2人目 土井天馬 (6)

 次に転機が訪れたのはそれから一か月が経ってからだ。

 エプロンをつけたミシェルが職員室に来た。


「土井先生ー」


 気の抜けた声で呼ばれ、天馬は書類へ落としていた視線を上げた。今は家庭科の時間のはずだが、と職員室入口へ佇むミシェルの姿を認めて眉を顰める。


 中学校では教科担任がそれぞれ専門科目を受け持つ。特別支援級の生徒は個人に合わせてカリキュラムが組まれるため、通常級との合同授業へ参加する科目もあれば、特別支援級のみで授業が行われる科目もある。家庭科は三人とも通常級との合同授業だ。ミシェルも礼央奈も忍も漏れなく参加している。


 はずなのだが、なぜミシェルはこんなところにいるのだろう。


 同じことを思ったらしく、斎藤が


「何してる、授業に戻れ」


と怒号を飛ばす。

 ミシェルは斎藤の言うことには耳を貸さずそのまま真っ直ぐ天馬のもとまで歩いてきた。


「どうした? 今は家庭科だろ?」

「そうだけど。礼央奈がやべえから支援級の先生呼んで来いってばばあが」


 どうやら彼は家庭科教諭に言われてきたらしい。千種ではなく自分でいいのだろうか、と主担任をうかがうと千種もちょうどこちらを見ていた。彼は目尻の皺を深くして


「よかったら土井先生、行ってあげて下さい。何か困ることがあればわたしを呼んでいただければ」


と言ってくれた。


 はいと返事をし、天馬はミシェルと共に家庭科室へと向かった。


 到着するなり、化粧の濃い女性教諭が血相を変えて天馬のもとへやってきた。


「七瀬さんが教室を出て行ってしまったんです!」


 彼女の話をまとめるとこうだ。

 今日は小魚の捌き方を学ぶ予定であった。料理に親しんでいる生徒以外は魚を実際に自分の手で捌くことには疎いだろう。礼央奈もそうだ。通常級の生徒が死んだ魚と目が合っただの、内臓がきもいだのぎゃあぎゃあ言いながら順調に身を捌いていく中、礼央奈は随分苦戦していたらしい。小魚のはらわただけでなく身までえぐり取ってしまったり、取ってはいけないと言われていた頭をもいでしまったりと散々だった。


 礼央奈は手先があまり器用ではない。

 イラストを描くのが好きという割にはあまり整った線を描くことはできないし、字もそれほど綺麗なほうではない。故に包丁や魚の扱いもなっていなかったのだろう。


 家庭科の教諭には彼女の不器用さについて共有していたためフォローをしながら進めてくれていたらしい。しかし、通常級の生徒が礼央奈の横を通り過ぎた時、ぼそりと


「きったねえな」


と呟いた。

 瞬間、礼央奈は火がついたような泣き叫び、


「もう嫌だ!」


と言って家庭科室を飛び出してしまった。

 慌てて追いかけようとしたものの、包丁を扱う授業故、他の生徒を残して教員がいなくなるわけにもいかない。そこで彼女は半ばパニックになりながら既に魚を捌き終えていたミシェルに特別支援級の教諭を呼んでくるよう頼んだらしい。ミシェルは見た目に似合わず料理が得意だ。母親の代わりによく家事をやらされていると本人がぼやいているのを聞いたことがある。


 女性教諭はどうしましょうと真っ赤なルージュを引いた唇を戦慄かせる。


「もしこれが七瀬さんのご両親に知られたら、とんでもないことになるわ。先生、早くなんとかしてきてください!」


 彼女は礼央奈の両親からのクレームを恐れているようだ。

 どこへ行ってしまったかもわからない礼央奈を心配しているわけではない。自分の保身を気にしている。教師たるもの、生徒の安否を真っ先に気にかけなくてどうする、と天馬は内心憤慨したが今は彼女の態度を改めさせている場合ではない。


