2人目 土井天馬 (7)

 プール開き初日。

 体育は天馬の受け持ち授業である。特別支援級の生徒三人も体育科は通常級の生徒と受けるため、それぞれプールに入る準備を始めていた。ミシェルは「俺トイレ行ってから行くから先生たち、先行ってて」と教室を出る。

 天馬はおう、と返事をしてから「じゃあ先に更衣室行くか」と忍と礼央奈へ声をかける。と、礼央奈が突然泣き始めた。


「ない!」


 うわーんと大声を上げて泣く彼女にどうしたのかと慌てる。話を聞くと、どうやら持ってきていたはずの水着がなくなってしまったらしい。礼央奈のことだ、またうっかりで家に置いてきたのだろう。そう決め込んで彼女を宥めようとした時、礼央奈がキッと忍を睨みつけた。


「また忍くんが盗ったんでしょ!? 礼央奈知ってるんだからね!」


 忍はプールバックを持って自分の席から立ち上がったところだった。礼央奈の甲高い声に彼は一瞬、びくりと背を丸めたがすぐに元の姿勢に戻ると、無感情な瞳で礼央奈を見る。どこまでも氷のように冷たい彼とは対照的に礼央奈は噴火した火山のように顔を真っ赤にし怒りを露わにしている。


 礼央奈は机の上に置いていたピンクのプールバックを鷲掴み、ずんずんと忍のもとへと歩み寄った。バックの口を大きく開き、彼に中身を見せつける。そこには着替え用の下着も入っていたのだが、怒り心頭らしい礼央奈はそんなことはすっかり忘れてしまっているようだ。


「見て! ないでしょ!? 忍くんのバック見せて!」

「……」


 忍は何も言わない。しかし、小さく礼央奈に抵抗するように自分の青いプールバックを両手で握り締めた。その小さな仕草が礼央奈の勘に障った。


「バック、見せて!」


 礼央奈は忍のバックを強引に奪おうとした。忍は表情こそ変えないものの、ぎゅっとバックを握り締め、彼女に奪われまいと抵抗している。ますます躍起になる礼央奈を止めようと天馬が二人へ近づいた時だった。


「忍くんは男の子なの! 女の子にはなれないって何回言ったら分かるの!?」


 礼央奈の言葉に、忍の目がわずかに見開く。

 次の瞬間、忍はバックを投げ捨てた。同時に、彼のバックを掴んでいた礼央奈も床へ叩きつけられる。背を打ちうめき声を上げる礼央奈へ近づき、忍は彼女を跨いで馬乗りになる。彼は細い腕を振り上げ、礼央奈の頬をぶとうとした。


「はい、そこまで!」


 天馬は振り上げられた忍の手首を掴んだ。

 忍はゆっくりとした動作でこちらを振り返る。瞬きの間、彼と視線が絡み合ったがすぐに逸らされた。その場から動こうとしない彼の腕を天馬は無理やり引っ張り上げて礼央奈から引きはがした。忍の軽い体は簡単に宙へ浮く。天馬にされるがまま、抵抗らしい抵抗もせず彼は黙って礼央奈の傍らに立ち動かなくなった。礼央奈は床へ倒れたまま青とピンクのプールバックを握り締め、しくしくと泣いている。


 天馬は礼央奈のもとへ膝をつき、彼女を抱き起してやった。


「大丈夫か?」

「う……う……忍くんが、殴った……」

「いや、忍は殴っては、」

「忍くんが殴った!」


 うわあああと礼央奈は天馬に抱きかかえられたまま盛大な泣き声を上げる。一方、彼女とは正反対に忍は未だにじっと立ちすくんだまま身じろぎ一つしない。礼央奈を見ろしていたはずの視線も、今となっては空を見つめているようでどこを見ているのか分からない。

 天馬には、二人の間に何が起きたのか分からなかった。

 ただ一つ、間違いなく言えるのは自分が動くのが遅すぎたということだ。事態が飲み込めず混乱しているうちにあっという間に二人がもみ合い、トラブルが起きてしまった。


 五月のミシェルの喫煙や、六月の礼央奈の調理実習など、個別で対応せねばならない事案はこれまでもあった。しかし、特別支援級の生徒同士のトラブルが起きたのは今回が初めてだ。

 それに、と天馬は忍を見上げる。

 礼央奈が言っていた、「また」忍が水着を盗んだというのは一体どういうことだろう。忍は大人しい生徒で中学生男児がやるようないたずらで女子の水着を盗むようなタイプにはみえない。事実、この三カ月間、忍は喋らないことを除けば非常に大人しく従順な生徒だった。

 

 自分は何か、彼に対してとんでもない勘違いをしているのだろうか。

 

 ただ無口で大人しいだけの生徒であった三上忍の姿が、得体の知れない何かに見えてくる。天馬は生徒に対してそんな疑念を抱く自分にわずかながら失望した。


「あれ? まだ皆いんじゃん……って、え? なにこれ。どうなってんの?」


 いつの間にか、トイレから戻ってきたミシェルが教室の入り口に立っていた。彼は泣きじゃくる礼央奈を抱える天馬、その横で幽霊のように佇む忍を見て首を傾げる。

 天馬は思わず、助けてくれと縋るような視線をミシェルに送ってしまった。察しの良い彼はぽりぽりと頬を掻いた後、


「とりあえず千種先生、呼ぶ?」


と助け船を出してくれた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る