2人目 土井天馬 (3)

 始業式での挨拶を終えた後、天馬は早速主担任の千種ちくさと共に特別支援級へと向かった。千種はこの道三十年のベテラン教諭で落ち着いた雰囲気のある男だ。天馬が大きな声で挨拶をすると千種はうんと軽く頷いただけでくるりと背を向け、天馬を教室へと案内する。長年教員をやっているとこんなにもどっしりと構えていられるものなのだろうか、と千種の老齢さを感じさせる背中へ天馬は羨望の眼差しを向けた。


 春先の校舎の廊下はワックスがけをしたばかりであるためか、照りが反射するほど艶めいている。多くの学校がそうであるように、浅葱中学校においても年度末には生徒と教師が一丸となって大掃除をし、教室のワックスがけを行う。廊下はさすがに業者に頼むそうだが、ぴかぴかの床板で新学期を迎えると自然と気持ちも弾むものだ。


 天馬はこれから自分が受け持つ生徒たちの姿を思い浮かべて不安と期待に胸を高鳴らせていた。

 

 生徒は三人いると聞いている。女の子が一人と男の子が二人。彼らと仲良くなれるだろうか、とつい夢想に耽りながら廊下を歩く。


「千種先生、生徒たちはどんな子たちですか?」

「どの子も個性的ですが、みんな良い子たちです」


 千種は振り向くことなくそう言った。

 自分が受け持つ生徒を良い子、と称せる千種を天馬は良い先生だと思った。


 やや古めかしい教室の扉をがらりと開くと、三人の生徒がぱっと顔を上げた。三人は十分な間隔をとって机を横並びにして座っている。


 入口に一番近い席には毛髪の色素が薄い、中学二年生にしては体格の良い男の子が座っていた。色白の肌や日本人離れしたまつ毛の長いくっきりとした輪郭の瞳からは異国の情緒が感じられる。彼が着ている古き良き学生服と彼本人が醸し出す雰囲気とには些かギャップがあった。彼は天馬と千種の方を一瞥するとすぐに視線を逸らし、机に肘をついてそっぽを向く。


 その隣には丸い素朴な顔立ちをしたセーラー服を着た小柄な女の子。さきほどの男子生徒とは違い、見慣れない天馬という新参者に爛々と目を輝かせている。その表情からは彼女が新しいもの好きであることや子どもらしい幼さを持っていることが感じられた。


 そして一番奥。窓際の席には学生服を着た中性的な顔立ちの生徒がいた。肌は青白く痩せ気味であるものの、艶のある黒髪にすっきりとした鼻筋、綺麗な二重瞼や薄ピンクの唇は一瞬、女性と見紛うほどだった。しかし、生徒はセーラー服でなく学生服に身を包んでいる。昔からゴリラというあだ名で親しまれてきた天馬は、今時流行りのジェンダーレス男子という奴かなと思った。

 男子生徒は深い切れ込みの入った二重瞼を持ち上げた。薄茶色の大きな瞳が天馬を捉える。が、もう一人の体格の良い男子生徒と同じくすぐにその瞳は伏せられた。


 結局、教卓へ立った天馬に視線を注いでいるのは女子生徒一人だけになる。


「はじめまして。今日からこのクラスの副担任を務めます。土井天馬です」


 天馬は生徒たちへ背を向けると黒板へ大きく『土井天馬』と書き込んだ。かっかっと小気味の良いチョークの音と共に自身の名が刻まれていくが、三分の一の生徒しか天馬が書く文字を見ていない。

 粉受けへチョークを置いた天馬は生徒の方を振り返る。


「天翔ける馬と書いて天馬です! 空は飛べませんが大学時代は高飛びをやっていました。運動全般何でも好きです! これからよろしく!」


 ぱちぱちぱちぱち、という拍手は女子生徒一人分。

 それでも天馬は負けじと笑みを作った。初日はこんなもんだ。特別支援級といっても難しいお年頃の中学生。そう易々と仲良くなれるとは思っていない。これから少しずつ時間をかけて生徒たちのことを知っていけばいい。


 そう自分に言い聞かせると、千種が生徒たちへ向けて口を開いた。


「新学期になり、新しい先生もやってきました。皆さんの顔触れは去年と変わりありませんが、今日からまた新しい気持ちでやっていきましょう。まずは今学期のそれぞれの目標をこの紙に書いてもらいます。生活の目標、勉強の目標、その他自分がやりたいこと。それぞれ考えて書いてみて、今学期を有意義に過ごせるようにしましょう」