 分かりました、と短く返して天馬は家庭科室を後にした。

 近くの廊下や教室を探してみたが見当たらない。外へ出たのだろうか、と思い靴を履いて校庭へ向かうとすぐに礼央奈の姿を見つけた。


 花壇の近くで膝を折り、白いエプロンの裾を土で汚しながら顔を覆って泣いている。いつもは元気いっぱいに見えるおさげも今日ばかりはしょんぼり沈んでいるように見えた。


「礼央奈、大丈夫か?」


 天馬が駆け寄ると礼央奈はそろそろと顔を上げた。

 ぷくぷく膨らんだ頬は真っ赤に染まって涙で濡れている。少し鼻水も出ており、天馬はポケットからティッシュを取り出すと、涙のついでに鼻も拭ってやった。


 礼央奈の隣に屈みできるだけ優しい声音になるよう気を付けながら彼女の顔を覗きこむ。


「どうした? 家庭科、楽しくなかったか?」


 礼央奈はきゅっと幼さの残る眉根を寄せ、嗚咽交じりにぽたぽたと大粒の涙を零す。


「礼央奈は、何やっても、何にも、できない。お魚も、汚い」


 やはり通常級の生徒に言われたことを気にしていたようだ。後でどいつが言ったか、問い詰めなければと思いながら天馬は礼央奈の背を撫ぜてやった。


「お魚なんてな、食べちゃえば綺麗だろうが汚かろうが一緒だぞ。それより先生は美味しいお魚の方が好きだ。一緒にお魚美味しくしに行こう」

「礼央奈がやっても、美味しくならない。礼央奈は、何にもできない。お父さんにも、お母さんにも、いっつも怒られる」

「何にもできないから怒られるのか?」


 礼央奈は涙を零しながらこくりと頷く。


「お片付けも、できない。宿題も、できない。ピアノも、できない。何しても、ゆうくんに負けてる。ダメ姉ちゃん、だから」


 優というのは確か、礼央奈の弟のことだ。

 彼女の話では成績も良く、何をやらせても平均以上にできるらしい。通常級に通っている三つ違いの弟。礼央奈はいつも優と比べて出来が悪い、と両親から言われている。


 実際、礼央奈が一人でできることは少ない。

 注意力が散漫であるため授業に集中することはできない。好き嫌いが激しいため給食を残さず食べることもできない。運動は勉強と比べればましだが、決して得意ではない。おまけに感情のコントロールが苦手であるため今のようにちょっとしたことで心が折れて立ち直れなくなってしまう。


 彼女の立ち直りの遅さは彼女が生まれ持った特徴だけではないだろう、と天馬は思う。人間は遺伝的素因と環境的素因の相互作用で形作られる。つまり、どれだけ良いものを持って生まれてきても劣悪な環境で育てば才能を開花させることはできないし、素質には恵まれなくとも良い環境で育てば思いもよらない力を発揮することができる。


 天馬は自分と関わった生徒たちはみんな幸福を噛み締めながら生きていってほしいと思っている。しかし自身が受け持つ三人の生徒の場合、残念ながら自身の素質を見極める見極めない以前に、あまりに環境に恵まれていない。だからせめて、自分くらいは彼らにとって良い環境でありたいと思う。


「あのな、礼央奈。先生は読書は嫌いだし、映画なんて三秒で寝るし、礼央奈が好きなイラストだって全然できない」

「? そうなんだ」

「でも、先生は体育が得意だ。運動は大好きだ。でも、世の中には先生より運動が得意な人も好きな人もいっぱいいる。先生はどれだけ頑張ってもオリンピック選手にはなれない。それでも運動が好きだ。運動してると幸せな気持ちになるからだ。もっと頑張ろうって思えるからだ。礼央奈はイラスト好きか?」

「うん」

「そうか。先生はな、何でもうまくできる人より、何か一つこれが好き! ってものがある人のほうがずっとずっとかっこいいと思うぞ。例え好きなもので一番になれなくても、好きって気持ちが自分を支えてくれるから、ちょっとくらいできないことがあっても何とかなる。礼央奈は絵が好きなんだろ? イラストレーターになりたいって思えるくらい好きなものに出会えた礼央奈は誰が何と言おうとかっこいいぞ」

「……本当?」

「ああ。だからお魚が上手に捌けないなんて、小さいこと気にするな。お魚は、ほら、ミシェルが上手に捌けるから。礼央奈がお魚捌けなくて困ったらミシェルに教えて貰ったらいい」


 ミシェルが聞いたら「なんで俺が教えなきゃいけねえんだ」と怒りそうだが、礼央奈の表情はぱっと明るくなった。いつの間にか涙も止まっている。


「先生、大好き!」


 飛びついてきた礼央奈の膝が下腹にヒットして思わずおお、とうめき声を上げつつ、天馬はありがとうと苦笑いをした。やんわり彼女を引き剥してから一緒に家庭科室へと戻る。すると、礼央奈に嫌味を言った生徒がごめんなさい、と自分から謝りに来た。どうやら女性教諭にこっぴどく叱られたらしい。礼央奈はちゃんといいよ、と許してやり、もう一度小魚捌きにチャレンジし始めた。


 一件落着だな、とほっと息をついたところで忍の姿が目に留まる。忍は包丁を握ることなくまな板の上に乗った生魚を一人、ぼんやりと眺めていた。


「順調か?」


 近くまで行って尋ねると、視線がかち合う。が、それ以上の反応はない。弱ったな、と思いながらもあれこれと話しかけてみるが結果は同じだった。後で家庭科の教諭に耳打ちされたが、忍はいつも調理実習にはほとんど取り組まないそうだ。調理をしたとしても完成したものを口にすることはまずないらしい。思い返せば忍は給食もあまり食べない。小食なのだろうと言うと、女性教諭は何か思うところがあったのか「どうだか」と言って肩を竦めた。


 あと一か月で一学期が終わる。

 ミシェルとも礼央奈ともそれなりに信頼関係を築くことができていると思う。しかし、忍とは一向に進展がない。


 どうしたものか、と悩んだまま時は過ぎ、夏休みを目前に控えた七月。


 事件は起きた。

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