2人目 土井天馬 (2)

 三上忍と出会ったのは一昨年、天馬が浅葱あさぎ中学校の特別支援級の副担任になった時のことである。


 子どもが好きで、とにかく好きで、一般的な就職活動に明け暮れた結果、やっぱり俺は教師になりたいと一念発起した。大学卒業後、アルバイトで食いつなぎながら通信教育課程へと入り直し中学校教員の免許を取得したことはまだ記憶に新しい。


 思い立ったが吉日、猪突猛進一直線の天馬はそのままの勢いで東京都の教員採用試験に合格。晴れて中学校教諭となった。


 彼が初めて配属された中学校は、東京といっても山だらけの、とある片田舎にある浅葱中学校であった。

 今時珍しい木造建築の校舎はブラウンを基調としており、校舎の屋上には時計台が備えられている。お昼の時間と下校の時間になると毎回腹の底まで響くような深い鐘の音がごおん、ごおんと鳴って町中へと響き風情があった。


 浅葱中学校は都会のマンモス校とは異なり一学年、総勢三十名ほどしか生徒がいない。


 そのため都会では四十名の生徒を一人の教師がみなければならないところを、浅葱中学校では三十名の生徒を三人の教師でみればよいという具合になっている。特別支援級の生徒はさらに人数が少なく総勢三名しかいないため、一人一人に目を配りやすい環境にあった。


 中学校教諭として華々しいデビューを飾ることを期待していた天馬は、初年度で田舎の特別支援級の副担任を任されることになり少なからず動揺した。今でも教育委員会から電話口で辞令言い渡された時の衝撃は覚えている。

 教師といえばGTO、憧れの先生は金八先生という、絵に描いたような多忙で気苦労の多い教員生活を予想していた彼にとって、特別支援級の担任になることは想定外の事態であった。


 特別支援級というのは発達の偏りや心理的な困難さを持った、いわゆる通常級での授業や生活についていけない子どもたちを支援するためのクラスである。実習や座学などでその存在は知っていたものの、まさか自分が受け持つことになるとは。


 特別支援級の子どもたちの中には通常級の生徒とは異なる、特別な配慮が必要な子どもたちもいる。決してそういう子どもたちと接したくないというわけではないのだが、障がいや困難といったことに縁遠い生活を送っていた自分に、そうした子どもたちや親への支援ができるだろうかという不安があった。体育大学出身であったことも手伝って、天馬はどちらかというとそういう繊細な個人の事情というものには疎く、熱意さえあればどんなことでも為せばなるという教育を家庭でも他所でも受けてきた。


 しかし、熱意ではどうにもならない事情を抱えた子どもたちが特別支援級にはたくさんいる。天馬はそうした子どもたちの力に自分がなれるかどうか、不安で仕方が無かった。


 生徒たちへの挨拶の前に校長、教頭へ挨拶をしに行った天馬はその心の内を素直に話した。校長の右田は


「大丈夫。特別支援級の担任は土井先生の他にもう一人いますから。それほど気負わずにね」


と言ってくれた。しかし、教頭の斎藤は


「始まる前からそんな弱気でいられてもねえ」


と苦い顔をした。

 天馬は右田の励ましに感謝し、斎藤の言うことを最もだと捉えた。


 そして迎えた始業式。

 天馬は着慣れないスーツを身に纏いかちこちに緊張したまま、体育館の檀上へと向かった。校長から新任教諭の挨拶をと促され、壇上へ登った天馬は、体育座りをした生徒たちの視線に晒されながら頭を下げた。


「今日から特別支援級の副担任として、浅葱中学校へ就任することになりました。土井天馬です。元気いっぱい頑張ります!」


 小学生並みの天馬の挨拶にも生徒たちはちゃんと拍手で応えてくれた。

 

 その中に三上忍もいた。あの子が当時、どんな気持ちで自分を見ていたのか、今となっては分からない。恐らく、学生服を着用し男子生徒の列に並んだ忍は他の生徒に倣い、挨拶をする自分に拍手を送ってくれていただろう。


 あの時、あの子はどんな気持ちで男子生徒の列へ身を置いていたのだろう、と今になって天馬は考える。当時、あの子が抱えていた苦しみに気が付いていた人間は一体どれだけいるのだろうか。


 いや、むしろ誰にも気づかれないほうがよかったのかもしれない。

 忍はずっと自分の苦しみに蓋をして生きていたのだから。


 誰にでも他人には開けられたくない秘密の蓋を心の奥底に持っている。能天気にみえる天馬にだってそれはある。忍にとってはそれが性というテーマだっただけで、しかもあの子はそれを誰にも打ち明ける気などなかったのだから、やはり忍の秘密は秘密のまま一生蓋をされていた方がよかったのではないかと思う。


 自分らしく生きられなくとも、多少我慢が付き纏っても、生きていけないほどの苦しみを感じるくらいなら本当の自分に蓋をしていたほうがましだ。


 しかし、あの子の秘密の蓋を開けてしまったのは他でもない、天馬だった。

 念願の中学校教諭になって一年目。紆余曲折ありながら天馬は特別支援級に在籍していた三上忍と信頼関係を築くことに成功し、ほんのひと時であったものの忍と穏やかな時間を過ごすことになる。


 そしてその翌年、三上忍は亡くなる。

 よく天馬と二人で入り浸っていた時計台から真っ逆さまに落ちて、三上忍は亡くなった。


 あの時、忍に自分がもっと違うことを言っていたら。いや、そもそも忍とかかわることをしなければ、あの子は苦しみを抱えたまま今もどこかで生き延びることができたかもしれない。


 誰も明言こそしないものの、天馬自身は勿論、三上忍の死の一端には土井天馬という教師の存在が関わっていることは浅葱中学校では周知の事実であった。

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