 渋みのある声で言った千種は、天馬へ目標シートを生徒たちへ配るようにと指示を出す。天馬は生徒の顔を見ながらシートを配布したものの、天馬と目を合わせてくれたのはやはり女子生徒だけだった。


 生徒がシートを記入している間、やることがなくなり手持無沙汰になった天馬は千種へ何をしたらよいかと尋ねた。千種は目じりを下げて


「じゃあ生徒たちがシートの記入に困っていないか、見て回ってあげて下さい」


と言ってくれた。


 天馬はよし、と気合を入れてまずは異国情緒漂う男子生徒のもとへと向かった。


「書けてるか?」


 声をかけると机に肘をついたまま男子生徒はちらりと視線だけを天馬に向ける。しかし、彼の視線はすぐに下へと戻ってしまう。


「うす」


と短く言って生徒は名前しか記入していないシートの上でシャーペンをくるくる回し始めた。氏名の欄にはかろうじて読める文字で『野崎ミシェル』と記載されている。天馬が薄々感じていた通り、彼は外国籍の父か母を持つハーフか何かであるようだ。


 ミシェルはこれ以上、天馬と話すことはないとばかりにシートを腕で覆い隠し、何を書いているのか天馬からは分からないように机に突っ伏すような姿勢をとった。あまり人と交流を持ちたいタイプではないのかもしれない。彼のことはひとまずそっとしておこうと決めて、隣に座る女子生徒へと声をかける。


 おさげ髪の少女は天馬が近寄ってきたと見るなり、


「先生、見て見て」


と自分からシートを差し出してきた。最初の印象通り、人懐っこい子であるようだ。どれどれ、と手渡されたシートに書かれた氏名の欄を真っ先に確認する。彼女は『七瀬礼央奈ななせれおな』というらしい。礼央奈は机の上に腕を乗せ、前のめりになってここ、と天馬に注目してほしい箇所を指さした。そこはその他の目標を書く欄で『絵を極める』と書かれている。


「絵、好きなのか?」

「うん、大好き!」


 にこりと笑う彼女につられて天馬も笑う。礼央奈は「でもね」と呟き、


「忍くんのほうが上手なの。礼央奈は忍くんより下手だから今年は忍くんより上手になるのが目標! 将来はイラストレーターになるのだ!」


と持っていたシャーペンを天高く掲げながら宣言した。忍くん、というのは恐らく窓際に座っている生徒のことだろう。彼も絵が好きなようだ。聞こえているだろうに、とうの忍は素知らぬ顔でさらさらと目標シートを記入している。


「頑張ってな。先生も応援するぞ」


 そう言うと礼央奈はうん、と笑った。


 天馬は彼女へシートを返すと隣の席へと移動する。忍という生徒は一通り書き終わったようで、シャーペンを机の上に置き自分が書いた目標シートを眺めてぼうっとしている。天馬が覗き込むと氏名の欄には綺麗な文字で『三上忍』と書かれていた。生活の目標は『食べて寝て起きること』、勉強の目標は『数学』、その他やりたいことについては『クロスワード』と記載されている。


「もう書き終わったのか?」


 天馬が尋ねると、忍はびくりと肩を震わせた。怯えさせてしまったようで天馬は少し申し訳ない気持ちになる。


「ごめんな。突然声かけて」


 忍は目にかかるくらいに伸びた前髪越しにこちらを見上げた。茶色い丸い目は天馬を捉えているもののそれ以外の反応はない。

 

「数学、苦手なのか?」

「……」

「クロスワードは好きなの?」

「……」

「さっき、礼央奈から絵が上手いって聞いたぞ」

「……」


 忍は天馬の顔をじっと見るばかりで何も言わない。ひょっとして聞こえていないのか、と疑ってしまうほどに無反応な忍に戸惑っていると、横から礼央奈が


「先生、忍くんに話しかけても喋らないよ」


と口を挟んできた。


「そうなのか?」


 礼央奈のほうへ視線を向けるとうんと頷かれる。


「だって礼央奈もミシェルくんも、忍くんが喋ってるとこ、一回も見たことないもん。千種先生もそうでしょ?」


 突然話を振られた千種は、困ったように眉を下げるが否定はしない。忍本人も横目で礼央奈を見はするものの、彼女の発言に対して何も言わず、両手を膝の上に置いて大人しくしている。


 天馬は今一つ状況が呑み込めないまま礼央奈へ「そうか」とだけ返事をしておいた。それから、忍の机に置かれた目標シートへ人差し指を置き、


「書けそうだったらもう少し詳しく書いてみてな」


と告げた。が、忍は変わらず天馬をじっと見るばかりで返事はおろか、頷くことも首を振ることもしなかった。

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