2人目 土井天馬 (5)

 最初に事が起きたのはゴールデンウィーク、隣町のコンビニエンスストアへ深夜に訪れた時だ。たまたま旧友から連絡があり、友人の家へ行って飲み明かしていた日のことである。天馬も友人も酒に強く用意していた酒があっという間に空になってしまい、つまみのついでに何か買ってくるよと告げて一人、部屋を出た。


 まだ春を告げる風が残っていて、五月だというのに肌寒い。半袖のまま外へ出てきてしまったことを後悔し腕をさすりながら千鳥足で近くのコンビニエンスストアへ向かう。夜道の中で煌々とした光を放つ店は遠くからでもよく分かる。深夜であるため、駐車場へ停められた車も少なく、夕方であれば入り口付近でたむろしている学生たちも今はいない。


 静かな夜道を歩き、涼やかな風に吹かれながら店へと近づいた天馬はおや? と目を細めた。入り口付近の喫煙スペースに誰かいる。随分と体格の良い風体だ。その姿には見覚えがあるものの、いやまさかと思いながら歩を進めていく。その人物が誰であるか、はっきり視認できるほどの距離まで近づいた頃には心地よい酩酊に火照った天馬の頭はすっかり冷めていた。


「ミシェル?」


 呼ばれた相手はあからさまにぎくり、とする。油の足らない機械のようなぎこちない動作でこちらを見た彼は天馬の姿を視界に捉えるなり、至極罰が悪そうな顔をした。ミシェルの指先には火のついた煙草が挟まっていて設置された屋外用灰皿には彼が押し付けたのであろう灰のカスがこびりついている。どう考えても言い逃れできないほどに、野崎ミシェルは喫煙中であった。


「何してんだ、こんな遅い時間に」


 低い声で詰め寄ると、ミシェルはおおげさなため息をついて持っていた煙草の灰を皿へ落とした。


「何って吸ってたんだよ。みりゃ分かんだろ」

「吸ってったってお前は未成年だろうが。それにこんな遅くに出歩いてたら危ないだろう」

「先生だって出歩いてんじゃん」

「俺は大人だからいいんだ」

「うわ、酒臭っ。近寄んな」

「ミシェル、ちゃんと聞け」


 大人と比べても遜色ないほど大柄な彼は制服を着ていなければ中学生とは思われない。コンビニの店員も気が付かなかったのだろう。


 よほど自分が険しい表情をしていたためか、ミシェルは天馬を横目で見るなり肩を落とした。


「はいはい、次は反省文何枚書けばいいですか?」

「何だって?」

「斎藤に怒鳴られた時は原稿用紙二十五枚だったけど、土井先生は何枚にすんの?」


 ミシェルはにやついた。

 彼は自分がやっていることが法律違反であることは分かっていて、教員に見つかればそれ相応の罰を与えられることなど承知しているのだ。今までだって散々お叱りは受けてきたのだろう。それでも彼は今日まで喫煙をやめることなく過ごしてしまっている。


 天馬は一瞬、反省の色のみられない生徒を感情に任せて怒鳴りそうになったが飲み込んだ。力で押さえつけてもきっと彼には響かない。反省文だって反省などすることもなく小手先で書いて終わりになるだけだ。彼の人生を変える力は持っていない。


 天馬は考えた。そして思い出した。千種から言われた「みんな良い子」という言葉と、「生徒たちのお兄さんになったつもりで」という言葉を脳裏に蘇らせた。


 千種とてミシェルの非行を知らないわけがない。しかしそれでも彼は良い子、というのはきっとミシェルの可能性を信じているのだ。生徒が失敗した時、ただ怒鳴りつけ服従させるのではなく、もっと違う温かなアプローチが必要だ。そう、例えば本当のお兄さんのような接し方が。


 天馬は自分がミシェルの兄になったらと一瞬のうちに夢想した。そして瞬間的に湧いた疑問をそのまま口にする。


「お前はなんで煙草を吸うんだ?」

「はあ?」


 ミシェルは片眉をあげ怪訝そうな顔をする。


「んだよ、俺がなんでヤニ吸おうが勝手だろ」

「勝手じゃない。喫煙は駄目だ」

「なんでだよ」

「身体に悪いからだ。お前はまだ成長期でこれからまだたくさんの可能性が心にも体にも残ってる。煙草はお前の体の可能性を潰す。寿命だって短くなる。だから駄目だ」

「はっ、俺が死のうがどうしようが、気にする奴なんていねえよ」


 ミシェルは年齢にはそぐわない皮肉っぽい笑みを浮かべた。


「お袋だって俺が死んでもなんとも思わねえだろうよ。余計なコブが減ってよかったくらいにしかな。今だって彼氏としっぽりやるからしばらく家出てろって言われてコンビニ来たんだし」


 ポケットに手を突っ込んだ彼は天馬の顔を見るなりまたにやりとする。


「なんだよ。そんなびっくりした顔してんじゃねえよ」

「……お前は親にそんなことを言われて悲しくないのか?」

「悲しいとか知らねえ。どうでもいい」


 口ではそう言いながらも視線を灰皿へと落としたミシェルは寂しそうに見えた。

 彼はきっと、この世界のどこにも行き場がないのだ。自分の親でさえ自分を大切にしてくれない。あてもなく彷徨うには多少の悪いことをやってないと気持ちが保てなくてやるせないのだろう。天馬は初めてちゃんとミシェルの心に触れた気がした。


「俺が気にする」

「あ?」

「お前の寿命が縮んだら俺が気にする。だから喫煙はやめろ」

「……なんで先生が気にするんですかぁ?」


 面倒くさそうに頭を掻く彼に向けて天馬ははっきりと言った。


「お前は俺より長生きしなくちゃならない。でもお前が煙草を吸っていたら俺の方が長く生きる可能性がある。なぜなら俺は運動が大好きな健康体だからだ。肺だって喫煙者のお前より綺麗な自信がある!」

「……あっそ」

「ここでお前の喫煙を容認してお前が煙草を吸い続けて、お前が俺より先に死んだら俺は後悔してもしきれない。だから俺のために煙草はやめてくれ。あと、親から家を出ろと言われて行き場に困ったら先生の家に来い。ほら、連絡先教えてやる」


 呆けたようにこちらを見るミシェルに携帯を出せ、と言って半ば無理やり連絡先を交換する。ミシェルは天馬の電話番号が表示された液晶画面をしげしげ眺めると


「先生と生徒と連絡先って交換していいの?」


と言った。これにはさすがの天馬も言葉に詰まる。


「わ、分からん。だからこれは俺とお前だけの秘密だ」

「……あーい」


 するとミシェルの携帯電話が鳴った。母親からのようだ。どうやらもう帰ってきてもいいらしい。ミシェルは分かった的なことをポルトガル語と思しき言語で短く告げて電話を切った。それから天馬を見て何やら思案したかと思うとふっと息をつく。


「これ、やるよ」


 彼が差し出してきたのは使いかけの煙草箱だった。まだかなりの本数が残っている。


「もういらねえから」


 ミシェルは天馬に背を向けて歩き出したが、あ、と思い出したように立ち止まると振り返り


「俺、行き場に困っても先生の家なんて、絶対行かねえから」


と言って再び歩き始めた。照れていたのか、心なしか耳の端が赤くなっていたように見える。遠ざかる大きな背中に天馬は「絶対来いよ!」と呼び掛けたが、ミシェルが片手を上げて応じただけだった。


 それから、彼からは煙草の匂いは一切しなくなった。


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