ってくると期待したが、彼は少し間を置いてから低い声で


「いえ、それについては考えられないことではないんです」


と言った。

 意味が分からず天馬が首を傾げると言いにくいためか、千種は顎を撫でながら唇を割り開く。


「実は以前、忍くんは礼央奈さんの水着を盗んだことがあったんです」

「え?」

「水着だけじゃない。制服のスカートや体操着も」

「ちょ、ちょっと待ってください。一体、何のためにそんなこと」

「断定できることではなかったので土井先生にはお伝えしていませんでしたが、忍くんには性同一性障がいの疑いがあります」

「性同一性障がい……?」


 千種は頷いた。


「彼は体は男の子ですが、心は女性である可能性があるんです」


 天馬はあまりのことに開いた口が塞がらず、碌に返事をすることもできなくなった。


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